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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

選挙≠政治≠金銭≠権力≠正義

2016-01-30 04:06:20 | 日記
A.「いい人とだけ付き合っていたら、選挙に落ちる」
 政治家が贈収賄じみた金銭疑惑で大臣辞職というのは、ときどきあるのでこっちも慣れてしまい、まあしょうがねえ奴だな、で終わる。経済再生担当大臣甘利明という人は、今は自民党の有力政治家だが、政界進出は1976年総選挙で新自由クラブから当選した甘利正という人の息子である。彼自身父の地盤を継いで神奈川から最初は新自由クラブで当選し、その後自民党に入党した。年齢はぼくと同じだと知ってなんだか、悲哀を感じた。新自由クラブができたときのメンバーは、河野洋平や山口敏夫など、若くて清新なイメージを感じたことは記憶にある。しかし、自民党を飛び出した新自由クラブは、小選挙区制になる前の派閥保守政治で冷や飯組の生き残り策、あるいはボス政治に逆らって落選していた保守政治家の逃げ道という面もあったと思う。

「甘利明経済再生担当相が金銭授受問題の責任を取って辞任した。甘利氏は建設会社向けの「口利き」は否定したが、大臣室での金銭受け取り、業者から秘書への資金提供や接待を認めた。浮かび上がったのは、前時代的とも思える古い自民党の体質そのものだ。
 甘利氏は会見で、政治家に近づいてくる人物の見極めを問われ「政治家の事務所は、いい人とだけ付き合っていたら選挙に落ちる。来る者は拒まずでないと、残念ながら当選しない」と強調。「その中で、ぎりぎり、どう選別していくか」と指摘した。
 だが、甘利氏の説明では、業者を見極めたとは思えない。
 地元事務所の秘書は、業者側から提供された五百万円のうち、三百万円を政治資金として処理せず流用。複数の秘書は、業者から頻繁に飲食の接待を受けていた。甘利氏は、週刊文春の報道まで五百万円の提供や、秘書による都市再生機構(UR)への問い合わせを知らず「がくぜんとした」というが、秘書は警戒もせず業者を信用していった。
 甘利氏自身は業者から、二回にわたって現金百万円を受け取った。うち一回は大臣室で、ようかんとのし袋が入った紙袋を手渡された。その場ではのし袋に現金五十万円が入っていたとは知らず、適正に処理したとしても、閣僚が公務を行う部屋に業者が出入りしていたのは事実だった。
 自民党には昔から「政治と金」の問題が付きまとっていた。建設業者から献金を受け、工事受注などへの便宜を図る「口利き」は典型例とされる。政治不信の広がりから、政治の側もあっせん利得処罰法の成立(二〇〇〇年)や、段階的に政治資金の透明性を高める法改正などを手がけ、浄化に取り組む姿勢は示してきた。
 だが、今回の金銭授受は、今なお「政治と金」の問題が根深いことを物語っている。(関口克己)」東京新聞二〇一六年1月29日朝刊1面。

 ついでに「筆洗」も、甘利明氏のお粗末話題である。

「ふたをすると、ふたつ減るものは何?」。最近、同僚から出されたなぞなぞだ。頭をひねったが、さっぱり分からない。ただ、テレビを見ていて「ふたをすると、増えるもの」なら見つかった▼画面に映っていたのは、甘利明さん。週刊誌が報じた疑惑について記者会見をしている。曰く、大臣室などで業者側から現金を二度受け取ったが、秘書に適切に処理するよう指示した。曰く、業者側から提供された五百万円のうち三百万円を秘書が使ってしまった▼甘利さんは「秘書に責任転嫁することは、自分の美学に反する」と大臣を辞任したが、どんな業者かもしかと分からぬのに現金を受け取るというのは、その「美学」に反しなかったのだろうか▼気になったのは、甘利さんが「今の(小選挙区制では)いい人とだけつき合っていたら落ちてしまう。来る者拒まずでないと当選しない」とも語っていたことだ。もし「来るカネも拒まず」というのが実態ならば、制度に問題があるのではないか▼安倍政権でも何人もの大臣が政治とカネをめぐって批判にされされてきたのに、問題の源にふたをしたままでは、政治不信は増すばかりだ▼冒頭のなぞなぞの答えは「八」。ふたをすると「六」になる。なぞなぞは答えを聞けば「なーんだ」となるが、政治とカネをめぐる謎は、政治家の答えを聞くと、かえってもやもやが増える。」同日「東京新聞」朝刊「筆洗」

 秘書のせいにしないのは「美学」以前の責任ある公人としての良識・常識である。それで本音が漏れて、「いい人とだけ付き合っていたら、選挙に落ちる」は含蓄のある名言、いや迷言だと思う。いかがわしい人や悪い人とも付き合って、なすべきこととなすべきでないことを説得するのが政治家の仕事だろう。それを、カネをもらって選挙に当選することで、権力をどう使うか、政治家なんてそういうもんさ、と思うべきでない。



B.生物の分類を考えた人
 この世は、生命をもたないモノと、生きて死ぬ生物の2つに分かれている、と言われている。それは誰かが言ったので、言われているのだが、目にみえない微生物、いわゆるバイキンみたいなものも生物らしい。顕微鏡でよく見るとなにやら生き物として動いている。ウイルスとか、細菌とか、微小な生物にも怖いものがある。そして、よく考えると無生物の原子や分子も、実は運動したり変化しているのかもしれない。人間やサルや、もっと大きなゾウとかクジラとかも、日々細胞を生み出し消滅させ、入れ替えて生きている。

「同じ法則が生物界と無生物界の両方を支配しているという考えをもつ機械論者たちにとって、微生物は特に重要であった。それらは、生命のあるものとないものとの間のかけ橋のように思われた。もし、そのような微生物が、死んだ物質から実際に生じることを示すことができれば、その橋は完全なものとなり、そして容易に渡れるであろう。
 同じことを言う場合、生気論者の見解では、もしそれが正しければ、生物はどんなに簡単であっても、それと無生物との間にはなお橋渡しのできない深淵がなければならぬことを要求するであろう。厳密な生気論者の見解によれば、自然発生は可能ではないであろう。
 しかし一八世紀には、機械論者もそれぞれ自然発生に賛成も反対もしなかった。というのは、宗教的な考えも一役かっていたからである。聖書にはある個所に自然発生が記されているので、多くの生気論者(彼らは一般に宗教に関してより保守的であった)は、無生物から生命が生じてくるという信念にもどるべきであると感じていたらしい。
 たとえば、一七四八年、カトリックの司祭であったイギリスの博物学者、ニーダム(John Turberville Needham)は、ヒツジの肉汁を煮て、それをコルク栓をした試験管に入れた。数日後肉汁は微生物で充満していた。ニーダムは初めに熱したことで肉汁は滅菌されたと仮定したので、彼は、微生物は死んだ物質から生じ、少なくとも微生物については、自然発生が証明されたと結論した。
 この点について疑った一人は、イタリアの生物学者、スパランツァーニ(Lazzard Spallanzani一七二九~九九年)である。彼は、加熱の時間が不十分で、最初は肉汁は滅菌されなかったと考えた。それゆえ、一七六八年、栄養に富んだ液を用意し、煮沸し、次に再び三五分から四五分煮沸した。それをフラスコの中に密閉したときにのみ、微生物は生じなかった。
 これは決定的に思われたが、自然発生の信者たちは別の解釈をした。彼らは、空気中に“生命のもと”、つまり知覚できず、知られてもいない何者かがあり、そのものが無生物に生きていく能力を与えることができるのだと主張した。彼らは、スパランツァーニが行った煮沸は、生命のもとを壊した、と主張した。ほとんど次の世紀まで、この論点は疑問のままで残された。
 自然発生に関する論議は、ある意味で、生物の分類の問題に関する議論であった。つまり、生物をつねに無生物と離しておくか、段階的に続いたものとするかということである。また一七世紀と一八世紀には生物界に存在する様々な形のもとを分類しようとする試みが発達した。そしてこのことが、自然発生に関するよりもさらに深刻な論争の出発点となった。この論争は、19世紀に頂点に達した。
 まず第一に、生物はそれぞれ別の種に分けることができる。種という語は、正確に定義するのは、実際非常に難しい。大まかにいえば、一つの種はそれらの間で自由に交配ができ、その結果それらに似た子供が生まれ、その子も自由に交配ができ、だんだんと次の世代をつくっていく生物のグループである。すべての人類は、外観上の違いはみられても、一つの種に属すると考えられる。なぜなら、知られている限り、外観上違いがある種族の間でも、男子と女子は自由に結婚し、子どもをつくることができるからである。これに対して、インドゾウとアフリカゾウはたいへんよく似ていて、一見同じ種類のようにみえるが、一方の雄と他方の雌とは交配できないし、子どもも作れないので、別の種である。
 アリストテレスは動物の五〇〇種を、テオフラトスは多くの植物の種を記した。彼らの時代以後二〇〇〇年間続けられた観察は、さらに多くの種を明らかにしたし、また既知の世界が広がったことによって、古代の博物学者が見たことがない新しい種の植物と動物の報告が非常に多くあらわれた。一七〇〇年までに何万種の植物と動物が記載された。
 ある限られた数の種の目録の中でも、類似した種をいっしょにまとめたくなるものである。たとえば、ほとんどの人が自然に二つのゾウの種をまとめるであろう。生物学者を満足させるやり方で、何万という種を系統的にまとめあげる方法を見出すのは容易ではない。この方向で初めてすぐれた試みをしたのは、イギリスの博物学者、レイ(John Ray 一六二八~一七〇五)である。
 一六八六年から一七〇四年の間に、彼は植物の生活に関する三冠の百科事典を出し、その中で一万八六〇〇種を記載した。一六九三年、彼は植物のほど広くはないが、動物の生活についての本をつくった。その中で、彼は異なった種を論理的に分類しようと試みた。分類の基準は、おもに足の指と歯においた。
 例えば、彼は哺乳類を足指をもつものと、ひづめをもつものとの二つの大きい群に分けた。さらに、ひづめをもつものを、一本のもの(ウマ)、二本のもの(ウシ)、三本のもの(サイ)に分けた。二本のひづめの哺乳類を彼はさらに次の三つの群に分けた。反芻し、永久のつのをもつもの(ヤギなど)、反芻し、毎年つのが落ちるもの(シカ)、および反芻しないもの(ブタ)。
レイの分類体系は支持されなかったが、分類し、さらに細分していく興味深いものであった。そして、このことは、スウェーデンの博物学者、リンネ(carl von Linne一七〇七~七八年)によってさらに発展させられた。彼はふつうラテン語風のリンナエウス(Carolus Linnaeus)という名で知られている。彼の時代までに、生物の既知の種の数は最少七万になっていた。一七三二年、リンネは北スカンジナビア(確かに生物があまり住みよい場所ではないが)のあちこちを七四〇〇キロメートル旅行し、短い時間に新しい一〇〇種の植物を発見した。
大学にいる間は、リンネは植物の生殖器官を研究し、それが種によって異なるようすを記し、これにもとづいて分類系をつくることを試みようと決心した。その計画はときとともに広がり、一七五三年、彼は『自然の体系』(System Naturae)という本を出版し、今日用いられている体系の直接の祖先ともいえる、種を分類する体系を確立した。それゆえ、リンネは分類学(生物の種を分類する学問)の創始者と考えられている。
リンネは類似した種を“属(genera)”(人種〔race〕の意味のギリシャ語に由来した語、単数は“genus”)にまとめた。類似した属は目に、類似した目は綱にまとめられた。すべての既知の動物種は六つの綱に分類された。すなわち、哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類、昆虫類および“蠕虫類(ぜんちゅうるい)”。これらのおもな分け方は、実際には二〇〇〇年前のアリストテレスの分け方ほどよくなかったが、体系的な分類や細分ができ上がった。その欠点は、後に十分に訂正された。
おのおのの種に対して、リンネはラテン語で二つの名を与えた。初めはそれが属する属の名で、次に種の名前をつけた。この“二名法”の形は現在まで続いている。そして、それは生物学者に生物に関する国際的に通用する言語を与え、数えきれないほど多くの混乱を取り除いた。リンネは人間にも一つの公式名をつけた。そのホモ・サピエンス(Homo sapiens)は現在まで続いている。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.60-66.

 リンネの生物の分類は、人間の生物に関する知識の集大成で、分類という作業には、体系的思考を支える論理的な基準が必要だ。界、門、綱、目、科、属、種にすべての生物は分類される。最初に考えたものが勝ち、ということもあるが、情報は日々更新される。ぼくら素人は動物園で、プレートを見るしかない。
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戦争を傍観する・・のではなく、戦うのでもなく?

2016-01-28 04:16:55 | 日記
A.朝鮮戦争とはなんだったのか?
 いま、シリア情勢は混迷を極めているわけだが、かつての米ソ冷戦のように、局地紛争に超大国が武力介入して代理戦争をする、というわかりやすい図式では説明できない。対立を染め上げる共産主義と資本主義のイデオロギーという言説も、もはや意味がない。「テロとの戦い」はいちおう大義名分になっているが、どの国、どの勢力が「テロリスト組織」なのかも判然としない。対立していたはずのアメリカとロシアが手を結んだり、アメリカと対立したはずのイランが仲よくなったり、中東の火薬庫だったイスラエルは舞台から隠れているみたいだし、何がどうなっているのか、少なくとも日本人にはわけがわからんのが大多数だろう。去年の今頃は、日本人ジャーナリストの人質殺害で恐怖のISに注目が集まったが、もうみんな忘れている。
   戦争は悪だ、戦争をしてはいけない、といくら言っても、相変わらず戦争は起きていて、しかも戦争で儲かったりいい思いをしている人たちもかなりいる。それは武器を売る軍需産業だけではなくて、貧しかった国が経済復興したり、国民生活が向上したりする場合もある。ぼくは朝鮮戦争のことを考えたのだが、第二次世界大戦後に国家が分断された国として、敗戦国のドイツが東西に、それにアジアでヴェトナムと朝鮮半島が南北に分断された。そして、ご存知のように戦争の結果ヴェトナムはひとつになり、ドイツは統一され、朝鮮半島だけが今も休戦のまま分断されている。ぼくも含め、そのことにどこまで関心をもってきたか?
  朝鮮戦争は、戦後の東西冷戦の緊張の中で、北緯38度線で仕切られた政治体制を突き崩すべく北が南に攻め込み、これを日本を基地とした米軍が押し返して国土全体で激しい戦闘が行われた戦争である。これがあったおかげで日本は戦後の混乱を脱して経済復興が軌道に乗った、ということは学校の歴史にも(ちょっとだけだが)出てくる。それを「漁夫の利」のように理解すれば、朝鮮は可哀想だが日本だって戦争に負けたんだし、米ソ超大国の思惑のとばっちりはしょうがなかった、みたいに思って終わりになる。そして、今の日本の若者はそんなことがあったことすらほとんど知らない。でも、そうじゃなかったんだよな。

「北朝鮮を武力統一に駆り立てた要因には、何よりも、国共内戦で中共軍が全満州を制圧するにいたったことがあげられる(一九四八年十—十一月)。それは、「自国領をサンクチュアリーとして中共軍を助けていた北朝鮮に大きな刺激を与えたのである」。さらに国内的な要因、とくに朝鮮労働党内の主導権争いが絡んでいた。解放後、「南」で朝鮮共産党のリーダーでもあった、副首相兼外相の朴憲永(パクホニヨン)との、統一をめぐる主導権争いが南進への内なる動員になったのである。
 他方、韓国の場合についても、初代大統領となった李承晩(イスンマン)は、米国の単なる傀儡ではなかったことが明らかになっている。この老獪な保守的民族主義者は、巧みに米国の積極的関与を促しつつ、軍事的、経済的な援助を引き出すことに成功したのである。
 このように、米ソは、ふたつの傀儡国家を背後から糸で操っているようにみえたかもしれないが、しばしば独自の意図をもった被保護国(韓国と北朝鮮)によって縛られていたのである。この意味で、南北の分断が外側からもたらされたにしても、それが内戦を経て恒久化していったのは、そうした内部要因があったからである。
 ただそうであるとしても、内戦は、突如として勃発したのではない。むしろ「内戦になった」というのが正しい。北朝鮮の「国土完整」であれ、韓国の「北進統一」であれ、米国によってひかれた事実上の国境線を撤廃する動きは、早晩、何らかの武力衝突に発展する可能性を秘めていたのである。その意味で、解放後のボタンのかけ違いが、朝鮮半島の「悲劇」を作り出すキッカケになったのである。つまり、解放から数年の激動のさなかに戦争の種が蒔かれていたのだ。
 と同時に忘れてならないことは、日本の植民地支配が、そうした戦争の種を発芽させる腐葉土になっていたことである。とくに、すでに指摘した通り、植民地支配の最後の十年に及ぶ植民地的過剰開発と人口移動は朝鮮半島内部に深刻な亀裂と対立を作り出し、解放とともに出現した新しい社会秩序の形成に深甚な影響を及ぼしたのである。具体的には、植民地型の「外生的な」過剰開発によって生み出され、旧満州や沿海州、日本への強制的な動員や流出を余儀なくされた膨大な余剰農民人口こそ、解放後、積極的な政治参加と広範な抵抗の担い手になったのである。カミングスは、このような経緯を以下のように簡潔に説明している。
 「1945年に、突然、植民地体制が崩壊すると、数百万の朝鮮人が、広範囲にわたる動員先から、生まれ故郷へと帰ろうとした。しかし、彼らはもはや以前と同じ人間ではなかった。すなわち、彼らは国内で安全に暮らしていた人々に対する不満を抱き、そして物質的にも地位的にも損害を被っており、またしばしば新しいイデオロギーに接する体験を持ち、さらに、皆、村を超えて広く広がる世界を見聞してきたという経験をもっていた。こうしてまさに、この最後の10年という圧力なべが、戦後初期を、さらには米ソの諸構想を大きく混乱させることになる。変化を遂げた不満を抱く数多くの人々を、戦後朝鮮に解き放ったのであった」(カミングス『現代挑戦の歴史』)
 この意味で内戦は突如として起こったのではなく、その背景には、日本との密接なつながりをもった歴史があったのである。
 その日本には、すでに一九四八年一〇月から、NSC(国家安全保障会議)で、対日占領政策の目的を民主化から経済復興へと転換する決定がなされていた。アジア冷戦をにらんだ「逆コース」は、日本を東北アジア地域の拠点にし、日本がかつて蹂躙したこの地域が日本のために何ができるかを策定する地域的な秩序再編へのモメンタム(運動量)となったのである。
 GHQ経済顧問のドッジによる厳しい経済再建路線は、そうした日本復興に向けた米国による上からの強引な緊縮計画の押し付けだった。その「安定恐慌」路線によって、共産党と労働組合は手痛い打撃を受け、消費は低迷するとともに、小規模経営の倒産が続出し、その経営者の自殺も相次いだ。
 その時、朝鮮戦争は、経済的繁栄のエンジンを再点火させる決定的なモメンタムになったのである。それは、まさしく「天佑神助」であった。平和と民主主義の「天降る贈り物」に続く、第二の「贈り物」が、同じように米国を通して日本に届けられたのである。この「敗戦と、占領と、隣国での戦争による汚れた『天佑神助』の結びつき」は、皮肉にも「国家指導・系列支配の経済」という「奇妙な異形の生きもの」を生み出したのである。
 朝鮮戦争は、ある意味で日本に対する極東版マーシャルプランの役割を果たすことになった。ただ、その恩恵をこうむった多くの日本国民の間には戦争と軍隊への嫌悪感は根強く、どちらの戦争にも協力したくないという厭戦気分が根強かった。この「現実反撥の国民感情」が、吉田政権による限定的関与の姿勢を支えたのである。その感情が経済ブームに没入するテコになったのである。その意味で、「朝鮮戦争は戦争の基地に住む日本人にとって見えない戦争となった。日本人は戦争に国土と身体は巻き込まれていながら、頭では巻き込まれていないと考えていたのである」(和田春樹『朝鮮戦争全史』)。日本の経済復興は、主観的には非軍事的な平和産業による発展だが、客観的にみれば戦争を追い風とする、あるいはそれを利用する発展だったのである。ここに意地悪く言えば、「自分たちだけが平和であればよいという意識」が、朝鮮半島への事実上の無関心とともに戦後の日本を覆うようになった。朝鮮半島にとって「殺すに時がある」ことは、日本にとって「収奪するに時がある」ことを意味していたのである。互いに遥かであると嘆息する他はない。敗戦と解放の逆説はここに行き着き、その後、半世紀の時を刻んでいくことになるのである。」姜尚中『在日 二つの「祖国」への思い』講談社+α新書、2005. pp.56-61.

 姜尚中氏は、もうメディアの有名人だけれども、政治学者でもともとマックス・ヴェーバー研究から始まった人だと思う。この本が出たのは2005年で、その頃は韓流ドラマがブームで、日韓関係は良好だった。10年ちょっとで日韓の雰囲気はかなり変わってしまったが、もともと日本と朝鮮半島の関係は、長い歴史の中でつねに微妙な動揺があり、「日帝35年」の植民地支配を経て、在日の人たちももう3世・4世を数える。日本人は、この隣国についてあまりに無知・無関心でありすぎる。韓流ドラマ(とくに歴史ドラマ)もちゃんと見れば、それなりに近代朝鮮の「苦難」への想像力が多少とも養われる。「反日の源泉」を理解することは、「真の日本の姿」を見つめることにつながり、「愛国」とはなんであるかを知ることにもなると思う。



B.近代科学のはじまりの中の人体
  人間は長い間、自分が具体的身体をもって生きている存在でありながら、自分の肉体についてほとんど無知だった。これは驚くべきことだろう。心臓は毎日鼓動しながら全身に血液を送っているという事実も、近代科学が明らかにして学校で教えるようになったのは、たかだか二百年ちょっと前だった。生物学は、地上に生息する植物や動物を、ひとつの共通する生命体のメカニズムとして理解する知の活動なのだが、そこに到るまではかなり紆余曲折があった。

 「おそらく、古代を打ち破って近代への生き生きとした移りかわりに貢献するには、半分無謀なうぬぼれが必要であったであろう。このようなことをした一人は、ホーエンハイム(Theophrastus Bombastus von Hohenheim一四九三~一五四一年)という名のスイスの医師であった。彼の父は彼に医学を教え、彼自身も歩きまわる足と感受性に富んだ心とをもっていた。彼は、旅行をすることで、外出嫌いの同僚たちには知られていなかった非常に多くの薬を見つけ驚くべき博学の医師になった。
  彼は錬金術に興味をもった。錬金術は、アレクサンドリアのギリシャ人からアラブ人が聞き知り、さらにアラブ人からヨーロッパ人が聞き知った。ふつうの錬金術師は(極度のペテン師でなければ)現代の科学者と同じであったが、錬金術師の二つの最も驚くべき目標は――少なくとも錬金術の方法によっては――決して成就できない、えたいの知れないものであった。
  錬金術師たちは、まず、鉛のような劣等の金属を金に換える方法をみつけようと試みた。次に、彼らはふつう“賢者の石”——ある人たちによって金属を金にかえる媒介になると考えられた乾燥物質、そして他の人たちには、万能の治療薬で不死への手がかりとなる不老長寿の薬と考えられた乾燥物質――として知られた物質を探した。
  ホーエンハイムは金をつくろうとすることに重点を置かなかった。彼は錬金術師の真のはたらきは病気の治療の点で医師を助けることであると信じていた。そのため、彼は彼が発見したと主張していた賢者の石に専念した(その結果、彼はいつまでも生きるだろうと断言してはばからなかったが、悲しいかな、事故によって五〇歳にならないうちに死んでしまった)。ホーエンハイムは錬金術を学んだので、治療薬を鉱物原料に求めようとした。——鉱物は錬金術師の商売上の原料だった――そして、古代人が用いた植物性の薬を軽蔑した。彼は古代人に対して猛然と悪口をいった。ケルススの研究はちょうど翻訳され、ヨーロッパの医師たちの聖書になったが、ホーエンハイムは“パラケルスス”(”ケルスス”よりもよい)と自称した。彼が後世に知られたのは、そのうぬぼれの強い名前によってである。
  パラケルススは一五二七年、バーゼルに住んでいた町医者であった。彼は自分の意見を可能な限り公然と表明し、街角の広場でガレノスとアビケンナの本のうつしを焼いた。その結果、医者の中の保守派は彼をバーゼルから巧みに追い出したが、彼は自分の意見をかえなかった。パラケルススはギリシャの科学、あるいはギリシャの生物ですら、破壊しはしなかったが、彼の攻撃は学者たちの注意をひいた。彼自身の理論は彼が猛然とののしったギリシャの理論と比べてたいしてよくはなかったが、偶像破壊が必要であり、そのこと自身が価値のある時代であった。彼が古代人に対して示した激しい不敬のことばは、正統派の考えの支柱をゆさぶらないではなかった。そしてギリシャ科学はもうしばらくの間ヨーロッパ人の心をしめつけてはいたが、やがてそのしめつけは目にみえて弱まった。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、2014、講談社学術文庫、pp.36-38

 今日では、錬金術は無意味な行為のように思えるが、ここから人間の化学的思考が出発して、それは金属や鉱物の性質から医療に結びつけようとしたが失敗に終わる。しかし、錬金術は無駄ではなかった。そして次に問題になるのは、人体。人体に構造を知るには、死体を解剖しなければならない。解剖は忌まわしいものと考える思想が支配しているうちは、自分の身体がどうできているかを人は知らなかったし、それで不思議とも思わなかった。

「“科学革命”の始まりとして、ふつうに考えられている都市は一五四三年である。その年に、ポーランドの天文学者、コペルニクス(Nicolaus Copernicus一四七三~一五四三年)は、太陽系に関する新しい考え方を述べた本を出版した。その本は、太陽が中心にあり、地球は他の惑星と同様に、軌道の上を動く惑星であるというものであった。この新しい考え方が勝利するまでになお一世紀の困難な闘いが残っていたが、コペルニクスの考えは宇宙に関しての古いギリシャの考え方の終末を告げる最初のものであった(ギリシャの考え方では、地球が中心である)。
  同じ一五四三年に、第二の本が出版された。物理学においてコペルニクスの本がそうであったように、この本は生物学にとって革命的なものであった。De Corporis Humani Fabrica(『人体の構造について』)というのがその第二の本で、著者はベサリウス(Andreas Vesalius 一五一四~六四年)という名前のベルギーの解剖学者であった。
  ベサリウスは、ガレノスの厳格な伝統の下で、ネーデルランド地方で教育された。彼はガレノスにつねに最大の尊敬をはらいつづけた。しかし、彼の教育が完成するとすぐイタリアに旅行し、そこでより自由な知的な雰囲気にひたった。彼は、自分自身で解剖をするというモンディーノの古い習慣を再導入し、彼の目でみたものが古いギリシャの考え方と一致しないときは、それに影響されようとはしなかった。
  彼の観察の結果として彼が出版した本は、それまでにあった本と比べて、人体解剖についての最初の正確な本であった。その本は、それ以前のものより二つの点でたいへん有利であった。まず第一に、その本は印刷術が発明され使われ始めた時代に出版されたので、何千といううつしがヨーロッパ中に広く散布された。第二に、それにはさし絵があった。これらのさし絵は非常に美しく、その多くが画家チチアンの弟子のカルカア(Jan Stevebzoon van Calcar一九四四頃~一五四六年)によって描かれていた。人体は自然の位置で示され、筋肉のさし絵は特にすぐれていた。
  この本を書いた後のベサリウスの生活は不幸なものであった。彼の見解はある人たちにとっては異端であるように思えたし、たしかに彼の本によっておおっぴらに示された公然とした解剖は不法のものであった。彼は聖地への巡礼を強制され、その帰途難船によって死んだ。
  しかしながら生物学におけるベサリウスの革命は、天文学におけるコペルニクスの革命よりももっと直接的な効果をもった。べサリウスの本に述べられていることは、宇宙空間を地球が運動するということほどに信じられない(外観的に)ことではなかった。むしろ、それには魅力的な方法で、自分自身をみようと努力するならばだれでもみることができるような(それがどんなに古代の権威に反していようとも)器官の形と配列を示してあった。
 ギリシャの解剖学はすたれてしまい、新しいイタリアの解剖学が栄えた。ファロッピオ(Gabriello Fallopio)、またはファロピウス(Gabriel Fallopius一五二三~六二年)は、ベサリウスの弟子であり、新しい伝統をもたらした人である。彼は生殖系を研究し、卵巣から子宮へ続く管を記載した。これは、今でも“ファロピウス管”とよばれている。
 もう一人のイタリアの解剖学者、エウスタキオ(Bartolommeo Eustachio)またはエウスタキウス(Eustachius一五二〇頃~七四年)はベサリウスの反対者であり、ガレノスの支持者であったが、彼もまた人体を観察し、自分が見たものを記載した。彼は耳からのどへ伸びているアルクマエオンの管を再発見した。この管は、現在“エウスタキオ管”とよばれている。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、2014、講談社学術文庫、pp.39-42.

 構造と機能、という区別は16世紀にはまだ明確ではなかったが、人体の物理的構造は解剖で明らかになったとして、それぞれの器官がどういう働きをしているかは解剖だけでは説明が難しく、これも難題だった。心臓の働きが、人体のすみずみにまで血液を行き渡らせるポンプの役割をもっていることは、今日では常識だが、それが解るためには天才的思考の転換が必要だった。

「解剖学の主題であるからだの各部分の外観と配列の問題よりももっと複雑なのは、それらの部分のふつうのはたらきを研究することである。それは生理学である。ギリシャ人は生理学ではほとんど進歩がなかったし、彼らの結論の大部分は間違っていた。特に、心臓のはたらきに関して誤っていた。
  心臓は明らかにポンプであり、血液を噴出させる。しかし、血液はどこからきて、どこへ行くのであろうか。初期のギリシャの医師たちは、静脈を唯一の血管であると考えるという最初の誤りをおかした。動脈は死体ではふつう空になっている。そのため、動脈は空気の管であると考えられた(“artery”—動脈という語自体が、‟空気の管”という意味のギリシャ語に由来している)。
  しかし、ヘロフィルスは動脈も静脈も血液を運ぶことを示した。両方の血管はいずれも心臓とつながっている。もし、心臓から離れた末端で静脈と動脈の間に何らかのつながりがみつけられたならば、この問題は手際よく解決されたであろう。ところが、最も注意深く行われた解剖学的研究は、動脈も静脈も細かく細かく枝分かれし、しまいにはその分枝がみえなくなってしまうことを示した。両者の間に何のつながりも見出すことはできなかった。
  それゆえ、ガレノスは血液が心臓の右半分から左半分へ通ることによって、一方の管から他方の管へと動くと提案した。彼は、心臓を横切って血液が通るために、心臓の右と左を分けている厚い筋肉性の仕切りに小さい穴があるに違いないと主張した。これらの穴は決して発見されなかったが、ガレノスの後十七世紀の間、医師たちと解剖学者たちはそれらが存在すると仮定した(ガレノスがそういったという理由で)。
  新しい時代のイタリアの解剖学者たちはあけすけな反抗をあえてしなかったが、そうではないかもしれないと考え始めていた。たとえば、ファブリッツィ(Hieronymus Fabrizzi)あるいはファブリキウス(Fabricius一五三三~一六一九年)は、大静脈に弁があることを発見した。彼はそれを正確に記載し、どのようにはたらくかを示した。弁は、血液が障害なしにそれを越えて心臓のほうへ流れることができるように配列されていた。しかし、血液は弁につかまり、邪魔されずに心臓から逆流することはできない。
  この事実からの最も簡単な結論は、静脈中の血液は一方向、つまり心臓の方向へのみ動きうるということであろう。しかし、これはガレノスの往復運動の考えと相いれなかった。そして、ファブリキウスは、弁が逆流をおくらせる(止めるというよりも)と提案するにとどめてしまった。
  しかし、ファブリキウスは、厳格な性質の持ち主であるハーヴィ(William Harvey一五七八~一六五七年)という名のイギリス人の弟子をもっていた。彼はイギリスへ帰ってから心臓を研究し(彼以前の何人かの解剖学者たちのように)、そこには一方通行の弁があるということに気がついた。血液は静脈から心臓にはいることができるが、別の一方通行の弁によって心臓へもどってくることはできない。ハーヴィが動脈をしぼってみると心臓に近い側が血液でふくらみ、静脈をしぼると心臓と反対側が血液でふくらんだ。
  すべてのことが、血液はひいたり満ちたりすることはなく、連続して一方向へ動くことを示している。血液は静脈から心臓へ流れこみ、心臓から動脈へ流れ出す。それは決して逆流しない。
  ハーヴィは、さらに心臓が一時間に人間の体重の三倍の血液をおし出すと計算した。血液がそのような割合でつくられ、破壊されるとはとても考えられない。それゆえ、動脈の中の血液は心臓以外のどこかの場所で、細すぎて目にみえない血管のつながりを通って静脈にもどらなければならない(そのような目にみえない血管は、ガレノスの考えた心臓の筋肉にあいているみえない穴よりましであった)。一度そのような連結した管が仮定されると、心臓が同じ血液を繰り返しポンプで送り出すと考えるのはたやすいことであった。—-静脈/心臓/動脈/静脈/心臓/動脈/静脈/心臓/動脈……このように考えると、一時間に人間の体重の三倍の血液を心臓が送り出すことができるのは驚くことではない。
  一六二八年に、ハーヴィはこの結論とそれを裏づける証拠とを、わずか七二ページの小さな本として出版した。それはオランダで印刷され(誤植だらけであったが)、de Motu Cordis et Sanguinus(『心臓と血液の動きについて』)という題がつけられた。小型で貧弱な外観であったにもかかわらず、その本は完全に時代に合った革命的な本であった。
  この時代は、イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei一五六四~一六四二)が科学における実験的方法を普及させ、そうすることによって、物理学におけるアリストテレスの体系を完全に破壊した二、三十年間にあたる。ハーヴィの研究は生物学へ新しい実験科学を最初に適用したもので、それにより生理学でのガレノスの体系を破壊し、近代生理学を確立した(ハーヴィが心臓から送り出される血液量を計算したのは、生物学へ数学を適用した最初で重要な例である)。
  昔ながらの医学校は、ハーヴィを激しくののしったが、事実に対してはどうしようもなかった。ハーヴィの時代には、動脈と静脈をつないでいる管はみつからなかったが、血液が循環するという事実は、しだいに生物学者にみとめられていった。ヨーロッパは、このようにはっきりと歩を進め、ギリシャの生物学の限界を越えた。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、2014、講談社学術文庫、pp.43-47. 

  アシモフの筆は、生化学者であると同時に、SF小説作家あるいは推理小説作家としての、文学的才能が漲っていて、とても読みやすい。
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太一と修司  アリストテレスとガレノス

2016-01-26 02:32:24 | 日記
A.親友だったんだなあ
 昨日たまたま、先日見た演劇「書く女」(永井愛作・演出、世田谷パブリックシアター)で、作者の永井さんを見かけて、新作の戯曲本を買いに大きな書店に行って、めあての本はなかったのだが、偶然のぞいた棚にあった本を買って読んだ。それは、山田太一編・企画・協力田中未知『寺山修司からの手紙』岩波書店\1700である。山田太一と寺山修司が早稲田大学の同級生であったことは、前に何かで読んで知っていたが、早稲田のようなマンモス大学で、同じ学部学科だとしても同級生など百人以上いるだろうから、面識はあるにしても親友というほどの関係ではなかったろうと想像していた。でも、この二人の書簡のやりとりを読んで、山田と寺山が無二の親友であったことを知った。手書きの手紙のコピーと合わせて当時の若い二人の写真も何枚か載っている。その中の二通。

 「寺山から山田へ20 昭和三一?年・四?月二一?日 渋谷区永住町十五 野上様方 山田太一兄
 君が生物学を休んだとき、僕はてっきり寝込んだのだと思ってあの子と二人で見舞いにいった。そしたら留守だ。神宮へ行っていやがる。それでも僕たちはエビスの駅前でアイスクリームを食べた。思えば僕は固くなっていたな。
   ×       ×
 つまらないことをかいてすまないが誰かに手紙を書かずにはいられないのだ。だれもわるくない。だれもせめられるべきではないのに僕はふられてその上無塩食、絶対安静だ。恋人がほしい。せめてひとり位かけひきなしで甘えられる人がいたらどんなにいゝだろう。
   ×       ×
 書けば書くほどつまらぬことばかりになる。君のヘヤにベルがあったね。あれがなると僕はテーブルを出すのを手伝う。君が拭く。そしてライスカレーを二人分とりにいき危なっかしい手つきでもってくる。
 君は「ノア・ノア」だの珍しい文庫本をもってマチスの画をかけタコの玩具を吊るしていたっけ、今日は必ずコロッケにソースかけて食べて下さい。」山田太一編『寺山修司からの手紙』岩波書店、2015、p.33.

 この本にある寺山の未発表書簡は、1955年から58年にかけて3年ほどの葉書と封書である。当時20歳前後の二人は、共に1954(昭和29)年に早稲田大学に入学し、教育学部国語国文学科の同級生として出会った。書簡は1960(昭和30)年からの寺山のネフローゼによる長期入院をはさみ、大学中退、執筆活動の本格的開始へと続く。この本には、寺山の葬儀に山田が読んだ弔辞も収められている。若い大学生の友人は、一方が病に倒れ死をも予感する中で、見舞いに訪れることを寺山の母に拒まれたことで、頻繁な手紙のやりとりが始った。

「寺山から山田へ32 昭和三一年一〇月五日 渋谷区永住町十五 山田太一様 寺山修司
 試験はいかがですか。
 僕は、憂鬱です。憂鬱な葉書など欲しくはない、と思うだろうがでも憂鬱です。
 下級生で、僕の雑誌の編集していた女の子が津軽海峡から投身自殺し、その二時間前に書いた葉書をもらった。何か妙なものだ。
 書きあげた詩劇の方は「忘れた領分」なんかよりはるかにおもしろいと思う。
 田谷力三の浅草オペラをきいてあんなのもいゝね。あゝ憂鬱だ。日曜日に金子さんとその子の通夜?をやるつもりだが、僕も作った歌がまずいというので送り返されたりなんかで全くくさる。いゝ手紙を書きたいのに、いつもこれですみません。すまねェ。昨夜、ラヴェルの左手のためのピアノ・コンチェルトが十二時にあったね。きゝたかった。
 アワレ、ユーウツ。また、書く。」山田太一編『寺山修司からの手紙』岩波書店、2015、pp.55-56.

 いまの大学生は親友になったとしても、このような文章を送るだろうか?手書きの文字で、心の深い場所から出る言葉を伝えたいと思う相手はいるだろうか?それは1960年の大学生でも、そんなにいなかったかもしれない。ぼくはついこの間、山田の書いたTVドラマ「早春スケッチブック」(1983年1月放映開始)をDVDで通して見たばかりだった。この本の最後にある寺山の晩年のパートナー田中未知さんの回想で、大学時代の交流が終わった後で、それぞれ別の道を歩いて離れていた二人が、このTVドラマを寺山が見たことをきっかけに山田を訪ね、旧交を温め、毎週このドラマを観ていたという。この物語に重要な人物、山崎努が演じた元カメラマンは、ほとんど寺山をイメージしたという。ぼくもこの本を読む前に、寺山修司を思い浮かべていた。そして、この83年に寺山は47歳でこの世を去った。



B.暗黒時代の科学
 キリスト教とローマ教会が支配したヨーロッパの中世は、ルネサンスで光が当たるまで闇夜の暗黒時代だった、という評価は、西洋近代から見た話である。しかし、確かにギリシャのヘレニズムから出てきた明晰で合理的で実証的な科学的思考は、すでにローマ帝国時代から形骸化し、忘れ去られてしまった。アシモフは、それを何人かの学者の痕跡を追って説明する。

「ローマ:ローマが地中海沿岸の世界を支配していた何世紀かの間、生物学の発達は長い間停滞した。学者たちは過去に行われた発見を集め、保有することおよびそれらをローマの聴衆たちに普及することで満足していたようである。ケルスス(Aulus Cornelius Celsus紀元三〇年頃)は、ギリシャ人の知識を一種の科学概論の中に集めた。彼の記した医学についての部分は残存し、近代初期のヨーロッパ人に読まれた。こうして、彼は彼が真にあるべき姿よりむしろ医師として有名になった。
  ローマ人の征服によって領土が広がった結果、初期のギリシャ人には未知であった地域から、学者たちが動物や植物を集めることができるようになった。ローマの軍隊で働いたギリシャの医師ディオスコリデス(Dioscorides紀元六〇年頃)は、テオフラストスを凌駕して、六〇〇種の植物を記載した。彼はそれらの植物の医薬上の性質に特に注意をはらったので、薬学(薬と医学に関する学問)の創設者と考えられている。
しかし、植物学においてさえ、百科事典主義が引き継がれていた。博物学でもっとも有名なローマ人は、プリニウス(Gaius Plinius Secundus紀元二三~七九年、ふつうプリニ〔Pliny〕として知られている)である。彼は三七巻の百科事典を書き、その中で古代の著者たちが博物学で発見したすべてのことを集積した。それらのほとんど全部は他人の本からとってきたもので、プリニはつねにもっともらしいことと、ほんとうらしくないことを区別しなかったので、彼の資料はかなりの量の事実(おもにアリストテレスからのもの)を含んでいるが、迷信やほら(その他のものからとったもの)もふんだんに盛りこまれている。
さらにプリニは、合理主義の時代からの退却を代表している。彼は植物や動物のさまざまな種類を取り扱うさい、人間との関係でそのおのおのがいかなるはたらきをもつかに非常な関心をもった。彼の見解によれば、すべてのものはそれ自身のために存在するのではなく、人間の食物として、薬の原料として、あるいは人間の筋肉と性格を強めるようにつくられた障害物として、また(もしそれらのすべてが当てはまらない場合は)道徳的な教訓として存在する。このことは初期のキリスト教徒に共鳴された見解であり、彼の空想の本来の面白さも加わって、プリニの本が近代まで現存した事実を部分的に説明している。
古代の最後の真の生物学者は、小アジアに生まれ、ローマで開業したギリシャ人の医師ガレノス(Galen期限一三〇頃~二〇〇年頃)である。彼は若いころ、剣士の闘技場の外科医であった。そして、このことが、疑いもなく彼に何回か粗雑な人体解剖を観察する機会を与えた。しかし、その時代は、大衆の邪道の娯楽のために、残酷な血なまぐさい剣闘競技をすることにはなんの反対もしなかったが、科学的な目的で死体を解剖することには依然として眉をひそめていた。ガレノスの解剖学の研究は、おもにイヌやヒツジや他の動物を解剖することによってなさねばならなかった。幸運に恵まれた時、彼はサルがどんな点で人間に似ているかを知る目的で、サルの解剖をした。
ガレノスは人体のいろいろな器官のはたらきについて書き、また詳細な説明を提出した。彼が人体そのものを研究する機会をうばわれていたことと、現代風の器具がなかったことが、彼の理論のほとんどが今日真実であるとされていることと違っている理由である。彼はキリスト教徒ではなかったが、強く唯一の神を信じていた。また、プリニと同じように彼もすべてのものは目的をもってつくられていると信じていたので、人体のいろいろな場所で神の仕事のあかしをみた。これは、盛んになりつつあったキリスト教的見解と一致し、後の時代でのガレノスの人気を説明する理由となった。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014. pp.24-27.

 ローマ帝国末のプリニの百科事典というものを見たことはないが、それがそれ以前の書物の記述の大いなる寄せ集めであって、知的な創造性は皆無だとすれば、このへんから人類の英知はただの事典に書かれた知識になり、それを読んで覚えるだけの学習が延々と続くことになったのだな。
 第二章は中世の生物学なのだが、これはもうまったく暗黒時代である。

「ローマ帝国の後期には、キリスト教は支配的な宗教になった。帝国(あるいはその西域)が侵入したゲルマン民族により占められたとき、彼らもまたキリスト教の信仰にかわった。
 キリスト教がギリシャの科学をほろぼしたのではない。その理由は、キリスト教が目だたない宗派にすぎないときに、ギリシャの科学は滅亡しそうな状態にあった。実際、キリスト生誕以前にギリシャの科学はかなり重病のきざしを示していた。
 それにもかかわらず、キリスト教の支配は、何世紀もの間、科学の復興に反対する方向にはたらいた。キリスト教の見解はイオニアの哲人たちとまったく反対であった。天国には天啓によってのみ到達することができ、聖書と教会の神父の書いたものと教会の霊感が、唯一の確実な指針であった。
 かわることがなく、またかえることもできない自然法則は存在するという考えは、この世ではつねにキリストのために神の奇跡が介入しやすいという考えに屈した。実際、ある人々は、世の中の事象を研究することは、キリスト教徒を、霊魂に対する正しい注意からそらせるためにもくろまれた恐ろしい策略であるとすら考えた。その立場からすれば、科学は邪悪なものになる。
 もちろん、この考え方は万人の見解ではなく、科学の光はいわゆる“暗黒時代”のくらやみの中で、かすかな輝きを保っていた。ときおりあらわれた学者たちが世の中の知識を守るためにたたかった。たとえば、イギリス人のベード(Bede六七三~七三五年)は、古代人に関して彼が保存できることをのこした。しかし、彼がのこしたのは、おもにプリニの抜粋であって、あまり進歩はなかった。
 おそらく、事実上アラビア人がいなかったならば、科学の光は結局消えてしまったであろう。アラビア人は、キリスト教より新しい宗教で、七世紀にマホメットにより説かれたイスラム教を信仰していた。彼らはまず乾燥したアラビア半島からあふれ出て、西南アジアおよび北アフリカへ押し寄せた。マホメットの死後一世紀たった七三〇年頃には、イスラム教徒は東はコンスタンチノープルの端に、西はフランスの端に住んでいた。
 軍事的にも、文化的にも、彼らイスラム教徒たちはキリスト教徒にとって危険な存在であったが、知的な面では長い目でみると恩恵であることがわかった。ローマ人と同様に、アラビア人自身は偉大な科学の創始者ではなかった。けれども、彼らはアリストテレスやガレノスのような人々の仕事を発見し、アラビア語に翻訳し、保存・研究し、それらの注釈を書いた。イスラム教徒の生物学者の中で最も重要なのは、彼の名前の最後部のラテン語訳アビケンナ(Avicenna)によって一般に知られているペルシャの医師、イブン・シナ(abu-‘Ali-husayn ibn-Sīna九八〇~一〇三七年)である。アビケンナはヒッポクラテスの医学上の説と、ケルススの本の中に集められた事柄にもとづいて、数多くの本を書いた。
 しかしながら、そのころ少なくとも西ヨーロッパにおいて形勢は一転した。キリスト教徒の軍隊は、二世紀の間イスラム教徒により支配されていたシシリー島をふたたび征服し、スペインをすたたび占領した。一一世紀の終わりごろ西ヨーロッパの軍隊は近東を侵略し始めていた。その軍隊は十字軍とよばれる。
 イスラム教徒と接触した結果、ヨーロッパ人は、敵の文化は単に悪魔のようなおそろしいものではなくて、本国における自分たちの生活様式よりもある点で進歩し、洗練されたものであることを認めるようになった。ヨーロッパ人の学者たちは、イスラム教徒の学問を探究し始め、繁栄した科学に関するアラビアの書物を翻訳しようとした。新たに再征服されたスペインでは、イスラム教徒の学者たちの援助をあてにすることができた。イタリアの学者、ジェラルド(Gerard of Cremona一一一四~八七年)はスペインで研究しているとき、アリストテレスのいくつかの業績とともに、ヒッポクラテスおよびガレノスの仕事をラテン語に翻訳した。
 ドイツ人の学者であるアルベルトゥス(Albertus Magnus一一九三頃~一二八〇年)は、再発見されたアリストテレスに好意をもった人々の中の一人であった。彼の教えや著作は、ほとんど完全にアリストテレス学派のものであり、もう一度その上に多くのものを確立できるギリシャ科学の基礎を築くのを助けた。
 アルベルトゥスの弟子の一人は、イタリアの学者トマス・アクイナス(Thomas Aquinas)である。彼はアリストテレスの哲学とキリスト教の教義を調和させようと努力し、大体において成功した。アクイナスは、理性的な精神は宇宙の他のものと同じように神の創りたもうたものであり、人間は正しい理性によって、キリスト教の教えと対立するような結論に到達するはずがないと考えた点で、合理主義者であった。このように考えると、理性は邪悪でも、有害でもない。
 こうして舞台は合理主義の復活の方向へ向かった。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014. pp.28-31.
 トマス・アクィナスはキリスト教神学の体系的読み直しをしたとされるが、それはアラビア経由のアリストテレス哲学を吸収したからこそ可能となったというわけか。
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I・アシモフも3歳のユダヤ系ロシア難民だった?

2016-01-24 14:13:54 | 日記
.難民・移民の受け入れについて
 新聞記事で国際面というのは、日本に直接は関係していない記事が多いから、ほとんどの場合読み飛ばしてしまう。今日の新聞も読み飛ばしそうになったが、片隅に小さくアカデミー賞選考委員が白人男性中心だという批判がある、という記事が目に留まった。これは、ネットでも先日、スパイク・リーなど黒人監督らが声を上げているという記事を見た。

「選考者 白人以外や女性2倍に・・米アカデミー賞 偏り批判うけ
 米アカデミー賞を主催する映画芸術アカデミーは22日、同省の選考メンバーの構成について、2020年までに白人以外の人種や女性を現状の2倍にすると発表した。同賞演技部門の候補者20人が2年連続で全員白人だったため、構成が白人男性中心だとの批判が出ていた。
 選考メンバーは俳優や監督ら映画業界で働く人たちで構成され、現状では一度メンバーになると終生メンバーでいられる。だが今年末に導入する新たな措置では、メンバーは10年ごとに更新。その10年間に映画界で活動実績がなければ選考メンバーから外れる。
 選考メンバーの詳細は不明だが、ロサンゼルス・タイムズ紙は12年の時点で6千人以上、うち白人が94%、男性77%、平均年齢62歳と伝えている。(ロサンゼルス=平山亜理)」朝日新聞2016年1月24日朝刊9面国際欄。

 アカデミー賞の選考メンバーが6千人以上もいて、一度なると死ぬまでメンバーで、そのうち白人が94%と大部分で、しかも男性が77%ということは知らなかった。「偏っている」といわれるのは当然の数字だ。それにメンバーは映画業界で働いたいわば業界内部の人ばかりだから、一般の観客の視点は反映されないし、アメリカのような他民族多文化社会でのマイノリティーへの配慮という点で、大衆文化の華ともいえるアカデミー賞が、このような形で選ばれるのは不当だろう。この記事の上に、こんな記事もあった。

「難民対応も主要議題 ダボス会議「特区を」の声も
 23日までスイスのダボスで開かれた世界経済フォーラムの年次総会(ダボス会議)や関連イベントで、欧州に大量流入し続ける難民や移民の問題が主要な議題になった。参加した要人からは、流入緩和策として、紛争国の周辺国に「特別経済ゾーン」などの特区設置を支持する意見が目立った。▼3面参照
 著名投資家ジョージ・ソロス氏は、特区について「地元民と難民の双方が商売を立ち上げ、欧州市場への輸出に制限のない特別経済ゾーン」と定義。「状態に安定をもたらし、新たな難民の受け皿にもなり得る。これは正しい方向だ」と述べた。ドイツのガウク大統領やヨルダンのラニア王妃も特区に言及した。
 欧州への難民らの大量流入の背景には、シリアなどの周辺国に設置された難民キャンプでの支援体制の弱体化がある。ドイツのガブリエル副首相は、資金難のため、国連機関が食糧援助を減らしたり、病院や学校を閉鎖したりしたことが大量の難民発生につながったとの認識を示した。(ダボス=松尾一郎)」朝日新聞2016年1月24日朝刊9面国際欄。

 「3面参照」とあるので、3面を見ると難民・移民関係の記事はなく、あったのは2面で、インドシナ難民の記事と難民受け入れ数と定住者の数が表になっていた。
*日本のインドシナ難民受け入れ
 1975年・ベトナム戦争終結。日本にボートピープル初上陸
 79年・内閣にインドシナ難民対策連絡調整会議を設置。
政府の委託でアジア福祉教育財団に難民事業本部発足。
 82年・難民条約発効
*定住した難民の数
出身国 定住者 日本国籍取得者
ベトナム 8656人 908人
カンボジア 1357人 321人
ラオス 1306人 178人
計 1万1319人 1407人
定住者数は受け入れが終了した2005年末現在、法務省調べ。日本国籍取得者数は14年3月末現在、難民事業本部調べ。
「少数者 社会の支援不可欠・・インドシナ難民受け入れ1.1万人
 「難民鎖国」とも称される日本が初めて大量に受け入れたのがインドシナ難民だ。20年以上続いた南北ベトナムの戦争が1975年に終結。75年5月、米国戦に救助されたベトナムのボートピープル9人が千葉港に上陸した。日本政府は当初、一時滞在だけを認めていたが、国際社会の批判を浴び、78年に初めて3人の受け入れを決めた。
 大東文化大学の小泉庚一教授(難民・強制移動民研究)は、「米国からの強い圧力の下、アジア安定のための国際協力という観点で受け入れが行われた。冷戦時代で、社会主義国からの難民には自由主義国の正しさを示す『価値』もあった」と指摘する。
 冷戦が終わり、米国が超大国だった時代は過ぎた。「イスラム国」のような過激派組織が各地でテロを起こし、「難民受け入れがテロリストの流入を招く」との見方すら広がる。だが、アントニオ・グテーレス前国連難民高等弁務官は「難民は住む場所を壊され、市民が殺されるような状況を逃れたテロの犠牲者だ。テロが難民を生む」と強調する。
 早稲田大学大学院の川上郁雄教授(文化人類学)は「難民は迫害を受けた祖国でも定住国でも少数者で、受け入れ後の定住支援こそが重要。定住の成否は、難民の側だけでなく日本社会の側にもかかっている」と話す。(伊東和貴)」朝日新聞2016年1月24日朝刊総合2面。
 この記事は、1面のボートピープルに関連した追跡記事の補足である。

 あまりちゃんと考えたことがなかったが、日本に来たボートピープルは、戦争が始まったから戦火を避けて脱出したのではなく、戦争が終わって平和になるはずの国から逃げてきたのだ。どうして逃げたのかというと、社会主義化した国の新体制では迫害される立場にいた人、たとえばベトナムで米軍が支援した南ベトナム政府側にいた人たち、あるいは社会主義政権に睨まれる意見や立場にいた人たちとその家族、と考えられる。カンボジアやラオスではその後、弾圧粛清が多数の犠牲者も出した。日本政府は、インドシナの戦争でアメリカ側についていたわけだから、この人たちを支援する形をとらないと、アメリカに対しても格好がつかなかったわけだ。
 しかし、この受け入れの数字と結果を見ると、難民受け入れはあくまで一時的な格好つけで、日本国籍は厳しく制限し、日本社会への定住は嫌ってきたといえそうだ。ヨーロッパの難民受け入れは大きな問題になっているが、ダボス会議でのような対応策を考える以前の、お寒い状況とおもえる。



B.アシモフの「科学としての生物学」
 I.アシモフが書いた『生物学の歴史』A Short History of Biology1964を読んでみる。
  著者のアイザック・アシモフ(Isaac Asimov、1920年1月2日 – 1992年4月6日)は、ロシア生まれ(ユダヤ系ロシア人 (Исаак Юдович Озимов))のアメリカの作家、生化学者である。3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨークで育った。非常に成功した多作の作家であり、その著作は500冊以上を数える。彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、飛び級で卒業して15歳でコロンビア大学へ入学。1939年に作家デビューした。同時にコロンビア大学大学院で化学を専攻。第1次世界大戦末期に兵役で太平洋に。
  1948年には博士号を取得し、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった。
  1955年に准教授となり終身の在職権を得たが、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。1979年7月になってボストン大学は彼を昇格させ、生化学教授となった。
  1970年ごろから『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にて純粋なミステリの『黒後家蜘蛛の会シリーズ』の連載を開始した。アシモフは1992年4月6日に没した。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVに汚染されていたという。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆したが、彼はしばしばSFにミステリの手法を用いる一方で、純粋なミステリ作品も執筆しており、代表作は『黒後家蜘蛛の会』シリーズである。ぼくも愛読した短編集だが、みなほぼ純粋なパズル・ストーリーであり、殺人事件さえめったに起こらない。題材は盗まれた物や遺産を得るための暗号の解読、忘れてしまった地名の推測など、より日常的な問題である。探偵役の給仕ヘンリーの推理が冴える。

  この『生物学の歴史』という本は、アメリカの自然史博物館が、生命科学および地球科学の知識を学生や一般人に普及させるために出版した、American Natural Science Booksという叢書の一冊である。古代の生物学から始まって「分子生物学」で終わる。1964年にこの本が刊行された後、分子生物学は飛躍的に発展し、DNA塩基配列とアミノ酸の対応が解明され遺伝子の暗号が解読された。とくにヒトの全遺伝子(ゲノム)の解読が進む。「バイオテクノロジー」は医学、科学、農学、薬学への応用が進んだ。とりあえず、出発点は古代ギリシャである。

 「科学の始まり:生物学が生きものに関する学問である。人間の知性が発達して、自分自身は自分が立っている動かない、感情のない大地とは異なった物体であると気が付いたとき、生物学は始まった。しかしながら、何世紀もの間、生物学は科学として認められるような形ではなかった。人々は、自分や他人の病気をなおそうとしたり、苦痛をやわらげ、健康を回復し、死を防ごうとしなければならなかった。彼らは、まず魔術や宗教の儀式によってそのことを行った。すなわち、ことのなりゆきをかえてくれるように、神や悪魔を強制したり、丸めこんだりしようとした。
 また、動物が食用として肉屋に、いえにえとして聖職者に切りさかれるたびに、人々は、動物体の生きたつくりを観察せざるをえなかった。器官の詳しい特徴に注意がはらわれたが、それらのはたらきを調べようとするためではなく、未来に関してどんな情報を知らせてくれるかを学ぶためであった。初期の解剖学者は、雄ヒツジの肝蔵の形や外観によって、国王と国民の運命を予測する預言者であった。
 迷信に圧倒的に影響されていたときでも、疑いもなく、多くの有益な知識が時代とともに集められた。古代エジプトで、あれほど手際よくミイラを防腐し、保存した人々は、人間の解剖学についての実際上の知識をもっていなければならなかった。バビロニアの歴史をたぶん紀元前一七〇〇年ごろまでさかのぼったころのハムラビ法典には、医薬業についてのくわしい規則が記してある。そしてその当時には、実際の観察をもとに苦心して集められた、有益で役立つ知識をもつ医者がいた。
 それにもかかわらず、人々が宇宙は気まぐれな悪魔の絶対支配下にあると信じ、自然は超自然の支配下にあると思っている限り、科学の進歩は非常に遅れざるをえなかった。最上の知性も、目に見える世界の研究には向けられず、霊感や天啓を通して、目に見えない霊の支配する世界を理解することへ向かうのが自然であった。
 確かに、個人々々はときどきそのような見方をしりぞけて、自分の感覚を通して示される世界を研究することに関心をもったに違いない。しかし、それらの人々は敵視する文化に負け、存在がわからなくなり、名前も残らず、影響もなくなってしまった。
 このようすをかえたのは古代ギリシャ人である。彼らは、落ち着かない、好奇心にみあちた、口達者で知能が高く、議論ずきで、ときには不遜な人々であった。ギリシャ人のほとんどすべては、その当時およびそれ以前の他の人々と同じように、神々や半神半人の目にみえない世界の中に住んでいた。もし、彼らの神々が他の民族の異教の神々よりはるかに魅力に富んでいたならば、彼らのふるまいはそんなにも子どもっぽくなかったであろう。病気はアポロの矢によって引きおこされた。そして、アポロはあるささいな原因でやたらにいきどおりにかりたてられたり、いけにえや適当なお世辞でなだめることができたりした。
 しかし、これらの考えに同意しなかったギリシャ人もいた。紀元前六〇〇年頃、イオニア(現在はトルコ領であるエーゲ海岸)に哲人たちがあらわれ、今までの考えをかえる運動を始めた。いい伝えによると、ターレス(Thales紀元前六四〇?~前五四六年)がその祖である。
 イオニアの哲人は、超自然のことがらを無視し、宇宙のできごとは、固定した不変の型にしたがっていると考えた。彼らは因果律の存在を仮定した。すなわち、すべてのできごとには原因があり、ある一つの原因は気まぐれな意志によってかえられることなく、必然的にそれに対応する結果を生じるというのである。さらに進んだ仮説は、宇宙を支配している“自然の法則”は人間の知性で理解でき、そしてそれは最初の法則あるいは観察から推論することができるというのである。
 この考え方は宇宙の研究に威厳をそえた。人間は宇宙を理解することができると主張し、一度得られた理解は永続するという確信を与えた。たとえば、太陽の運動を支配する法則についての知識が得られたならば、フェイソン(太陽の神の子)が太陽の戦車の手綱をとると決心し、それを気ままな経路にそって空を横切らせたりしたき、その知識が急に使いものにならなくなるとおそれる必要はないのである。
 これらの初期のイオニアの哲人たちについては、ほとんどわかっていない。彼らの仕事も消失してしまった。しかし、彼らの名前は残り、彼らの教えの神髄も残っている。さらに、“合理主義”の哲学(宇宙の動きは天啓よりも理性によって理解できるという信念)は彼らにより始められ、決してほろびなかった。ローマ帝国の滅亡後、動揺の大きい成長期をもち、ほとんど消滅するかと思えるほどゆらいだが、決して完全に失われはしなかった。
 イオニア
 合理主義が生物学にはいったのは、動物体の内部のつくりが、信託をとりつぐものとしてでなく、それ自身として研究され始めたときである。いい伝えによると、みたものを記載するためだけの目的で動物を解剖した最初の人は、アルクマエオン(Alcmaeon紀元前六世紀頃の人)である。紀元前五〇〇年頃、彼は目の神経を記載し、卵の中で成長していくニワトリの構造を調べた。したがって、彼は解剖学(生物の構造に関する学問)と発生学(誕生前の生物に関する学問)の最初の研究者であると考えてよいであろう。アルクマエオンは、中耳とのどを結んでいる細い管についてさえ記載している。これは、それ以後の解剖学者には見落とされ、それから二〇〇〇年後になってやっと再発見された。
 しかし、生物学における合理主義的な考え方の始まりに関して最も重要な名前は、ヒッポクラテス(Hippocrates紀元前四六〇?~前三七七年?)である。彼については、イオニア海岸から少し離れたコス島で生まれ、そこで暮らしたということ以外ほとんど何も知られていない。コス島には、ギリシャの医学の神であるアスクレピウスの神殿があった。その神殿は今日の医学校にほぼ相当し、そこに僧侶として受け入れられることは、現代の医学の学位を得ることと同じであった。
 生物学へのヒッポクラテスの考えでは、いかなる神も医術に影響を及ぼさなかった。彼によれば、からだを構成している各部分がうまく調和して働いているのが健康体であり、それらがうまくいっていないのが病気のからだである。医師の仕事は、からだのはたらきのどこに欠陥があるかを見つけ、それらの欠陥をなおすような適当な処置をとるために、くわしく観察することである。適当な処置とは、祈りやいけにえではなく、悪魔を追い出したり、神々をなだめたりすることではない。患者を休養させ、清潔にしているか、新鮮な空気と衛生的な食事をとっているかどうかに注意することが、おもな処置である。度を過ごすということは、どんな形のものでも何かしらからだの調和を失わせるので、すべてのことに節度がなければならない。
 つあり、ヒッポクラテスの考えによると、医師の役割は、自然の法則自身に治療をまかせることである。かれだは、いつもはたらく機会が与えられている自己回復装置をもっている。医学の知識がとぼしかった時代に、これはすぐれた考え方である。
 ヒッポクラテスは、彼の時代以後何世紀も続いた医学の伝統を発見した。この伝統をつぐ医師たちは、彼らの書いたものにヒッポクラテスの名誉ある名を冠したので、ヒッポクラテス自身が実際に書いたのはそれらの中にどの本であるかはわからなくなってしまった。現在でも医学生たちが学位を受けるときに引用している”ヒッポクラテスの誓い”は、ほぼ確実に彼が書いたものではない。実際、彼よりおよそ六世紀後に初めてつくられたものである。一方、ヒッポクラテスの著述の中で最も古いものの一つは、てんかんについて書かれたもので、彼自身が書いたもっともすぐれたものであろう。もしそうであれば、生物学に合理主義が出現したすぐれた例である。
 てんかんは脳のはたらき(まだ完全に理解されたわけではないが)の疾患であり、からだに対する脳の正常な支配が混乱をきたしてしまう。軽い症状では、患者は感覚の印象を誤って受けとり、その結果幻覚を経験する。さらに重い症状では、筋肉の調整が突然きかなくなり、発作的にけいれんし、地面に倒れ、叫び出し、ときどき自分自身をひどく傷つける。
てんかんの発作は長くは続かないが、神経系の複雑さを知らない傍観者は、人間が自分の意志でなく動いたり、それによりみずからを傷つけたりするのをみたら、ある超自然的な力がその人のからだの統制をにぎってしまったとたやすく信じてしまう。てんかん患者は“悪霊に取りつかれている”、そして、この病気は超自然的なものが関係しているので、“神聖な病気”である、というふうに。
たぶんヒッポクラテス自身によって書かれた紀元前四〇〇年頃の「神聖な病気について」という本の中で、この考えは強く反対されている。ヒッポクラテスは、一般に病気を神のせいにするのは無益なことであると述べ、てんかんを例外であると考える理由はないと主張した。てんかんは他のすべての病気と同じように、自然の原因をもち、合理的な処置ができる。たとえ原因がわからず、処置が確実でなくても、原則をかえることはない。
現代科学のすべてはこの考えを改善することはできない。そして、もし人が生物学の始まりとして、一つの年代、一人の人、一冊の書物を探そうとすれば、紀元前四〇年、ヒッポクラテスの『神聖な病気について』以上のものを探し出すことはできないであろう。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.11-18.

そもそもこの世界を理解するのに、超自然的な神や啓示や霊感を持ち出さずに、事物そのものを知性で冷静に凝視することで理解できる、と考えたイオニアやアテネの人びとから、科学が発生したということだが、その後のローマ帝国、さらには中世ヨーロッパでは、このような考えは生き延びるのが難しかった。
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Vocalistから・・ うたについて

2016-01-22 17:02:40 | 日記
A.文学的思考と統計的思考
  ものごとを考えるのに「文学的思考」と「統計的思考」という正反対のやり方があると考えてみよう。たとえばある深夜、帰宅途中の若い女性が何者かに襲われて殺されていたのが発見された、というTVのニュースを見たあとで、どのように考えをめぐらせるか。「文学的思考」の特徴は、ヴィジュアルに具体的なイメージを思い描き、想像でどんどん拡大していくことなんである。人通りのない暗い街路を、怪しい男が追ってくる。駆け足で逃げる女性、襲う男。抵抗しても倒され、助けを呼ぼうと声を上げようとしても喉を絞められてしまう。突然の悲劇。想像はさらに広がって、被害者はきっと美人だったに違いないぜ。だから犯人は駅前から付け狙っていたのだ・・。云々。
  連想は次々展開して、やっぱり深夜の女性の一人歩きは危ない。そうだ、うちの娘も門限を守らせよう、警察にもパトロールを強化してもらわないと・・。このように考える「文学的思考」の人の中には、心配症が嵩じて実際行動に移す人もいる。北朝鮮が核をもったら東京に核爆弾を撃ち込んでくるぞ、という流言のように。実際、核実験発表の翌日のTV番組の中には、都庁や東京タワーが9.11のように爆破される映像を作って、扇情的不安感を流す無責任な局もあった。不安になって鹿児島に転居するという人がいたらしい。
  これと反対に「統計的思考」の特徴は、ものごとを具体的なイメージで捉えるのではなく、数量的な確率の問題として見ていくのね。昨年1年間に、路上で通り魔的な強盗殺人事件は未遂を含めどのくらい起きたのか、そのうち若い女性が殺人や傷害の被害者になった比率と犯人の検挙率はどのくらいか、それらの数字は過去数年と比べて増えているのか、減っているのか。これは主に警察が発表した近年の統計数値をみれば把握できる。それを見ると、今の日本で、たとえば殺人事件の認知件数は‘04年で1400件前後(検挙率94%)、強盗は約7300件(検挙率50%)、強姦は約2100件(同64%)、強制わいせつは約9100件(同40%)だったが、2013年では、殺人認知件数は938件(検挙率100%)、強盗は約3300件(同67%)、強姦は約1400件(同82%)、強制わいせつが約7600件(同51%)といずれも減少傾向にある。凶悪犯罪は、21世紀はじめまで増加傾向にあったが、2005年あたりからいずれも前年より減り、検挙率も上がってきていることがわかる。警察が頑張っているのかもしれないが、大きく見れば、社会の変化が反映しているのかもしれない。ただしこの警察庁の数値は、認知件数であって、認知されない犯罪は含まれていないから注意が必要だ。
  深夜に女性が一人歩きしている人数は正確にはわからないが、仮に山手線は一輌に座席が54席、立っている人と合計で約100人×11輌。乗っている女性は、女性専用車輌が満員であるように、人口集中地区の時間あたり女性乗車率は、23~0時台で少なめに見て40%は超えているとして1100×0.4×主要幹線本数10ぐらいだと仮定すると、その深夜歩行女性が殺人事件の被害者になる確率を計算すると、(1400÷365)÷4400=0.00087つまり8.7万人に1人ぐらいである。0時過ぎの深夜でこのくらいであるから、もっと早く帰宅する大多数の若い女性が、道で襲われて殺される確率は、風の日に空から落ちてくる看板に当たって怪我をする確率よりもおそらく低い。予防の対策は、意外に単純に「暗く人気のない夜道を歩かない」ことで99%避けられる。ただし、意図的にストーカーに個人として狙われる「美女」の場合は、別の計算をしなきゃいけない。
  北朝鮮が東京に向けて核弾頭を搭載したミサイルを撃ち、それが東京都庁を破壊するという事態が現実のものになる可能性は、少なくとも深夜に東京都内で美女が暴漢に襲われる可能性よりはるかに低いとみてよい。ただし情報が不足しているので統計的データはない。その危険に備えてアメリカに守ってもらうために非核三原則を変えて、日本の米軍基地に原子力空母や核迎撃ミサイルを配備して、米軍内の事故によって放射能漏れや墜落などの危険が起る可能性は、基地周辺で凶悪犯罪が起る確率と同じかそれ以上と想定できる。
  という具合に「文学的思考」は、誰でも想像を巡らせればいいので簡単だが、「統計的思考」の方は情報を調べて計算したりしなければならないから結構面倒である。それ以上にものごとへの態度というか人間のタイプが違うように思うかもしれない。小説家や映画監督のような「文学的思考」のプロと、統計学者や中央官僚のような「統計的思考」のプロは、まったく話が合うはずがないと。でも、同じ人間が「文学的思考」も「統計的思考」も両方できるし、やったほうがいいとぼくは思っている。



B.うたの記憶について
  5年ほど前にぼくは、日本の女性シンガーソングライターが作ってヒットした曲について文章を書いた。どこにも発表していないので、その初めの部分をここに載せる。

 「みんなが同じ歌を聴いて、ある共通の記憶を心に刻むということはよくある。日本という国が戦争に敗けて、貧困と混乱の時代が15年ほど続いた後、どんどんお金とモノが風呂桶に水が溜まるように満ちてきて、それまで手に入らなかった贅沢品に手が届き、何となく未来が明るいような気分になったのは1960年代末ぐらいだった。その頃は、オリンピックとか万国博とか国民的大イヴェントのたびに、テーマソングが作られ誰もが歌ったものだった。それはもう今は遠い昔の歴史である。
  それで、この文章を書く気になったきっかけを話すと、1月ほど前、たまたま徳永英明という歌手の「Vocalist」というCDを聴き、これもたまたま「考える人」という雑誌に載った作家村上春樹のロングインタビューを読んだ。ぼくは村上春樹の小説は読んでいたが、徳永英明の歌をちゃんと聴いたことは一度もなかった。CDアルバム「Vocalist」は、彼がこれまで聴いてきた日本の主に女性歌手、それも自作自唱のシンガーソングライターとして発表されたヒット曲を中心に、彼の好みでカヴァーしたアルバムで、既にシリーズ4枚目が出ている。
  みんなそれぞれの時代に流行ったヒット曲だから、ぼくもよく知っている曲だったが、改めて並べて聴いてみるとたいへん面白かった。そこで、村上春樹の次のような話を読むと、ぼくの中に発酵してくるアイディアが見つかった。

 「戦争から帰ってきた父親たちが結婚をして、戦後すぐにぼくの世代が生まれた。平和な時代がやっと訪れ、貧しかったけれどみんな一生懸命働いて、昭和30年代の高度成長があって、生活も右肩上がりに向上し、これからすべてよくなっていくだろうという時代だった。そりゃおもしろい時代だったな。活気があり、少なくとも退屈はしなかったです。新幹線が開通して、東京オリンピックがあって、アポロ11号の月着陸があった。そして60年代は何かにつけ理想主義的な傾向が強かった。ケネディの政権が生まれ、公民権運動があって、反ベトナム戦争の運動があって、ビートルズとボブ・ディランがいて、68、9年の学生運動の盛り上がりがあって、ヌーヴェルヴァーグだとかジョン・コルトレーンだとかサイケデリックだとか、カウンターカルチャーだとかで世界が揺さぶられていた。
 だいじなのは、そのころの二十代の青少年は基本的に未来を信じていたということです。いまの大人はばかで貪欲で、意識が低く、何も考えてないから、愚かしいことがいっぱい行なわれているけれど、われわれのような理想主義的で先進的な決意を持った世代が大人になったら、世の中がよくならないわけがないと考えていた。いまになってみればずいぶん浮世離れした話だけれど、当時の若い人はだいたいそう信じてたんです。」(村上春樹ロングインタビュー『季刊 考える人』2010年夏号p.58 新潮社)

 確かにぼくもそう信じてた。ところが、1970年代になってどうなったか?というと、ぼくらが単純に楽観的に考えていたのとは、「ちょっと違う」ことになったのだ。ぼくがまだ20歳前後の若者だった1973年ころ、アメリカの1ドルは固定相場360円から変動相場制に移行して277円になりました。前年に成立した田中角栄内閣は敵視していた毛沢東の人民中国と国交回復し、ヴェトナムで続いていた泥沼の戦争がパリで和平協定を調印して集結し、第4次中東戦争で原油価格が高騰。高度経済成長と呼ばれた好景気も、第1次石油危機で頓挫した。大学を1年遅れで卒業するはずのぼくには、大企業への就職のチャンスが消えてしまった。でも、今から考えるとあれは、日本という国が歴史上最も経済的に繁栄し、豊かさをエンジョイする時代に向っていたのだった。
  おそらくあの時生きていたほとんどの日本人は、自分がいる場所が人類の歴史上かつてない幸福で贅沢な社会に近づいているとは思っていなかった。同級生には中卒で就職した友人もいたし、街にはまだ戦後の安普請のまま傾いた木造家屋やぼろアパートが残っていたし、そこには貧しい労働者家族が暮らしていたのが見えていた。日本は経済成長して、働けばテレビも車も手に入る国になっていたが、でも、今振り返ってみると、あれは日本から「貧困」とか「戦争」とかという言葉がリアルな経験ではなく、ただの空虚な言葉になっていく時代だった。
 徳永英明のCDに入っている曲で、いちばん時間的に早い、というか古いのは、1973年の小坂明子の「あなた」である。彼女はピアノを弾きながらこう歌っていた。

あなた
   《作詞・作曲 小坂明子》1973
もしも私が家を建てたなら 小さな家を建てたでしょう
大きな窓と小さなドアーと 部屋には古い暖炉があるのよ
真赤なバラと白いパンジー 子犬の横には あなた
あなたがいてほしい  それが私の夢だったのよ
いとしいあなたは今どこに
ブルーのじゅうたん敷きつめて 楽しく笑って暮らすのよ
家の外では坊やが遊び 坊やの横にはあなた あなた
あなたがいてほしい  それが二人の望みだったのよ
いとしいあなたは今どこに
そして私はレースを編むのよ 私の横にはあなた あなた 
あなたがいてほしい  
そして私はレースを編むのよ 私の横にはあなた あなた 
あなたがいてほしい

 1973年という時点で、この歌が人々に与えた記憶は、10代の少女が未来に描いた幸福の具象的イメージ。しかしなぜかこの歌詞は、過去形になっている。もしこれを作って歌ったのが30歳の女性であったなら、この歌は「いとしいあなたは今どこに」と失われた彼を懐かしみ「あなたがいてほしい」けど、あなたによって実現しなかった夢を悔やみ怨む昔の演歌型の歌になっただろう。でも、これを平明なフォーク調で歌ったのはまだ若いやや幼い感じの女性だった。だからこの歌は、恋愛や結婚をまだ先の未来と考える少女の夢として受け取られ、いずれ出会うはずの幸福なマイホーム願望と合致したのだ。
 ぼくはその頃、ときどき詩を書いていた。でも、ぼくの書いていた詩は、前衛的な現代詩に影響された読みにくい詩で、こういうテレビで歌手が歌うような歌謡曲などまともな詩だとは思っていなかった。馬鹿にしていたのだ。でも、今こうして歌を聴いてみると、大ヒットした曲の詩は、前衛詩人の書いた難しい詩よりもはるかに、その時代を表現して圧倒的にたくさんの人々、詩など読む習慣のない人に感情の形を与え、忘れられない記憶を提供している。そこで、ぼくは徳永英明の歌手としての感性を信用して、彼が「Vocalist」シリーズでとりあげたいくつかの曲について、それが流行ったあの時代について考えてみたいと思った。あの時代というのは、日本が世界史の上でも奇跡的とも言えるほど、もっとも平和で安全で豊かだった1980年代とその前後のことだ。
 ぼくはその時代を自分の人生の30代から40代、最近の流行語で言えばアラフォー、忙しく時間に追われて仕事や子育てに費やす生活をしていたわけだ。その頃、テレビや街の中で、いつも流れていたその時々のヒット曲を、ぼくは確かに聴いていたはずだが、そこで歌われていた内容についてちゃんと考えたことはなかった。でもその曲を作って歌った女性たちは、彼女たちが感じた切実な何かを表現したかったし、それを巨大な産業と化した音楽メディアの中で、何百万人、何千万人に伝えることができた幸福な人たちだった。今、60歳を過ぎたぼくが、その時代の意味を、彼女たちの詩と音楽を通じて考えてみるのも、まんざら無駄で無意味なことでもないかな、と思って書いてみることにした。」

  とりあげたのは、徳永英明の「Vocalist」にある曲で、荒井由実、中島みゆき、尾崎亜美、久保田早紀、五輪真弓、岡村孝子などから、竹内まりやを経て宇多田ヒカル、一青窈まで。このブログに載せるのは楽譜もあるので、著作権法上の制約がありやめておく。

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