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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ランボーが仏詩人じゃなくて、米兵で暴力の権化であったこと。

2016-02-29 02:53:18 | 日記
A.「アメリカ的な」もの
 イタリア在住の作家、塩野七生とその息子である映画人アントニオ・シモーネの対談集『ローマで語る』(集英社文庫.2015)からまたちょっと引用。この対談集は、おもに映画について気楽に母子がおしゃべりする、という本だが、母がいろんなテーマを質問してそれに息子が答えるという形をとっている。そのなかの「Bムービー賛歌」というお話。塩野さんが、フェリーニとか、ヴィスコンティとかヨーロッパの芸術映画のことしか関心がないかのようなので、アントニオはここで、アメリカのB級映画(B級とはつまり、映画祭の賞をとるような映画ではない大衆娯楽映画ということだが)のことをあえて語る。

「塩野:それでテーマを、Bクラスの映画にしたというわけね。
アントニオ:そう。そこでボクの考えるB級映画の定義ですが、まず第一に、芸術作品を狙って作られていないということ。だから、ハリウッドやカンヌやヴェネツィアという有名な映画祭では絶対に受賞できない。唯一の例外は『ロッキー』(一九七六年)で、あれだけはなぜかオスカーを受賞したけれど。
 第二は、批評家には無視されても観客動員数では成功していること。これから挙げる映画は一九八〇年代から九〇年代に作られているのです。今からならば三十年も昔の作品。それでいて今でもDVDで売れつづけ、レンタルする人も後を絶たない。誰が観ているかって?作られた当時には生まれてもいなかった、今の若者たちですよ。
 それでまず挙げたいのが『ランボー』(一九八二年)です。芸術映画派の塩野さんは観なかったと思うけど。
塩野:いえ、観てますよ。悪くなかった。
アントニオ:ボクの考えでは、戦争とはどういうものかをわからせてくれた、アメリカ映画の傑作のひとつです。 ベトナムから帰還した主人公が田舎の小さな町に立ち寄ったことで警官たちから冷遇され、それに怒って起こす騒動のアクションぶりで話題になった映画ですが、あの映画の良さは別のところにある。シルベスター・スタローン扮する帰還兵の暴力を止めるために呼び出された、ベトナムでの上官に、主人公が言うシーン。お前が起こす騒ぎで被害を受けて困っているのは罪もない人々だから、暴力での復讐はやめろと上官に言われて、彼は泣きながら言うんです。
「じゃあ、オレは何だって言うんです。彼らが望んで始めた戦争を戦って帰国したオレはやっかい者あつかいされ、追い出されたんだ。オレはただ、何か口に入れようと立ち寄っただけなのに。彼らには、家族も友人もいる。それなのにオレには誰もいない。みんな、死んでしまったんだ」
 はじめは望んだ戦争でも敗北に終わった戦争となると、家族に戦死者が出たとか直接の関係者でもないかぎりは、忘れてしまいたいと思うのが、一般の人々の正直な気持ちなんです。ベトナムでは、アメリカは敗れた。そして、今ではイラクでも。二十六年前に作られたこの映画をイラクからの帰還兵が観たら、泣き出すんではないかと思う。
 海兵隊員もグリーン・ベレーもレンジャースも、どんなに絶望的な状態になっても生き延びる技能ならば訓練されているので、誰にも負けなかったにちがいな。い『ランボー』でのアクション部分がそれを示しています。しかし戦争は、始めたからには勝たなければ意味がない。そして、始めてしまった戦争を勝利にもっていくのは、政治家たちの仕事です。それがうまくいかないと、実際に戦った兵士たちがまず先に犠牲になる。
塩野:あの映画は、私は続編は観ていませんがPart2も3も作られたのだから、興業的には大成功したんでしょう。ベトナム帰還兵氏が観たくらいでは大成功にはならない。
アントニオ:もちろん、ベトナム戦争には直接関係しなかったアメリカ人までが観たから、興業的にも大成功したんです。なぜかと言えば、彼らも、敗戦から十年が経った後にしろわかったんですよ。戦場に送り出す兵士に教えることは、いかに危機的な状態でも生き延びる技能ではなくて、勝つことだというのが。生きのびるだけならば、外国にまで戦争に行かず、国内でおとなしくしていればよいのだから。
 それにしてもアメリカ人とは、不思議な人たちですよね。ベトナムで懲りたくせに、またイラクで繰り返しているのだから。無事に帰国しても社会に溶け込めない帰還兵を多く出していることも変わっていない。
塩野:まったく同感です。それで次は何でしょう。
アントニオ:『ブルーサンダー』(一九八三年)。これは『ランボー』の一年後に作られた映画で、主人公は、人間ではなくてヘリコプターです。それも普通のヘリではなくて、軍事用に実際に使われているという、万能ロボットみたいなヘリコプター。
 まず静か。静かに接近して来ては撃つ。数キロ離れたところで話される会話も、機上のコンピューターでフォローするのも可能。つまり、市民一人一人のプライバシーの尊重なんて、知ったことではないという機械です。
 これがB級映画である所以は、人間的とか心理的とかを考慮した理由づけをいっさいしていないこと。しかし、クールに展開するこの万能ヘリの活動を観ていくにつれて、何人かの人は考えますよ。第一に、アメリカ人とはなんと武器が好きな人びとなんだろう。それも、より大きくてより機能が進んだ武器でないと、安心できない人びとなのだ、ということを。
 そして第二は、ボクがアメリカ人でなくてヨーロッパ人だからかもしれませんが、これほど完璧な武器を数多く持っていながら、なぜ戦争をすると負けるのか、ということです。歴史にはこれまでに多くの強国が登場したけれど、戦争の下手な超大国は、アメリカ合衆国が初めてではないかと思う。
 もしかしたらアメリカ人自身も、それを感じているのかもしれない。なぜならアメリカ人は、間のヒーローが好きだから。
 というわけで、次は、『ターミネーター』(一九八四年)と『プレデター』(一九八七年)の二作。
塩野:いずれもシュワちゃんが主役でしょう。だからというわけではないけれど観ていません。
アントニオ:ロボットというと日本ではドラえもんとかになるけれど、アメリカでは反対に非人間的になるんです。だが、アクション・ムービーとしても良くできている。とくにカメラの視点がオリジナルです。カメラが超人ロボットの側に立っているから、観客もやむをえず、ロボットに追われる人びとの側に立つしかない。アドレナリン満点の原因もここにあるんです。それを見透かした監督のジェームズ・キャメロンもジョン・マクティアナンも、職人としては一級です。つまり、客を呼べる映画をつくる達人ということですね。
「エンターテインメント」と聞くと、単なる娯楽作品だと思う人が多い。しかしこの言葉の真の意味は、楽しませることだけでなくて、「引きずりこむ」ことにあるんです。B級映画も良くできた作品には、必ずこの要素がある。メッセージを、わざわざ伝える必要はない。アクションであろうと何であろうと、観る人を引きずりこんで離さない、という要素が充分にあれば、興業的には間違いなく成功するんです。ボクは絶対に、これらBムービーを軽蔑できない。」塩野七生&アントニオ・シモーネ『ローマで語る』集英社文庫、2015. pp.201-207.

 これで思い出したが、クリント・イーストウッドが監督した「アメリカン・スナイパー」(2014)という比較的最近の映画がある。これは イラク戦争の米海軍特殊部隊の狙撃手が主人公である。これは実在の兵士の自伝が元のようだが、娯楽アクション・エンタメ映画ではない。しかし、戦場の場面と帰還して平和な日常を家族と生きる時間の落差が次第に耐えい難いものになる。シリアスだが、「アメリカの戦争」自体はやはり正義の戦いとしながら、第2次世界大戦のような輝かしい勝利などではない。イラク戦争からの帰還米兵を描いたPTSD映画はいくつかあったが、「ランボー」はそれをハリウッド・アクション映画の中に埋め込んで大ヒット作にしたという意味で、記憶される。戦争は人を殺すからいけない、とは単純すぎるが、実際に銃で人を殺した人間はやはりふつうの市民生活を送れなくなる。武器の延長としての殺人ロボットにやらせれば罪の意識は薄らぐだろうか?ただの腕力も高度な兵器も、道具であるかぎり正義とも道徳とも無関係だ。なのにアメリカ人は、武器でことを解決できると思っている。アメリカの戦争に手を貸す道義的理由も政治的理由もないと思う。



B.生物学における創世記
 アイザック・アシモフ『生物学の歴史』を読んできたが、これで読了。この本が書かれたのは1964年、昭和でいえば39年である。ぼくの歳でいえば15歳。中学生のぼくは学校で理科の先生に、生物の遺伝と進化の授業を聞いた数日後、こんな疑問をもって質問したことを覚えている。もし人間が生まれる前から両親の遺伝子で、能力も性格も決まっているのなら、勉強したり努力したりしても結果は決まっているんじゃないですか。天才からは天才が生まれ、凡才からは凡才しか生まれない、だとしたら社会も歴史もある予定された筋書きにしたがってすすむだけじゃないですか?ぼくは「運命」という決定論を否定したかったんだろうと思う。その時はまだ、優生学とか唯物論とかいう言葉を知らなかったが、生物学という学問が人間にとってある重要な問題を研究しているのだと思った。
 そして、小柄でいかにも真面目そうなメガネの理科の先生は、そのときぼくに遺伝というのは親の形質のすべてを子に伝えるのではなく、一部しか伝えない。しかも、突然変異というものがあって、ソ連の遺伝学者ルイセンコとミチューリンの説では、環境によって獲得形質に変化が起こり、それが新しく遺伝するということが証明されたという。つまり、人間は決められた運命の中で生きるのではなく、社会や環境の変化が新しい人間の誕生を生み出す、こともあるんだという。よくはわからなかったが、中学3年生のぼくには、ルイセンコ=ミチューリン学説という名前と、遺伝子からの自由という希望があるような気がした。

「20世紀中ごろにおける分子生物学の進歩は、機械論者の地位を今までにないほど強いところへもたらした。遺伝学のすべては、生物にも無生物にも同様に適用される法則にしたがって、化学的に説明することができる。精神の世界でさえも、その本流の前に屈するきざしを示している。学習と記憶の過程は、神経の経路の確立や保存(一八九~一九〇頁参照)ではなくて、特別なRNAの合成と維持であるらしい(実際、非常に単純な生物である扁形動物は、すでにその作業を学習した他のなかまを食べることによって、その作業を学習することができることが示された。おそらく、食べたほうは、食べられたほうの完全なRNA分子を自分のからだにとりこんだのであろう)。
 一九世紀の生気論者の立場に明らかな勝利をもたらしていた生物学の一面が残されていた。——自然発生の反証の問題である(一四四頁参照)。二〇世紀では、その反証は完全な意味では、それほど人を引きつけなくなっていた。実際、もし生物が無生物から決して発生することができないならば、生命はどのようにして始まったのであろうか。最も自然の仮説は、生命が何か超自然的なはたらきでつくられたと考えることである。しかし、その考えを受け入れることをこばめば、どうなるだろう?
 一九〇八年スウェーデンの化学者、アレニウス(Svante August Arrhenius一八五九~一九二七年)は超自然に求めないで、生命の起源を考えた。彼は、萌芽が他の宇宙からわれわれの惑星に到着して、地球上での生命が始まったと考えた。この空想は、広大な何もない空間を横切ってただよい、星からの弱い力に引かれながら、そこここに着陸し、そこかしこの惑星を肥沃にする生命の粒子を引き出した。しかしながら、アレニウスの考えは問題を単に後退させたにすぎない。それは問題を解決しなかった。もし生命がわれわれ自身の惑星の上で生じたのでないならば、どこで発生したにしてもどのように発生したのであろうか。
 もう一度、生命は無生物から発生することができないかどうか考え直す必要があった。パスツールは彼のフラスコを一定時間無菌状態に保ったが、10億年間もそのままにしておいたらどうなるであろうか。あるいは、フラスコの溶液を10億年間そのままにしておくのではなくて、海洋全体の溶液をそうしておいたらどうであろうか。そして、海洋が今日おかれているのとははるかに異なった条件のもとでそうしておかれたらどうであろうか。
 生命をつくっている根本になる物質が、永劫の間、本質的に変化したと考えるべき理由はない。実際、それらは変化しなかったらしい。1000万年も前の化石に少量のアミノ酸が存在し、分離されたものは今日生きている生物組織にあるアミノ酸と同じである。それにもかかわらず、地球の化学は一般に変化したのかもしれない。
 宇宙の化学についての知識がふえ、アメリカの化学者、ユーリー(Harold Clayton Urey一八九三~一九八一年)のような人たちは、原始地球を仮定するようになった。そこでは大気は“還元的”なものであり、水素や、メタン、アンモニアのように水素を含む気体に富んでいて、遊離の酸素はなかった。
 そのような条件下では、大気の上層にオゾンの層はないであろう(オゾンは酸素の一つの形である)。そのようなオゾンの層は現在存在し、太陽の紫外線の大部分を吸収する。還元性の大気中では、このエネルギーに富む放射線は海にまで透過し、海洋中で現在はおこらない反応を引きおこすであろう。複雑な化合物がゆっくりと形成され、海洋中にすでに存在している生命をもたないこれらの分子は消費されるのではなく、蓄積されるであろう。ついに、複製する分子として役立つのに十分なほど複雑な核酸の分子が形成され、そしてこれが生命の本質的な要素となるのであろう。
 突然変異と自然選択によって、はるかに有効な形の核酸がつくられるであろう。それらはついに細胞に発達し、またそれらのあるものはクロロフィルをつくり始めるであろう。光合成は(たぶん、生命のない他の過程の助けを得て)原始的な大気を、われわれにおなじみの遊離の酸素に富む大気へ変えるであろう。酸素のある大気中で、すでに生命に富んだ世界では、今のべたような型の自然発生はもはやありえないであろう。
 これは大部分推測である(注意深く論じた推論であるが)。しかし一九五三年に、ユーリーの弟子の一人であるミラー(Stanley Lloyd Miller一九三〇~二〇〇七年)は、有名になった実験を行った。彼はまず水を注意深く浄化し、滅菌した。そして、水素・アンモニア・メタンよりなる“大気”を加えた。これを、密閉した装置の中で、放電を通して、循環させた。この放電は、太陽の紫外線のはたらきをまねるように設計されたエネルギーの投入に相当する。彼は一週間これを続け、次にその水溶液をペーパークロマトグラフィーで分離した。彼はそれらの成分の中に簡単な有機化合物と二、三の小さなアミノ酸を発見した。
 一九六二年、カリフォルニア大学で同様な実験が繰り返された。そこでは、エタン(炭素一個のメタンと非常によく似た炭素二個の化合物)が大気に加えられた。より多くの種類の有機化合物が得られた。そして、一九六三年、重要な高エネルギーリン酸化合物の一つである、アデノシン三リン酸(二二七頁参照)が同様な方法で得られた。
 これが小さな装置の中でおよそ一週間でなされるのであれば、10億年間に全海洋と大気をもって何ものもつくられないことがあるであろうか。
 われわれはこれからも発見するであろう。地球の歴史をその曙までさかのぼる進化の経過を明らかにするのは困難なように思われるかもしれないが、もしわれわれが月に到着すれば生命の出現に先立つ化学変化の過程をもっとはっきり解明できるかもしれない。もしわれわれが火星に到着すれば、地球のとはまったく異なる条件下で発達した簡単な生物を研究できるかもしれない(きっとできるであろう)。そして、それもまたいくつかのわれわれの地球の問題に適用できるかもしれない。
 われわれ自身の惑星の上ですら、大洋の深海溝というまったく違った条件下の生物について年ごとに学びつつある。というのは、一九六〇年、人間はもっとも深い海の底に到達できた。海の中で、われわれはイルカという人間以外の知能との通信を確立することさえも可能である。
 人間の精神自体も、分子生物学者の探求に対してその神秘性を放棄するかもしれない。サイバネティックスとエレクトロニクスの知識が増すことによって、われわれは生命のない知能をつくり出すことができるかもしれない。
 しかし、待つことのみが必要であるとき、なぜ推測をするのであろうか。いかに大きく前進し、未知のことについての知識がいかに驚くほどさかんに得られようと、未来に残されているものはつねにさらに大きく、さらに興味深く、さらにすばらしいものであるということは、たぶん科学的研究の最も満足すべき点であろう。
 今生きている人々の存命中にも、なお何もあきらかにされないことがあるであろうか。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014. pp. 268-273.

*訳注:サイバネティックスは、通信工学、操縦工学から、統計力学、統計学、生物体におけり協調、特に神経系や脳の生理学から心理学までを含む広い領域の間に、共通な統一理論を研究しようとする学問で、アメリカの数学者で電気工学者であるウィーナーが第二次大戦後提唱した。

 レーニンが実現したマルクス主義による初めての国家、ソヴィエト連邦で、唯物論による自然科学の進歩を社会主義の正しさを実証するものとして称揚されたひとつが、遺伝学におけるルイセンコ=ミチューリン学説であり、ボストークの宇宙開発であった。『生物学の歴史』巻末にある訳者、太田次郎氏の「訳者あとがき」にはこうある。

「本書は「古代の生物学」から始まって、「分子生物学」で終わっている。分子生物学は本書の刊行以後、飛躍的に発展した。DNAの塩基配列とアミノ酸との対応が明らかになり、「遺伝子の暗号」が解読された。特にヒトの全遺伝子(ゲノム)の解読は、人間生活に大きな影響を与え、個人識別をもとにして犯罪捜査等で広く応用されるようになった。今やDNAは日常語となっている。また、遺伝子を操作する技術として「バイオテクノロジー」が進展し、医学、化学、農学、薬学への応用が進んだ。動物、植物、微生物の品種改良などでバイオテクノロジーという新分野が開発された。
 このようなことを反映して、各大学に生命科学関係の学部・学科が次々に新設され、今や生命科学に関与する人は急速に増えている。このような人々にとって、生物学の歴史を振り返ることは決して無駄にはならないと思われる。またアシモフの語る生物学の歩みは、一般の方々にとっても格好のガイドブックとして興味深く有意義な読み物になってくれるのではないか。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』 pp. 276-277.

  アシモフの本に書かれている知識は、今日では高校の生物学で教えられる基礎知識に類するものなのかもしれない。1960年代後半に高校で生物を教わったぼくには、進化論もDNAもなんだかつまらない運命論を追認する知識に思えていた。でもその後、バイオテクノロジーは飛躍的に進歩し、いまやバイオエシックスの問題提起にまで至って、文系哲学にまで影響を与える段階になった。小保方事件に見られるように、細胞の分子構造の研究は、人間の生命の神秘を操作可能なレベルにまで引き下ろす(引き上げる?)、科学上のホットな問題にしているのだろうが、「じゃあ、それで、なにが、ど~したの?」という感覚は、あるな。
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人口の減少・・・DNAはすべてを運ぶわけではない

2016-02-27 03:31:30 | 日記
A.人口が減っていくということ
 先日もぼくは岩手県の久慈市を、駅前から中心商店街に歩いてひしひしと感じたことだが、いまたぶん日本のほとんどの地方都市が、その都市を成り立たせていた周辺の農業や漁業林業のような第1次産業の衰弱だけでなく、その中心が空洞化している。それぞれの地域で交通・商業・中等教育などの中心となっていた人口5万から10万人くらいの地方都市が、急速に人口減少と産業の衰弱に見舞われていることは、ちょっと歩いて見れば誰にもわかるくらいだと思う。東日本大震災の被災地は、それが一気に加速されてしまったわけだが、瓦礫の廃墟で消滅した悲劇的な風景に惑わされなければ、災害がなくてもいずれにせよ地方都市は人口が減っていき、地元の人びとの涙ぐましい活性化の努力にもかかわらず、高校を出た若者は有能な人ほど生まれ故郷を出て戻ってこない。少子高齢化の厳しさは、東京にいてはわからない。これでいいとは誰も思っていないが、「地方創生」だとか「地域活性化」だとかいうスローガンは、もはや冗談でしかない。
 今日のニュースで、昨年10月に実施された国勢調査の速報値で、大正九年の国勢調査開始以来はじめて人口が減少したという。大正九年はぼくの父が生まれた年なのだが、それから95年間、日本の人口(国勢調査は10月1日に日本の国土に居住するすべての人を対象とするので、もちろんここでの人口は「日本人」以外も含む)が増え続けていた、ということにむしろ驚く。出生率の低下と高齢者の増加はかなり前から顕著だったから、それでも人口が減っていなかったということは、外国人居住者の流入がさほど大きくないとすれば、人口総数は維持されつつその中身がじわじわと老いてきた、ということを意味する。だとすればその“老い”が顕著に現われるのはごみごみと人に溢れた東京首都圏ではなく、「美しい日本の自然」だけはあふれるほどあり、そこに暮らす人は先祖代々の家屋敷と墓を守ることを大事だと考える年老いた人びとと、昔よりはぐっと少ないがここで生まれて落ち着いた生活を過ごしたかわいい孫たちだけだろう。その孫も、高校を出たら都会に行ってしまうのはほとんど運命である。

「国勢調査人口 初の減 1億2711万人、東京集中進む 15年速報:
 総務省は二十六日、二〇一五年国勢調査の速報値を発表した。外国人を含む人口は、一五年十月一日時点で一億二千七百十一万四十七人。一〇年の前回調査から九十四万七千三百五人(0.7%)減り、一九二〇(大正九)年の調査開始以来、初めてマイナスに転じた。内訳は、男性が六千八十二万九千二百三十七人、女性が六千五百二十八万八百十人。
 都道府県別に見ると、三十九道府県で人口規模が縮小しており、東京圏などを除き全国的な傾向となっている。同省は「別の統計でも、出生数から死亡数を差し引いた『自然減』が大きいことが分っており、はっきりと人口減少に入ってきた」(統計局)と分析した。
 都道府県で増えたのは八都県。沖縄の3.0%増が最も高く、東京、愛知、埼玉、神奈川、福岡、滋賀、千葉と続く。大阪は戦後初めて減少に転じた。神奈川、埼玉、千葉を含む一都三県の東京圏だけで五十万人増の三千六百十二万人と、人口全体の四分の一以上を占め、東京一極集中がさらに進んだ。」東京新聞2016年2月26日夕刊、1面。
 
この東京新聞1面トップは、「東電元会長ら強制起訴へ」だが、「高浜4号機 午後再稼働」という記事がその横の片隅にあるのも気になる。この国の権力を握る与党政治家たちは、詰まるところ何が何でも原発は使い切る、経済成長に貢献しない地方は衰弱してもしかたがない、自衛隊には有効な武力として働いてもらう、憲法は何としても変えてやる、という野望を安倍政権のうちに実現しようと駆け足である。
  とりあえず、この国勢調査結果は目下国会でも議論になる衆議院の選挙制度改革に直結するわけだ。最近、衆議院選挙制度改革の有識者調査会が答申したのは、議員定数475から10減らして(小選挙区6、比例代表4)、新たな議席配分方法「アダムズ式」を導入する案である。これで試算すると、小選挙区は20道都県で「九増十五減」となり、自民党の出した「ゼロ増六減」案では奈良など六県で各一減になる。現行制度で「一票の格差」が二倍以上となったのは12都道府県で37選挙区。最大格差は2.334倍だという。
 国民の総意が選挙によって示される、というのは一種のフィクションであると思う。しかし、フィクションだとしてもそれで権力のありようが正当化されてしまう以上、選挙制度の公平性と合理性は確保されるべきなのはいうまでもない。しかし、そう考えると、これまで日本の保守政権を支えてきたといわれる農村・漁村・地方の有権者の票が、人口減少によって国政への影響力、つまりは地方議員の影響力が低下することは避けられない。安倍自民党はもうそれが怖くないと思っているみたいだ。衰退する田舎の票なんかに頼らなくても、都会のネトウヨ思考の若者と中年層は強いニッポンとアベノミクス成長戦略に期待して万歳するはずだと踏んでいる。
 岩手三陸地方からかつて総理大臣が出た。漁業者の代表として自民党のボスになった鈴木善幸氏である。朴訥な東北人らしい風貌の人だったが、新潟の田中角栄みたいに地元に新幹線や公共事業を呼び込む露骨な政治はやらなかった(と思う)。宮古の街をあるいたら、その息子の衆議院議員鈴木俊一のポスターがあった。この人は環境大臣などを歴任したが、民主党の政権交代選挙で落選したが、今は復活している。この人の姉が自民党副総裁・元首相麻生太郎の妻になっているので、日本会議のメンバーであることを含めいまの自民党の幹部の一人である。しかし、ポスターが訴える力強い震災からのさらなる復興は、空しくないか?この地域に若者が希望をもって戻ってくるような政治が、ほんとうに実現できるのか?



B.RNAとDNA
 『生物学の歴史』も1960年代に来て、これが書かれたその当時の生物学の最新トピックになってきた。それは、今では誰もが聞いたことがある「DNA」、ディオキシリボ核酸に関心が集中してくる。でも、アシモフによれば、「核酸」Nucleic Asidという言葉は、細胞核の中にあるからそう呼んだのに、実は細胞核の外にもあったので、ほんとは間違った命名だが、もう名前をかえるには遅かったのだ、という。そんなこともあるんだな。

「ひとたびウイルスが結晶化されると、それらは科学的に分析できるようになった。もちろん、それらはタンパク質であったが、“核タンパク質”とよばれる特別な種類のタンパク質であった。染色法の発達によって、個々の細胞内構造物の化学的性質が明らかになった。そして、染色体もまた(ゆえに遺伝子も)核タンパク質であることがわかった。
 核タンパク質分子は、“核酸”といわれるリンを含む物質と結合したタンパク質よりなっている。核酸は一八六九年に、スイスの生化学者、ミーシャー(Friedrich Miescher一八四四~九五年)によって初めて発見された。最初に細胞核の中でみつけられたので、そのように名づけられた。後に、核酸は細胞核の外にも存在することがわかったが、名前をかえるには遅すぎた。
 核酸はドイツの生化学者、コッセル(Albrecht Kossel一八五三~一九二七年)により初めてくわしく研究された。彼は一八八〇年代以後、核酸をより小さい構成物に分解した。これらは、リン酸と彼が同定できなかった糖を含んでいた。さらに、四個の窒素原子を含む二つの原子環よりなる分子をもつ”プリン”という物質の仲間の二つの化合物があった。これらを、コッセルは“アデニン”と“グアニン”と名づけた(それらは、しばしば簡単にAとGとよばれる)。彼はまた、三つの“ピリミジン”、(二個の窒素原子を含む一つの原子環をもつ化合物)を発見し、それらを“シトシン”、“チミン”、“ウラシル”(C、T、U)と名づけた。
 ロシア系アメリカ人の化学者、レヴィーン(Phoebus Aaron Theodore Levene一八六九~一九四〇年)は、さらに一九二〇年代と一九三〇年代に問題を持ちこんだ。彼は、核酸分子の中で、リン酸分子、糖分子、およびプリンかピリミジンの一つが、彼が“ヌクレチオド”とよんだ三つの部分からなる単位を形成することを示した。核酸分子は、タンパク質がアミノ酸の鎖からつくられているように、これらのヌクレチオドからつくられている。ヌクレチオドの鎖は一つのヌクレチオドのリン酸が隣の糖の基に結合してつくられる。このようにして、“糖‐リン酸の骨格”が形成され、骨格から個々のプリン基とピリミジン基が伸びている。
 レヴィーンはさらに、核酸の中にある糖分子には二つの型があることを示した。すなわち、“リボース”(よく知られている六個の炭素原子からなる糖ではなく五個の炭素原子を含む)と“デオキシリボース”(その分子に一個の酸素原子が少ないこと以外は、リボースと同じ)である。おのおのの核酸分子は一つの型の糖か、他の型の糖を含み、両方とも含むことはない。こうして、核酸の二つの型が区別できる。すなわち、ふつうRNAと略す“リボ核酸”と、ふつうDNAと略す“デオキシリボ核酸”である。おのおのは、四種類のみのプリンとピリミジンを含む。DNAにはウラシルがなく、A、G、C、T、のみをもつ。他方、RNAにはチミンがなく、A、G、C、U、をもつ。
 スコットランドの化学者、トッド(Alexander Robertus Todd一九〇七~九七年)は、一九四〇年代に実際いろいろなヌクレチオドを合成して、レヴィーンの推論を確認した。
 生化学者は最初核酸に特別な重要性をおかなかった。結局、タンパク質分子は、糖、脂肪、金属を含む基、ビタミンを含む基などを含むさまざまのタンパク質でない付属物と結合していることがわかった。いずれの場合にも、分子の本質的な部分はタンパク質で、非タンパク質はまったく従属的なものと考えられた。核酸は染色体やウイルスで発見されたが、核酸部分は補助的で、タンパク質が本体であると思われていた。
 しかし、一八九〇年代にコッセルはいくつかの観察をした。それはふり返ってみると、非常に重要であることがわかる。精子はほとんどすべてがきっちりつまった染色体よりなり、父の遺伝形質を子どもに伝える完全な“指令”を含む化学物質を運ぶ。しかし、コッセルは精子は非常に簡単なタンパク質、組織で見出されるよりははるかに簡単なタンパク質を含むが、一方核酸は組織内のものと同じであるらしいことを発見した。このことは、遺伝的な指令が非常に単純なタンパク質ではなく、精子の中でかわらない核酸分子に含まれているらしいと思わせる。
 それにもかかわらず、生化学者たちは動じなかった。タンパク質についての信念が動かなかったばかりでなく、一九三〇年代を通してすべての証拠は、核酸が非常に小さい分子(わずか四個のヌクレチオドからなる)であるので、遺伝的な指令を運ぶにはあまりにも簡単すぎるという事実を示すようにみえた。
 アメリカの細菌学者、アヴェリー(Oswald Theodore Avery一八七七~一九五五年)がひきいる人たちが肺炎双球菌(肺炎を引きおこす細菌)を研究していた一九四四年に、転換期がやってきた。あるものは、細胞のまわりに莢膜をもつ“スムーズ”系統(S)であり、他のものはそのような莢膜のない“ラフ”系統(R)であった。
 明らかにR系統は莢膜を合成する能力がない。S系統の抽出物をR系統に加えると、後者をS系統にかえた。抽出物それ自身は莢膜の形成を引きおこさないが、明らかにそれはR系統に変化を引きおこし、細菌自身がその仕事をできるようにした。その抽出物は、細菌の形質を変化させるのに必要な遺伝情報を運んだ。この実験のまったく驚くべき部分は、その抽出物の分析で生じてきた。それは核酸の溶液であり、核酸のみであった。いかなる種類のタンパク質も存在しなかった。
 少なくともこの一つの場合には、タンパク質ではなくて、核酸が遺伝物質であった。その時以来、生命の主要な鍵となる物質は結局核酸であることが認められた。一九四四年はまたペーパークロマトグラフィーが導入されたので、『種の起源』が出版された(一〇五頁参照)一八五九年以来の生物学の最も偉大な年といってもよいであろう。
 一九四四年以後の数年間で、核酸の新しい見解が広く認められた。おそらく一番めざましいのはウイルスの研究を通してである。ウイルスは内部のくぼみに核酸分子をもち、外側にタンパク質の殻をもつことが示された。ドイツ系アメリカ人の生化学者、フレンケール・コンラッド(Heiz Fraenkel-Conrat一九一〇~九九年)は一九五五年に、ウイルスを二つの部分に離し、ふたたびいっしょにすることができた。タンパク質部分はそれ自身全然感染性を示さず、それは死んでいた。核酸部分はそれ自身では少しは感染性を示し、それは“生きていた”。しかし最も効果的に自身を表現するためには、タンパク質部分を必要とした。
 放射性同位元素を用いた研究は、たとえばバクテリオファージが細胞内に侵入する場合、核酸部分のみが細胞に入ることを明らかに示した。タンパク質部分は外側に残っていた。細胞内で核酸は自身と同じ(細菌の細胞が生来もっているのではない)多くの核酸分子をつくるようにしただけではなく、自身の殻つまり細菌細胞のではなく、自分に特異的なタンパク質を形成した。明らかに、タンパク質ではなく、核酸分子が遺伝情報を運ぶことにはもはやいかなる疑問もありえなかった。
ウイルス分子は、DNAかRNAあるいはその両方を含んでいた。しかし、細胞内では、DNAはもっぱら遺伝子の中に見出された。遺伝子は遺伝の単位であったので、核酸の重要性は結局DNAの重要性となった。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.256-261.

 RNAとDNAが重要だと気がついたのが1944年頃で、生物学にとっては偉大な転換期。これは第2次世界大戦の末期、でも戦争と科学の進歩とはこの場合無関係みたいだ。そして戦後の1960年代から90年代までがやはり生物学にとっては、輝かしい時代だったんだろう。

「しかしながら、遺伝子による酵素の生産は、明らかに仲介者を通してなされるに違いない。というのは、遺伝子のDNAは核の中にとどまっているが、タンパク質の合成は核の外で進行するからである。電子顕微鏡の出現によって、細胞は新しく、はるかに精密にくわしく研究され、タンパク質合成の正確な場所が発見された。
 ミトコンドリア(二三〇頁参照)よりもずっと小さいので、“ミクロゾーム”(“小さい物体”を意味するギリシャ語に由来する)とよぶ、組織化された顆粒が細胞内に非常に多数認められた。一九五六年までに、最も根気強い電子顕微鏡学者の一人であるルーマニア系アメリカ人、パラーデ(George Emil Palade一九一二~二〇〇八年)は、ミクロゾームがRNAに富んでいることを示すのに成功した。それゆえ、それらは“リボゾーム”と改名された。そして、タンパク質が作られる場所はこれらのリボゾームであることが証明された。
 染色体からの遺伝情報はリボゾームにとどかなければならない。そして、これは、“伝令RNA”という特別な種類のRNAによってなされた。これは染色体の中のあるきまったDNA分子の構造をうつしとり、その構造をもってリボゾームに移行し、その上にとまる。アメリカの生化学者、ホーグランド(Mahlon Bush Hoagland一九二一~二〇〇九年)によって最初に研究された”運搬RNA”という小さい分子は、特異的なアミノ酸と結合し、次にそのアミノ酸を運んで、伝令RNAのそれにみあう点に結びつく。
 残った主な問題は、特異的な運搬RNAがどのようにして特異的なアミノ酸と結合するようになるかを解決することであった。もっとも単純な考えは、アミノ酸自身が核酸のプリンやピリミジンに結合すると考えることであった。すなわち、さまざまのアミノ酸が、おのおの異なったプリンやピリミジンに結合するという考えである。しかしながら、約二〇種のアミノ酸があるのに、核酸の分子にはわずか四種のプリンとピリミジンしかない。それゆえ、少なくとも三個のヌクレチオドの組み合わせが、おのおののアミノ酸に対してあてはめられなければならない(三個のヌクレチオドには六四種の可能な組み合わせがある)。
 アミノ酸に三個のヌクレチオドの組み合わせをあてはめることは、一九六〇年代の初めの重要な生物学の問題であった。これは、ふつう“遺伝暗号を解読すること”といわれている。スペイン系のアメリカ人の生化学者、オチョア(Severo Ochoa一九〇五~九三年)のような人々は、この点において活躍している。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.266-268. 

 ぼくたちはいま、DNAというものを人間の個人がもつ親からの諸形質を遺伝された記号のようなものとして理解している。それが実際どうやって読み取られるのかまでは、知らない。でも、日常経験としては、誰でも自分の親のどこかを受けついで似ていると思うことがある。逆にそういう点がなければ、自分はこの親の子ではないのでは?という疑問も生れる。20世紀の生物学はそこをぎゅっと精密に解読できるという所に辿り着いたことになる。
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1980年代の経済と2010年代の経済の課題は違う

2016-02-25 17:47:25 | 日記
A.レーガノミクス・サッチャリズム、遅れてきたアベノミクス
 いまさら言うまでもなく、アベノミクスなる言葉は、1980年代のアメリカ大統領レーガン政権の経済政策「レーガノミクス」、そしてほぼ同時期に登場したイギリスのサッチャー首相のとった一連の経済政策「サッチャリズム」を見習ってつけられたものだとされる。
 レーガノミクスは前民主党政権から受け継いだスタグフレーション状態の経済の回復が課題だったが、それはインフレーションと失業に注目した。レーガンの経済政策は減税による供給面からの経済刺激を主張するサプライサイド経済学に基づいていた。またスタグフレーションの物価上昇という弊害を抑えるために「通貨高政策」を前提条件にしていた。経済学者の多くは、減税を経済の需要面から刺激する政策と考えるが、サプライサイド経済理論では、供給面においてはるかに大きな効果があると考えた。レーガノミクスは、社会保障費と軍事費の拡大、減税、規制緩和によってインフレ収束を図った。これにより労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。減税はとくに富裕層に手厚く、福祉予算を抑制し、歳出を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する、というシナリオである。
 「鉄の女」サッチャー政権の経済政策も、ハイエクが唱えた新自由主義に基づき、それまでの高福祉の社会保障政策を継続しつつ、国営の大規模産業、公共事業の民営化と規制緩和により、政府の機能を削減した。金融部門も規制緩和によって外国資本の参入を認めた。また、所得税減税を進める一方で、付加価値税(消費税)を増税し国民に勤勉と倹約と促した。結果的にサッチャリズムは高所得者層に有利に働き、インフレ抑制のために行った金利引き上げは、失業率を上げた。日本では中曽根政権が、レーガンやサッチャーを盛んに持ち上げて、国鉄や公社の分割民営化、規制緩和などを進めたが、今の安倍政権ほどの極端な手法はできなかった。アベノミクスは、手法と新自由主義的な思想は似ているが、80年代当時の課題とは正反対の問題に直面している。

「米大統領選 サンダース氏は新時代を開くか:ピケティ・コラム
 米国大統領選の候補者指名争いで、「社会主義者」バーニー・サンダース氏が信じられないほどの成功を収めている。私たちはどう解釈するべきなのだろうか。
 バーモント州選出の上院議員サンダース氏は、いまや50歳以下の民主党支持者ではヒラリー・クリントン氏をリードしている。それでも、彼女が全体で優勢を保てるのは、ひとえに50歳以上の支持層のおかげだ。「クリントン・マシン」とよばれる支持者や保守的な主要メディアに、サンダース氏の勝利は阻まれてしまうかもしれない。だが近い将来、彼のような、でももっと若く、白人でもない候補者が大統領選で勝ち、国の「顔」をすっかり変えてしまう可能性があることが証明された。
 1980年の大統領選でのロナルド・レーガン氏(元大統領)の勝利で始まった政治イデオロギーが、、様々な局面で終わりを迎えている。私たちはその終焉に立ち会っているのだ。
*         *           *            *
 時間をさかのぼろう。30~70年代、米国は不平等の是正のため、野心的な政策を進めた。当時、旧大陸(欧州)は「超」のつく不平等がはびこり、米国の民主的精神とは相反するものとみなされていた。米国は二の舞にならないため、両世界大戦間に高い累進性を兼ね備えた所得税と相続税とを生みだし、欧州では適用されたことがない水準の税率を課した。
 実際、30~80年までの半世紀に、米国で年収100万ドルを超える層に課された最高税率は平均82%だった。40~60年代、ルーズベルトからケネディ大統領までの時代は91%に達し、レーガン氏の大統領選があった80年時点でも70%を維持していた。
 米国で、この政策が戦後の経済成長の勢いをそぐことは一切なかった。相続税にも高い累進税率が課され、その税率は何十年もの間、巨額の財産に対しては約70~80%だった。
 一方、ドイツやフランスで最高税率が30~40%を超えたことはほとんどない。米国は欧州と異なり、戦争や破壊を経ずに相続税で財産の集中を軽減したのだ。
 また米国は、欧州各国よりずっと早く、30年代にはすでに最低賃金を定めている。2016年現在のドルに換算すると、その額は60年代末に時給10㌦を超え、当時、群を抜いた水準だった。しかも、高い生産性と教育体制のおかげで、失業はほとんど生れなかった。民主的とは言い難かった南部でまだ合法的に続いていた人種差別に終止符を打ち、新しい社会政策を打ち出したのもこの時期だ。
 一方で、この一連の政策は大きな反発を生んだ。白人有権者のうち少数の反動的な人達と、金融エリートの間では特にそうだった。ベトナム戦争で面目を失った70年代の米国にとって、ドイツと日本を筆頭に敗戦国が急速に追いついてきたことも懸念材料となった。石油危機とインフレーションにも悩まされた。レーガン氏はこうしたあらゆる不満の波に乗り、当時すでに神話と化していた原初の資本主義を復活させる綱領を掲げて当選した。
 クライマックスは86年の税制改革だ。高い累進税率を課してきた半世紀に幕を下ろし、最高税率を28%まで引き下げた。その後、クリントン時代やオバマ時代でも、民主党政権は本当の意味でこの決定を見直さず、最高税率は40%あたりに留めた。ちなみにこの数字は、30~80年の平均税率の半分だ。当然、格差は爆発的に拡大し、超高額給与が生まれることになった。しかも経済成長は低調で、大多数の人たちの所得は停滞した。
 レーガン氏はまた、最低賃金の水準を上げないことも決めた。80年代以降、最低賃金はゆっくりと、しかし確実に、インフレによって目減りした。69年は時給11㌦近かったが、2016年は7㌦程度だ。この点においても、民主党への政権交代は、レーガン氏が導入した新しい政治イデオロギーを根本的に変えることはなかった。
*         *         *          * 
 現在のサンダース氏の成功から分かるのは、米国のかなりの数の人たちが、不平等の増大と見せかけの政権交代にうんざりし、革新的な政策で平等を目指す米国の伝統と和解しようとしているということだ。クリントン氏は、08年の大統領選の候補者争いでは、特に健康保険制度についてオバマ大統領よりも左翼的な政策を掲げて戦ったが、今日ではレーガン=クリントン=オバマの政治体制を継承する、現状維持派に見えるのだ。
 サンダース氏は、高い累進性をもつ税と時給15㌦という高い最低賃金を復活させると提案している。さらに、国民皆保険と公立大学の無償化も唱えている。現在、教育を受ける権利には極端な不平等が生じているからだ。この現実と、「能力主義」という現体制の勝ち組が使う論法との間には、明らかに大きな亀裂が走っている。
 一方の共和党は、極端なナショナリズム、反移民、反イスラム教の論調に傾斜し、際限なく白人富裕層を賛美している。
 レーガン氏とブッシュ氏に任命された判事たちが、政治献金の影響力を制限する法的規制をすべて取り払ってしまったため、特にサンダース氏のような候補が大統領選で戦うのは難しい。だが、新しい動員のスタイルと参加型の資金調達によって勝利することで、政治を新しい時代へと向かわせるかもしれない。
 私たちはいま、歴史の終わりにまつわる陰鬱な予言とは、かけ離れたところにいるのだ。(©Le Monde,2016)(仏ルモンド紙、2016年2月14日付、抄訳)」朝日新聞2016年2月24日朝刊、17面、オピニオン欄。

 ピケティの論は、もちろんレーガノミクス以来の新自由主義、富裕層優遇による経済成長路線に正面から批判的だが、今度の大統領選にサンダースが勝つところまでは無理だろうという予想だ。そうするとクリントンか、あるいは勢いを増す共和党トランプか、ということになるが、いずれにしても期待はできない、というところだろう。オバマが当選したときは、アメリカが大きくチェンジ!するかのような期待をした人もいたが、そうはいかなかった。いずれにしても、世界は動揺し不安は増す。アベノミクスも、レーガノミクスやサッチャリズムが結果的に「小さな政府」を追求しながら国家という幻想に頼り、グローバル資本主義という怪物を扱いかねて失敗したという経験を見ずに、亀裂を糊塗するだけに終わるだろう。あぶない。



B.ウイルスから核酸へ
 生物学にも自然科学にも、まるで素人のぼくが、このアシモフの『生物学の歴史』を読んできて、ひとつ感心したことは、100年前の人類と現在の人類の生物としてのあり方は基本的に何も変わっていないが、これに関する知識と技術は飛躍的に変わったということだ。食物を食べ、睡眠をとり、運動しやがて死んでいく存在は、他の動物と変わることもない。しかし、19世紀の人間は伝染病や栄養不良で簡単に死んでしまったし、自分の身体がどういうメカニズムで活動しているか、ほとんど無知だった。医者も薬も、対症療法はできても、それがどうして効果があったりなかったりするのかを精密に測定したり説明したりできないことが多かった。それが多くの研究でできるようになっただけでなく、生命の根源ともいうべき、生殖や遺伝、代謝や老化、そして細胞や分子レベルの人為的操作の技術が、20世紀の後半ですすんだことで、もしかすると人類はこれまでにない生物進化の新しい段階に足を踏み入れているかもしれないのだ。

「タンパク質分子が支配下に入ったと同じときに、突然、そしてまったく驚いたことに、“生物の最も重要な化学物質”として、別の型の物質がとってかわった。この新しい物質の重要性は、まず第一に、濾過性ウイルスの本性の問題についてなされた一連の研究を通じて考えられるようになった。
 ウイルスの本性は一世代の間なぞのまま残されていた。病気を引きおこすことが知られており、この点でそれに対抗する方法は発達した(二〇九~二一〇頁参照)。しかし、単にそのはたらきよりも、そのもの自身はまだ未知のままであった。
 結局、濾過機が発達し、ウイルスを通過させないほど十分に微細になった。ウイルス粒子はどんなものでも既知の最小の細胞よりはるかに小さいが、非常に大きいタンパク質分子よりなお大きいことがわかった。このようにして、ウイルスは細胞と分子の中間にある構造であることがわかった。
 最終的に、ウイルスが知覚できる物体であることを明らかにしたのは、電子顕微鏡(二二九頁参照)である。ウイルスは、大きなタンパク質分子ぐらいの細かい点から、規則的な幾何学的な形や目に見える内部構造をもつかなり大きい構造におよぶ広範囲を大きさのものまでがあることがわかった。バクテリオファージはバクテリアのような小さな生物を餌食にするにもかかわらず、ウイルスのなかの一番大きな仲間であり、そのなかのあるものはオタマジャクシのように尾があった。ウイルスよりも大きいが、ふつうの細菌の最小のものより小さいのは“リケッチア”(リケッツ一六六頁参照)がもとで名づけられた。というのは、この型の微生物はロッキー山紅斑熱の原因となり、その病気はこの細菌学者が研究していた)であった。
 こうして、最少の細胞と最大の分子の間の範囲をみたすように思われるこの一群の生物が生きているのか、いないのかという疑問が生じてきた。それが生きているという説に対して歯向かうように思われる驚くべき発展が一九三五年におこった。アメリカの生化学者、スタンリー(Wendell Meredith Stanley一九〇四~七一年)は、タバコモザイクウイルスを研究していて細かい針状の結晶を得ることができた。これらは単離したとき、ウイルスのすべての感染性をもち、そして高い感染力があることがわかった。いいかえれば、彼は結晶ウイルスを得た。生きている結晶とはまったく受け入れがたい概念であった。
 他方、細胞説が不十分であることや、完全な細胞が結局生命の分割できない単位ではないということは推測できないであろうか。ウイルスは細胞よりずっと小さい。そして、細胞とは違って、どんな環境のもとでも独立した生活能力をもたない。しかし、それはうまく細胞内に入りこみ、一度そこに入ると自己増殖し、ある主要な点で、あたかも生きているかのようにふるまう。
 それでは、生命の真の本体である細胞内の構造、ある細胞を構成している構造がないのであろうか。細胞の残りの構造をその道具として支配するような細胞内構造はないのであろうか。ウイルスは何らかの方法で抜け出した細胞成分だ、その結果細胞に侵入し、その正当な“持ち主”からその能力を受けついだものではないだろうか。
 もしそうであれば、そのような細胞内の構造物がふつうの細胞内に存在するはずであり、その名誉をになう理論的な候補者は染色体(一二八頁参照)であるように思われる。二〇世紀の最初の年に、染色体は肉体的な形質の遺伝を支配する因子を運び、それによって、鍵となる重要な細胞内の構造物が行うことを期待されているように、細胞の他の部分を支配していることが明らかになった。しかしながら、染色体はウイルスよりもはるかに大きい。
 しかし、遺伝される形質よりも染色体ははるかに数が少なかったので、おのおのの染色体はたぶん何千という単位からなり、その単位のおのおのが単一の形質を支配すると結論することができる。これらのおのおのの単位は、一九〇九年にデンマークの植物学者、ヨハンゼン(Wihelm Ludwig Johannsen一八五七~一九二七年)によって、“生むこと”という意味のギリシャ語に由来した“遺伝子”(gene)と名づけられた。二〇世紀の初めの一〇年間は、個々の遺伝子は、個々のウイルスのようにみることができなかった。しかし実り多い研究がなされた。アメリカの遺伝学者、モーガン(Thomas Hunt Morgan 一八六六~一九四五年)が一九〇七年に、小さな黄色ショウジョウバエという新しい生物学の材料を導入したことが、そのような研究の鍵となった。これは多数飼うことができ、実際上手数がかからない小さい昆虫である。さらに、その細胞はわずか四対の染色体をもっている。
 ショウジョウバエの世代を追うことによって、モーガンは突然変異の多くの例を発見し、ド・フリース(一二五頁参照)が植物で発見したことを動物界にまで広げた。さらに、彼はさまざまな形質が連鎖している、すなわち、ともに遺伝することを示すことができた。これは、そのような形質を支配する遺伝子がおなじ染色体上に見出され、もちろん、この染色体は一つの単位となって遺伝することを意味した。
 しかし、連鎖した形質は永久に連鎖しているのではなかった。ときどき、あるものは他のものと別に遺伝した。このことは、染色体の対がしばしば部分的に入れかわること(交差)によって生じた。つまり、個々の染色体の完全さは絶対的ではない。
 このような実験は、染色体上にある特定の遺伝子が存在する位置を定めることを可能にした。二つの遺伝子をへだてる染色体の長さが長ければ長いほど、任意の点での交差によって二つの遺伝子が分離される可能性が大きい。二つの連鎖した形質が連鎖しない頻度を調べることによって、遺伝子の相対的位置を確立することができる。一九一一年までに、ショウジョウバエの最初の“染色体地図”が作成された。
 モーガンの弟子の一人、アメリカの遺伝学者、マラー(Hermann Joseph Muller一八九〇~一九六七年)は、突然変異の頻度を増加させる方法を探した。一九一九年に、彼は温度を上昇させることでこのことができた。さらに、「これは遺伝子の一般的な“混乱”の結果ではなかった。つねに、一つの遺伝子は変化したが、その対である他の染色体上の遺伝子は変化しないことがわかった。マラーは、分子のレベルでの変化がおこったと決めた。
 それで、次に彼はX線を試みた。X線は穏やかな熱よりももっと力があり、染色体に衝突した個々のX線は、確かにその作用を一つの点に及ぼすであろう。一九二六年までに、マラーはX線が実際に非常に突然変異率を高めることをきわめて明らかに示すことができた。アメリカの植物学者、ブレークスリー(Albert Francis Blekeslee一八七四~一九五四年)は、続いて一九三七年に、突然変異率は特別な化学物質(“突然変異誘起物質”)にさらすことによっても高めることができることを示した。このような突然変異誘起物質の最もよい例は“コルヒチン”で、コルヒチンはイヌサフランから得られるアルカロイドである。
 このようにして、一九三〇年代の中ごろに、ウイルスも遺伝子もともに神秘性がなくなりつつあった。両者はともにほぼ同じ大きさで、そして急速に明らかになったように、ほぼ同じ化学的性質をもつ分子であった。遺伝子は細胞に慣れたウイルスであろうか。ウイルスは“野生の遺伝子”なのであろうか。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.251-256.

 この『生物学の歴史』では、いろいろな発見をした学者の名前が出てきて、それにいちいち名前のスペルと生年・没年が付記されている。訳者の太田次郎氏が、確認して付け加えていると書いてあるが、これを見ると、長生きの人が多い。90歳以上まで生きた人もいる。今では珍しくないにせよ、19世紀から20世紀前半では、80歳まで生きる人は少なかったから、生物学者が長生きだとしたら、それは生命というものの研究をしていたことが多少は影響しているのかもしれない、と思った。医者の不養生ではないが、細菌や病原菌の研究をすれば、感染する危険も大きいだろう。日本で偉人伝に入っている野口英世は、黄熱病の研究をして比較的若く亡くなった。確かに科学の発達のおかげで、昔なら死んでいるような場合でも、延命できるようになった。でも、長く生きればいい仕事ができるというわけでもない。こればかりは、生物学では解けないだろう。
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縮んでいく町を歩く・・・ペーパークロマトグラフィー

2016-02-23 22:13:39 | 日記
A.空間距離と心理距離
 宮城県から岩手県までの太平洋岸、三陸地方はギザギザの海岸線が続く複雑な地形の入り江に、点々と港町がある。ここを2011年3月11日、大地震と大津波が襲ったので、多くの犠牲者と建物などの大量破壊が起ったことはいまさら言うまでもない。ぼくは数日前から三陸宮古市に来て、このあたりをうろうろしている。大震災をテーマとする研究プロジェクトのために、3年前から東北の被災地を訪れていたのだが、福島(田村、川内、南相馬など)、宮城(名取、仙台、東松島、七ヶ浜、石巻、女川、気仙沼、南三陸など)は何度も訪れ、学生を連れてインタビュー調査などもやっていたのだが、岩手県は、おもに陸前高田と釜石、それに震災当初から同僚が継続して入っている大槌町と山田町までは数回、現地を歩いていたが、そこより北の宮古と久慈には足を延ばしていなかった。それで今回は、宮古に泊って、ここから再開した三陸鉄道北リアス線に乗って久慈までの沿岸を見ようと思ってやってきたのである。
 実は宮古には震災前に一度来ている。盛岡の大学で夏季の集中講義を終えて、そのまま帰るのももったいない気がして、なかなか行かれなかった三陸に行ってみようと思い、ローカル線に乗った。宮古、そしてJR山田線で海岸を南下して山田町、吉里吉里、大槌、釜石で泊って、遠野を廻って花巻に出て帰った。だからここは震災・津波の前の街並みを、通りすがりながら一度は見ている場所だ。この大災害の現地を歩くと、いろいろなことをいやでも考えるのだが、災害前の町の光景を知っているのと知らないのでは、想像力の質が違ってくる。宮古の市役所前の道路や釜石の市街に堤防を越えて津波が襲った光景はテレビでも流されたが、自分がその場所を歩いた記憶も蘇った。しかし、気仙沼から石巻方面は震災前に行ったことがなかったから、かつてあった街並みを想像することは不可能なのだ。この差はかなり大きい。
 三陸鉄道北リアス線は、津波で破壊・分断されたがいち早く復旧が進み、JRがいまだに手つかずで不通になっている宮古―釜石間に比べ再開も早かった。実際に乗って走ってみると、トンネルが多いのと谷を渡る高い鉄橋がいくつもあることがわかり、これを建設した高度成長期の難工事が偲ばれる。三陸鉄道は、国鉄が民営化され不採算路線が廃止されていった中曽根政権時代に、全国に先駆けて第3セクターによる独自運営を開始した嚆矢だった。久慈と田野畑間の北リアス線周辺が2013年のNHK朝ドラ「あまちゃん」の舞台になったことで、この辺境の街や風景が全国に知られるようになった。その「あまちゃん」効果は地域活性化にはなったが、そろそろ他地域からは忘れられていく。都会からあまりに遠いゆえに、一度は訪ねてみたいという好奇心は、フィクションとしてのTVドラマに導かれてここに観光客を呼び込んだが、一度見れば満足してリピーターは生まない。
 久慈の商店街を歩いていると、ここがかつてこの地域一帯の中心都市として賑わった昔の面影と、それゆえに軒並み「貸店舗」の貼り紙が貼られたシャッター商店街の無残な姿に、ぼくはだんだん情けなくなった。市内の「道の駅」にあった「レトロ館」なる展示は、戦後復興から高度経済成長期の大衆アイテムを並べていた。スバル360、力道山、当時のラジオ、ステレオ、テレビ、カメラ、金属製おもちゃ、鉄人28号、ウルトラマンや仮面ライダー、プラモデル、岡田奈々や松坂慶子、アグネス・ラムにピンク・レディのポスター。由美かおる、水原弘、浪花千恵子のキンチョールの看板(松山恵子はなかったが・・)。誰かが自宅で収集していたこの手の懐かしグッズをかき集めた団塊世代の記憶の集積、要するにガラクタ。この入館料は300円と書いてあるのだが、入り口には誰もいなくて券売機もなく、どこでお金を払うのかと聞くと、反対側の役場の事務所みたいな所に行ってくれと言われた。すでにやる気がない。
 しかし、ある意味でこれは1960年代の繁栄で時間が止まっている団塊世代の夢の博物館なのだろう。それはこの町が活気に満ちて、大人も子供も明るい未来を見上げていた時代が確かにあった、という記憶なのだ。表に出て駅への道を歩きながら、痛んだ建物と閉じたシャッター、外された看板に寒風が吹く光景は、津波被災地で見なれた自然の暴力による廃墟や瓦礫とは違う、自然に朽ち果てていく人の営みの残酷さのようなものをぼくは感じていた。人口が減っていくとはこういうことなのか。
 戻りの電車に、帰宅する中高生がたくさん乗っていた。この土地に生まれて電車で学校に通う子どもたち。あまちゃんで描かれた高校生と見た目は同じであるだけでなく、この子たちの会話を聞くともなしに聞いていたら、もはや東北弁ではない。東京の中高生と話題も話し方も大差ない。来るときに乗っていた地元らしきおばあちゃんたちの会話は、ヨーロッパの言葉のように半分くらいしか理解できなかったのと比べ、中高生の会話はすべて理解できる。もう日本では方言は死滅するんだろうか。これもテレビの影響だとしたら、都会人の勝手な感覚とはいえ、なんだか寂しい気がする。



B.測定器具とアイディア
 科学の発展には、実験や観察の手段である測定器具に依存する部分が大きくて、レンズの顕微鏡から電子顕微鏡の開発が微生物から細胞、そして細菌の研究を進めたし、望遠鏡の性能で天体の観測は飛躍的に精密になる。20世紀の生化学は、タンパク質の分子をどこまで正確に分析できるかの勝負になって、ここでも遠心分離機とか電気やらX線やら、あの手この手で分子レベルの解明が試みられた。しかし、精密になるほど測定機器も複雑になり、データもどこまで精密にとられるかが問題になる。ときどき誰かが画期的な発明をして、それが研究を一気に新たな次元に導く、ということがあるらしい・・。「ペーパークロマトグラフィー」というのは、素人にもわかりやすそう。

「20世紀前半における新しい科学的、物理的器具の発展は、生命の本質のように思われていた巨大なタンパク質分子を、生化学者が巧みな技法で丹念に調べあげるのを可能にした。実際、科学の新しい分野に相当するもの、物理・化学・生物を組み合わせたものが、その研究領域を生物の巨大分子の微細構造やくわしいはたらきの解析においた。この新しい分野である分子生物学は、第二次世界大戦以後特に重要になってきた(実際、その業績はめざましいものである)。そして、生物学の他の分野を見劣りさせてしまった。
 一九二三年に、スウェーデンの化学者、スヴェードベリ(Theodor Svedberg一八八四~一九七一年)はタンパク質分子の大きさを決めるための有力な方法を導入した。それは“超遠心分離機”であり、回転する容器は普通の重力の数十万倍の遠心力を生じさせた。水の分子の熱運動は、常温で、巨大なタンパク質分子をふつうの重力に対抗して浮遊させておくのに十分であるが、遠心力に対してはそうではない。回転する超遠心分離機の中で、タンパク質分子は沈み始める。すなわち“沈殿”し始める。沈降速度から、タンパク質分子の分子量を決定することができる。血の中の赤い色をした物質であるヘモグロビンのような平均的な大きさのタンパク質は、分子量六万七〇〇〇である。分子量がわずか一八の水の分子の三七〇〇倍に相当する。さらに大きい他のタンパク質分子では、分子量数十万というのがある。
 タンパク質分子の大きさと複雑さは、分子の表面に荷電できる原子団のための十分な余地があることを意味する。おのおののタンパク質はその分子の表面に+と-の電荷の独特の型をもっている。――その型は他のいずれのタンパク質の型とも異なっており、まわりの媒質の酸性度を変えるという一定の方法で変化させることができる。
 もしタンパク質の溶液が電場におかれると、個々のタンパク質分子はその電荷や分子の大きさ、形などによって決められた速さで、+または-の電極へと移動する。すべての条件下で、正確に同じ速度で移動する二つのタンパク氏はない。
 一九三七年に、スウェードベリの弟子であったスウェーデンの化学者、ティセーリウス(Arne Wilhelm Kaurin Tiselius一九〇二~七一年)はこれを利用した装置を考案した。これは長方形のU字形に似た特別な管で、この中でタンパク質の混合物は電場に反応して移動する(このような運動を“電気泳動”とよぶ)。混合物のいろいろな成分は独自の速度で移動するので、しだいに分離してくる。長方形のU字管は特殊にすった継ぎ目で合わさっていて、これらの部分はすべらして離すことができる。タンパク質の混合物の一つがその一つの部分にあれば、他の部分から分離することができる。
 さらに適当な円柱状のレンズを使うことによって、タンパク質の濃度が変化したとき混合液を通る光の屈折がわることを利用して分離の過程を追跡することができるようになった。屈折の変化は液状の模様として写真にとられ、そいてその波状の模様は、混合物内の各タンパク質の量を計算するのに使うことができる。
 特に、血漿中のタンパク質は電気泳動しやすく、研究されている。それは、アルブミンおよびギリシャ文字のα、β、γで区別される三種のグロブリンを含む多数の部分に分けられた。γ-グロブリンの部分は抗体を含んでいることがわかった。一九四〇年代に、異なったタンパク質の部分を多量につくり出すための方法が考案された、
 超遠心分離と電気泳動は、タンパク質分子全体の性質に関係している。X線の使用は、生化学者が分子内をさぐることを可能にした。X線の束は物質内を通過すると散乱する。物質を構成する粒子が規則正しく並んでいると(結晶内で原子が配列しているように)、散乱も規則的である。決勝によって散乱された後、X線が感光紙にあたると、相称的な点の模様があらわれ、それから結晶内の原子の配列と距離が推論できる。
 大きな分子は分子内に配列している小さな単位からなっていることがしばしばある。たとえば、タンパク質がそうで、タンパク質はアミノ酸から成りたっている。タンパク質内のアミノ酸の規則的な配列は、X線の散乱のしかたに反映される。その散乱は結晶によってつくられたものよりも少しきれいではないが、分析は可能である。一九三〇年代の初めに、アミノ酸の一般的な空間的配列が推論された。これは、一九五一年に、アメリカの化学者、ポーリング(Linus Pauling一九〇一~九四年)が、アミノ酸の配列を明らかにし、アミノ酸の単位がつながったものはらせん(helix)の形で配列していることを示したときにはっきりした(helixとはふつうらせん階段とよばれているような形である)。
 タンパク質の構造の細かい点をよりくわしくさぐるにつれて、より複雑なX線のデータを取り扱うことが必要になってきた。そして必要な数学的計算がますます長たらしく、手におえなくなってきて、人間の頭脳が独力で行うくわしい解答が実行不可能になるところまできてしまった。幸いなことに、一九五〇年代までに、電子計算機が発達した。それは莫大な長さのお決まりの計算を非常に短い時間でやることができる。
 計算機は初めはタンパク質ではなく、ビタミンの問題のために使われ始めた。一九二六年に、二人のアメリカの医師、マイノット(george Richards Minot一八八五~一九五〇年)とマーフィ(William Parry Murphy一八九二~一九八七年)は、肝臓を定期的に食べると“悪性貧血症”とよばれる病気による死から患者を救うことができることを知った。ビタミンの存在が疑われた。それhビタミンB12とよばれ、一九四八年ついに単離された。これは六個の異なった成分の一八三個の原子からなる複雑な分子であることがわかった。新しい物理的な技術と電子計算機の助けによって、このビタミンのくわしい構造は一九五六年にわかった。これはシアン基、コバルト原子およびアミン基をもっていることがわかったので(多数の他の構成物の中に)、“シアノコバルアミン”という新しい名がつけられた。
 電子計算機がタンパク質によりつくられた回折の型に応用されたのは当然のことであった。X線回折と電子計算機を使って、オーストリア系イギリス人の生化学者、ベルツ(Max Ferdinand Perutz一九一四~二〇〇二年)とイギリスの生化学者、ケンドリュー(John Cowdery Kendrew一九一七~九七年)は、一九六〇年にミオグロビン(ヘモグロビンに似た筋肉のタンパク質で、大きさはヘモグロビンの四分の一)の分子のすべてのアミノ酸の完全な三次元的配列の図を発表することができた。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.238-243.

 そう、コンピューターというのも測定というよりは解析手段としてのデータの数値計算を、人間の手の数百倍速い作業を実現したという意味で、科学にとっては飛躍的な道具になった。ただし、アシモフのこの本の時点では、まだ専門家だけの大型コンピューターの時代だったが。

「必要な改善が1944年に行われた。そして、生化学の技術に革命を起こした。その年、
イギリスの生化学者、マーチン(Archer John Porter martin一九一〇~二〇〇二年)とシング(Richard Laurence Millington Synge一九一四~九四年)は、簡単な濾紙でクロマトグラフィーを行う技術を完成した。
 アミノ酸の混合物の一滴を、細長い濾紙片の下方につけてかわかす。そして、一定の溶媒(その中に濾紙の下端を浸しておくことができる)を毛細現象によって、細長い濾紙上に上昇させる。上昇していく溶媒がかわいた混合物を通るにつれて、その中に含まれる個々のアミノ酸は溶媒とともに上昇する。しかし、おのおののアミノ酸は固有の速度で上昇する。最後に、アミノ酸は分離する。濾紙上のアミノ酸の位置はある適当な物理的あるいは化学的な方法で検出され、他の濾紙で同様な方法で別々に処理された各アミノ酸の位置と比べられる。各点のアミノ酸の量は、大した苦労なしで決定できる。
 この“ペーパークロマトグラフィー”という技術は、短時間で結果が出る。精巧な装置も使わずに、簡単に、安価で、複雑な混合物から微量のものが手際よく分離できる。この技術は、実際、生化学のすべての分野ですぐに応用された。―-たとえは、光合成を行なう植物細胞の混合物についてのカルヴィンの研究(二三二~二三三頁参照)。この技術なしの研究は実際に考えられないほどになった。
 特に、ペーパークロマトグラフィーは、ある一つのタンパク質内にあるいろいろなアミノ酸の正確な数を決めることを可能にした。ふつうの物質がその構成要素の原子の数で同定されるように、どのタンパク質もその成分であるアミノ酸のおのおのの数によって区別されるようになった。
 しかし、これでもまだ十分ではなかった。やはり、化学者たちは普通の化合物の中の原子の数だけでなく、その配列にも同様に興味をもっている。それはタンパク質分子の中のアミノ酸についても同じである。しかし、配列の問題はむずかしいものである。分子内に数ダースのアミノ酸があるだけでも、可能な配列の数は天文学的なものになる。そして、五〇〇以上のアミノ酸が存在すると(タンパク質の中でも平均的な大きさでしかないヘモグロビンのように)可能な配列は、六〇〇個以上の数字(!)で書きあらわされなければならなくなる。こんな多数の中からどうやって一つの正しい配列を選び出すことができるだろうか。
 ペーパークロマトグラフィーを使うと、この答えは予期したよりも容易であることがわかった。インシュリン分子(約五〇のアミノ酸からなる)を研究していて、イギリスの生化学者、サンガー(Frederick Sanger一九一八~二〇一三年)はこの方法を完成するのに八年間をついやした。彼はインシュリン分子を部分的にこわして、アミノ酸を短い鎖にした。この短い鎖をクロマトグラフィーで分離し、それらをつくりあげているアミノ酸と、おのおのの配列順序を同定した。四つの単位からなるものでさえ、二四とおりのやり方で配列されるので、これはたやすい仕事ではなかった。しかし、まったく恐るべき仕事でもなかった。ゆっくりと、サンガーほどの長い鎖が彼のみつけた短い鎖をつくり出し、他のものをつくらないかを推論することができた。少しずつ彼はより長い鎖の構造をつくり上げ、一九五三年までに全インシュリン分子内のアミノ酸の正確な順序を決定した。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.245-249.

 アミノ酸、らせん構造、鎖状の分子の配列、ここまでくると、分子生物学の黄金時代の開幕直前に来た感じがしたはずだ。ぼくのような文系数学嫌いの学生には、アドレナリンで興奮してインシュリンはそれを醒ますなんていわれると、人間の精神はそんな単純なもんじゃないだろ、としか思わなかったが、要するに分子生物学者が何を考えていて、どんな道具で何を見つけようとしていたかがわからなければ、いくら聞いても何もわからない、ということだ。いまだにわかった自信はないが、測定器具の進歩がアイディア自体の、あるいは問題自体のあり方を変えてしまうのだ、ということはわかった(ような気がする)。
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ウイルスは眼に見えない・・だから怖い・・のか

2016-02-21 01:46:01 | 日記
A.推敲に推敲を重ねると
 文章を書くという行為は、人間だけに可能なことだろうが、「書き込む」「書き直す」「書き散らす」「書きなぐる」「書き飛ばす」などという言葉があるように、同じことを書くにしても何通りも表現のやりかたがある。このブログでも、いろんな人の書いた文章を引用しているのだが、日本語の場合、語の多様性だけでなく語順や文末にほとんど無限に変化があるので、文体というものは人によって全部違う。現在の日本語が明治時代に言文一致を完成させるにあたって、古語・漢語・ひらがな・カタカナ・西洋語の翻訳など、ルーツの異なる言葉を取り込み独自の試行錯誤を行った書き手の才能は、東アジアの文化に異彩を放つ達成に至ったと思う。
 ぼくも文章を書くわけだが、学術的な論文を書くときは、データや資料については間違いがないか確認するが、あまり文章自体は推敲していない。一度ずらっと書きなぐって、原稿が校正ゲラになって出てきてから、おかしな表現や誤解を招かない程度の修正をする。研究者でも、文章に凝るという人はいて、構成のたびに何度も細かく推敲しては書き直す人もいる。それで読みやすくなるのならいいが、かえってあれこれ加筆してややこしく難解な文章になる場合もある。
 小説や文学評論などであれば、もっと文章の表現を工夫するだろうから、今のような日本語がまだ固まっていないかった明治時代の文学者は、とても苦労して直しまくったのだろう。

「明治期の文豪、尾崎紅葉は推敲に推敲を重ねる人であったらしい。〈なんしろ、朝寝の寝の字を、寝にしようか寐にしようか、といふんで、二日考へてまだ決まらないといふんですからね…〉◆作家の上司小剣は著書『U新聞年代記』のなかで、執筆ぶりを知る人の賛嘆とも揶揄ともつかない言葉を書き留めている。その“証拠”となる資料だろう。読売新聞に連載された『金色夜叉』の直筆原稿が見つかった◆続編の連載4回目という。一部を墨で塗りつぶす。一つの文章を朱で囲って別の行に挿入する。さらに切り貼りする。彫心鏤骨のほどが写真にも見てとれる◆最晩年の挿話を思い出す。胃病で余命3か月を宣告されたあと、舶来の高価な百科事典ひと揃いを買い求めている。「欲しい字引に執念が残って、お化けに出ては男がすたる」。友人に語ったと伝えられる。推敲もそうだが、最後まで文学者として誠実であろうとしたようである◆辞世の句がある。〈死なば秋露のひぬ間ぞ面白き〉死ぬのなら秋、朝露の消えぬうちに、と。きまじめさが命を縮めた面もあったろう。露のような35年の生涯である。」読売新聞2016年2月20日朝刊1面、編集手帳。

 いわゆる「美文」、物語の展開や構造で読者を惹きつけるのではなく、文章の韻律や修飾で酔わせようとする文章というのは、外国語にもあるのだろうが、漢詩や和歌の伝統をもつ詩ではなく散文でそれをやると、内容は空疎になるおそれがある。尾崎紅葉は、どうもそっちを追求して文名をあげたのだろうが、『金色夜叉』はそこを越えて近代化する明治の社会的気分を、大衆受けする形で提示できたから大ヒットしたのだろう。



B.ウイルスって?
 この季節、インフルエンザと花粉症が毎度流行して、人々はマスクをし予防に努める。でも、目に見えないウイルスがどこかから人間の細胞に潜り込んで、悪さをする。二〇世紀は、伝染病との戦いで大きな勝利を挙げた。それが細菌や病原菌を媒介する蚊とかネズミとかダニとかを駆除することで、かなり感染を防げることがわかった。しかし、敵が微生物であれば顕微鏡で発見できたが、もっと小さな悪者、果たしてそれが生き物であるかどうかもわからないもの、それがウイルス。

「ところで、二〇世紀の血清学はパスツールやコッホのころまで知られていなかった型の微生物との闘いに対して、最もめざましい成功をおさめた。パスツールは、彼の胚種説によると疑いもなく微生物によって引き起こされるはずの、明らかに伝染性の病気である狂犬病の病原体をみつけることができなかった。パスツールは、その微生物は存在するが、その当時の技術で検出するには小さすぎるということを示唆した。この点でも彼が正しいことがわかった。
 病原体がふつうの細菌よりはるかに小さいこともありうるという事実は、タバコがかかる病気(タバコモザイク病)によって、真実であることが示された。病気にかかった植物からの汁が健全なものを感染させるということがわかった。一八九二年に、ロシアの植物学者、イワノフスキー(Dmitri Iosifovich Ivanovski一八六四~一九二〇年)は、今までに知られているいかなる細菌も通過できないほど、目の細かい濾過機で濾過しても、その汁はなお感染力をもっていることを示した。一八九五年に、このことは、オランダの植物学者、ベイエリンク(Martinus Willem Beijerinck一八五一~一九三一年)によって独自に発見された。ベイエリングはこの病原体を、“濾過性ウイルス”と名づけた。ウイルスというのは、単に“毒”という意味である。これがウイルス学の始まりである。
 他の病気もこのような濾過性ウイルスによって起こされることがわかった。ドイツの細菌学者、レフラー(Friedrich August Johannes Löffler一八五二~一九一五年)は一八九七年に、口蹄疫がウイルスによっておこされることを示すことができた。一九〇一年に、リード(一六五頁参照)は黄熱病に対して同じことを示した。これらは、ウイルスによっておこされることが示された最初の動物の病気であった。ウイルスによっておこされる病気は、ほかにも、急性灰白髄炎・はしか・おたふくかぜ・水痘・インフルエンザ・ふつうの風邪などがある。
 これと関連して、ミイラ取りがミイラになる、すてきな事例が一九一五年に生じた。イギリスの細菌学者、トゥオート(Frederick William Twort一八七七~一九五〇年)は、細菌の集落がぐずぐずになり、消えるのをみた。彼はこの消失した集落を濾過し、その濾液が正常な集落を消失させる何かを含んでいることをみつけた。明らかに、細菌自身がウイルスにかかっていた。このように、寄生者はさらに小さい寄生者に悩まされていた。カナダの細菌学者、デレル(félix Hubert d’Hé relle一八七三~一九四九年)は、一九一七年、独自に同様な発見をし、バクテリアにたかるウイルスを“バクテリオファージ”(バクテリアを食べるもの)と名づけた。
 ウイルスによって生じる病気の目録をつくるさいに、癌は謎として残さねばならない。癌は二〇世紀における殺人者としてしだいしだいに重要になってきた。というのは、他の病気は征服され、残ったもの(癌もその中に入っている)で死ぬ人間の割合が多くなったからである。癌の成長が冷酷に進行すること、しばしば長引き、苦しい死をもたらすことは、癌を今日人類にとって最もおそろしいものの一つにしてしまった。
 胚種説が最初成功していた間は、癌が細菌性の病気であることがわかるであろうと考えられていた。しかし、最近はみつからなかった。ウイルスの存在が確立して後、癌ウイルスが探されたが、やはりみつからなかった。このことは、癌が伝染性でないという事実とともに、多くの人々に癌はまったく病原体によるのではないと考えさせた。
 たとえそうであっても、一般的な癌をおこす一般的なウイルスはみつかっていないが、特定の型の癌に対する特定のウイルス様のものがみつかったというのも事実である。一九一一年、アメリカの医師、ラウス(francis Peyton Rous一八七九~一九七〇年)は、“肉腫”と呼ばれる主要の一種をニワトリで研究していた。その中で、特に彼はウイルスを含んでいるかを調べようと決めた。彼はそれをつぶして濾過した。濾液は他のニワトリに腫瘍をつくり出すことを彼はみつけた。彼自身はこれをウイルスの発見と呼ぶ勇気はなかったが、他の人々がそうよんだ。
 約5年間にわたって、“ラウスのニワトリの肉腫ウイルス”は癌を引きおこす伝染性のものの唯一のはっきりした例であった。しかし、一九三〇年代以後に、さらにいくつかの例が発見された。それにもかかわらず、事実は不明瞭で、癌の研究(腫瘍学)はなお医学の主要な、悩み多い分野である。
 ウイルスが発見されて後四〇年間ぐらいは、その物理的性質は未知のままであったが、このことはウイルス病を処置するための理論的な前進を妨げなかった。実際、医学により最初に征服された病気である天然痘は、ウイルスによるものである。天然痘を防ぐ種痘は、人体に天然痘ウイルスに特異的に反応するウイルスをつくらせた。そして、これは血清学的技術の一種である。おそらく、あらゆるウイルス性の病気は、血清学的処置によっておさえることができるであろう。
 ここで困難なことは、重大な症状をおこさず、しかも有毒な株に対する必要な抗体の生産をおこさせるようなウイルスの株(天然痘について牛痘がしたような役割と同じような)をみつけなければならないことである。この攻撃のしかたは、パスツールが細菌性の病気に対抗するのに使ったが、最近は大した苦労をしないでも培養でき、無毒な株をつくらせるのが簡単にできる。
 不幸にも、ウイルスは生きている細胞内でしか生存することができず、これが問題の困難さを増加させる。そこで、南アフリカの微生物学者、タイラー(Max Theiler一八九九~一九七二年)は、一九三〇年代に苦心して黄熱病ウイルスを、最初サルに、次にハツカネズミにうつして黄熱病のワクチンをつくった。ハツカネズミの中では、それは脳炎の形になった。彼はウイルスをハツカネズミから他のハツカネズミへとうつし、最後にサルにもどした。これによって、弱い黄熱病しか引きおこさず、しかも有毒なウイルスの株に対する十分な免疫を与える無力なウイルスができた。
 一方、コッホの培養基と類似した生命をもつものが、アメリカの医師、グッドパスチュア(Ernst William Goodpasyure一八八六~一九六〇年)により発見された。一九三一年、彼はウイルスの培養基として、生きているニワトリの胚を使い出した。殻の頂上をとると、殻の残りは天然のペトリ皿(一六三頁参照)として役立つ。一九三七年までに、タイラーによって、二〇〇回ほどもニワトリの胚から肺へと植えついだものの中から無毒のウイルス株を選択した後、より安全な黄熱病ワクチンがつくられた。
 新しい血清学的技術のうちで、最もすばらしい業績は灰白髄炎ウイルスに関するものであった。このウイルスは、最初この病気をサルにうつしたラントシュタイナー(二〇一頁参照)によって一九〇八年に初めて分離された。しかし、サルは高価で、むずかしい実験動物であり、多数の感染したサルによって無毒の株をみつけるのは実用的ではない。
 アメリカの微生物学者、エンダース(John Franklin Enders一八九七~一九八五年)は二人の若い仲間、ウェラー(Thomas Huckle Weller一九一五~二〇〇八年)およびロビンス(Frederick Chapman Robbins一九一六~二〇〇三年)とともに、一九四八年にウイルスを皿に浸した、つぶしたニワトリの胚で培養してみた。この種の試みは以前に他の人々によって行われていたが、つねに失敗していた。というのは、ウイルスがふえようとふえまいと、急速にふえた細菌によって培養基がみたされてしまうからである。しかし、エンダースはそのころつくられたペニシリンを培養基に加えることを考えた。ペニシリンはウイルスに影響しないで、細菌の成長をとめた。そしてこの方法で、彼はやっと耳下腺炎のウイルスを培養した。
 彼は次にこの技術を灰白髄炎ウイルスにためしてみた。そして、一九四九年にまたもや成功した。今やウイルスは容易に、しかも適当な性質をもつ無害なウイルスを数百の株の中からさがし出せるほど多量に、培養することができるようになった。ポーランド系アメリカ人の微生物学者、セービン(Albert Bruce Sabin一九〇六~九三年)は、一九五七年までに灰白水煙の三つの型のウイルスおのおのに対する無害な株をみつけ、この病気に対する無害な株をみつけ、この病気に対する有効なワクチンをつくった。
 同様な方法で、エンダースとその仲間のカッツ(Samuel Lawrence Katz一九二七~)は、一九六〇年代の初めに、はしかウイルスの無毒な株をつくり出した。これは、この子どもの病気の脅威を終わらせるワクチンとして役立つかもしれない。」アイザック・アシモフ『生物学の歴史』太田次郎訳、講談社学術文庫、2014.pp.206-212.

 このアシモフの原著:“A Short History of BIOLOGY”by Isaac Asimovが書かれたのは 1964年である。今から半世紀も昔である。その時点で、生物学が到達していた場所から、この50年ではるかに多くのことが解明され、とくに分子生物学は飛躍的な発展を遂げたという。生命に関する科学は、こうしてみるといろんな研究者が、いろんな思いつきで研究し、失敗した者も成功した者も、次にはもうそれが常識になって、ただちに医療や産業として現実に人々の生活を変えた。面白いといえば面白いのだが、新しいワクチンや免疫薬が病気を克服したと思っているとまもなく、細菌やウイルスはそれを学習して、もっと強い形に生まれ変わる。
 科学は一直線に進歩するわけでも、新発見がすぐ役に立つわけでもない、ということがわかる。
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