A.「いい人とだけ付き合っていたら、選挙に落ちる」
政治家が贈収賄じみた金銭疑惑で大臣辞職というのは、ときどきあるのでこっちも慣れてしまい、まあしょうがねえ奴だな、で終わる。経済再生担当大臣甘利明という人は、今は自民党の有力政治家だが、政界進出は1976年総選挙で新自由クラブから当選した甘利正という人の息子である。彼自身父の地盤を継いで神奈川から最初は新自由クラブで当選し、その後自民党に入党した。年齢はぼくと同じだと知ってなんだか、悲哀を感じた。新自由クラブができたときのメンバーは、河野洋平や山口敏夫など、若くて清新なイメージを感じたことは記憶にある。しかし、自民党を飛び出した新自由クラブは、小選挙区制になる前の派閥保守政治で冷や飯組の生き残り策、あるいはボス政治に逆らって落選していた保守政治家の逃げ道という面もあったと思う。
「甘利明経済再生担当相が金銭授受問題の責任を取って辞任した。甘利氏は建設会社向けの「口利き」は否定したが、大臣室での金銭受け取り、業者から秘書への資金提供や接待を認めた。浮かび上がったのは、前時代的とも思える古い自民党の体質そのものだ。
甘利氏は会見で、政治家に近づいてくる人物の見極めを問われ「政治家の事務所は、いい人とだけ付き合っていたら選挙に落ちる。来る者は拒まずでないと、残念ながら当選しない」と強調。「その中で、ぎりぎり、どう選別していくか」と指摘した。
だが、甘利氏の説明では、業者を見極めたとは思えない。
地元事務所の秘書は、業者側から提供された五百万円のうち、三百万円を政治資金として処理せず流用。複数の秘書は、業者から頻繁に飲食の接待を受けていた。甘利氏は、週刊文春の報道まで五百万円の提供や、秘書による都市再生機構(UR)への問い合わせを知らず「がくぜんとした」というが、秘書は警戒もせず業者を信用していった。
甘利氏自身は業者から、二回にわたって現金百万円を受け取った。うち一回は大臣室で、ようかんとのし袋が入った紙袋を手渡された。その場ではのし袋に現金五十万円が入っていたとは知らず、適正に処理したとしても、閣僚が公務を行う部屋に業者が出入りしていたのは事実だった。
自民党には昔から「政治と金」の問題が付きまとっていた。建設業者から献金を受け、工事受注などへの便宜を図る「口利き」は典型例とされる。政治不信の広がりから、政治の側もあっせん利得処罰法の成立(二〇〇〇年)や、段階的に政治資金の透明性を高める法改正などを手がけ、浄化に取り組む姿勢は示してきた。
だが、今回の金銭授受は、今なお「政治と金」の問題が根深いことを物語っている。(関口克己)」東京新聞二〇一六年1月29日朝刊1面。
ついでに「筆洗」も、甘利明氏のお粗末話題である。
「ふたをすると、ふたつ減るものは何?」。最近、同僚から出されたなぞなぞだ。頭をひねったが、さっぱり分からない。ただ、テレビを見ていて「ふたをすると、増えるもの」なら見つかった▼画面に映っていたのは、甘利明さん。週刊誌が報じた疑惑について記者会見をしている。曰く、大臣室などで業者側から現金を二度受け取ったが、秘書に適切に処理するよう指示した。曰く、業者側から提供された五百万円のうち三百万円を秘書が使ってしまった▼甘利さんは「秘書に責任転嫁することは、自分の美学に反する」と大臣を辞任したが、どんな業者かもしかと分からぬのに現金を受け取るというのは、その「美学」に反しなかったのだろうか▼気になったのは、甘利さんが「今の(小選挙区制では)いい人とだけつき合っていたら落ちてしまう。来る者拒まずでないと当選しない」とも語っていたことだ。もし「来るカネも拒まず」というのが実態ならば、制度に問題があるのではないか▼安倍政権でも何人もの大臣が政治とカネをめぐって批判にされされてきたのに、問題の源にふたをしたままでは、政治不信は増すばかりだ▼冒頭のなぞなぞの答えは「八」。ふたをすると「六」になる。なぞなぞは答えを聞けば「なーんだ」となるが、政治とカネをめぐる謎は、政治家の答えを聞くと、かえってもやもやが増える。」同日「東京新聞」朝刊「筆洗」
秘書のせいにしないのは「美学」以前の責任ある公人としての良識・常識である。それで本音が漏れて、「いい人とだけ付き合っていたら、選挙に落ちる」は含蓄のある名言、いや迷言だと思う。いかがわしい人や悪い人とも付き合って、なすべきこととなすべきでないことを説得するのが政治家の仕事だろう。それを、カネをもらって選挙に当選することで、権力をどう使うか、政治家なんてそういうもんさ、と思うべきでない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/ec/3ce8b9bcf8b403e4e22373d0ffa9514e.jpg)
B.生物の分類を考えた人
この世は、生命をもたないモノと、生きて死ぬ生物の2つに分かれている、と言われている。それは誰かが言ったので、言われているのだが、目にみえない微生物、いわゆるバイキンみたいなものも生物らしい。顕微鏡でよく見るとなにやら生き物として動いている。ウイルスとか、細菌とか、微小な生物にも怖いものがある。そして、よく考えると無生物の原子や分子も、実は運動したり変化しているのかもしれない。人間やサルや、もっと大きなゾウとかクジラとかも、日々細胞を生み出し消滅させ、入れ替えて生きている。
「同じ法則が生物界と無生物界の両方を支配しているという考えをもつ機械論者たちにとって、微生物は特に重要であった。それらは、生命のあるものとないものとの間のかけ橋のように思われた。もし、そのような微生物が、死んだ物質から実際に生じることを示すことができれば、その橋は完全なものとなり、そして容易に渡れるであろう。
同じことを言う場合、生気論者の見解では、もしそれが正しければ、生物はどんなに簡単であっても、それと無生物との間にはなお橋渡しのできない深淵がなければならぬことを要求するであろう。厳密な生気論者の見解によれば、自然発生は可能ではないであろう。
しかし一八世紀には、機械論者もそれぞれ自然発生に賛成も反対もしなかった。というのは、宗教的な考えも一役かっていたからである。聖書にはある個所に自然発生が記されているので、多くの生気論者(彼らは一般に宗教に関してより保守的であった)は、無生物から生命が生じてくるという信念にもどるべきであると感じていたらしい。
たとえば、一七四八年、カトリックの司祭であったイギリスの博物学者、ニーダム(John Turberville Needham)は、ヒツジの肉汁を煮て、それをコルク栓をした試験管に入れた。数日後肉汁は微生物で充満していた。ニーダムは初めに熱したことで肉汁は滅菌されたと仮定したので、彼は、微生物は死んだ物質から生じ、少なくとも微生物については、自然発生が証明されたと結論した。
この点について疑った一人は、イタリアの生物学者、スパランツァーニ(Lazzard Spallanzani一七二九~九九年)である。彼は、加熱の時間が不十分で、最初は肉汁は滅菌されなかったと考えた。それゆえ、一七六八年、栄養に富んだ液を用意し、煮沸し、次に再び三五分から四五分煮沸した。それをフラスコの中に密閉したときにのみ、微生物は生じなかった。
これは決定的に思われたが、自然発生の信者たちは別の解釈をした。彼らは、空気中に“生命のもと”、つまり知覚できず、知られてもいない何者かがあり、そのものが無生物に生きていく能力を与えることができるのだと主張した。彼らは、スパランツァーニが行った煮沸は、生命のもとを壊した、と主張した。ほとんど次の世紀まで、この論点は疑問のままで残された。
自然発生に関する論議は、ある意味で、生物の分類の問題に関する議論であった。つまり、生物をつねに無生物と離しておくか、段階的に続いたものとするかということである。また一七世紀と一八世紀には生物界に存在する様々な形のもとを分類しようとする試みが発達した。そしてこのことが、自然発生に関するよりもさらに深刻な論争の出発点となった。この論争は、19世紀に頂点に達した。
まず第一に、生物はそれぞれ別の種に分けることができる。種という語は、正確に定義するのは、実際非常に難しい。大まかにいえば、一つの種はそれらの間で自由に交配ができ、その結果それらに似た子供が生まれ、その子も自由に交配ができ、だんだんと次の世代をつくっていく生物のグループである。すべての人類は、外観上の違いはみられても、一つの種に属すると考えられる。なぜなら、知られている限り、外観上違いがある種族の間でも、男子と女子は自由に結婚し、子どもをつくることができるからである。これに対して、インドゾウとアフリカゾウはたいへんよく似ていて、一見同じ種類のようにみえるが、一方の雄と他方の雌とは交配できないし、子どもも作れないので、別の種である。
アリストテレスは動物の五〇〇種を、テオフラトスは多くの植物の種を記した。彼らの時代以後二〇〇〇年間続けられた観察は、さらに多くの種を明らかにしたし、また既知の世界が広がったことによって、古代の博物学者が見たことがない新しい種の植物と動物の報告が非常に多くあらわれた。一七〇〇年までに何万種の植物と動物が記載された。
ある限られた数の種の目録の中でも、類似した種をいっしょにまとめたくなるものである。たとえば、ほとんどの人が自然に二つのゾウの種をまとめるであろう。生物学者を満足させるやり方で、何万という種を系統的にまとめあげる方法を見出すのは容易ではない。この方向で初めてすぐれた試みをしたのは、イギリスの博物学者、レイ(John Ray 一六二八~一七〇五)である。
一六八六年から一七〇四年の間に、彼は植物の生活に関する三冠の百科事典を出し、その中で一万八六〇〇種を記載した。一六九三年、彼は植物のほど広くはないが、動物の生活についての本をつくった。その中で、彼は異なった種を論理的に分類しようと試みた。分類の基準は、おもに足の指と歯においた。
例えば、彼は哺乳類を足指をもつものと、ひづめをもつものとの二つの大きい群に分けた。さらに、ひづめをもつものを、一本のもの(ウマ)、二本のもの(ウシ)、三本のもの(サイ)に分けた。二本のひづめの哺乳類を彼はさらに次の三つの群に分けた。反芻し、永久のつのをもつもの(ヤギなど)、反芻し、毎年つのが落ちるもの(シカ)、および反芻しないもの(ブタ)。
レイの分類体系は支持されなかったが、分類し、さらに細分していく興味深いものであった。そして、このことは、スウェーデンの博物学者、リンネ(carl von Linne一七〇七~七八年)によってさらに発展させられた。彼はふつうラテン語風のリンナエウス(Carolus Linnaeus)という名で知られている。彼の時代までに、生物の既知の種の数は最少七万になっていた。一七三二年、リンネは北スカンジナビア(確かに生物があまり住みよい場所ではないが)のあちこちを七四〇〇キロメートル旅行し、短い時間に新しい一〇〇種の植物を発見した。
大学にいる間は、リンネは植物の生殖器官を研究し、それが種によって異なるようすを記し、これにもとづいて分類系をつくることを試みようと決心した。その計画はときとともに広がり、一七五三年、彼は『自然の体系』(System Naturae)という本を出版し、今日用いられている体系の直接の祖先ともいえる、種を分類する体系を確立した。それゆえ、リンネは分類学(生物の種を分類する学問)の創始者と考えられている。
リンネは類似した種を“属(genera)”(人種〔race〕の意味のギリシャ語に由来した語、単数は“genus”)にまとめた。類似した属は目に、類似した目は綱にまとめられた。すべての既知の動物種は六つの綱に分類された。すなわち、哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類、昆虫類および“蠕虫類(ぜんちゅうるい)”。これらのおもな分け方は、実際には二〇〇〇年前のアリストテレスの分け方ほどよくなかったが、体系的な分類や細分ができ上がった。その欠点は、後に十分に訂正された。
おのおのの種に対して、リンネはラテン語で二つの名を与えた。初めはそれが属する属の名で、次に種の名前をつけた。この“二名法”の形は現在まで続いている。そして、それは生物学者に生物に関する国際的に通用する言語を与え、数えきれないほど多くの混乱を取り除いた。リンネは人間にも一つの公式名をつけた。そのホモ・サピエンス(Homo sapiens)は現在まで続いている。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.60-66.
リンネの生物の分類は、人間の生物に関する知識の集大成で、分類という作業には、体系的思考を支える論理的な基準が必要だ。界、門、綱、目、科、属、種にすべての生物は分類される。最初に考えたものが勝ち、ということもあるが、情報は日々更新される。ぼくら素人は動物園で、プレートを見るしかない。
政治家が贈収賄じみた金銭疑惑で大臣辞職というのは、ときどきあるのでこっちも慣れてしまい、まあしょうがねえ奴だな、で終わる。経済再生担当大臣甘利明という人は、今は自民党の有力政治家だが、政界進出は1976年総選挙で新自由クラブから当選した甘利正という人の息子である。彼自身父の地盤を継いで神奈川から最初は新自由クラブで当選し、その後自民党に入党した。年齢はぼくと同じだと知ってなんだか、悲哀を感じた。新自由クラブができたときのメンバーは、河野洋平や山口敏夫など、若くて清新なイメージを感じたことは記憶にある。しかし、自民党を飛び出した新自由クラブは、小選挙区制になる前の派閥保守政治で冷や飯組の生き残り策、あるいはボス政治に逆らって落選していた保守政治家の逃げ道という面もあったと思う。
「甘利明経済再生担当相が金銭授受問題の責任を取って辞任した。甘利氏は建設会社向けの「口利き」は否定したが、大臣室での金銭受け取り、業者から秘書への資金提供や接待を認めた。浮かび上がったのは、前時代的とも思える古い自民党の体質そのものだ。
甘利氏は会見で、政治家に近づいてくる人物の見極めを問われ「政治家の事務所は、いい人とだけ付き合っていたら選挙に落ちる。来る者は拒まずでないと、残念ながら当選しない」と強調。「その中で、ぎりぎり、どう選別していくか」と指摘した。
だが、甘利氏の説明では、業者を見極めたとは思えない。
地元事務所の秘書は、業者側から提供された五百万円のうち、三百万円を政治資金として処理せず流用。複数の秘書は、業者から頻繁に飲食の接待を受けていた。甘利氏は、週刊文春の報道まで五百万円の提供や、秘書による都市再生機構(UR)への問い合わせを知らず「がくぜんとした」というが、秘書は警戒もせず業者を信用していった。
甘利氏自身は業者から、二回にわたって現金百万円を受け取った。うち一回は大臣室で、ようかんとのし袋が入った紙袋を手渡された。その場ではのし袋に現金五十万円が入っていたとは知らず、適正に処理したとしても、閣僚が公務を行う部屋に業者が出入りしていたのは事実だった。
自民党には昔から「政治と金」の問題が付きまとっていた。建設業者から献金を受け、工事受注などへの便宜を図る「口利き」は典型例とされる。政治不信の広がりから、政治の側もあっせん利得処罰法の成立(二〇〇〇年)や、段階的に政治資金の透明性を高める法改正などを手がけ、浄化に取り組む姿勢は示してきた。
だが、今回の金銭授受は、今なお「政治と金」の問題が根深いことを物語っている。(関口克己)」東京新聞二〇一六年1月29日朝刊1面。
ついでに「筆洗」も、甘利明氏のお粗末話題である。
「ふたをすると、ふたつ減るものは何?」。最近、同僚から出されたなぞなぞだ。頭をひねったが、さっぱり分からない。ただ、テレビを見ていて「ふたをすると、増えるもの」なら見つかった▼画面に映っていたのは、甘利明さん。週刊誌が報じた疑惑について記者会見をしている。曰く、大臣室などで業者側から現金を二度受け取ったが、秘書に適切に処理するよう指示した。曰く、業者側から提供された五百万円のうち三百万円を秘書が使ってしまった▼甘利さんは「秘書に責任転嫁することは、自分の美学に反する」と大臣を辞任したが、どんな業者かもしかと分からぬのに現金を受け取るというのは、その「美学」に反しなかったのだろうか▼気になったのは、甘利さんが「今の(小選挙区制では)いい人とだけつき合っていたら落ちてしまう。来る者拒まずでないと当選しない」とも語っていたことだ。もし「来るカネも拒まず」というのが実態ならば、制度に問題があるのではないか▼安倍政権でも何人もの大臣が政治とカネをめぐって批判にされされてきたのに、問題の源にふたをしたままでは、政治不信は増すばかりだ▼冒頭のなぞなぞの答えは「八」。ふたをすると「六」になる。なぞなぞは答えを聞けば「なーんだ」となるが、政治とカネをめぐる謎は、政治家の答えを聞くと、かえってもやもやが増える。」同日「東京新聞」朝刊「筆洗」
秘書のせいにしないのは「美学」以前の責任ある公人としての良識・常識である。それで本音が漏れて、「いい人とだけ付き合っていたら、選挙に落ちる」は含蓄のある名言、いや迷言だと思う。いかがわしい人や悪い人とも付き合って、なすべきこととなすべきでないことを説得するのが政治家の仕事だろう。それを、カネをもらって選挙に当選することで、権力をどう使うか、政治家なんてそういうもんさ、と思うべきでない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/ec/3ce8b9bcf8b403e4e22373d0ffa9514e.jpg)
B.生物の分類を考えた人
この世は、生命をもたないモノと、生きて死ぬ生物の2つに分かれている、と言われている。それは誰かが言ったので、言われているのだが、目にみえない微生物、いわゆるバイキンみたいなものも生物らしい。顕微鏡でよく見るとなにやら生き物として動いている。ウイルスとか、細菌とか、微小な生物にも怖いものがある。そして、よく考えると無生物の原子や分子も、実は運動したり変化しているのかもしれない。人間やサルや、もっと大きなゾウとかクジラとかも、日々細胞を生み出し消滅させ、入れ替えて生きている。
「同じ法則が生物界と無生物界の両方を支配しているという考えをもつ機械論者たちにとって、微生物は特に重要であった。それらは、生命のあるものとないものとの間のかけ橋のように思われた。もし、そのような微生物が、死んだ物質から実際に生じることを示すことができれば、その橋は完全なものとなり、そして容易に渡れるであろう。
同じことを言う場合、生気論者の見解では、もしそれが正しければ、生物はどんなに簡単であっても、それと無生物との間にはなお橋渡しのできない深淵がなければならぬことを要求するであろう。厳密な生気論者の見解によれば、自然発生は可能ではないであろう。
しかし一八世紀には、機械論者もそれぞれ自然発生に賛成も反対もしなかった。というのは、宗教的な考えも一役かっていたからである。聖書にはある個所に自然発生が記されているので、多くの生気論者(彼らは一般に宗教に関してより保守的であった)は、無生物から生命が生じてくるという信念にもどるべきであると感じていたらしい。
たとえば、一七四八年、カトリックの司祭であったイギリスの博物学者、ニーダム(John Turberville Needham)は、ヒツジの肉汁を煮て、それをコルク栓をした試験管に入れた。数日後肉汁は微生物で充満していた。ニーダムは初めに熱したことで肉汁は滅菌されたと仮定したので、彼は、微生物は死んだ物質から生じ、少なくとも微生物については、自然発生が証明されたと結論した。
この点について疑った一人は、イタリアの生物学者、スパランツァーニ(Lazzard Spallanzani一七二九~九九年)である。彼は、加熱の時間が不十分で、最初は肉汁は滅菌されなかったと考えた。それゆえ、一七六八年、栄養に富んだ液を用意し、煮沸し、次に再び三五分から四五分煮沸した。それをフラスコの中に密閉したときにのみ、微生物は生じなかった。
これは決定的に思われたが、自然発生の信者たちは別の解釈をした。彼らは、空気中に“生命のもと”、つまり知覚できず、知られてもいない何者かがあり、そのものが無生物に生きていく能力を与えることができるのだと主張した。彼らは、スパランツァーニが行った煮沸は、生命のもとを壊した、と主張した。ほとんど次の世紀まで、この論点は疑問のままで残された。
自然発生に関する論議は、ある意味で、生物の分類の問題に関する議論であった。つまり、生物をつねに無生物と離しておくか、段階的に続いたものとするかということである。また一七世紀と一八世紀には生物界に存在する様々な形のもとを分類しようとする試みが発達した。そしてこのことが、自然発生に関するよりもさらに深刻な論争の出発点となった。この論争は、19世紀に頂点に達した。
まず第一に、生物はそれぞれ別の種に分けることができる。種という語は、正確に定義するのは、実際非常に難しい。大まかにいえば、一つの種はそれらの間で自由に交配ができ、その結果それらに似た子供が生まれ、その子も自由に交配ができ、だんだんと次の世代をつくっていく生物のグループである。すべての人類は、外観上の違いはみられても、一つの種に属すると考えられる。なぜなら、知られている限り、外観上違いがある種族の間でも、男子と女子は自由に結婚し、子どもをつくることができるからである。これに対して、インドゾウとアフリカゾウはたいへんよく似ていて、一見同じ種類のようにみえるが、一方の雄と他方の雌とは交配できないし、子どもも作れないので、別の種である。
アリストテレスは動物の五〇〇種を、テオフラトスは多くの植物の種を記した。彼らの時代以後二〇〇〇年間続けられた観察は、さらに多くの種を明らかにしたし、また既知の世界が広がったことによって、古代の博物学者が見たことがない新しい種の植物と動物の報告が非常に多くあらわれた。一七〇〇年までに何万種の植物と動物が記載された。
ある限られた数の種の目録の中でも、類似した種をいっしょにまとめたくなるものである。たとえば、ほとんどの人が自然に二つのゾウの種をまとめるであろう。生物学者を満足させるやり方で、何万という種を系統的にまとめあげる方法を見出すのは容易ではない。この方向で初めてすぐれた試みをしたのは、イギリスの博物学者、レイ(John Ray 一六二八~一七〇五)である。
一六八六年から一七〇四年の間に、彼は植物の生活に関する三冠の百科事典を出し、その中で一万八六〇〇種を記載した。一六九三年、彼は植物のほど広くはないが、動物の生活についての本をつくった。その中で、彼は異なった種を論理的に分類しようと試みた。分類の基準は、おもに足の指と歯においた。
例えば、彼は哺乳類を足指をもつものと、ひづめをもつものとの二つの大きい群に分けた。さらに、ひづめをもつものを、一本のもの(ウマ)、二本のもの(ウシ)、三本のもの(サイ)に分けた。二本のひづめの哺乳類を彼はさらに次の三つの群に分けた。反芻し、永久のつのをもつもの(ヤギなど)、反芻し、毎年つのが落ちるもの(シカ)、および反芻しないもの(ブタ)。
レイの分類体系は支持されなかったが、分類し、さらに細分していく興味深いものであった。そして、このことは、スウェーデンの博物学者、リンネ(carl von Linne一七〇七~七八年)によってさらに発展させられた。彼はふつうラテン語風のリンナエウス(Carolus Linnaeus)という名で知られている。彼の時代までに、生物の既知の種の数は最少七万になっていた。一七三二年、リンネは北スカンジナビア(確かに生物があまり住みよい場所ではないが)のあちこちを七四〇〇キロメートル旅行し、短い時間に新しい一〇〇種の植物を発見した。
大学にいる間は、リンネは植物の生殖器官を研究し、それが種によって異なるようすを記し、これにもとづいて分類系をつくることを試みようと決心した。その計画はときとともに広がり、一七五三年、彼は『自然の体系』(System Naturae)という本を出版し、今日用いられている体系の直接の祖先ともいえる、種を分類する体系を確立した。それゆえ、リンネは分類学(生物の種を分類する学問)の創始者と考えられている。
リンネは類似した種を“属(genera)”(人種〔race〕の意味のギリシャ語に由来した語、単数は“genus”)にまとめた。類似した属は目に、類似した目は綱にまとめられた。すべての既知の動物種は六つの綱に分類された。すなわち、哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類、昆虫類および“蠕虫類(ぜんちゅうるい)”。これらのおもな分け方は、実際には二〇〇〇年前のアリストテレスの分け方ほどよくなかったが、体系的な分類や細分ができ上がった。その欠点は、後に十分に訂正された。
おのおのの種に対して、リンネはラテン語で二つの名を与えた。初めはそれが属する属の名で、次に種の名前をつけた。この“二名法”の形は現在まで続いている。そして、それは生物学者に生物に関する国際的に通用する言語を与え、数えきれないほど多くの混乱を取り除いた。リンネは人間にも一つの公式名をつけた。そのホモ・サピエンス(Homo sapiens)は現在まで続いている。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.60-66.
リンネの生物の分類は、人間の生物に関する知識の集大成で、分類という作業には、体系的思考を支える論理的な基準が必要だ。界、門、綱、目、科、属、種にすべての生物は分類される。最初に考えたものが勝ち、ということもあるが、情報は日々更新される。ぼくら素人は動物園で、プレートを見るしかない。