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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ビートルズの洗礼は、切支丹の洗礼だったか?

2016-06-30 02:34:31 | 日記
A.ビートルズ来日から50年
 50年前の1966年6月29日に、ビートルズが東京にやってきて、7月3日まで滞在し、公演は30日、7月1日、2日の3日間で5公演した。それぞれ約35分間で11曲を披露。日本武道館が初めてロックミュージックの公演に使用された。警視庁発表で空港や公演会場などの警備に延べ8370人が動員され、6520人の少年少女が補導されたという。ビートルズは1962年デビュー。70年にアルバム「レット・イット・ビー」を最後に解散。13枚のオリジナルアルバムを残した。

「“最も接した日本人”体験語る 星加ルミ子さん
 日本人で初めてビートルズの単独会見に成功し、彼らの最終公演となる米国ツアーに同行取材した音楽評論家、星加ルミ子さん(75)は、ファンの間で「ビートルズに最も接した日本人」と呼ばれている。
 来日50周年の記念トークイベントを毎月1度、東京・渋谷で開く。聴衆はビートルズ解散後にファンになった30~50代が多く、彼らと直接会った時のエピソードに熱心に耳を傾ける。
 日本滞在時、宿泊先で、ジョンに「日本の子どもたちの間では何がはやっているか」と聞かれ、とっさに赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」と答えた。イヤミの「シェー」のポーズをしてみせると、すぐジョンがマネをしてみせた、という。
 星加さんは「ビートルズの曲は、いつ、誰が、どこで聴いてもいい曲だと思わせる。いいものは残っていくという見本みたいなもの」と語る。」朝日新聞2016年6月29日夕刊、1面。

 あれからもう半世紀。ぼくは高校2年生だった。高校の同級生の何人かは、羽田にビートルズを出迎えに行った。でもぼくは、何をきゃあきゃあ騒いでるんだ、ミーハーめ!と馬鹿にしていた。しかし、確かにビートルズの曲は一度聴いたら忘れない。「イエロー・サブマリン」なんかはテープにとって何度も聴いていた。その後のロック・ミュージックは、どんどん進化して、ほとんどわけのわからない方向に突っ走っていき、やがて事新たにロックがどうのこうの言うことも無意味なほど多様化した。ぼくの後の世代は、音楽といえば洋楽ロックしか聴かないという人たちか、邦楽ロック風ポップ・ミュージックに馴染む連中ばかりになったが、それも10年もすると廃れて、心地よくて軽薄なニューミュージック全盛期がやってきた。それはビートルズの洗礼を受けたという意味では共通の土俵ながら、都会で育ちの良いお上品なポップスに行くか、田舎の野生を野蛮なロックの叫びにぶつけるかで、色合いはかなり違った。それももはや、21世紀には遠い伝説のようになって、いまの若者は洋楽ロックはかつてのジャズ愛好者のように、ちょっと特殊な偏屈ジイサンだと思うらしく、Jポップが愛すべき音楽だと思う連中がマジョリティだろう。はるか遠くまで来てしまったとしみじみ思う。



B.浦上の切支丹の「旅」の終わり
 大佛次郎の『天皇の世紀』中の、長崎浦上切支丹弾圧迫害の話を読んできた。幕末の記録を引用するせいもあって、大佛次郎の書く文章自体が、漢字を多用するだけでなく、現在のワープロでは出ない難字や現代仮名遣いにはない表現があって、書き写すのはかなり苦労した。たとえば「立てる・建てる」と書くところを「樹てる・築てる」とか、「くる・いる」という動詞は「来る・居る」と表記する。特殊文字でやっと見つけた漢字は、顫・濺・咜・饑・譌・視・茲・遏・剿・輒・嘯など読みすら難しい字が使われている。しかし、だんだんこの文章に馴れてくると、日本語とはなんと微妙な文字の表象を使い分ける書記文なのかと、なんだか身体が震えるような感覚に捉われた。
 ぼくは浦上の切支丹のことは、何となく聞いたことはあったが、さして関心はもたなかった。それがこの6月に長崎を訪れて、26聖人殉教祈念館に行ったことが契機になった。17世紀の殉教は残酷だけれど、ルネサンスの宗教画のように何か神話のような印象だった。しかし、幕末は現在の日本につながる156年ほどしか経っていない近過去である。その体験者が昭和の初めにまだ生きていたわけだ。大佛次郎ならずとも、この事実には驚きを禁じ得ない。

「この蕪坂峠の千人塚の碑をヴィリヨン神父等が樹てたのは、明治二十四年八月のことで、明治六年に釈放されて浦上に帰郷したドミンゴ仙右衛門も甚三郎もまだ生きていて、この碑の話を夢のような心持で聞いた。
 三十二名の殉教者は、乱暴に埋葬されたものだったのを人々は丁寧に改葬した。仙右衛門は流罪となって満五年目、後から送られて来た第二次の追放者でも満三カ年半の希望を捨てぬ忍耐の後の帰国であったが、途中に倒れた三十二名を蕪坂峠に捨てたまま自分らだけ帰国したのは、もとより心残りのことであった。仙右衛門の長男敏三郎は、他の神学生と共に明治三年、オランダ船オリッサ号でひそかに上海に向って脱出したが、仙右衛門がその死を知ったのは、まだ光琳寺に居て三尺牢に入れられている時で、たまたまローカーニュ神父から手紙が来たので見ると、息子は水が変った海外で病死していた。人間の五年間にはいろいろのことが起るものだが、八方に別れた彼等の「旅」の五年は格別であった。それにしても農民として、故郷の土を離れて、よく耐え忍んだものである。
 抑留が長年にわたると共に、津和野藩の取扱いも変化してきた。神がかりの神道家は津和野を出て中央に居たせいもあったろう。また「旅」の切支丹が各地で迫害されているという噂は日本在住の外国人のみならず諸外国でも問題とされ、ひどく評判が悪いのが、太政官の外務当局の頭痛の種となって、明治四年には中央から巡察に役人を諸国に派遣した。これが刺激となって、当局の態度が緩和された。
 津和野には明治四年五月に、外務省権大丞楠本正隆、権小録加藤直純、弾正台少巡察植村義久が来て、親しく光琳寺、法心庵などを点検した。それから一日一合三勺の食糧を増して二号となし、やがて三合となった。楠本は大村藩の人で後に東京府知事となり、晩年には東京の都新聞の社長ともなった。神道とは関係ないひとで、考え方も物にとらわれてない。藁を買って縄を綯い、草履、草鞋を作って売ることも許し、身の上を保証する者があれば日雇取りに出ることも出来た。人人の境遇は変って多少の金も出来、食事が改善されて体力もついて来た。
 遅れて送られてきた者から、彼等は自分らの仲間が各地に来ているのを知った。それを見舞いたく、また津和野の状況を、神戸や大阪の宣教師達に知らせたいと思い立つものが出た。最初に本原の権左衛門、馬場の市之助、他一名が鰹節に餅を背負い、夜の間に牢を脱け出して昼間は隠れて寝て、夜歩くというようにして、岩国の手前の本郷という村まで辿り着いたが、追手の役人に捕えられて縄を受け、五日目に引き戻され、一週間の罰に処せられた。これに懲りずに、機会を見てまた再挙を図る者が出た。森山甚三郎、松尾治右衛門、同岩松、平のトネ、馬場のイネなど、女まで冒険に加わった。
  (中略)
 神戸の教会で不意に彼等を見たヴィリヨン神父は、その時の驚嘆を日誌に記している。
「私がミサを終って、聖堂から出た時、彼等は入口で私を待ちうけ、ひざまづいて、私に『お願いがある』という。『苦しんだ私共の名によって、殊にリーダーのドミンゴ仙右衛門の名によって、飢餓の苦しみの最中、ただ口先だけで改心した弱い人々の罪を許して下さい。そしてもしお許しがあれば、その人たちがここへ告白にこられるまで、何分の償いの業を課させて下さい』と願った。私は彼らが非常に気をつかって自分たちの用事を果たそうとしているのがわかった。彼らは平伏して、『これほどまでに苦しんだすべての人の名によって』とくり返して願った。」
 神父は心から感動した。自分は彼等を眼前にして地に跪きたかったと告白している。これだけの犠牲の年月を送って来た彼等は、自分たちが受けた苦しみのことは言わない。迫害に依って心弱く帰郷した者たちの為に祈ってくれと訴えるだけであった。
「治右衛門はその足で加賀の金沢に妻子を訪うことにしたので、帰途は四人連れとなった。鞆まで便船に乗り、それから徒歩で福山へ行った。(ここでは)信徒は座会所に囚われていると聞いていた。人に尋ねると、直ぐ前の方を指して『座会所はここです。切支丹をお尋ねになるのですか。ここに居るのは皆切支丹ですがね。』といった。よって忍び入ろうとしていると、内から信徒が出て来て『這入って下さるな。番がついている。危ない』と云って差止め、その足で木綿橋の呉服屋に連れ込んだ。そして自分等の服を貸して、上から羽織らせ、夜の十時頃、中へ忍び入らせてくれた。」
 彼等が関係のないこの土地にも信仰の仲間は、居た。津和野の乙女峠に閉じ籠って、外のことを知らなかった者には、目を見はる発見である。
「三昼夜滞在して互いに力を付け、送られて尾道に出て、広島に渡航し、そこに囚われの信徒を訪問した。しかし取締りが厳重で、塀は高く、どうしても忍び入り得なかったのは遺憾であった。宮内、七日市、田野原を経て、二十ニ日目に再び獄中の人となった。土産を分配して大いに一同の気を励ました。」
 もとの迫害のある場所へ自分から帰ったのだから役人たちは怪しんだことであろう。この惨めな状況に在る人々は、自分たちが正しいと固く信じていたので、自由に思うとおりを振舞い得た。
 明治四年になって、棄教者だけを長崎に送還し、改心せぬ者は相変わらず法心庵一帯に置かれたが、外出も勝手になり、津和野藩の印半纏を着て遠方に働きに出ることさえ許された。旧藩重臣の邸などに、土木や日雇仕事に雇われて行ったのである。雪解の時が来て信仰についての干渉もすくない。長崎へ送還される改心者だけは、ここの氏神の守札を下げ渡されて、持って帰ることになった。
 明治四年、岩倉具視が特命全権大使となり木戸孝允、大久保利通を連れて欧米に派遣された。安政通商条約の起源切れを前にして、関税自主権の回復、治外法権撤廃の予備交渉を行うのが目的であったが、浦上の切支丹の迫害を知って日本は信教の自由を欠いた未開の野蛮国と考えられていて、交渉には思わぬ苦労があった。岩倉の渡欧の前後に、俄に浦上の追放者の待遇が改まり、やがて切支丹禁止の高札を撤回し、人々の「旅」も終止符を打つに到った。
 実際に、岩倉大使の一行を迎えたヨーロッパ諸国の空気は、不穏なものがあった。人々は「旧教新聞」にさかんに投書して浦上の人々の近況をくわしく知らせよと、強請した。「我等が兄弟の緩慢な殉教」をば、相変らず基督教世界に知らしめ、彼等の為に屈せず撓まず弁護の労を執り給え。ただ我等と同じ宗教を奉ぜる廉を以て、その臣民を拷問に掛け、悶死せしめつつある国家の代表者を歓迎優待するのは如何にも苦々しく、恥ずかしい次第ではないか、と主張した。風当たりは強いのである。
「この九月二十七日に我々は千二百名の兄弟が流謫あるいは拷問の為に倒れ、猶二千名は棄教か悶死かの間に置かれ、次第に憔悴し死に瀕して居ることを耳にした。しかし、それからは一片の便りもない。一八七〇年来流罪に処せられるか、投獄されるかして、苦悶の中に消え入りつつある日本の兄弟の消息を、自分は探しもし、俟ちもしたが、一向に手に入らない。英国はただ自国の力のみにてでも、圧迫を撤廃し得たのではないか。然し確実な情報がなく、広く世に知られて居ないから、英国の官辺では、ただ岩倉公を饗応歓待する外に何等の施すところもない。」
 英国でさえこのとおりで、カトリック教国のフランスでは、議会の問題となり、国内に大きく反響を呼んでいた。「日本政府が開化の途に入り、文明国の伍伴に列せるが如く吹聴して居る為に、多くは外観に欺かれて、無辜の基督教徒を虐待しつつある事実談を聞こうとしない。」
 浦上切支丹の「旅の話」は、この辺で打切る。私がこの事件に、長く拘り過ぎるかに見えたのは、進歩的な維新史家も意外にこの問題を取上げないし、然し、実に三世紀の武家支配で、日本人が一般に歪められて卑屈な性格になっていた中に浦上の農民がひとり「人間」の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しく抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にも、これまで強く自己を守って行き抜いた人間を発見するのは困難である。権利という理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当るものであった。」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.pp.317-422.

 「人権」human rightという言葉は、19世紀半ば過ぎまで日本にはなかった。なかったけれども、この世に人間が生きて暮らしている以上、自分が理不尽な理由で殺されたり傷つけられたりするならば、人は自分の存在を賭けてあらがい抗議するだろう。それが人権の始まりである。しかし、この国の中には、「お上に逆らうものは末代まで晒し者になる」「強い者には巻かれろ」「空気を読め」という根深い性向が抜き難くある。そういう退嬰的な心情にひたったままで、民主主義の選挙のなどしたところで結果は歪んだ不自然なものになるだろう。
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長崎・対馬・釜山その先・・行きたい。

2016-06-28 01:33:01 | 日記
A.朝鮮半島の農村のこと
 今月はじめ、ちょっと縁があって長崎に行った。長崎の空港は海の上にあるのだが、その大村湾という海は周りを全部陸地に囲まれた大きな湖のようなもので、北の針尾の瀬戸という水道が佐世保湾に繋がっているが、橋が架かるほど湾口は狭い。空港から西彼杵(にしそのぎ)半島を諫早方面から回って長崎市に出るとその先の海は東シナ海に続く外海である。この長崎沖を角力灘(すもうなだ)とい呼ぶというのも、ぼくはまったく知らなかった。なにしろぼくは長崎県に今まで一度も足を踏み入れた事がなかったのだ。
  丸2日間、市電と徒歩で長崎市内を歩きまわって、われながらいろんな発見があったのだが、最後の目標はここからまた飛行機で対馬に行き、田植えをするということだったので、島原・雲仙にも佐世保にも寄ることなく、午前の小型飛行機に乗り対馬に向った。ただ、お天気が良く雲がなかったので飛行機から佐世保、松浦、壱岐という複雑な海岸線をもつ肥前の景色を俯瞰できて幸福だった。対馬のことはいずれ書いてみたいが、対馬を出るときは厳原から早朝の船で博多港に向かった。その船乗り場の待合室に司馬遼太郎の『街道をゆく13壱岐・対馬の道』(朝日文庫)と山本博文『対馬藩江戸家老』(講談社学術文庫)という2冊が売られていた。司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズは東京でもすぐ買えると思ったので『対馬藩江戸家老』の方を購入(\1050+税)して、船の中で読んでいた。東京に戻って早速『壱岐・対馬の道』を本屋で買ったのだが、一緒に同じシリーズの『2韓のくに紀行』も買った。対馬まで行ったことで、対岸の釜山について知りたくなり、この司馬遼太郎が朝鮮半島南部を訪れた紀行文に、今更ではあるが惹きつけられた。この紀行シリーズは、週刊朝日に連載されたもので、「韓(から)の国紀行」は1971年7月から72年2月まで掲載された。シリーズの中でも初期にあたる。その中に、元新羅の慕夏堂(モハダン)という村を訪ね、秀吉の朝鮮侵攻時に捕らわれ朝鮮側に寝返った日本の武士沙也可(サイエガ)のことを思う部分で、農村の日朝比較がある。

 「日本は大化ノ改新から奈良朝にかけ、中国式の律令体制(儒教的体制)をとり入れようとして四苦八苦したが、結局は看板だけになり、内実はまったく失敗した。律令国家としての最初のころは、土着豪族の私権主張のために体制が骨抜きになり、後半は武士という土地私有権の主張者が大量に発生し、それが大同団結して京都や国々の律令勢力(公家)を圧倒したためにすっかりだめになってしまった。元来、日本における律令的発想のもとは、藤原鎌足にはじまる策謀力をもった天皇側近が、
「日本の天皇というのは、中国の皇帝や朝鮮の王のように絶対専制権をもっていない。これに絶対専制権をもたしめるには中国式の制度を輸入し、天下の土地を公有にし、天下の人を天皇の吏か天皇の民にする以外にない」
 とおもったからであろう。しかしながら結局は日本の天皇は中国や朝鮮の王のようには絶対専制権的な存在にはならずじまいで、歴史が進行してしまった。
 が、もし日本において律令的理想が朝鮮の李朝五百年のごとく、ほぼ完璧にちかいかたちで実施され、それが明治までつづいていたとすれば、日本の農村もこの韓国の農村と同様、悠然たる停滞――もしくは私的田園としての好ましい状態――をつづけていたであろう。
「それは暴虐なる日帝三十余年の支配によるものです」
 と、韓国の知識人は例によって千枚透しの錐のようにするどい怨恨的発想の政治論理でもって規定しきってしまうかもしれないが、日帝がいかに暴虐であろうとも――げんにそうだが――しかし長い朝鮮史のなかでその期間はたかが三十余年であるにすぎない。李朝五百年が、朝鮮の生産力と朝鮮人の心を停滞せしめた影響力のほうがはるかに深刻なように思うのだが、しかし私の知りうるかぎりの朝鮮人で、このことをいったひとにただ一人しか私はめぐりあっていない。「自分をこうしたのはあいつだ、すべての不幸とすべての悪はあいつがもたらした」という式の、自分自身の抜け落ちた議論は白刃のようにするどく、さらには百パーセント正しくもあるが、しかしするどさや正しさがかならずしも物を生みだすものではないのである。
  韓国の農村をゆきつつ日本の律令制の崩壊をおもってそのようなことを考えたが、しかしこのことは決して政治的感想ではなく、きわめて長い時間を想定した上での歴史的感想にすぎない。旅行者は結局は管見者である。さらには他国者である旅行者が外国へ旅行してその国の政治の善悪をあげつらうほど不遜でばかげたことはないと私はおもっている。
  韓国の農村を貧困といえるだろうか。
 その社会を測るために、貧富というあいまいな基準が二十世紀のある時期までは大いに用いられたが、いまは農村が荒れているか荒れていないかというほうがより重要な基準であるように思われる。その基準からいえば、日本の農村のほうがはるかに荒れている。
たとえば私どもの少年のころは、田畑のまわりの土手などに夏の蔓草などが蔓延っている現象はまったくなかったが、いま日本中の田園は、山林にせよ、路傍の山肌にせよ、池の土手にせよ、ときには田畑のあぜみちにいたるまでえたいの知れぬ蔓草がはびこって、植物的風景からしてすでに田園が荒れはてているという感じがする。鎌一挺あればこの不吉な荒廃草を刈ることができるというのに、自分の耕作地や山林をつややかにするという気分――もしくは必要、たとえば堆肥作りなど――が薄くなってしまったらしい。そのようにしなくても、他の方法で安直に収穫高があがるからであろうし、さらには農業以外に換金性の高い土地利用があることも知った。農協の貯蓄高が大いにあがったが、逆に田園が荒れた。
が、韓国の農村は荒れていない。」司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』朝日文庫、2008.pp.168-170.  

 これはいろいろ物思いを呼び覚ます文章だが、司馬遼太郎が1971年早春に見たこの韓国の農村は、45年後の今も同じ姿であろうか、と思った。1971年4月に韓国では大統領選挙が行われた。憲法を半ば強引な手段で改憲(3選改憲)した後に行なわれたこの大統領選挙は、与党民主共和党の大統領候補朴正煕と、野党新民党の大統領候補金大中による事実上の一騎打ちとなり、結果は朴正煕6,432,828(53.2%)、金大中5,395,900(45.35%)とかろうじて朴政権が続投となった。軍人出身の朴政権は開発独裁政策で韓国の経済成長を推進し、1979年10月側近に射殺されるまで続く。司馬遼太郎は韓国あるいは朝鮮半島の人々とその歴史について、日本のこと以上に深い思いを抱いていたと思う。それは日本で暮らす朝鮮出身の人と個人的な交流が濃かったことも大きい。これまでそんなことを考えたこともなかったが、急に釜山・慶州・大邱に行ってみたいと思った。



B.浦上信徒への拷問
 身体への物理的苦痛を与えて、人間に何かを強いるというのは、どんな場合に行われるのか。その人間が隠している情報を得るため、つまり自白の強要という場合は、吐いてしまえばそれで終わりである。しかし、その人間の信仰や思想自体を捨てさせるという「文化的」な転向を拷問によって実現しようという行為は、やる側が初めから転向しないなら殺しても仕方ない、と思うか、非転向で殺したのでは失敗であると思うかで違ってくる。切支丹を拷問して改宗を迫った津和野の役人は、どう考えていたのであろうか。雪の降る池に裸で突き落として棄教を迫った役人は、これで命惜しさにウンというだろうと思ったのは彼等の常識からくるが、切支丹はむしろ死んで天国で神に祝福されたいと願っているわけだから、この試練は苦痛であるほど神に近づいてしまう。

 「十二名総御用」と、命令が出た十一月二十六日(明治二年)は非常な大雪で、常より凍てる朝であった。仙右衛門は発熱して臥っていたので、熱がとれるまで猶予願いたいと訴えたが肯かれなかった。あくまでも総員十二名に御用だとある。仙右衛門も、押して一同に遅れて歩いて出て行った。
「仙右衛門、その方は病であるか。」
「左様で御座います。病気だからとお断り致しましても、お聴容れございませんので、出て参りました。」
「勘弁はつかぬか。」
「勘弁ということは出来ませぬ。」
 この会話の後で、
「仙右衛門、甚三郎は氷責めに行う。十人の者は立ちませい。」
 白洲の向こうに二十畳ほどの広さの池があって、氷が厚く張っていた。どうやら、その池へ入れるらしく、警固の役人のほかに、医者まで来て控えていた。退席を命ぜられた十人の者が心を残して立去ると、説得係は、今日こそ二名の覚悟を突き崩して見せると自信を以て永々と説いた末に言った。
「これほど申聞かせ、寒さもひもじさに遭っても勘弁がつかぬと申すならば、裸になれ。その着物は日本の土に出来たものだ。」
 仙右衛門が答えた。
「これは私が拵えて私の国から着て参りましたものですから、脱いでお渡しするわけにはまいりませぬ。……長崎ではどんな罪人でも、病気の時は、全快させた上で御吟味下しおかれることになって居りまする。唯今私は病気でございますのに、いくらお断りしてもお聞入れなく、御吟味なさるのは御無法では御座いませんか。」
 役人は四人の小者に腕ずくで仙右衛門と甚三郎を玄関先に引出させて、大声に呼ばわった。
「仙右衛門と甚三郎、衣類を脱いで池に入れ。」
 二人は反抗して叫んだ。
「脱がせようとお思いなされば、どうにでもなされませ。自分では脱ぎませぬ。」
「御上意だぞ、従わぬと申すか。」
「どなた様の御命令でも、この事だけは不承知に御座りまする。」
 警固の者が、無理矢理に両人を素裸にした。聖母の肩衣(スカプラリオ)は取上げて土足で踏付けた。
「髪の紙撚(元結)も日本に出来たものだ。異人の宗旨を奉ずる奴らの頭に残してはならぬ。取ってしまえ。」
 抵抗もせず一切を剥取られて、大雪の降る中で、両人は寒気に戦慄し続けた。
「池へ入れ。」
 と命令されたが、なかば動けないのでいるのを池の縁まで引摺って行き、岸から突込んだ。氷は割れ、水は深く、一度は頭まで沈んで隠れ、浮上がってもがき回るのを、役人は揃って白洲に並んで見ていた。二人は、浅瀬をさぐりあて、顎まで水が来る所に立ちすくむと、柄杓が用意してあって、小者がそれで争って水を掛けた。
 池水に漬った両人は、合掌して天を仰いで「身を献ぐるオラショ」を誦えている。
「仙右衛門、甚三郎、デウスが見えるか。」
 と、役人が座敷から声をかけた。両人とも答えず、オラショを誦えている。
 この落ち着いた姿を見て、役人等は狂い立った。
「それ、もっと水を掛けろ。手ぬるい。顔へ掛けるのじゃ、もっとやれ。」
 雪は降り続けた。病苦に悩む仙右衛門は、震え出して波打つ軀を制しようがない。天を仰いで一心不乱に祈っているが、知覚を失って来て合掌した両腕もいつか垂れ下がり、脚がなえて、氷の水中に、のめり込もうとした。
「仙右衛門さん。」
 と甚三郎が心配して声をかけた。
「廻っている、廻っている。世界がくるくる廻っている。私はこのまま行くだろう。」
 と、仙右衛門は言った。
「それで私はよかだが……お前の方の覚悟はよいか。」
 蠟のようになった顔色を見て、役人も、小者に目配せした。
「甚三郎、仙右衛門。」
 と大声で叫んだ。
「もうよし。上がってよい。」
 その時、仙右衛門は、声を励まして甚三郎に告げた。
「今こそ、宝の山に入れて頂けようという大切なところじゃ。水から上がるなど考えるなよ、上がらぬぞ。今日は二人、手を引合って行くのだ。」
 役人たちは、口々に叫んで、二人を呼び上げようとした。しかし、上がろうとしない。上る力もなかった。すると長い先端に鉤を付けた竹竿を持出して来て、両人の髪に絡ませ、巻きつけて手繰り寄せた。死体のように両人とも意識がなく、何をしているのかも知らなかった。幾度も水を飲みながら、岸に引寄せられて来た。足が底に着いているとは見えない。玄関先の地面の雪をはらって焚火してあった。そこへ、何か物体のように引据えられ、人手に支えて、暖を取らせた。
「いま宝の山にあがりておるからには、この池の中より上がられん、というておる内に、三間ばかりの竹の先に、鉤をつけ、鉤の先に髪毛をまきつけ、力にまかせてひきよせたり。それより氷の中よりひきあげ、雪を掃き、芝、松葉を二把焚きつけとして、割木をたてて燃し、二人の躰を六人をもってかかい(抱)、その火にあぶりぬくめ入(れ)、気付をのませ、本づかせたり。そのときの苦しさは、何とも申されませぬ。それより着物をきせ、また裁判にすわらせ、役人申すには、
『仙右衛門は本の所に入れろ、甚三郎は町の改心の者のおるところ三尺牢屋に入れて、厳重にいたせ』
 といいつけたり。
 その所は、そこより道のりおよそ三合ばかりあります。その三尺牢に入れられ、躰の震えること、その晩にてやまず、しかるに改心の人々(転向者)、みな泣く者もあり、驚く者もあり、その人々、肴、食物を柵の間より入れんとすれども、入ることかなわず、また、私もそれを好まず、ただ天狗(悪魔)のすすめをうけ、迷いの心がないように、さんたまりやさまに頼み、御主さまの御ともいたすことをおねがいおるところに」(仙右衛門覚書)
 わなわな顫えながら本の牢に帰った仙右衛門を、同志の者が迎えて、自分達の衣類を脱いで着せ、左右から寄添って体温で暖めた。いつの間にか、仙右衛門は病気も忘れてしまっていた。
 翌日、三尺牢に蹲っている甚三郎のところへ小使いが弁当を入れに来て、今日は友八、惣市、國太郎の三人が氷責めに遭ったと知らせた。國太郎は、甚三郎の父親で六十六歳であった。小使いは、苦痛に耐えかねた國太郎が、伜甚三郎が降参しましたならば、私もしますが、倅が転ばぬ限りは、私も転びませぬと言ったそうだと話した。
「お前さんも親孝行と思って、早く転んではどうかね。」
 と、言って聞かせたが、甚三郎は、これをはねつけた。
「宗旨を守る守らぬは、人間各自のことで、親がどうだから子がどうだからと、いうわけのものでない。萬一、親が降参したら、私が代わって宗旨を守ってやる。親が降参せぬとあれば、私が降参するわけには行かぬ。」
 周囲には既に転んだ改宗者ばかり居る。役人の目をぬすんで、彼等が煙草をつけて一服させ、非転向者には配給のないような食物を、そっと、あてがってくれた。しかし、箱のような三尺牢の中に押込められて、窮屈に蛙のように手を突いて蹲っている。うまい食物よりも、早く天国へ行く時を待つは自然であった。」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.pp.302-307.

 身体の苦痛は、それがたんに物理的なものであれば、人はできるだけ物理的に回避しようとする。自分の身体に内在する病気であれば、なんとかそれを緩和し耐えようとする。しかし、自分に暴力をもって身体への拷問を加えられた場合は、明らかな理由がある。問題は単純化され、身体の苦痛と心の信仰が天秤にかかる。今叫ぶほどの痛さは耐えがたいが、それを逃れるために信仰を捨てるのは人として情けない屈辱だろう。ある意味で有難いことに、人間の肉体の神経はあまりに過酷な状況に置かれると意識も感覚も失って、脳の機能から離脱してしまう。それを宗教的に言えば、人間の世界から神の世界にいつのまにか移動していることになる。

「淸四郎の娘はツルと言って、やはり送られて来て、離れた萩に預けられていた。岩国屋敷と呼ばれている百二十間もある長屋が収容所で、左を男子の間、右を女子の間とし、内外二重の柵を設けてあるが、畳も壁も取り払わず、灯火も夜具も水もあった。入牢と同時に逃亡を防ぎ、女たちは縞の囚人服を、男は白地、浅黄地の獄衣に着替えさせられた。
 ツルも父に似て信仰堅固で、度々御用に呼出され、改心を説かれたが承知しない。寒晒しと称して、降る雪の中に長い間、据え置かれた。
「同室の婦人たちはツルの為に祈りを誦えて、天の助力を求めようとした。然し先立つものは涙で、声を出し得るものが無い。やっとの思いをしてオラショを唱え終り、さて庭を見ると、ツルの姿が見えない。いよいよ凌ぎ了せずに改心して部屋に連れて行かれたのかと落胆して、よくよく見れば、体は全く雪に埋れて、唯頭髪だけが僅かに黒く見えて居るのみだ。『居るぞ、居るぞ、まだ彼処に居る様だぞ』と皆非常に悦んだ。」(浦上切支丹史)
 雪に埋れてツルが絶命しそうになるのを見て、賄方の男が二人出て来て、左右からツルの手を取り引立てながら改心を迫った。ツルは、それを降りはなして立とうとして、雪の中に崩れ臥した。
「仕方ない。勝手に死ぬがよい。」
 と言捨てて二人は立去ったが、日の暮れにまた来て、ツルを抱えて連れて行こうとした。
 ツルは自分で起とうとしたが、体が起きない。犬の如く四つ這いになり、賄方の後に匐うようにして随いて、炊事場へ行った。賄方は土間に蓆を敷いてツルを坐らせ、衣服を着せ、燠火の前に出して、暖まるようにした。体に力が入らぬから、思うように暖まらない。手拭を熱湯に浸して乳房を温めるやら湯を飲ませるやら、様々に手当てしてくれた。知覚が戻ると体は刺される様に痛みを覚えて来た。手も指も見る間に腫れ上がった。
 その時、木村という役人が炊事場まで出て来てツルを眺め、賄方に問うた。
「どうだ。言葉が出るだろうか。」
「いや、とても、まだで御座います。」
「然らば、もう少し暖めてやれ。」
 木村は、やがて再び出て来て、ツルが口をきけるのを見て、御用場へ連行した。例に依って優しい言葉を掛けた後に、話を所定の道に戻した。
「もうお任せするだろうね。」
 と木村は言った。
「そんな若い体を壊して了ってはいけないじゃないか。」
「御親切は幾重にも忝う存じますが、然し私は前方言って置きました。どんなに責められても、お任せは致しませぬ。何とか申しましても、正気づけばきっと取消します。どんなことがあっても、お任せだけは出来ませぬ。」
「然う一徹に言ってもならぬが、今日は辛かったろうから小屋に帰って養生するがよい。」
 と、木村は賄方に命じ、ツルを部屋に還らしめた。
 皆は、帰って来たツルを取巻いて泣き立てた。しかし、若い女のツルが、責めにも屈しないのを見てから役人たちは態度を変えて、女たちに御用はなくなった。ツルのお蔭だとして、皆が感謝した。ツルは帰国を許されてから大正十四年まで生きていた。浦上の十字会に入り、五島や外海などに伝道に従って、穏やかな人柄を、よく知らぬ者からも敬愛された。淸四郎は、このツルの実父である。津和野乙女峠で永眠する前夜、同志十一人が枕もとに集って彼の為に祈ると、彼もその祈りに加わっていたが、形を改めて一同に向い、
「私はやがてパライソ(天堂)へ行く。あちらに行ったらデウスに祈って、十一人が十一人とも一人残らず天主のお側に引取っていただくから、それをたよりに辛抱してくださいよ。」
 と言った。」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.pp.309-311.

「乙女峠の収容所で死んだのは、淸四郎だけではない。不改心者の死亡は、三十二名に達し、現在、近くの蕪坂峠で千人塚と呼ばれている場所に次々と埋められた。信仰を捨てず強情と認められた者は、長崎でも行われた手足共に背中に付け繩で縛って梁につるして杖で打っては、水をかける拷問や、雪晒しの責め苦等で、体を痛め死に到った。病気に対し手当を加えたが、棄教せぬ者は自力で外に出て稼いで、薬を買わねばならぬ。その上に、食の不足があった。収容所の牢番が、食事の上前をはねて、小さく私腹を肥やす。この人たちは、もともと困窮して居るから、他人の生命のことなど考えないで、役得の有るのを楽しみにした。武士の支配下の階級制度はそうしたものであった。改心者へは炊具、食器を、不改心者には食器のみを渡した。寒期には不改心者へも薪は渡したが、灯火は宵の内ばかりであった。疾病以外にも、日々の衰弱の道が課せられたのである。」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.p.313. 

 幕末に現実にあった浦上の切支丹弾圧の歴史を、カソリックの殉教という物語の中に置いて解釈してしまうと、ある意味では聖化されたイメージだけで終る。明治六年まで過酷な虜囚生活を生き延びた仙右衛門を象徴とする英雄的な物語を、ぼくたちは心を揺さぶられる記憶として認めるほかない。しかも、1945年8月アメリカが原子爆弾を投下して壊滅したのがこの長崎浦上であったという偶然が、今日その日本人にすら忘れられているとしたら、歴史とはなんなのだろう。ぼくは綺麗に再建された浦上天主堂の前に立って、やはりこの場所が二重の意味で特別な場所だと心に刻んだ。
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EU離脱の心情の向く方向・・英国は切支丹か?

2016-06-26 03:41:54 | 日記
A.国民投票の衝撃
 イギリスのEU離脱をめぐる国民投票は、僅差で離脱派が勝利したというニュースは、日本のメディアも力を入れて報道したが、戦争が起きたような分かりやすい話ではなく、ただ何それ?と日本の大衆は戸惑っている。なにせそれがどんな意味と効果を持つのか、一般人にすんなり解る話ではないので、専門家やエコノミストなどが解説に引っ張り出されて忙しい。とりあえず、イギリスや欧州に出ている日本企業への影響が関税等の負荷が重くなり、ぐっと株が下がって円高が進んで景気が悪くなる、らしいよ、というあたりが大方の反応だろう。それ以上の世界経済への影響は、いろいろ予想されるが予測は難しい。でも、イギリスが自分のことは自分だけで決める「普通の国」に戻って、ヨーロッパ共同体から離脱するだけなら、とりあえず遠い日本にはEUも英国もただの外国に変わりなく付き合えばいいだけで、そんな利害の深刻な対立に関与することはないだろうと、のんきに構えている。少なくとも日本の政権を左右するほどのアメリカ合衆国との関係のように、重大なものではないと。しかし、短期的なしかも経済関係だけで、このEU離脱を考えているのはいかがなものか。

「東京新聞・社説2016.6.25 歴史の歩み戻すな 英国がEU離脱 
 英国の欧州連合(EU)離脱は、欧州の壮大な実験と呼ばれる国家共同体への鋭い警告であろう。しかし、人類の知恵の歩みを止めるわけにはいかない。
 欧州には、国民性を表すこんな言い方がある。スペイン人は走った後で考え、フランス人は考えた後で走り出す。英国人は歩きながら考える。
 その歩きながら考える英国人の決めた離脱だが、欧州がいまの結束を固めるまでの前史は長かった。
 チャーチルの呼び掛け
 第一次大戦後にまでさかのぼる。荒廃した欧州を一体化しようとの主張が出てきた。中心となったのがオーストリアのクーデンホーフ・カレルギー伯爵。母親は日本人の光子という、コスモポリタン的な生い立ちの人物だった。しかし、フランスへのリベンジを誓うナチス・ドイツが登場して、二度目の大戦が起き、実現しなかった。
 第二次大戦後、今度こそ欧州に平和を、と訴えたのが、英国首相のチャーチルだった。「欧州という家族を再生させる最初のステップは、フランスとドイツの協調でなければならない。1946年、スイス・チューリヒでの演説で欧州合衆国の創設を呼び掛けた。ドイツに二度と戦争を起させないという思いとともに、「鉄のカーテン」の向こうの、ソ連を中心とする共産圏への警戒もあったのだろう。
 しかし、チャーチルが政権を退いた後の48年、フランスが持ち掛けた、EUの母体となった欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の設立話に、英国は乗らなかった。石炭、鉄鋼の生産で、大陸欧州と競合していた。その二十五年後、英国がEU前身の欧州共同体(EC)に参加した時には、英国にとって腹立たしい構造に固定されていたという。バスに乗り遅れた。
 EUのこうした歴史を民衆に語り掛けたのが、今回、離脱派のリーダーとして名をはせた前ロンドン市長のジョンソン氏だ。
 EU母体発足時の首相がチャーチルだったら、英国に有利な組織になるよう交渉を進め、「民主的に選ばれた各国政府の決定が、日常的に『超国家的』機関によって覆される」という、EUの現状にはならなかっただろう、という(「チャーチル・ファクター」プレジデント社)。今回の投票運動では、これらEUの不備が具体的に指摘された。
  分断された社会
 例えば、EUの共通漁業政策のせいで、海に囲まれながら自由に漁獲ができない。
 膨張と拡大を続けるEUで、新たに移動の自由を得たポーランドなど中東欧からの移民が急増し、職を脅かす。高邁な理想を掲げたEUへの英国民の不満は、生活に根差した切実なものだった。
 残留支持派は若者や、高所得者・高学歴層、離脱支持派は大英帝国に郷愁を抱く高齢者に加え、低所得労働者たち。既得権益派とそれにあずかれない人びと。英国社会は真っ二つに分断されてしまった。火種は波及しかねない。
 シリア難民受け入れに各国は難色を示し、解決策をまとめ切れないEUに不信を強める。オーストリア大統領選では反EUを掲げる極右候補が半数近くの票を獲得し、ローマではEU懐疑派市長が当選した。寛容が国是のドイツでさえ、反ユーロ、反難民を掲げる民族主義政党が伸長している。各地で脱退を叫ぶ声が高まり、英国離脱を機に、EU崩壊にもつながりかねない。
 EUがもたらしてきたものを思い起こしたい。
 欧州では大国間の争いがなくなり、安定が続く。域内の若者の往来が活発になり、互いの習慣や文化への理解が進んだ。EUの存在意義、果たしてきた役割は大きい。
 英国離脱で形は変わるが、EUはもちろん死んだわけではない。英国はもともと、ユーロを導入せず、国境審査を免除し合うシェンゲン協定にも参加しないなど、一線を画していた。英国が抜けるEUが、ドイツ、フランスを中心に結束を強める可能性もある。
  EU再生の教訓に
 EUと英国は二年かけて離脱に向けた交渉を進める。離脱決定で直面する困難の中から再び残留を望む声が出てくるかもしれない。各国の民意や主権と、EUはどう折り合いを付けていくか。
 英国の決断を崩壊の序曲とするのではなく、祭政を考える教訓とすべきだ。」東京新聞2016年6月25日朝刊、5面社説。

 EUは近代ヨーロッパが繰返してきた戦乱、とくに敵も味方も数多くの命を奪った20世紀の二度の世界大戦の痛切な反省から、国民国家という枠組みを超える友愛と連帯のゲマインシャフトを築く試みの成果だった。事実として1945年以後現在まで、ヨーロッパで国家間の戦争は起きていない(旧ユーゴでの民族間戦争はあったが、あれはEU外)。そのことを忘れて、強い国家を求める人々が「大英帝国の栄光への郷愁」「誇りある王国への回帰」などというアナクロニズムに自己同一の根拠を求めて、排外的孤立主義に心を寄せるならば、ヨーロッパは再びぐらぐらと揺れ始める。それは、国家を越えたグローバル資本主義というもうひとつの悩ましい普遍に対する反感を含んでいる。ぼくたちのいる日本も、まるで英国をなぞるように「大日本帝国の栄光への郷愁」「誇りある神の国への回帰」という愚かな時代錯誤に囚われた政治指導者を、消し去ることができていない。



B.津和野という城下町
 石見の国というのは今の島根県西部、幕末までここには津和野藩(4万3千石)と浜田藩(6万1千石)という大名家があり、浜田藩の最後の殿様松平武聰という人は水戸の徳川斉昭の子で、最後の将軍徳川慶喜の弟であったことから第二次長州討伐戦争で幕府軍の先鋒に立ち、大村益次郎の長州勢に攻め込まれ、城を焼いて逃亡した。津和野藩の方は、亀井という殿様で国学尊皇攘夷に熱心だったため長州側についた。維新後は尊皇イデオロギーの担い手として津和野は神祇官の中枢に居た。そのことがたぶん、浦上の切支丹が主に薩摩や加賀のような大藩に預けられたのに、小藩の津和野に堅信者送られ、最も熱心に切支丹の改宗に過酷な責めを行った理由かもしれない。

「二十八名の浦上切支丹の第一波を収容した津和野の光琳寺は、峠の上り口の狭い坂道を少し登って、三方が山の小さい地所に在り、坂道に竹矢来を組んで、そのまま牢囲いと成った。本堂は本尊を置く内陣に続いて、十五畳と九畳で、仏間の三畳にも誰かが寝るとしても、一畳に一人の空間に当る。
 待遇は、やがて一変した。明らかに懲らしめの目的で、折角敷詰めてあった畳を取除いた上に、減食に処した。
「尋常の説得ぐらいでおめおめと冑を脱ぐ筈がない。役人も遂に決心した。次第に畳を剥いだ。飯櫃も取上げて、飯は物相(もっそう)に入れて来る。而も一日にやっと三合足らずだ。それに塩と水とを少し入れてあるばかりで菜はまったくない。冬になっても、夏着て行ったままの薄い単衣一枚きりだ。煎餅布団の一枚もない。ただ蓆を一人前一枚ずつあてがい、別に塵紙を日に一枚あて支給されるのみだ。よってその塵紙を飯粒で貼り合わせて単衣の下から着た。夜の火の気もない。凍りつく様な板の間に蓆を着て、二人ずつ抱き合って寝る。すると体温で腹部は多少温まるが、背が水の様になる。今度は起きて背合わせになると腹が冷える、という塩梅で、一夜の中に三、四回も腹を合わせ、背を合わして、夜の明けるのを待つのであった。そして三日に一度か五日に一度は、必ずごように喚出される。」(浦上切支丹史)
 空腹が、これに苦痛を加えた。たまりかねて、減食の辛さを訴えて増量を願出たが、役人たちは決して取上げない。これは迫害であって、その効果は次第に見えた。「それより御用さいばん、きびしきにあいなり、それよりだんだん改心にあいなり、二十八人のものも拾六人ほど、降参しました。」(守山甚三郎手記)
 十六人の改心者が出たのは、最終段階の総計であって、最初は六人が転びを申出て、他の者から隔離され、光琳寺より坂の下にある尼寺に移って、畳の上で食事も充分に与えられるようになった。棄教者が十六名に達したのは十一月になってからである。一緒の船で送られて来て下関で別れ、萩へ送られた人々のその後の様子が知れて来た。六月から十二月までの、同じ期間に萩では五十四名が改心して出た。津和野にも動揺が及んだ。改心者は、法心(真)庵に住んで一日に白米五合、半紙一枚、菜代七十一文ずつを支給され、内職も許され、日傭稼ぎに出ることさえ認められた。誰だって楽をしたい。光琳寺より坂下の法心庵の生活の方が、待遇もよいし拘束も少なく自由なのである。ただ、そちらへ移る為には、改心の起請文に血判をし、鷲原八幡宮の傍ら川で禊をすませ、藩から支給する新調の衣服に着替えて、八幡に社参、神楽を捧げ、神酒を受けて拝礼の後、初めて、法心庵の青畳の上に収容される。信仰堅固で頑なな者には、これらの式事に立つのが踏絵を強いられるのにひとしい苦痛であった。
 第一次流罪の二十八名の内、十六名は転向や死亡し、残るは十二名だったが、津和野藩が向けた千葉、森岡、神官の佐伯らの役人も、この人々の説得には手を焼いた。その間に中央から下って来た宣教使も介入して説得に努めたが、仙右衛門以下、浦上以来の法難の体験者は信仰が固くて屈しない。この宣教使は、小野石齋と一本に記してあるが、前に出た大野積齋である。長州領に来て既に六十六名の者を改心させたことを自慢の一つとし、聖書については仙右衛門以上の知識さえ持っていて、それを楯に威嚇を試みるのが得意の手であった。それも仙右衛門等の一筋の信仰の前には成績を挙げ得ないで、帰って行った。石齋は仙右衛門に、モーゼの十戒を言って見ろと要求して、無学の仙右衛門が、十カ条の全部を言えず、途中でつかえた。
「小野石齋あざけりて、そのくらいな事では、天主に身を献ぐる、というだけはないというて、アブラハム、イザアクなどの事をよく説きて」自分の方がくわしいから得意顔で、「長州の六十六人は皆改心した。お前にも申しつけるから互いに相談して、明日までに返答せよ」と迫った。
 仙右衛門は、教理の知識には乏しいが、信仰の深さは別で、遂に屈しない。宣教使は怒って、仙右衛門と熊吉、和三郎を引分けて別室に置かせ、自分は山口に帰って行った。津和野の役人は、次いでこの三人を改心者の居る尼寺へ連れて行き、改心者に守衛させ、三畳敷に三十日ほども閉込めて、食物も少ないまま、信仰を捨てさせようと、改心者が楽をしている様子を見せた。それでも彼等が動かないのを知ると、考え出したのが三尺牢であった。三尺四方の牢屋で、高さまでが三尺しかない木箱である。
   ◇
 三尺牢の壁は厚さ一寸二部の松板を三方に打ち付けてあった。一方だけ二寸角の柱を一寸おきに打ってあるから、窒息はしない。しかし、大の男が、高さ三尺の、立つことも出来ぬ箱の中に入れられる。食物は天井に当たる部分に小さい穴があって、そこから物相を出し入れする、牢は全部で三個準備してあった。御用(説諭)に際して、不遜なり強情と睨まれると、この牢に入れられた。
 人間の扱いではなかった。
「真先に家野郷のアントニオ・マリア和三郎が槍玉に挙げられ、二十日間ばかりも之に打込まれた。」(浦上切支丹史)
 一メートル立法の狭い中に、平たく座ったままの二十日間、起居などと言うものでない。坐ったまま失神に近い姿である。「彼は到頭その為に病を得、自分では到底回復の見込みなしと覚悟して、早くも最期の準備に取掛った。金曜日、吾主御受難の日(基督の十字架に上がった日)が来る毎に、『今日もまだ天主様はお呼び取りなって下さらぬのでしょうか』と、永眠の日を今や遅しと俟って居る。
 同志の人々は獄内に閉じ籠められ、籠の鳥も同様、衣は薄く食は乏しくて、此の儘にして居ては、饑えと寒さに斃れるより外はない。然し、窮すれば通ずるとの言葉通りに、彼等は抜け穴を作って外部と交通する工夫を運(めぐ)らした。天保銭を幾枚か所持して居たので、何喰わぬ顔をして賄方に頼み、瓦の破片を拾って貰い、唾を付けてその天保銭を研ぎ、鋭利な刃物とした。それから暇に任せて少しづつ床板を削って居ると、二日目頃には指の一本這入る位な穴が出来た。斯うなればもう占めたものだ。その穴に指を差し入れ、力に任せて床板を引離し、床下に下って壁下の土を土竜のようにゴソゴソと掘り、人の一人ぐらいは優に出入りされる程の抜け穴を拵え、夜陰にその穴から潜り出て、法真(心)庵(尼寺)へ行き、棄教者の同情に縋って、漸く露命を繋いだものである。」
 アントニオ・マリア和三郎の三尺牢も、法心庵に置かれてあった。
「さて和三郎は三尺牢に打込まれ死に瀕して来た。ある夜仙右衛門は抜け穴を潜って見舞いに行った。
 和三郎は涙ながらに、
『悪魔が私の前に出て来ました。いよいよ最後と思って誘いに来たのです』
 と訴えたので、仙右衛門は、
『ゼズス様の御パッショ(苦難)を思いなさい』
 と勧めて彼を慰めた。
 自分等は何時までも斯うして居るのではない。一度は必ず昔の二十六聖人のように殉教の光栄を得るものだ、と信じ込んで居た和三郎は、ここで病に倒れ、皆と一緒に生命を天主に献げ得ないのを、よほど残念に思ったらしい。苦しい息の下から仙右衛門に向い、『私の死体はこのままにして置いて、皆が江戸の鈴ヶ森で刑に遭う時、私の骨も共に持って行って下さい』
 と、くれぐれも頼んで、最後の目を瞑った。」明治元年十月九日、日曜日のことで、享年二十七歳であった。
  (中略)
 翌年正月二十日には、城の越のヨハネ・バプチスタ安太郎が、誇り高い最期を遂げた。彼はやはり三尺牢に入れられ、冬の真最中、雪の降りしきる庭に、蓆一枚の上に置かれ、役人が交代で出ては、改心を迫ったが、少しも動揺しなかった。
  ◇
 厳冬の夜間を、雪の上に置かれた三尺牢の中に身動きも出来ずに居ることで、気力は確かとしても肉体が耐え得るものでない。下痢を起し瘠せに瘠せて骨と皮ばかりになった。この安太郎に力をつける為に、床下の抜け穴を潜って甚三郎や仙右衛門がひそかに見舞に来る。
 もう最後が間もないものに見えた。
「ひとりで寂しかろうな。」
 と、仙右衛門がささやくと、安太郎は顔にあかりが差したように微笑を見せて、答えた。
「否、すこしも。」
 そして不思議なことを言った。
「毎晩、四つ時から夜明まで、それはきれいなきれいな、十七、八歳ぐらいで丁度サンタマリア様の御絵に見るような女の方が、おれの頭の上に御顕れ下さいます。サンタマリア様のように思うのです。そして、お優しいお声で、いろいろお話して慰めて下さいます。でも、この事は私がまだ生きて居る間は誰にも話さないで下さい。」
 仙右衛門は息を詰めて、それを聞いてから言ってやった。
「何か、親や兄弟に言って置きたいことがないか。」
「おっ母さんにただひとこと。おれは、十字架に上っておなくなりになったゼズス様といっしょに死ぬ。たとえ畳の上で死んでも、ゼズス様の十字架とは離れていない。これだけ、言ってやっておくんなされ。」
 ヨハネ・バプチスタ安太郎は、五日の夜に永い眠りに就いた。その後で、土井の友八が呼出され、夜になっても帰って来なかった。中野の甚三郎と、他の一人が、例の抜け穴から出て行って、御用場の外の小庭に隠れて、様子を窺って見た。雪が地上に二、三尺も積もった夜だった。
 友八は、二十六歳の青年だったが、落ち着いて役人と話していて、議論に屈服するような風は見えない。帰って皆にそのことを知らせると、夜が明けてから友八は無事に帰って来た。心配はないのだ、と言った。
 今度は甚三郎が呼出されて行った。浦上村中野の者で、二十一歳だったから、一番年少であった。役人の一人の家に呼入れられ、絶食で弱り込んで居る彼の前に、ありったけの美味そうな馳走を並べて見せつけた。口説きに当った役人は、家の主の千葉と、森岡、金森の三人であった。
 千葉「お前は花ならば蕾じゃ。此儘に朽ちるのは如何にも惜しい。そこで今日はお前に折入って相談があるのじゃ。今のままにして居ると、御上の重い御法度を犯しているのだから、一度は重刑に処せられることは分り切って居る。年若いお前をそうするのは如何にも不憫の至りじゃ。」
 相役の者も傍から加勢する。三人がきっと膝を立て、両手を突いて相談にかかった。
 森岡「この節、お前が改心して呉れぬとあっては、我々三人に切腹を申付けるという御上の御厳命である。どうか、三人の命を助けると思って、言う所を聴いてくれ。お前はまだ年が若い、刀の錆になって生命を捨てるのは、あたら花の蕾をむしられる様なものだ。なんとか勘弁を付けて見てくれ。」
甚三郎が逃げるに逃げられず、困り切って黙り込んで居ると、森岡は繰り返して促した。
「どうじゃ、分ってくれたか。道理を嚙み分けて、勘弁を付けてくれい。」
 甚三郎は漸く答えた。
「随分、胸に受取りました。それでは私の申上げることも一応お聴き取り下さいませ。私というものは、九州長崎に於て、宗旨の上から長崎御奉行様のお裁きも度々受けました。村方の庄屋、御代官高木作左衛門様の御意見も一再ならず承って居ります。それで宗旨代えが出来ませんから、親兄弟、親族にも離れて、この国へ参ったもので御座います。この国へ参りましてこれまで栄華をして居りますか、牢住まいをして居りますか……私の身は憐れなものですか、果報なものですか……。若し唯今の仰せに従い、改心いたしましたならば、これまでの艱難苦労も水の泡となりませんか。長崎御奉行様に強情を張ったのが、無益にはなりませんか。それでは御奉行様に申訳が立ちますか。篤と考えて見て下さいませ。」
 天下の長崎奉行にくらべると、役人等は津和野という山国の小藩の役人なので、二十一歳の年少者が、その相違を指摘しながら反論するので、かさにかかって説諭する方が、ひるむわけであった。
「こういう都合になって居ります。今更何の顔あって改心するの何のと申されますか。」
 面目を失った相手は顔色を変えて立腹した。
「貴さまは何だ?我々三人を何と思う?武士が大小を捨てて相談するのに、聴容れぬとは不届き至極だ。」
     ◇
 その前後に頻発した諸国の百姓一揆の農民も積極的であったが、吟味に入ると、これまでに不屈の態度は示さなかった。説諭に当る役人は、太政官に対する津和野藩の面目を念頭に置いていた。津和野の神道家、国学者が、現在、中央の神祇官を指揮して居る。その叱咜と鞭がはね返って藩にかかる。空腹の百姓の子伜が、目の前に並べて見せた馳走にも目をくれず、役人の懇篤な説諭に対しても顔を起して主張すべきことは明確に抗弁して出る。
 役人「その方は不届き千萬な奴だ。この間も、彼の通り七重の膝を八重に折って申し聞かせても聴き入れなかった。よし、その儀ならば、明日は山奥に引き上せて打首にする。その通り心得ろ。首の座になってから後悔するな。」
「甚三郎の首は、そんな廉い首では御座いません。」
 と、不敵な若者は言い、役人は満面に朱を濺いで、猛り立った。
 役人「甚三郎の首は廉くない?なんで、そう申せる?」
 甚三「さればで御座います。甚三郎の首はそう廉いもので御座いません。長崎表では、人をあやめた者でも、押入り強盗でも、公証の読聞かせがありまして、それに爪印を捺した上で江戸に御伺いが上り、生殺の御指図が下ったうえで殺されることになって居ります。あなた様方は、唯今、何と仰有りました。明日は山奥へ引上せて打首にするの何のと、私めの首をお取りになれば、あなた様方の生命もありますまいぞ。」
 堂々と人間を主張する。役人は言詰った。プンプン怒るばかりで、何も出来ずに引き上げて行った。その返報は、何かの形で下る。侮られた権力者に常套の事であった。卑怯なのである。」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.pp.294-302.

 先日ぼくは、長崎に初めて行って26聖人殉教地・記念館に立ち寄った。慶長元(1596)年、長崎西坂の丘で京阪で布教活動をしていた宣教師など少年を含む26人が十字架上で処刑されたことを、ぼくは単なる歴史知識として知っていたけれども、カソリックに対する偏見もあってただの悲劇としか思っていなかった。しかし、この記念館の展示はなかなかに興味深く、ぼくは1時間以上そこで何事かを考えざるを得なかった。そして二階にあった不思議な四角い箱が、なぜか津和野に聖母マリアが現われたというカソリック的な奇跡を再現する展示だったことを、後になって気がついた。この狭い牢屋に閉じ籠められ立つこともできない切支丹の信仰は、死んで神の国に行く栄光を願う堅信者と、この苦痛を逃れたくて信仰を捨てた棄教者との深い溝も越えようとする。
肉体の苦痛は確かにあの世の栄光よりリアルである。ぼくも骨折して大手術をしたときに、こんな痛みを耐えるなら死んだ方がどれほど楽かと思ったから、棄教者を非難することは控えたい。宗教が人間にもたらす試練と至福とは、政治権力によって過酷な弾圧がなされたときほど燃え上がる瞬間はないのだろう。キリスト教は神の子イエスの受難と再生を、人間への畏敬と愚劣と悔悟とをスパークする目が焼けるような光景としてしつこく繰り返す、異様で残酷な一神教である。

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選挙の争点は、ほんとうの問題点なのか?

2016-06-24 03:48:40 | 日記
A.選挙という手段の危うさ
 参議院議員選挙が始まって、各政党と候補者はそれぞれ主張や政策を訴えている、ようにみえるが、今回から選挙権年齢が引き下げられた18歳からの有権者を含め、投票率が上るかどうかがひとつの注目点である。仮に大きく上がった場合は、選挙結果にどう影響したかも興味深いが、前回同様か下回るならばこれはこれで国政選挙による議会制民主主義への深刻な見直しという議論も出てくるかもしれない。有権者は、政治にも選挙にも関心を持てず、持ったとしても今の日本のなにが問題で、各政党の政策がどんな効果をもつのか、よく分かっていないのではないか、という疑いは以前からあった。選挙に行きましょう!というだけでは学校秀才の模範解答みたいで、心に響く切実さがない。選挙なんか行ったってたかが一票にすぎず、世の中の流れをぐっと変えるほどの効き目はない、としか思えない人は、結局行かない。そこで、実際に投票所に行くのは、町内会、商店会、PTAや宗教団体などで個人的に付き合いのある知人あるいは家族親戚に頼まれて、義理と人情で投票に行く人々か、暇つぶしに気まぐれで投票所の前で候補者の看板を見ながら、感じよさそうな候補者に入れる人々がほとんどになる。その結果、投票率は全有権者の半数を割り、選挙が「民意を代表」するものといえるか怪しくなり、つまりは政権与党に有利に働く。
 しかし、今の日本でほんとうに重要な問題は何だろうか?少なくとも、国家が権力を行使することで解決可能な問題は何だろうか?この選挙では、「アベノミクスの成果を問う」つまり、アベノミクスを更にエンジンをふかして進めることで日本が豊かで安定した社会を作れる、と考える自民党と公明党に対して、アベノミクスはもう失敗で、それがもたらすのは格差拡大だから分配と生活支援に転換すべきだ、というのが民進、社民、共産、生活の各党がいる、という図式になる。自民党の最終目標はアベノミクスの成否なんかじゃなくて、憲法9条改憲なのは確かだが、今はそれを敢て言わないで、選挙が終わったら憲法のどこを変えるか議論しましょう(すでに変えるのを前提にしている)という安倍的詭弁トリックである。
 アベノミクスの成否という論点は、単純に言えば、日本経済がちょっとだけでも経済成長することですべての問題は解決に向かうという信仰的思想の土台の上に乗っている。そのために何をするか、という次元で考える限り、アベノミクスは確かに1つの答えなのだと思う。批判する野党には、アベノミクスに正面から立ち向かう覚悟も思想も貧弱である。それは経済成長を維持しなければならないという強迫観念しかないからだ。その結果、何が起ったかといえば、国民の資産を経済成長という呪文に投入し続けたあげく、返済不能かもしれない国家の借金である。

「危険な出口:竹田茂夫(法政大学教授)
 量的緩和の出口論を封印してきた日銀総裁は、最近トーンを変え始めた。背景には、数年で日銀がすべての国債を保有する予想があり、ベースマネー、つまり国債売却代金が積み上がる日銀当座預金と現金通貨の合計が名目GDPの八割にもなるという異常事態がある。国債や通貨への信認が崩壊するリスクがはっきりと見えるようになったのだ。
 最悪シナリオはこうだ。大規模災害などの後始末で巨額の財政出動が要請されると、財政への疑念から長期金利急騰と国債利払い費の膨張が生まれ、財政破綻回避のためのさらなる財政ファイナンスが事態を一層悪化させ、超インフレや資本逃避が生じる。
 団塊ジュニアが退場するまで半世紀の間は、日本の人口ピラミッドは頭の大きい「聖火型」であり、労働人口の少ない高齢化社会で社会保障の水準を確保することが市民社会と政治の最重要課題となろう。福祉国家をどう維持・充実するか、財界や一部の経済学者が声高に唱える雇用の流動化に対抗して、どう勤労者の権利と生活の安定を確保するかが問われるはずだ。
 欧州連合の緊縮財政は民衆に大きな犠牲を強いる。英国労働党左派はインフラ投資のための「民衆の量的緩和」を主張するが、需給ギャップの小さい日本でヘリコプターマネーに出番はあるのか。」東京新聞2016年6月23日朝刊、29面特報・本音のコラム。
 
 どこでもよい。日本の地方を歩いてみれば、確実に進行しているのは、人口の減少と産業の弱体化である。



B.浦上切支丹への弾圧(続き)
 大佛次郎『天皇の世紀』は雄渾ともいうべき書物だが、安政六(1859)年から明治六(1873)年までの幕末維新という歴史的時間、長い歴史のなかでは一瞬ともいうべき、たった14年間を多角的視野で凝視した歴史書である。一定の確固たる歴史観・価値観をもたずに歴史を語ることほど空しいことはないが、単一偏狭な歴史観・価値観からすべてを断罪する歴史ほど、後世に罪なものはない。幕末に沸騰した水戸学や平田派国学の皇国史観は、その後にできた大日本帝国の国家思想の有力な背景を構成した。78年後にそれが到達した現実は、国家の破滅だった。大佛次郎は、その経験を踏まえてその出発点を丁寧に見直していく。すると見えてくるのが、徳川封建制に安住していた人々の戸惑いと混乱、それを打倒しようとした側もまた、多くは目先の危機に立ち騒いでいただけで、歴史の方向など見えていたわけではなかったこと。だから明治国家の成立と近代化への道は、きわめて奇跡的な出来事であったということだ。ただ、大佛次郎の目は、その混乱と愚劣の中で、毅然として屹立する英雄的な人間が少数ながらいたことに感動する。それは確かに日本人にとって誇りを与えられる彫像だろう。

「明治の国家神道は、政府の必要からできた新しいものであって、古い時代遅れを持出して継いだところで、所謂古代の神道とも全く相違していた。新政府の役人は、是と同じ便宜本位の勝手な扱い方を仏教にも基督教にも向けた。権力に依って軽く防遏できるものと信じたのである。英国公使パークス始め、外交団の人々の信仰に対する理解、説く所とも、ひどく隔絶していた。宗教に対する日本と西欧との態度の相違と考えてもよいであろう。外国では信仰は単なる便宜でも手段でもなかった。これは精神上の問題で、人間の良心が原体質となっていた。
 浦上の切支丹信徒の大量遠島が行われると、外交団はこれを人道上の問題として太政官に抗議し、特に英国公使パークスは長崎まで行って在地当局と談判してきたことであるし、追放遠島は中央政府の命令を以て行なうことで出先当局では如何にも成し難いと答えて交渉を拒絶されたことでもあり、長崎からの帰途、寄港した兵庫から日本政府に対し、文書(明治二年十二月六日付)を以て抗議を申入れた。」
 しかしそれは、できたばかりの「天皇陛下政府」内部の処分に、何の実質的変更ももたらさなかった。
「パークスは、今度長崎で七百名からの信徒が流罪に処せられたと聞いたが、その理由はただ、基督教を信奉するという廉に過ぎない。これでは大坂での約束は守られて居ると申せないと非難した。
 これに対し、岩倉具視から答えた。
「切支丹は、決して苛酷には取扱ってない。家族が離れ離れにならぬよう土地を与えて、生活の道が立つようにしてある。従来切支丹に対する処罰は磔刑であった。これを列国使臣の希望に依って、緩和したつもりで居る。」
 次の言葉に注意すべきである。
「我国のように、国民が唯一個の宗教を信じて居る所では、新たに他の宗教を入れて混乱を惹起するのは、国家の乱れる基となります。しかし若し浦上の切支丹がただおとなしく切支丹の教えを奉じて居るに止まるならば、政府と雖も決してこれを他に移したりなど致さない。然し宗教上の故か、あるいは悪漢が中に這入り込んだ為かして暴動が起ったので、それを取鎮めるが為に彼等を引離して流罪に処した。罰したのは、叛逆を起したからです。」
 ウートレー仏公使「貴官の御言葉は、文書の示すものとは相違して居る。彼等はどの点で政府に服従しなかったのですか、単に、基督教を信仰してい居る点ですか。」
 澤宣嘉が脇から発言した。
「私は長崎の総督でした。隣藩の悪漢、往々切支丹のへ這入り込んで、洗礼を受ける。捕えようとすれば反抗します。実以て彼等は強盗に過ぎないのです。」
 ウートレー「村民を挙って御処分なさるほどの威力がおありなのに、悪漢の二、三人を逮捕お出来にならんのですか。」
 澤「悪漢を捕えようとすれば、宗教の為に捕えるのだろうと言って、全村挙って役人に抵抗したので、已むを得ず全村を罰することになりました。」寺島宗徳も主張した。
「切支丹は平生、他宗の者と折合い悪く、他宗の者を圧迫して無理強いに自宗に引入れようとし、在りもせぬ偽りを外国公使達に訴えるのです。」
ウートレー「失礼ながら、私などは、一度もそんな訴えを受けたことがない。」」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.pp.275-278.

 浦上の切支丹の「旅」が始まる。ひとつの村に暮らしていた人々をすべて、家族もばらばらに分散して、遠い他国に虜囚として移住させた、という事実が明治維新の真っ最中に行われた。移住先での扱いは、藩によってさまざまだったが、基本的には彼等の信仰を捨てさせることが目的だった。

「浦上の切支丹が預けられた先は、三十数ヵ所に及び、九州、四国、中国地方の大小諸藩で、最も人数の多かったのは、尾張名古屋、紀州和歌山、加賀金沢、薩州鹿児島で、各々凡そ二百五十人。これに次ぐ百五十名宛が、越前福井、因幡鳥取、安芸広島、伊勢津、長門山口、筑前福岡、肥後熊本、出雲松江、備前岡山であった。百三十人を送ったのは、近江彦根、阿波徳島、筑後久留米、土佐高知である。閏四月に護送した人数だけで三千七百七十人に当る。その前後に浦上を出た人数を考えると、政府が期待したとおり浦上村は人口が半減し、田圃は荒れ、赤土の原に近くなった。輸送の都合から人数は分けられ、家族が一所にというわけには、もとよりいかなかった。
 「(明治二年)十二月」四日に先ず男子ばかりを乗込ませたのは、反抗でもしてはと云う当局の懸念から、此処に出たものであろう。男子はすべて乗船し終わっても一向錨を上げない。翌五日には先年流された信徒の家族を立山役所に招喚して其晩汽船に乗込ませた。政府の方ではなるべく父兄の預けられている藩に彼等を送って、家族を一纏めにする考えであった。然し長藩に送られた信徒の家族中には、父兄が皆棄教し終わった由を聞いて、長州には行きたくない、他藩へ送って貰いたい、と強いて嘆願し、為に夫婦兄弟がばらばらに分散した者も無いではなかった。」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.pp.281-278.

「後年赦免されて帰郷した浦上信徒の「旅」の思い出話に出たのでは、薩藩に預けられた者が最も寛大な待遇を受け、長州に向けられた者が反対に逆遇を受けたと言葉を結んでいる。
 石州津和野藩には、「朝廷よりの御沙汰」があったとして、浦上の最初の二十八名が差送られた。この中には反抗の巨魁と目された高木仙右衛門も入っている。乗船が六月三日に瀬戸内の尾道に着き、津和野藩から三十名の者が迎えに出て警護し、一旦船で後戻りして、安芸の宮市で上陸し、そこから途中、峠が二つもある十八里の道を歩いて、十七日に津和野城下に着き、町外れの乙女峠の光林寺に収容された。浦上の切支丹を預けるのは、十万石以上の大藩と大凡原則を立ててあったのに、石見四万三千石の龜井隠岐守の領地、津和野に、この代表的な切支丹信徒の他に、時を追って実際は百五十三名の多人数の配流が割当てられた。
これは藩侯龜井茲監が四月の太政官の下問に対し、説諭して改宗させるのがよいと自信をもって答えたのが、政府に逆用されて、この多人数を押し宛てられたものだと言われている。龜井茲監は小藩の領主ながら神祇事務局輔に起用されていた。家中に国学者大國隆正と、弟子の福羽美靜が居り、その門人で公卿の家に生まれた玉松操が岩倉具視の村居時代からの参謀で、政治を神武創業に復古し、祭政一致を目標とする企画を立案した。津和野に居た師を新政府に迎えて、福羽美靜を神祇事務局権判事に、大國隆正を内国事務局権判事に起用したのを、玉松の案を、藩主の龜井茲監が容れて政府に進言し、津和野の国学者に中央進出の道を開いたものであった。太政官政府内で、津和野藩の人々は、強い自信をもって政治の分野に乗出した。大きな藩を代表して太政官に列席した人々が、あまり前途に確信もなく方策の樹てようもなかった初期の時代に、冬の長い山陰の小藩、津和野の学派が、ひとり哲学に近いものを持っていて一時は政策を自由に左右した。
切支丹宗門の抹殺が、国是中の重要な方針と見做された。その陰の動因となっていた津和野藩が、預かった二十八名の浦上切支丹をどう扱うか、ひそかに太政官内の列藩の徴士が注目するところとなっている。津和野藩は説諭に依って改心せしめると広言したのである。思想をもって思想を征服できるとしたのは、よほど自己の哲学に確信あってのことであろう。明治四年になって津和野藩が外務省に提出した「説得大旨」というのが、藩の改宗指導要領だと見てもよい。これは、外国公使から切支丹虐待の抗議が出されたのに対し、各藩の信徒取り扱い状況を調査して答えようとしたのに、津和野藩が出した方針書であった。
「説諭掛の者より兼々相諭し候趣は、先ず神典の尊き旨を示し、萬物産霊の神の玄妙によりて出来、萬事天照大神の徳光によらざる事なき道理を尽し、飽くまで皇位の重きを示し、責むるに敬神尊皇の大道を以てし、現世所業の善悪によりて幽罰の有無、また高天原、黄泉等の説を以て、死後霊魂の苦楽までを懇々と説諭し、よく昭明なる我内国の大教を余所(他所)にし、却て外来詐譌の説を信ずる事、実に大道に違戻し、天人の大刑を浮くべきものなり。然るに今、寛宥の御処置に預かり、此の如き教誨をも受くる事、真にその身の大幸なるは速やかに悔悟改心し、一日も早く人道の本に立ち帰り、本を本とし尊ぶべきを尊び申すべしと、百方手を尽し説き聞かせ候事。
 一、説諭の席に召出し候事、多人数一同(堂)にては彼等互いに固く守り候体につき、一人宛別に説諭致し申し候。説諭度度に及び強情申し募り候者は、別屋に独案を擬さしめ申し候。全体我慢頑愚なる者に付き、説諭方至極心長く懇情を尽し、精神を以て待し候心得に御座候。右の如く致し候えば、案外速やかに改心いたし候事もこれあり候。改心致し候ものへ請状血誓申付け、夫より見滌(みそぎ)致させ、大祓いの法申付け、日の祝詞等相授け、敬神尊皇の実儀等、いよいよ委しく申し聞かせて候て、諸事改心を促す様致し申し候。
 但し彼宗(切支丹)の儀、既に儒仏を看破し、、仁慈の実行と称し貧弱を恵み、誘導伝習致し候事に付き、篤と勘考致し真実大本の道理より帰正改心致させ候様、取計らい候事に御座候。
 一、改心の者夫々血誓、請状の文案
 私共まで切支丹宗信仰仕り候に付いては、御厳刑に及ばせらるべきの所、格別の御慈悲を以て御教諭蒙り、御蔭を以て、幽顕の道理相弁え、重々有り難く改心仕り候。依ては向後如何様の儀これあり候とも、変心仕る間敷く候、後証の為血誓件の如し。」(沖本常吉「乙女峠とキリシタン」所載)
 この誓紙を入れさせてから、「神社近傍の河辺にて身滌させ、畢って社参の上、神酒等与え、拝礼致させ申し候」
     ◇
 この指導要領を見ると、中央の宣教使が長崎浦上で行ったところとも別に変わらず、型どおりのものに過ぎぬ。みそぎや大祓いが、人を感化する神秘な力を持っているとの想定を前提とする。しかし必ずしも総べての神道家自身が、神事の呪術的効果を信じたわけではなかった。良心的に信仰の固い基督教の信者は、それを拒絶する。これに挑むのに形だけの作業や挙止を以てした。囚徒に信仰があって、説諭する役人にはなかったのである。役人はまだ概念以外の神を知らなかった。
 長州萩に送られてから六里ばかりの海上の孤島に収容された浦上切支丹の中の話だが、城の越の伝道師の元助という農民と、中央から廻って来て鹿児島にも説諭に赴いた大野積齋が対談した一例がある。次元が異る双方の立場がよく判ることだから、引いて置く。
 大野「切支丹をやめろ。日本には天御中主と云う立派な神様が在す。それなのにどうして外国の宗旨を奉じ、天主(デウス)の何のと得体の知れぬものを拝むのだ。」
 元助は答えた。
 元助「宜しう御座る。私は三年間切支丹の教えを授かりました。これから神道の教えを三年間稽古してみましょう。やめるの、改心しろのと仰しゃらずとも、その神道の教えを聴かして下さい。」
 大野積齋は熱心に説いてみたが、概念を列ねただけで相手の心を動かすだけの力がなかった。何の手応えもないと見るなり、この神道家は言った。
「萬事叶い給う天主が賞罰を下し給う?うむ、それは然うだろうが、天御中主神も同じく賞罰を降し給うのだ。つまり双方とも同じ神様だ。」
 敗北を喫したのと同様である。不誠実な性格がその後で現れて出る。
 大野「それにお前等の如く、是非とも天主でなければ可けないと、そうそう凝り固まって御上の御法度に背いてまで、その天主を拝むと云うは、些と考えものじゃないか。お前たちのデウスは偽物だ。」
元助「なぜ偽物ですか。」
大野「俺がこんなに悪口を叩いても、何の罰も与え得ないじゃないか。」
元助は、居ずまいを正して膝の上に両手を置き、屈せずに叫んだ。
元助「勿体なくも、萬事叶い給う天主に向って、其様な悪たれ口を叩きなさるなら、今晩から覚悟して居らっしゃい。病気にでも取付かれたら、天主のお罰と思いなさい。」
不運にも、大野積齋は、その晩からどっかと病み臥し、三週間も起きられなかった。どうしてそうなったのか不明だが、患った事実は事実である。その間、一度も御用がなく、元助等は煩わされずに安穏に日を送ることが出来た。これは「旅」が残した伝説の一つである。」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.pp.289-293.

 今日から見て、棄教を迫る側の「説諭」が拠って立つ愚劣なまでに保守的な言説に対して、信仰を固めた切支丹農民が語る言葉は、自信に満ちてひるみがない。これはどういう所から来るのか?
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五年という時間の距離と・・永遠の価値

2016-06-22 02:47:00 | 日記
A.時の経過とともに、水に流しちゃっていいのか
 とりあえず一般的・抽象的なもの言いから始めれば、人と人の関係は、穏やかにしていればうまくいくとは限らない。いや、むしろ多くの場合は意見を異にし、対立したり葛藤したり、毛嫌いしたり罵り合ったりすることも稀ではない。しかし、どんなにぶつかりあっても、その状態が長く続くことも難しくて、時間が経つと沸騰した感情はなぜかおさまって来る。激情は3日はもたず、心情は3か月で変化する。それでも記憶の中で遺恨は残るだろうが、言い争った問題そのものよりは、相手の態度や表情が思い出すと気に喰わないのだ。しかし、そういう心理的な次元で誰でも似たようなことをしている、と言ってみてもあまり物事の解決にはならない。
 5年という時間は微妙である。1年前に自分が何をして何を思っていたかは、具体的に思い出せる。3年前ではだいぶ細部はあいまいになっているが、それでも固有名が出れば「ああ、あれね!」とイメージできる(「あまちゃん」のメロディが浮かぶように)。しかし、5年という時間は、そのときの過去の自分の姿がぼやけてくる。東日本大震災のような強烈な出来事を、鮮烈に記憶していたはずなのに5年後の今は、どうも切実感は失せている。もう誰も東北の被災地のことを普段は考えていない。それはそれで自然なことだ。でも、人々の意識の中で時間がいろんな記憶を仕舞っていくとしても、問題は本質的に変わったわけではないし、一番マズいのは、もう問題は誰も気にしていないから解決されたような気になってしまうことだ。
 福島の第一原発の問題は、なにも解決も収束もしていない。しかし、ぼくたちはもうそんな事を気にしてもしょうがないし、原発の放射能を恐怖するよりは、北朝鮮のミサイルや中国の尖閣諸島への脅威を心配するべきだなどと「なんとなく」思っている、とすれば時間という水に記憶を流されてしまっているのだ。

「本当に議論すべきこと――原子力と対米外交
 3・11を振り返る時、避けられないのが原子力の議論である。あれから五年、この間私はウィーンのIAEA(国際原子力機関)に三度足を運び、国際的な原子力の専門家の目線から見た日本の原子力政策についての議論を受け止めてきた。一言でいえば、日本の原子力政策は「あいまい」であり、多くの人たちが奇異な印象を持っている。何よりも、福島の総括報告がなされておらず、あの事故の原因、収束への道筋が明確には説明されていない。国会、民間の事故調査委員会が報告書を出したようになっているが、たとえば、「フル・ターン・キー」で福島の事故サイトを建設した米GE社の製造者責任、つまり津波で全電源が遮断されるリスクの想定や対応などについて、一切の調査も分析もされていない。
 にもかかわらず、新しい規制基準に照らして再稼動可能なものから順次再稼動を進めている。しかも、国民に対しては「限りなく原子力に依存しないエネルギー社会」という選択も可能という姿勢をみせながら、日米協力で世界に原発を売り込みたいという動きをみせており、あまりに曖昧かつ無責任である。日本の原子力政策のあり方については、前記の『リベラル再生の機軸――能力のレッスンⅣ』で語っており繰り返さないが、少なくとも現時点で以下の三点だけは行動を起こすべきである。
・福島事故の原因・現状・教訓に関する誠意ある国際社会への説明をなすべきである。
・原子力に関する国家の責任体制を明確化すべきである。廃炉にも除染にも汚染水処理にも技術が必要であり、個別電力会社では限界がある。非常事態対応体制を含む原子力発電事業の国策統合はフクシマの教訓であるはずである。
・2018年の日米原子力協定の改定にむけて、平和利用だけに原子力を使う非核保有国として「非核のための原子力」(核軍縮と不拡散)に関するへの道筋を明示すべきである。
 一方で、「反原発・脱原発」の立場に立つ人たちもその議論を進化させるべき段階である。日本は「米国の核の傘」に守られながら、一方で「脱原発も可能」と考える人も多いが、原子力だけは軍事利用と民生利用が表裏一体になっていることを直視すべきである。日米原子力共同体というべき現実(東芝・WH、日立・GEの連携)をどうするのかを明示することなく、「脱原発」は語れないのである。
 原発の話も外交・安保の話も、結局は「対米関係の再設計」に行き着く。奇しくも、米国の大統領選挙を巡り、D・トランプのような候補者が「駐留米軍経費の日本側負担」や「日本の核武装」に言及している。1990年代初頭のジャパン・バッシャーが「防衛ただ乗り」として日本を批判していた文脈を髣髴とさせる時代遅れの発言であり、米軍基地経費の七割を日本側が負担している構造が現状を固定化させているという事実さえ理解できていないようだが、むしろこれを機に「核抑止力を含む東アジアにおける米軍の前方展開基地と日米同盟のあり方」について根底から議論をするべきであろう。
 そろそろ日米が本当のことを話し合うべき局面なのである。米国の軍事力が緩やかにアジアからも後退する流れの中で、さらにTPPの国内合意形成さえ危ういほど内向する米国と向き合わねばならない状況において、日米関係の再設計は必然である。冷戦を前提とした「日米安保体制」という枠組を見直し、アジアの安定を視界に入れた「基地の段階的縮小、地位協定改定、適正なコスト分担」を実現しなければならない。歴史的に孤立主義に回帰するDNAを内在させている米国をアジアから孤立させないために、同盟国日本の構想力が問われている。」寺島実郎「東日本大震災から五年――覚醒して本当に議論すべきこと」(能力のレッスン特別篇『世界』2016年7月号)岩波書店、pp.42-43. 

 ドナルド・トランプといういかにもアメリカ的に野蛮な政治家が大統領候補になっている現在、日本という国があらゆる意味で依存してきたUSAとの関係を、ぼくらは根底から考え直し議論すべきだろう。しかし、劣化しつつある安倍政権(変節の公明党を含む)は、日米安保体制という土俵を無条件に前提したまま、国内向けの時代錯誤なナショナリズムとミリタリズムへの傾斜を強めて、選挙に勝てば一気に憲法改正に突き進むだろう。安倍晋三氏がヒラリー民主党政権となあなあで何とかなると考えているとすれば、それはあまりにナイーフというしかない。



B.説諭の効果
 人が宗教的な自分の信仰を、どこまで切実な人生の課題だと考えるかは、個人としての心の問題であるだけでなく、その生きている時代の社会的状況によって大きく異なってくる。信仰の自由が法的・社会的に認められていて、自分の信じる教義に従って宗教的行為をすることが自由である社会では、信仰はあくまで個人の心の問題でしかない。キリスト教であろうが仏教であろうがイスラム教であろうが、それを信仰するのは自分だけのプライベートな自由である。しかし、そのような社会が実現したのは、最近のことであり、長い間信仰の自由という原則は多くの国・地域で認められなかった。どこの国でも多数派の支配的な宗教があり、それとは異なる異端、他国・異民族から伝わった宗教は厳しく弾圧され、時には捕らわれ処刑された。幕末の日本で、基督教の信仰はまさに御禁制だった。

「形の上では意外に事なく済んだ。これは京都へ報告して指令を仰ぐまで、未決で待たされたので、四月六日(陽暦四月二十九日)になると、浦上から戸主ばかり百八十名が、西役所に呼出され、あいにく雨の日だったが、この時も見送りの人数は四百人を越えた。
 澤(宣嘉)九州鎮撫総督兼長崎裁判所総督が、十二名の役人を左右に従えて一同の前に出座したが、一語も発せず身動きさえしないように見えて、木像のようであった。尋問は、前回と同様に相互の意思の通ぜぬことを繰返すだけであった。新政府となっても役人の問題理解の程度は変わっていない。
 役人「民の父母たる御役人の言う事は信ぜずに、フランス坊主等に欺されると云う法があるか?彼奴等は国を奪おうとたくらんで居るのだ。さればこそ、この宗旨は厳しく御禁制になって居る訳だ。御維新になったからとて、御禁制は決して廃されはしない。フランス人やフランスの坊主が何を為てくれたからとて、何故そんなに彼奴等の言うことを有難がるのじゃ。御役人に何の気に喰わない所があればとて従わぬのじゃ。」
 仙右「従わぬのが悪う御座いますならば何うぞ殺して下さいませ。私共の望む所であります。」
 役人「その方は何うして御役人にそんな事を持出すのじゃ。親の身になって見い。我が子の殺されるのを平気で見て居られるか。」
 まだ民の親だと公称しているのが、喜劇であった。彼等の精神の底に一枚岩のように固く横たわっているのは、海の外から来たものはすべて国の禍となると、思い込んだ鎮めようのない排他心と原因なく潜在する恐怖であった。鎖国の制度がそれを二世紀来教え込んだものだし、また今、太政官は神道国教主義を採って、仏教が悪いのも儒教が悪いのも外国から渡来した故あと簡単に極め込んで居る。仏教など日本に渡来して一千年以上にもなり、外国から来たとは考えられぬくらい庶民の日常に侵み入っている。それでも、外国のものだからいけないと極めつけられた。
 切支丹の信徒たちは、奈良の門跡や高僧たちが神仏分離令で一度の還俗して仮髪をつけて神主に転身したのとは違って、庶民の粗野で誠実な心情から、殺すと言われても信仰は棄てないと、口々に答える。信仰は政府が変わったことに関係はなかった。
 仙右「やめることは出来ません。私は幾度も御奉行様の前にも、あなた様の前にも呼出されました。やめる筈ならば疾くにやめて居ります。是からも御呼出しを蒙る毎に、きっと出て参ります。然し幾度出て参りましても、仰せに従う訳には行きません。」
江戸が帝都となり東京と改められ、太政官政府の前に長崎浦上の切支丹信徒の運命が決定したのは、明治二年(一九六九)*、函館の乱が鎮定されてからである。潜伏した攘夷熱が形を変えて、復活して来た。(*引用者註:原著誤植、一八六九年)

鎖国の間に培われた硬化した心情は、海の外から来た者を受けつけにくく、何でもないことにも拒絶反応を起した。これに、祭政一致、皇道復興の中央の大方針が、日本人の純潔への欲求に刺激を与えるのである。先に澤宣嘉が総督となった下った長崎に、更に閏四月六日に参与兼総裁局顧問木戸準一郎が浦上村耶蘇教徒処分の為に派遣されて居る。
木戸の場合にも、浦上村の戸主百八十名を召喚し、「日本国民は天照大神の御子孫にして、我等の父母におわす天子様を崇拝すべきで、国家を奪わんとするフランスの僧侶の説に迷い、異教の邪神を信ずるべきでない」と、諭したと称せられる。一方浦上村中野に大神宮を勧請し、彼等を転宗せしめんとしている。又、四月十日には、「長崎裁判所、弘運館を設け、本学(和学、漢学)を開講することを布達する」(長崎裁判所触書留)という触書が出された。
四月六日(陽暦四月二十八日)浦上村の切支丹を呼出して、例に依って例の如く役人と信者との間に、押問答が繰返して行われた。新政府を代表する総督の意向は、既に明らかになったし、信徒もまた硬化した。
役人は相変わらず、自分達の心配は親の慈悲と同じだとしつこく説いて棄教を迫る。これに対して、切支丹信徒の方が、ずっと合理的な態度であった。時に彼等は皮肉に出る。一本木の片岡市右衛門が答えた。
市右「はい、小輩の私が喩を以て御返答申上げるのは甚だ以て恐れ入りますが、喩に対する御返答ですから、喩で以て申し上げます。実父の意見を大小残らず考え合わせて見ますれば、私の為に有益なことは一つもありません。どうも薄鈍(うすのろ)な親じゃと思われてなりません。却って八兵衛の親の意見は大から小まで一つとして私の益にならぬものはありません。そうして見れば、私の親が頓馬である。八兵衛の父は極めて賢い。賢い其父に従いますのは当然ではあるまいか、と私は考えまする。」
役人「貴様は大坂表の御制札は知って居るか。それを削って居るのだ。」
市右「はい、大坂という所は外国位に遠方だと承って居りまする。それに何うして私共がその御制札を削り得ますか。」
役人「その御制札にある戒めの箇条は知って居るか。」
市右「十二ヶ条あるということだけは承って居ります。」
役人「何と書いてあるか。」
市右「一、切支丹宗門、 二、八幡船、後はよく覚えて居りません。申上げる要もありますまい。」
役人「そうじゃ、そんなにちゃんと戒めを書いて立ててあるのに、それを役に立たないようにするのだから、削ったと云うのじゃ。」
市右「左様で御座います。然し承りますれば、その御制札は三百年前に立てられたもので御座いますとか。して其時御法度になった切支丹と云うのは、魔法宗とか、バテレン宗とか申しまして、進行中の船を引止めたり、晴天に洪水を出したり、海嘯を起したりするのであったとか云うことであります。三百年前の切支丹がそんなものであったからとて、唯今私共を召出して御糺しになりますのは、大きな間違いじゃ御座いませんか。譬えば三百人前の先祖が窃盗罪を犯したと致しましょう。それはもう其時、事済みになって居る筈でありますのに、三百年後の子孫の私を捉えて、三百年前の先祖の罪を御糺しになりますか。私は何うも合点が参りません。」
役人は言葉に詰まって、尋問は打切りと成った。
役人「篤と老人や妻子とも談合して見よ。二、三日中に何分の沙汰をする。退れ。」
 二日後に、役人は総督の切支丹に対する方針をそれとなく明瞭にした。他の件の罪人十三人の者を斬って獄門に懸けて見せたのである。氷のような恐怖が、市中に流れた。更に大規模に切支丹の処刑が近く行われるとの噂が立った。これに対して、信徒は、いつものように毅然としている。
「成立日尚浅くして輒(やや)もすれば、動揺の虞ありし明治政府はその基礎を固めんが為、皇室中心主義に依りて国民思想の統一を計るを以て急務となし、これが障碍たるものを一切排除せんと欲した。而して基督教を以て第一の障碍と認め、先ず旧幕時代より長崎地方に於て蜜に信奉し来れる切支丹宗門の剿滅(そうめつ)を期した。」
当時、長崎に居て局に当った佐賀藩の大隈八太郎(重信)の談話である。明治政府の内情の告白と解して、聞くべきであろう。
  ◇
大隈の談話は続く。
「剿滅の方法に就いては議論があった。邪宗門の徒を斬って了えという論と、威喝、若しくは説諭を以て教えを棄てさすべしと云う説と。当時九州鎮撫総督澤宣嘉は申すまでもなく、その部下にも極端なる国粋保存主義の平田篤胤派が多くて、頑強に前説(斬るべし)を主張し、稍海外の事情に通じた新人は後説を提唱し、廟議は後説を取った。当時吾輩は三十歳の青年で、穏健派の一人なりしと外国掛の判事たりし関係上、同僚の佐々木三四郎、井上聞多、松方正義、町田民部等と共に、長崎奉行所に於て切支丹査問の事に与った。彼等無学の徒の迷信を打破し、若しくは威嚇して之を棄てさせん事容易の業たるのみと思いきや、彼等の信仰の堅きこと金鉄の如く、柔弱温和なる容貌の小娘が、判官の尋問、威嚇、説諭に対し、泰然自若、更に恐怖の色もなく答えて曰く『私共は平常お上の法度を忠実に遵奉し、未だ嘗て背反した覚えはありませぬ。但だ萬物の創造主にして主宰者たるデウス以外の者を拝めと云う御命令ばかりは御免下され』と。
 実際彼等日常の行為は良民の行為、その習俗は敦厚にして相愛互助の精神に富み、世を忍ぶ貧生活の境涯に在りながら、納税成績もよく、勤勉にして産業にいそしみ、産業の如き外国人から伝授されたものか、特殊の技能を有していたんである。
 斯くの如き次第で、判事の中最も熱心に査問に従事した井上が小娘にやり込められて這々の体であった。井上が小娘風情を持てあまして、焦れったがったり、ぷんぷん怒ったり、熱したりしたんだが、此方が熱すれば彼等は却って冷静なる態度を見せる。そう言う所は事理明白、条理整然たるを以て奈何ともすること能わず、全く手古摺って了った。そこでついに彼等の中の有力者と目する者を捕縛し、それぞれの旧藩主、その他に託して獄に投じ、以てその残留者の信仰をして自然消滅に帰せしめんとの方策を採った。ところが外国の公使等は一致して抗議を申込んで来た。」(堀川直吉筆記「浦上切支丹史」所載)
 中央の政府は出来たばかりで、ただ幕府打倒を目標として結合したものだったから、当時はまだ戦争遂行中だし国政を対象とする方針など十分に考える余地はなかった。政府の首脳となった皇族や公卿は、幾世期間も政治や社会から絶縁されてきた人々で、今更政治を託せられても無能無策に近く、新しいものを生み出す力などなかった。太政官で働こうとするのは、列藩や民間から召出された徴士の列の間に在る。この人々は、錦旗の他に頼るものがないのを自覚していた。また平田派の国学者や神官出身の者が多かったから、自分達も漠然としか正体を知らぬ神武天皇の創業の時に政治を戻せばよいものと考え始めて、祭政一致、神道国教政策を、国是の中心路線とした。公卿が中心で方策を持たない政府の首脳部が、よいことを考えてくれたと、簡単に悦んで採ったわけである。岩倉具視の側近に、玉松操、大國隆正(玉松の師匠)などが付いていて、これ等がブレイントラストとなり、官制の首位に神祇事務局を置き、祭政一致、神仏分離、廃仏毀釈、宗門改めに代わる氏子調べを行い、神道国教政策を貫こうとした。しかも神道が何であるかは、当局が突止めていない。思想の体系もなく、経典もなく、ただ取りとめなく、天皇を神として、既成の他の宗教を排して人心を統制出来るものと信じた。飛鳥奈良の古い時代から勢力を広げた仏教も、江戸に入ってからの三百年を国民の道徳と思想の基礎となって来た儒学の教えも、外国から「来たものだからの一点だけで斥けるべきだと、強力に説いた。
 この無理な政策の末端に長崎の切支丹が、その誠実な性質の故に障碍となった。別に害にはならぬものが抵抗は思いがけず強力で、新時代を代表する当局の有能な選手たちを取調べに当ってたじたじとさせた。
 井上聞多が、外国事務局判事の一人として、説諭では改心の見込みのないことを知り(これは彼が敗北したということだ)、大坂に居た木戸準一郎に報告を出した中に、勧告した。
「この儘に(切支丹を)等閑に致し置き、御処置これ無き時は……第一政府の威権もこれ無く、且つ再び島原一挙の所に相成り、終に九州争乱を生じ候様に差し赴き候は必然の勢いと存じ奉り候。」
 代々の幕府を悪夢のように脅かして来た島原天草の昔話が、新政府の官僚の井上聞多の頭にも古い亡霊が憑いたように相続されて居たのだ。彼は浦上村を無人の赤土の原にして了えと進言した。
「最早片時も早く断然御処置これ有り度く存じ候。併し三千人残らず死刑も余り惨々の至り故、主なる張本人は厳刑、その次は土地替えにても仰せつけられ、平人と絶交し、上役吏役にても御招遣これ有り、浦上一村は一旦赤土に立ち至り候御見込みにこれ有り度く存じ奉り候。」
 新総督が、獄中の犯罪人十三名を斬って首をさらしたのを見て、切支丹信徒はおのれの運命もやがて同じことを知った。総督は中央から赴任して来たばかりであった。近く大弾圧があるとの噂が、四方にひろがった。村に居る信徒にも、役人が来ておどしつけた。その言い分が不吉である。
 役人「切支丹をやめなければ、父親も兄弟も一家残らず殺して了うぞ。もしやめたら望む物は何でも与える。何うじゃ」
 信徒がこれに答えた。
 信徒「はい、私の望む所をお与え下さいますか。それは何よりも有難い仕合せと存じまするが、御出来になりましょうか。私の一生の望みは日本国民が皆切支丹になることで御座います。」
 政府の神道国教の方針に対し、これは、正反対の途方もない返答であった。不吉で暗い噂は止みそうにもない。長崎在留のイギリス、フランス、プロシヤの領事が、揃って総督府に来てキリスト教徒処分の噂があるが、真実かどうかを尋ね、説明を求めた。領事団が結束した行動に出たのは初めてのことであった。伊王島の切支丹七名が捕えられて深堀の牢獄に投ぜられ、また他の信徒は条約で廃止を誓った十字架を強いて踏まされた。これは人道に背き、文明を辱めるものだとの強硬な趣意の抗議書も領事団から提出した。
 近く切支丹処分があるとの風説は、不思議なまでに、はたと止んだが、太政官から命令が諸藩に下って、告げた。
「太政官に於て諸藩への御渡御書付け
 長崎近傍浦上村の住民、千年来ひそかに耶蘇の教えを奉じ候これ有るやに候処、方今追々繁茂致し、一村挙げて右の教えを奉戴し、殆ど三千人にも及び候様相成り、容易ならざる大事の儀につき、長崎裁判所より精々申諭し候由のところ、更に悔悟、伏罪これ無き趣に候。方今大政更始の折柄、右様、追々蔓延致し候ては、実に国家の大害に相成り、暫くも捨置き難き事件に候えば、右巨魁の者集め、尚懇々説諭を加え候上、速やかに悔悟致し候者、右宗旨の画像等一切取毀ち、改めて神前に於て誓約を成さしめ、若し萬一悔悟致さざる節は、止むを得ず断然巨魁の者数人斬罪梟首致し、その余の者は、止むを得ず悉く他国へ移し、夫々夫役に用い、一時に根底を剿絶し、数年を経て悔悟の実相顕れ候上、帰住相免し候外これあるまじきか、実に容易ならざる事件に付き、いささかも伏藏なく、各見込みの程、言上これ有るべく仰せ出され候事。辰四月二十三日」
 四月二十三日は陽暦では五月十四日(1868)に当る。浦上村を一旦赤土に戻して了うという宣言が、太政官のこの布告では、村民を故郷の土地から引抜き、全部他国へ強制住させ労役に使用することに形を改めた。この処置に対して賛否を各方面に問うたものであった。続いて閏四月十七日(陽暦六月十日)に諸藩に下した布達には、浦上から追放した者共を取締り、課すべき労働について記してある。御預かりの上は、彼等を人里から遠い山村に住わせねばならぬ。開発地の土工、金工、あるいは石炭掘、その他の夫役に勝手に召使ってよい。当日より先ず三ヵ年の間、一人に付き一人扶持宛その藩へ下し置かれるが、
「右宗門、元来国禁容易ならざる事に付き、御預かりの上は、人事を尽くし懇切に教諭致し、良民に立ち戻り候よう厚く取り扱うべく候。若し悔悟仕らざる者は止むを得ず厳刑に処せらるべく候間、この段相心得、改心の目途相立たざる者は届け出づべく候事。」
 多きは二百五十人、百人以下の群に分けて、他国に強制移住を命じ、浦上村に住人を無くす方針であった。太政官から言えば、感染の恐れあるコレラかペストの患者を、強制隔離する意味だが、移される先は海を渡り山を越えて遠い土地で、凡そ三十数カ所に分かれていた。人びとは分散せしめられるのである。
 浦上の切支丹は、棄教することなく、故郷からの強制移住を「旅」と称して易々として服従した。知らぬ土地に追放され、三年間の苦役に服せしめられるのは、三千七百七十人の多数に及んだ。嘗て、見たことのない大挙追放であった。下された沙汰書では、送られる土地と、人数を記して、しめて三十四家(藩)、人数凡そ四千百人としてある。
 ロッシュ公使に運動する為横浜へ行ったプティジャン司教は、その足でイタリアへ行き、ローマ法王に謁して信徒たちの苦境を訴えて、日本に帰って来た。司教の乗船に、ロッシュ公使に代わってフランス全権公使として日本に向かうウートレイが乗ったので、浦上の人々の為に充分に話すのには都合よかった。日本に帰るなりプティジャン神父は、浦上村の信徒を根こそぎ他国へ追放する太政官政府の計画に当面したのである。」大佛次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、2006.pp.239-248.

 大佛次郎の文章は、この文字すら読めない浦上の切支丹が、権力の紋切り型の役人的説得にいかに論理的に反駁したかに、おおいに感動している。どうしてこのようなことが可能だったのか?ここには単に宗教としての基督教の信仰というレベルを超えて、人間が個として社会と向き合うときの精神の確信・態度というものを見ていたからだろう。説得する役人は、ただ現世の秩序をまったくお天気の如く疑わずに、基督教はお上が禁じているのだから改心せよと迫る。なぜ、あなた様はそれを無条件に正しいと信じていらっしゃるのですか?と切支丹は問う。私たちの信仰が確信しているものは、将軍様の御意向を否定しようとか、荒唐無稽な魔法に振り回されるものではありません。ただ、この世を作った神様の教えに従い、自分の愚かさ至らなさを悔い、天国に人々と共に許されようと願うだけなのです。それがいけないというのでしたら、罰して下さっても構いません。
 この信仰の確信に、対抗できる思想は当時の日本のどこにもなかった。身分ある仏教僧侶たちはさっさと既得権益を守るために、廃仏に脅えて国家神道を受け容れてしまったし、江戸時代の公認官学だった儒教は、西洋列強の武力の前に空しく潰えた古色蒼然たる無力なガラクタと見られた。だからこそ、浦上の切支丹信徒はひたすら殉教者として輝いてしまうのだが、その節操の基底には、きわめて農耕封建文化の日本的共同体の論理に支えられていた、ということにも注目したい。
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