A.戦争と時代劇
時代劇スターと戦争との関係を考えてみようかと思って、試みに戦後日本映画で活躍した時代劇スターの主な男優について、戦争が終った1945年8月にいくつだったかを調べて一覧表にしてみた。以下のようになっている。年齢は満年齢だが、当時は数えの方が普通だから、プラス1か2する方がいいかもしれない。
大河内伝次郎(明治31年生、終戦時47歳)、進藤英太郎(明治32年生、46歳)、阪東妻三郎(明治34年生、44歳)、月形龍之介(明治35年生、43歳)、嵐寛寿郎(明治36年生、42歳)、片岡千恵蔵(明治36年生、42歳)このへんまでが40代、ちなみに新国劇の島田正吾・辰巳柳太郎も明治38年生まれで終戦時40歳である。続く30代は、市川右太衛門(明治40年生、38歳)、東野英治郎(明治40年生、38歳)、長谷川一夫(明治41年生、37歳)、小沢栄太郎(明治42年生、36歳)、黒川弥太郎と山村聰(明治43年生、35歳)、高田浩吉と森雅之(明治44年生、34歳)、大友柳太朗と藤田進(明治45年生、33歳)、山形勲(大正4年、30歳)とここまでが30代。以下の20代はほとんどが軍隊経験があるはずだ。近衛十四郎(大正5年生、29歳)、千秋実(大正6年生、28歳)、伊藤雄之助(大正8年生、26歳)、岡田英次と三船敏郎(大正9年生、25歳)、丹波哲郎(大正11年生、23歳学徒出陣組)、木村功と三國連太郎と西村晃(大正12年生、22歳)、鶴田浩二(大正13年生、21歳)とここまでが20代の戦中派。そして20歳前の若者だったのが、佐田啓二と東千之助(大正15年生、19歳)、田村高廣(昭和3年生、17歳)、大川橋蔵と若山富三郎(昭和4年生、16歳)、市川雷蔵と天知茂と勝新太郎と高倉健は(昭和6年生、14歳)のまだ少年、中村錦之助と仲代達也が(昭和7年生、13歳)、石原裕次郎(昭和9年、11歳)、川津祐介(昭和10年生、10歳)、小林旭(昭和12年生、8歳)、津川雅彦(昭和15年生、5歳)とこのへんはまだ子どもである。
戦後の占領時代は時代劇の製作は禁止だったから、この人たちが侍姿で復活したチャンバラ映画に出るようになったのは、6,7年後だとすると、終戦時16歳の大川橋蔵や13歳の中村錦之助は登場した時は、きらきらイケメン若侍だったわけだ。彼らには戦争の影も記憶もきれいさっぱり消えていた。しかし、鶴田浩二や三國連太郎や丹波哲郎や三船敏郎はそうはいかない。彼らは軍隊に取られ現実に戦争をやっていた若者だったのだから。さらに上の戦前の映画に出ていた人たちは、いろんな戦争のくぐり方をしたはずだ。そのことが彼らの戦後の映画スターとしての活躍となにか関係があるだろうか?時代劇は近代戦の始まるずっと前の江戸時代のお話ということになっていたから、イクサといっても刀や槍のチャンバラで、しょせんはフィクションである。そこに戦争体験は一見無関係で、娯楽映画はあくまで娯楽であればいいわけだが、でもあの戦争を戦った人間は、それをきれいさっぱり忘れ去ることなどできただろうか?
「人類の歴史にとって“娯楽”というものは、それまでは常に“特別”だったし、あんまり深入りしてはいけないものだったのです。“見世物”とか“混雑”とか“御馳走”というようなものは“お祭り”というような特別な日、特別な場所にしかなかった。それは“非現実”の世界に属するようなものだったのです。だから“芸人”というものは特別で賤しいものとされました。だって“普通じゃない”んですから。現実は“毎日がお祭り”ではないんですから。そういうものが“現実”だから、“特別”というものはあったんです。“特別”に深入りすれば“現実”を失います――それが堅気の発想というものです。役者に熱を上げる、小説に読み耽ける、芸事に血道を上げる――こういうことを堅気の人間がしたら、それは即“オマンマの食い上げ”につながる訳で、こんなことが奨励される訳もありません。“娯楽”というのは“楽しい”という表の顔の他に“誘惑”という裏側を持っていたんですね。だから、それは“特別”な場合に限定されて存在していたんです。
“娯楽”というものは、人類の歴史の初めからあったような古いものですが、それは“特別な場合”“特別な時”という“非現実”の中にしかありませんでした。現実と娯楽の間には、常に一本の線が引かれていたのです。でも、昭和四十年から始まる“ゆとり”というのは、この一線を曖昧にしました。“ゆとり”というものは、現実の中に娯楽を貯えて行く、そうしたものでした。その結果どうなったのか?人は”ゆとりの住い”というような現実離れのした外界を持つ、“宅地”という名の人工的な空間の上に立った“マイホーム”というオモチャ箱に居心地悪く住んで(それは本当の演技を知らないからです)、テレビタレントをそれぞれに養成することになりました。それが“娘”であったり“息子”です。
観客席にいた人間が舞台に上って、それを現実だと思って、そこで現実生活を営む。あるいは、一度上がった舞台の上の“現実”を胸にしっかと叩き込んで、再び舞い戻った舞台の上の“現実”を再現する。それが昭和四十年からの“生活”というものですが、これに不安感を感じなかったら、人間はバカです。現実感がある筈のない場所で現実を演じたり、現実感のない現実を演じたりしていたら人間というものは必ず不安になります。何故かといえば――こんなこと、説明するのもバカらしいくらいですが――それは“嘘”だからです。“血が通っていない”からですし、“心”がないからですね。“心がない”というのはこういう状態を言うのですが、しかし残念なことに、世界中が舞台となってしまって、同時に世界中が観客席となってしまったような現実の中ではこういうことが発見出来ません。嘘がホントの尻ッ尾を呑みこんで、ホントが「ひょっとしたら自分は嘘なんじゃなかろうか?」と首をかしげているんですから。それまで舞台の上にいたプロの役者は、シロートの演じる“信じこみ”の演技を見て「とてもあのリアリティーにはかなわない」と言っているんですから、そんなことは誰にも分かりません。分るのはただ一つ、なんとなく不安だ、ということだけです。分りやすく言ってしまえば、現在の蔓延する不安感の正体とは、「人並みが身にしみない」です。“人並みじゃない人”がいてくれたらまだしも、見渡せば周りがみんな“人並み”になってしまった訳ですから――一億総中流というのはそういうことですね――その逃げ出せる先の目安となる“人並みじゃない状態”というのは見当がつきません。容赦なく“人並み”という状態に落ち着けられて、そこで「身にしみないなァ……、なんとなく……」と言っているのが、現代の最大の不安感というものです。
人間というのはなかなかバカではない訳ですから、不安を感じたら「なんとかしよう……」と思いますし、「何故だろう……?」とも考えます。「何故だろう?」と、自分を包む不安感の原因を探って出た答えが、「そうだ、自分達は人生の途中から“人並み”になった、その成り上がり性が自分達を落着かせないのだ」とうことで、「だったらどうしよう……」の答が、「私達の子供は“生まれた時から人並みである”――という環境で育てよう」です。「自分達の芝居が身にしみないのは、長い間観客席でシロートをやっていて途中から舞台に上がったという、その演戯経験の浅さだ」――という訳で、「舞台の上で生まれた子供は生まれながらの演技者である」という、救いのない(少なくとも子供にとっては)結果が生まれます。昭和四十年に生まれた子供は、今二十歳で“大学生”なんですよ、男も女も。これだけで、全部お分りでしょう?非現実を真似するんだったら、現実感のない人間の方が真似はうまいんですよ。真似もうまいし、真似る時間と場所もたっぷりあるんですよ。そのお母さん達が昔、「まァ」という上品な驚き方を発見しても、それをなかなか自分の生活の場で生かしていけるような余裕がなかった――少なくとも自分が“人並みの上品な奥様”と呼ばれる迄は――というのとは、今の若い子は違うんですよ。どこにも売れ口のないテレビタレントを自分の家というテレビのセットの中で育てているだけなんですね、今の“家庭”というものは。
みんな真似がうまい。真似が出来なければ仲間には入れてもらえない。今の若い人達はみんな、自分の家専用のそして更に、”自分達”という仲間内専用のテレビタレントとして育てられているんですね。今や、子供が人並みである状態を指して“可愛い”という訳ですね。“可愛い子供”であることによって、今の子供は立派に親にとってのテレビタレントとなっている訳ですね。今の子供達に生活実感のないのは当たり前です。“現実”という悪夢のテレビスタジオの中でテレビタレントを生きているわけですからね。
勿論、この“悪夢”がいつ始まったのかといえば、昭和の四十年からです。昭和の三十九年に「分った」と言って学ぶことをやめて――つまり、他人のドラマというものを見るのをやめて、自分を舞台に上げて行ったからですね。勿論、昭和の四十年に日本人の多くがそうなったからといって、全員がそうだという訳ではありません。いくら東京オリンピックが国民的行事だったからと言って、東京オリンピックの中継をするテレビの視聴率が100%だった訳でもありませんし、『赤穂浪士』を日本人が全員見ていた訳でもありません。見なかった人だって勿論います。見なかった人に、そうした国民的な変化は関係がなかったのかと言えば、勿論そんなことはありませんね。「他のヤツはみんな見てるんだろうな」という、自主的な“孤立”という形の参加をします。全然外界のことを知らないで、気がついたら取り残されていたという形で、関わりというものを持たされます。こういう人達が、日本人の多くが舞台に上がってドラマに参加して行く時、観客席に取り残されるんですね。取り残されて「はみだした……」「あぶれた……」という実感を持つんですね。繁栄の下にある“翳り”というのは、別に貧しさだけではないんですね。ドラマというものが、悪夢の太陽の下で“翳り”というものを濃くして行くんですね。
飛び飛びの話で分り難いかもしれませんが、昭和三十六年の『用心棒』から生まれる“残酷時代劇”は二つの流れを持ちます。一つは、海外の映画祭で賞を取る“社会派”の芸術映画です。既に“現実”は、自分の家の中に”娯楽”を持っています。テレビが“娯楽”を奪ったら、映画はもう“娯楽”ではありません。映画が“娯楽”となるのなら、それは、一家の団欒の中にある娯楽――そういう一体感から取り残された、特別な人達の為の“特別な娯楽”となるしかないのです。
映画が大衆娯楽の王座にあった昭和三十年代を過ぎて、テレビという報道のメディアが娯楽の王座についた時、映画は個人的な娯楽へと落ちました。集団としての一体感を味わえなくなった人間だけが、態々映画館の暗闇の中へと足を運ぶようになったのです。一体感を失った人の為の娯楽――それが特殊なものであるというのは勿論、その娯楽がすべて悲劇であるという“特殊な娯楽”だったからです。
誰が悲劇を求めるのか?誰が“救いのない”ことを“救い”とすることが出来るのか?救われない貧相な人達だけです。そういう人達が高度成長の下に浮かび出して、ここに“娯楽としての悲劇”が復活するのです。復活するというのは勿論その先例あってのことですが、それが何かというと、最初のチャンバラ・ニューウェーブ”純情青年の妄想『無頼漢解題雄呂血』ですね。無頼漢が公然と“ヤクザ”になって復活して来たのが、昭和四十年代のヤクザ映画なんですね。
ヤクザ映画に関して語るべきことは多くありそうで、実はあんまりありません。何故かというと、そこに出て来る人間は、結局は“ヤクザ”だからです。道を踏み外した人間が自己完結して行く――結局最後、殴り込みの後で刑務所へ行く――のを“娯楽”として見るというそのことが、私にとってはどうにも不健康なことだとしか思えないからです。言葉を変えて言えば、どうしてヤクザ映画を見ていた男は、自分の能無しぶりには目を剥けなかったのだろう?としか私には思えないからです。なんだかんだ言ったって、結局は現実を切り開かない訳でしょ?いい人を虐げる悪いヤクザを、自分が犠牲になって倒すという、ヒロイズムに酔って、酔ったまま現実から逃避して刑務所に逃げ込むわけでしょ?男がそれでいいの?と思うからです。
「ヤクザなんか人間の屑だ」というのは、道を踏みはずしてしまった主人公の口にする決まり文句ですが、と同時に、ヤクザ映画の根本道徳は「男が立つか立たないか」ですね。“人間の屑”が男を立たせる最大の方法は、ヤクザをやめることであるという矛盾の上に初めっから乗っかっている訳ですが、このヤクザ映画というヤツで、しかしこの矛盾が解消された映画に、まずお目にかかったことはない。主人公が「俺ァ、もう、足洗ったんだ」という前提に立っていても、悪玉は決してこれを許さない。さまざまな妨害を繰り返すその結果、「俺ァもうアイツには我慢出来ねェんだ」と言っての殴り込みになるわけですが、それから終始一貫逃げようとして堅気を全うしたヤクザというのは、決して出て来ないんですね。それをやるのは、必ず善意の脇役で、この人は必ず悪いヤクザのなぶり殺しに遭って、主人公の「もう、許せねェ」の怒りの引き金を引くだけです。はっきり言って、ヤクザ映画の主人公は、善玉に「我慢出来ねェ」んではなくて、自分がつまらない堅気であり続けることに「我慢がなんねェんだ」なんですね。主人公は常に、「我慢出来ねェ!」と言って両肌脱ぎになる機会だけをジーッと待っている。「大の男がバカみたい……」という人間が一人ぐらいいてもいいとは思います。幸い、ヤクザ映画の主人公は「笑ってやっておくんなさい」と言っている訳ですから、私としても笑う訳です。「大の男が、他に問題解決の方法を見つけらんないの?」と。“話し合い”という解決の方法だってある――およそヤクザ映画の性質を全く無視したイチャモンだってしっかとつくというのは、当の主人公が「ヤクザは人間の屑だ」という矛盾した前提を、平気で受け入れているからですね。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.358-361.
橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』が書かれたのは、1986年の刊行で今を去る33年も前であり、さらにこれが書かれた元は、1981年に『マキノ雅裕監修・浦谷年良編著・ちゃんばらグラフィティー』という本が講談社から出された中に寄稿した文章がはじまりになっていた。これは東映の創立三十周年記念で作られた映画『チャンバラグラフィティー』の単行本だった。そのときは最初の短いチャンバラ映画論だったものが、どんどん伸びてついに1400枚の原稿になったという。でも、今これを読んでみて、橋本さんがこれを書いていたあのバブルに向かう時代は、まだ東映時代劇をリアルタイムで観ていた人がたくさんいた。しかし21世紀も19年経った今は、チャンバラ時代劇というものを何も知らない人がマジョリティなのだから、今これを読むことはそのままでは意味が薄い。たんなる懐古やオマージュは消えゆく年寄りの趣味でしかない。そうではなく、東映時代劇に象徴されるあの戦争をはさんだ日本人の経験を、大衆としての「オヤジ的なるもの」の基層を彫り出す試みとして新たな意味があるかも知れないと、ぼくは思ったのだ。
「東映という第二次世界大戦後の日本に出来た会社は、一体何でその会社の基礎を固めたのかというと、『笛吹童子』に始まるお子様向けチャンバラ映画のヒットによってでした。この北村寿夫原作によるNHKの連続放送劇(まだこれはラジオです)『新諸国物語』のシリーズ第一弾『笛吹童子』が中村錦之助主演で昭和二十九年に映画化され、これで東映という会社は一躍大会社にのし上がったのです。お子様向けのチャンバラ映画が続々と作られ、中村錦之助という前髪立ちの似合う美少年は一躍トップスターにのし上がりました。戦後出の映画スターというのは全部この中村錦之助の影響下にあると言っても過言ではありません。大映の勝新太郎や市川雷蔵が白塗りのツケマツ毛美少年をやっていたのは、だから、大映のトップスター長谷川一夫の影響ではなく、中村錦之助という美少年スターの影響なんです。勿論戦後に中村錦之助が出て来るということは戦前の長谷川一夫(林長次郎)という先例あってのことですが、しかし戦後という“太平の御世”は、中村錦之助をそんまんまアイドルとして位置づけさせたのです。
松竹からデビューした長谷川一夫には日活マキノという対抗馬がいました。男性的チャンバラに対しての女性的チャンバラがデビュー時の長谷川一夫ですが、しかし戦後の中村錦之助にはそうしたライバルがいなかったのです。東映製のお子様向けチャンバラ映画は二本立ての添え物で、一本の上映時間が五十分前後という“短編”でした。言ってみれば、市川右太衛門・片岡千恵蔵という戦前からの映画スターを一家の長とする“子供部屋の主役”だったのです。ここにライバルはありません。あるとするなら、それは子供に対しての“大人”です。子供が大人を喰って行く、それがある意味での戦後の日本ですが、中村錦之助もそうでした。若く美しいスターが生まれてしまったから、大人も若く美しくなったのです。片岡千恵蔵や市川右太衛門が五十代という年齢であるにもかかわらず若くて独身の主人公を演じ続けていたというのは、この中村錦之助のせいです。彼が一人で、日本映画の主流を変えてしまったのです。
昭和三十年代前半の全盛期、東映がワンパターンのチャンバラ映画を作り続けていられたのは、この要となるスターが、年をとらない本当の意味での“少年”だったからです。
彼には何の不安もない――それはまだ彼が世の中という現実を知らないでいたから。実際には刀で人を斬ればイヤな音もするし血も出る――そのことを知らないでいられたから、彼は平気で刀を振り回し、颯爽たる活躍を示す。だから世界は明るかった。でも、その明るい世界が実は“明るい世界”という作り物だったらどうなるのか?斬れば血が出るという残酷時代劇の登場は「お前のやっていることはウソだ」という少年に対しての突きつけでしかないのです。「正義は勝つ!」という単純なる世界観は、複雑なる現実に押し潰されて見る影もない――それは1960年代から始まって今に至るも、です。男の子はヤクザにはなっても“男”にはならない。世の中に裏切られた女は、“男”になる――そしてそれはヤクザになるということだった。他のヤクザ映画の主人公達はみんな“ヤクザになってしまった主人公”でしかなかったけれども、緋牡丹お竜だけは、ヤクザ映画の世界に降り立った男(ヒーロー)だったんです。
私ははっきり言って、お子様向けのチャンバラ映画で戦後の幕が開かれたんなら、ヤクザ映画にだってキッチリと“少年ヤクザ映画”というものがあったってよかったと思うんですね。ヤクザの家に生まれたけれどもお父さんが「お前だけはヤクザにしたくない」と言ってちゃんと中学校に入れる手筈はしておいてくれたにもかかわらず、お父さんが悪人の手にかかって殺されると中学の方では入学取り消しを言って来た。心の支えとなるお母さんはいなくて、親戚筋の親分衆はおタメゴカシを言って組を乗っ取っちゃう。もう、くやしさを噛みしめて男の子は一人旅に出て自分を磨かなければならないところに追いつめられて――というのはそのまんま、緋牡丹お竜よりも男の子にふさわしいような話です。チャンバラ映画が衰退してヤクザ映画の全盛期が来たというのは、“理想の江戸時代”がもう終って仕方なく、フィルムの中の江戸時代人は近代の夕まぐれに足を踏み込んだというのに等しい訳で、それはそのまんま“現実”というものに直面してはねのけられてしまった少年の運命に等しいようなものですからね。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.365-366.
あらためて橋本治氏の提示した問い、なぜ江戸時代が終わって50年も経った大正時代に、映画という新奇なメディアに夢をかけた人たちが、チャンバラ時代劇を作ったのか?そしてそれを見た観客が、見たこともない侍が刀を振り回すドラマに熱狂したのか?これは解くべき愉快な謎だな。
B.歴史を生きた不遇な人物
中公文庫に収められている、明治の軍人・石光真清の手記『城下の人 一 西南戦争・日清戦争』、『曠野の花 ― 義和団事件』、『望郷の歌 ― 日露戦争』、『誰のために ― ロシア革命』という4冊の本がある。これは、日本の明治以来の近代をリアルタイムで生き抜いたある一人の男の、凄絶ともいえる記録である。こういう文章が残っていること自体、歴史をほんとうに知る重要な手がかりだと思う。
「戦争は必要なのか 諜報に半生捧げた男の疑問:編集委員 駒野 剛
JR熊本駅から東へ10分ほど歩く。白川を越えてまもなく、目的地があった。入口にロープが張られ「ようこそ石光真清記念館へ」の紙。しかし、誰もいない。記念館を所有する熊本市から教えられた警備会社に連絡を取り、鍵を開けてもらった。
木造2階建ての民家が記念館である。石光は1868(明治元)年にこの家で生まれ、76年の神風連の乱、翌年の西南戦争を体験し上京するまで過ごした。西郷軍を迎え撃つ熊本鎮台司令長官谷干城が石光の父真民をたずね、2階の書斎で熊本、鹿児島の情勢を聞いたという。民家は戦の目撃者だ。
尚武の時代に生を受けた石光は陸軍将校となり、日清、日露戦争、そしてロシア革命後の混乱期、日米などが派兵した「シベリア出兵」に至るまで、祖国に尽くした。
普通の軍人のように戦場で命のやりとりをするのではなく、諜報活動、つまりスパイとして敵地に入り、生業を持つ傍ら、敵の実力や配備状況など戦争の帰趨を制する秘密情報を入手することに半生を捧げた。
◎ ● ◎
ロシアに強い関心を持ったのは近衛師団の将校時代、「大津事件」に遭遇したからだ。警備の巡査が来日中のロシア皇太子に斬りつける未曽有の不祥事が起きた。日本中が震え上がる。強国の怒りを恐れた明治天皇自ら皇太子に謝罪する騒動になった。
加えて日清戦争で得た中国・遼東半島を露独仏3国の干渉で放棄させられたことも、石光の対ロシア観を敏感にさせる。
ロシア語を猛勉強し、留学の許可を得て、中ロ国境のロシア軍の拠点の都市で暮らし始めるが、軍による中国住民約3千人の虐殺事件を目にする。義和団事件に呼応すると疑われ起きた悲劇だ。石光は東アジアの血闘史が開幕したと受け取った。
事件後、陸軍から旧満州地域の交通の要衝ハルビンで諜報活動を命じられ、洗濯屋や写真館を経営しながら、ロシア軍の装備や重要施設の情報を集め、その後の日露戦争で生かされることになる。
戦後、東京都内の郵便局長を務めるが、ロシア革命が勃発、影響調査を参謀本部次長で後の首相、田中義一から命じられる。
ロシアに戻った石光はシベリア出兵をめぐり二転三転する祖国に疑問を持ち始める。残した手記にある。「中央と第一線の間ばかりじゃない、各機関の間にさえ、出兵についての統一的な考え方が出来ておらん」「大戦のドサクサにまぎれて僅かな武力で東部シベリアの独立をはかろうなんて、そりゃ出来ることじゃない」
「目的が達せられないことを承知で、犠牲を払うことが忠誠であろうか」「自分は与えられた責任を立派に果たした……そう考えてすむことだろうか、そんな形式主義が官界にも軍界にも浸透している」
日本はバイカル湖畔のイルクーツクまで占領するが、結局撤退に追い込まれ富と命を浪費して終わる。野心を各国に見透かされた上、シベリア出兵の反省なく満州事変という謀略に手を染め泥沼に落ち込む。第2次大戦終盤、出兵の復讐を受けるようにソ連軍の侵攻を受け、北方領土も失った。
◎ ● ◎
「戦争でこの島を取り返すのは賛成か、反対か」「戦争をしないとどうしようもなくないか」。北方領土訪問に同伴した国会議員が、元島民に発言して衆院の糾弾決議を受けた。双方の憎悪の連鎖を増幅する戦争が、最終的な解決策にはなるわけがない。
何より深刻に思うのが、選良の一人というだけでなく、東京大学経済学部を卒業して経済産業省の官僚まで務めたトップエリートの彼が、歴史に学ぼうとしていないことだ。過去の失敗を繰り返さないためには、歴史に謙虚に向き合わねばなるまい。
諜報活動で、石光が得た富や名誉はほとんどなく逆に多くの借財に苦しんだ。1942(昭和17)年、亡国に向かう祖国を見ながら波乱の一生を終えた。記念館を訪ねる人は年に10件あるかどうか、だという。」朝日新聞2019年6月26日朝刊、13面オピニオン欄、多事奏論。
明治維新によって東洋の島国に創られた日本という国家が、その後の西洋を追いかける近代化を達成し、植民地まで持つ強国に成り上がったあげく、無謀な戦争に突入し悲惨で惨めな敗北を喫したという歴史の事実を、ぼくたちは見たくない汚点のように無視している。その敗北を導いたのは、独善的な日本帝国陸軍・海軍の軍人たちだったということになっているが、その軍人たちの中にこそ、この祖国のために粉骨精神働き、その祖国の危機を憂え、冷静に理性的に未来を見通したが故に、結局名誉とも称賛とも無縁だった不遇な生涯を送った人がいた、ということを忘れたくないと思う。
時代劇スターと戦争との関係を考えてみようかと思って、試みに戦後日本映画で活躍した時代劇スターの主な男優について、戦争が終った1945年8月にいくつだったかを調べて一覧表にしてみた。以下のようになっている。年齢は満年齢だが、当時は数えの方が普通だから、プラス1か2する方がいいかもしれない。
大河内伝次郎(明治31年生、終戦時47歳)、進藤英太郎(明治32年生、46歳)、阪東妻三郎(明治34年生、44歳)、月形龍之介(明治35年生、43歳)、嵐寛寿郎(明治36年生、42歳)、片岡千恵蔵(明治36年生、42歳)このへんまでが40代、ちなみに新国劇の島田正吾・辰巳柳太郎も明治38年生まれで終戦時40歳である。続く30代は、市川右太衛門(明治40年生、38歳)、東野英治郎(明治40年生、38歳)、長谷川一夫(明治41年生、37歳)、小沢栄太郎(明治42年生、36歳)、黒川弥太郎と山村聰(明治43年生、35歳)、高田浩吉と森雅之(明治44年生、34歳)、大友柳太朗と藤田進(明治45年生、33歳)、山形勲(大正4年、30歳)とここまでが30代。以下の20代はほとんどが軍隊経験があるはずだ。近衛十四郎(大正5年生、29歳)、千秋実(大正6年生、28歳)、伊藤雄之助(大正8年生、26歳)、岡田英次と三船敏郎(大正9年生、25歳)、丹波哲郎(大正11年生、23歳学徒出陣組)、木村功と三國連太郎と西村晃(大正12年生、22歳)、鶴田浩二(大正13年生、21歳)とここまでが20代の戦中派。そして20歳前の若者だったのが、佐田啓二と東千之助(大正15年生、19歳)、田村高廣(昭和3年生、17歳)、大川橋蔵と若山富三郎(昭和4年生、16歳)、市川雷蔵と天知茂と勝新太郎と高倉健は(昭和6年生、14歳)のまだ少年、中村錦之助と仲代達也が(昭和7年生、13歳)、石原裕次郎(昭和9年、11歳)、川津祐介(昭和10年生、10歳)、小林旭(昭和12年生、8歳)、津川雅彦(昭和15年生、5歳)とこのへんはまだ子どもである。
戦後の占領時代は時代劇の製作は禁止だったから、この人たちが侍姿で復活したチャンバラ映画に出るようになったのは、6,7年後だとすると、終戦時16歳の大川橋蔵や13歳の中村錦之助は登場した時は、きらきらイケメン若侍だったわけだ。彼らには戦争の影も記憶もきれいさっぱり消えていた。しかし、鶴田浩二や三國連太郎や丹波哲郎や三船敏郎はそうはいかない。彼らは軍隊に取られ現実に戦争をやっていた若者だったのだから。さらに上の戦前の映画に出ていた人たちは、いろんな戦争のくぐり方をしたはずだ。そのことが彼らの戦後の映画スターとしての活躍となにか関係があるだろうか?時代劇は近代戦の始まるずっと前の江戸時代のお話ということになっていたから、イクサといっても刀や槍のチャンバラで、しょせんはフィクションである。そこに戦争体験は一見無関係で、娯楽映画はあくまで娯楽であればいいわけだが、でもあの戦争を戦った人間は、それをきれいさっぱり忘れ去ることなどできただろうか?
「人類の歴史にとって“娯楽”というものは、それまでは常に“特別”だったし、あんまり深入りしてはいけないものだったのです。“見世物”とか“混雑”とか“御馳走”というようなものは“お祭り”というような特別な日、特別な場所にしかなかった。それは“非現実”の世界に属するようなものだったのです。だから“芸人”というものは特別で賤しいものとされました。だって“普通じゃない”んですから。現実は“毎日がお祭り”ではないんですから。そういうものが“現実”だから、“特別”というものはあったんです。“特別”に深入りすれば“現実”を失います――それが堅気の発想というものです。役者に熱を上げる、小説に読み耽ける、芸事に血道を上げる――こういうことを堅気の人間がしたら、それは即“オマンマの食い上げ”につながる訳で、こんなことが奨励される訳もありません。“娯楽”というのは“楽しい”という表の顔の他に“誘惑”という裏側を持っていたんですね。だから、それは“特別”な場合に限定されて存在していたんです。
“娯楽”というものは、人類の歴史の初めからあったような古いものですが、それは“特別な場合”“特別な時”という“非現実”の中にしかありませんでした。現実と娯楽の間には、常に一本の線が引かれていたのです。でも、昭和四十年から始まる“ゆとり”というのは、この一線を曖昧にしました。“ゆとり”というものは、現実の中に娯楽を貯えて行く、そうしたものでした。その結果どうなったのか?人は”ゆとりの住い”というような現実離れのした外界を持つ、“宅地”という名の人工的な空間の上に立った“マイホーム”というオモチャ箱に居心地悪く住んで(それは本当の演技を知らないからです)、テレビタレントをそれぞれに養成することになりました。それが“娘”であったり“息子”です。
観客席にいた人間が舞台に上って、それを現実だと思って、そこで現実生活を営む。あるいは、一度上がった舞台の上の“現実”を胸にしっかと叩き込んで、再び舞い戻った舞台の上の“現実”を再現する。それが昭和四十年からの“生活”というものですが、これに不安感を感じなかったら、人間はバカです。現実感がある筈のない場所で現実を演じたり、現実感のない現実を演じたりしていたら人間というものは必ず不安になります。何故かといえば――こんなこと、説明するのもバカらしいくらいですが――それは“嘘”だからです。“血が通っていない”からですし、“心”がないからですね。“心がない”というのはこういう状態を言うのですが、しかし残念なことに、世界中が舞台となってしまって、同時に世界中が観客席となってしまったような現実の中ではこういうことが発見出来ません。嘘がホントの尻ッ尾を呑みこんで、ホントが「ひょっとしたら自分は嘘なんじゃなかろうか?」と首をかしげているんですから。それまで舞台の上にいたプロの役者は、シロートの演じる“信じこみ”の演技を見て「とてもあのリアリティーにはかなわない」と言っているんですから、そんなことは誰にも分かりません。分るのはただ一つ、なんとなく不安だ、ということだけです。分りやすく言ってしまえば、現在の蔓延する不安感の正体とは、「人並みが身にしみない」です。“人並みじゃない人”がいてくれたらまだしも、見渡せば周りがみんな“人並み”になってしまった訳ですから――一億総中流というのはそういうことですね――その逃げ出せる先の目安となる“人並みじゃない状態”というのは見当がつきません。容赦なく“人並み”という状態に落ち着けられて、そこで「身にしみないなァ……、なんとなく……」と言っているのが、現代の最大の不安感というものです。
人間というのはなかなかバカではない訳ですから、不安を感じたら「なんとかしよう……」と思いますし、「何故だろう……?」とも考えます。「何故だろう?」と、自分を包む不安感の原因を探って出た答えが、「そうだ、自分達は人生の途中から“人並み”になった、その成り上がり性が自分達を落着かせないのだ」とうことで、「だったらどうしよう……」の答が、「私達の子供は“生まれた時から人並みである”――という環境で育てよう」です。「自分達の芝居が身にしみないのは、長い間観客席でシロートをやっていて途中から舞台に上がったという、その演戯経験の浅さだ」――という訳で、「舞台の上で生まれた子供は生まれながらの演技者である」という、救いのない(少なくとも子供にとっては)結果が生まれます。昭和四十年に生まれた子供は、今二十歳で“大学生”なんですよ、男も女も。これだけで、全部お分りでしょう?非現実を真似するんだったら、現実感のない人間の方が真似はうまいんですよ。真似もうまいし、真似る時間と場所もたっぷりあるんですよ。そのお母さん達が昔、「まァ」という上品な驚き方を発見しても、それをなかなか自分の生活の場で生かしていけるような余裕がなかった――少なくとも自分が“人並みの上品な奥様”と呼ばれる迄は――というのとは、今の若い子は違うんですよ。どこにも売れ口のないテレビタレントを自分の家というテレビのセットの中で育てているだけなんですね、今の“家庭”というものは。
みんな真似がうまい。真似が出来なければ仲間には入れてもらえない。今の若い人達はみんな、自分の家専用のそして更に、”自分達”という仲間内専用のテレビタレントとして育てられているんですね。今や、子供が人並みである状態を指して“可愛い”という訳ですね。“可愛い子供”であることによって、今の子供は立派に親にとってのテレビタレントとなっている訳ですね。今の子供達に生活実感のないのは当たり前です。“現実”という悪夢のテレビスタジオの中でテレビタレントを生きているわけですからね。
勿論、この“悪夢”がいつ始まったのかといえば、昭和の四十年からです。昭和の三十九年に「分った」と言って学ぶことをやめて――つまり、他人のドラマというものを見るのをやめて、自分を舞台に上げて行ったからですね。勿論、昭和の四十年に日本人の多くがそうなったからといって、全員がそうだという訳ではありません。いくら東京オリンピックが国民的行事だったからと言って、東京オリンピックの中継をするテレビの視聴率が100%だった訳でもありませんし、『赤穂浪士』を日本人が全員見ていた訳でもありません。見なかった人だって勿論います。見なかった人に、そうした国民的な変化は関係がなかったのかと言えば、勿論そんなことはありませんね。「他のヤツはみんな見てるんだろうな」という、自主的な“孤立”という形の参加をします。全然外界のことを知らないで、気がついたら取り残されていたという形で、関わりというものを持たされます。こういう人達が、日本人の多くが舞台に上がってドラマに参加して行く時、観客席に取り残されるんですね。取り残されて「はみだした……」「あぶれた……」という実感を持つんですね。繁栄の下にある“翳り”というのは、別に貧しさだけではないんですね。ドラマというものが、悪夢の太陽の下で“翳り”というものを濃くして行くんですね。
飛び飛びの話で分り難いかもしれませんが、昭和三十六年の『用心棒』から生まれる“残酷時代劇”は二つの流れを持ちます。一つは、海外の映画祭で賞を取る“社会派”の芸術映画です。既に“現実”は、自分の家の中に”娯楽”を持っています。テレビが“娯楽”を奪ったら、映画はもう“娯楽”ではありません。映画が“娯楽”となるのなら、それは、一家の団欒の中にある娯楽――そういう一体感から取り残された、特別な人達の為の“特別な娯楽”となるしかないのです。
映画が大衆娯楽の王座にあった昭和三十年代を過ぎて、テレビという報道のメディアが娯楽の王座についた時、映画は個人的な娯楽へと落ちました。集団としての一体感を味わえなくなった人間だけが、態々映画館の暗闇の中へと足を運ぶようになったのです。一体感を失った人の為の娯楽――それが特殊なものであるというのは勿論、その娯楽がすべて悲劇であるという“特殊な娯楽”だったからです。
誰が悲劇を求めるのか?誰が“救いのない”ことを“救い”とすることが出来るのか?救われない貧相な人達だけです。そういう人達が高度成長の下に浮かび出して、ここに“娯楽としての悲劇”が復活するのです。復活するというのは勿論その先例あってのことですが、それが何かというと、最初のチャンバラ・ニューウェーブ”純情青年の妄想『無頼漢解題雄呂血』ですね。無頼漢が公然と“ヤクザ”になって復活して来たのが、昭和四十年代のヤクザ映画なんですね。
ヤクザ映画に関して語るべきことは多くありそうで、実はあんまりありません。何故かというと、そこに出て来る人間は、結局は“ヤクザ”だからです。道を踏み外した人間が自己完結して行く――結局最後、殴り込みの後で刑務所へ行く――のを“娯楽”として見るというそのことが、私にとってはどうにも不健康なことだとしか思えないからです。言葉を変えて言えば、どうしてヤクザ映画を見ていた男は、自分の能無しぶりには目を剥けなかったのだろう?としか私には思えないからです。なんだかんだ言ったって、結局は現実を切り開かない訳でしょ?いい人を虐げる悪いヤクザを、自分が犠牲になって倒すという、ヒロイズムに酔って、酔ったまま現実から逃避して刑務所に逃げ込むわけでしょ?男がそれでいいの?と思うからです。
「ヤクザなんか人間の屑だ」というのは、道を踏みはずしてしまった主人公の口にする決まり文句ですが、と同時に、ヤクザ映画の根本道徳は「男が立つか立たないか」ですね。“人間の屑”が男を立たせる最大の方法は、ヤクザをやめることであるという矛盾の上に初めっから乗っかっている訳ですが、このヤクザ映画というヤツで、しかしこの矛盾が解消された映画に、まずお目にかかったことはない。主人公が「俺ァ、もう、足洗ったんだ」という前提に立っていても、悪玉は決してこれを許さない。さまざまな妨害を繰り返すその結果、「俺ァもうアイツには我慢出来ねェんだ」と言っての殴り込みになるわけですが、それから終始一貫逃げようとして堅気を全うしたヤクザというのは、決して出て来ないんですね。それをやるのは、必ず善意の脇役で、この人は必ず悪いヤクザのなぶり殺しに遭って、主人公の「もう、許せねェ」の怒りの引き金を引くだけです。はっきり言って、ヤクザ映画の主人公は、善玉に「我慢出来ねェ」んではなくて、自分がつまらない堅気であり続けることに「我慢がなんねェんだ」なんですね。主人公は常に、「我慢出来ねェ!」と言って両肌脱ぎになる機会だけをジーッと待っている。「大の男がバカみたい……」という人間が一人ぐらいいてもいいとは思います。幸い、ヤクザ映画の主人公は「笑ってやっておくんなさい」と言っている訳ですから、私としても笑う訳です。「大の男が、他に問題解決の方法を見つけらんないの?」と。“話し合い”という解決の方法だってある――およそヤクザ映画の性質を全く無視したイチャモンだってしっかとつくというのは、当の主人公が「ヤクザは人間の屑だ」という矛盾した前提を、平気で受け入れているからですね。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.358-361.
橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』が書かれたのは、1986年の刊行で今を去る33年も前であり、さらにこれが書かれた元は、1981年に『マキノ雅裕監修・浦谷年良編著・ちゃんばらグラフィティー』という本が講談社から出された中に寄稿した文章がはじまりになっていた。これは東映の創立三十周年記念で作られた映画『チャンバラグラフィティー』の単行本だった。そのときは最初の短いチャンバラ映画論だったものが、どんどん伸びてついに1400枚の原稿になったという。でも、今これを読んでみて、橋本さんがこれを書いていたあのバブルに向かう時代は、まだ東映時代劇をリアルタイムで観ていた人がたくさんいた。しかし21世紀も19年経った今は、チャンバラ時代劇というものを何も知らない人がマジョリティなのだから、今これを読むことはそのままでは意味が薄い。たんなる懐古やオマージュは消えゆく年寄りの趣味でしかない。そうではなく、東映時代劇に象徴されるあの戦争をはさんだ日本人の経験を、大衆としての「オヤジ的なるもの」の基層を彫り出す試みとして新たな意味があるかも知れないと、ぼくは思ったのだ。
「東映という第二次世界大戦後の日本に出来た会社は、一体何でその会社の基礎を固めたのかというと、『笛吹童子』に始まるお子様向けチャンバラ映画のヒットによってでした。この北村寿夫原作によるNHKの連続放送劇(まだこれはラジオです)『新諸国物語』のシリーズ第一弾『笛吹童子』が中村錦之助主演で昭和二十九年に映画化され、これで東映という会社は一躍大会社にのし上がったのです。お子様向けのチャンバラ映画が続々と作られ、中村錦之助という前髪立ちの似合う美少年は一躍トップスターにのし上がりました。戦後出の映画スターというのは全部この中村錦之助の影響下にあると言っても過言ではありません。大映の勝新太郎や市川雷蔵が白塗りのツケマツ毛美少年をやっていたのは、だから、大映のトップスター長谷川一夫の影響ではなく、中村錦之助という美少年スターの影響なんです。勿論戦後に中村錦之助が出て来るということは戦前の長谷川一夫(林長次郎)という先例あってのことですが、しかし戦後という“太平の御世”は、中村錦之助をそんまんまアイドルとして位置づけさせたのです。
松竹からデビューした長谷川一夫には日活マキノという対抗馬がいました。男性的チャンバラに対しての女性的チャンバラがデビュー時の長谷川一夫ですが、しかし戦後の中村錦之助にはそうしたライバルがいなかったのです。東映製のお子様向けチャンバラ映画は二本立ての添え物で、一本の上映時間が五十分前後という“短編”でした。言ってみれば、市川右太衛門・片岡千恵蔵という戦前からの映画スターを一家の長とする“子供部屋の主役”だったのです。ここにライバルはありません。あるとするなら、それは子供に対しての“大人”です。子供が大人を喰って行く、それがある意味での戦後の日本ですが、中村錦之助もそうでした。若く美しいスターが生まれてしまったから、大人も若く美しくなったのです。片岡千恵蔵や市川右太衛門が五十代という年齢であるにもかかわらず若くて独身の主人公を演じ続けていたというのは、この中村錦之助のせいです。彼が一人で、日本映画の主流を変えてしまったのです。
昭和三十年代前半の全盛期、東映がワンパターンのチャンバラ映画を作り続けていられたのは、この要となるスターが、年をとらない本当の意味での“少年”だったからです。
彼には何の不安もない――それはまだ彼が世の中という現実を知らないでいたから。実際には刀で人を斬ればイヤな音もするし血も出る――そのことを知らないでいられたから、彼は平気で刀を振り回し、颯爽たる活躍を示す。だから世界は明るかった。でも、その明るい世界が実は“明るい世界”という作り物だったらどうなるのか?斬れば血が出るという残酷時代劇の登場は「お前のやっていることはウソだ」という少年に対しての突きつけでしかないのです。「正義は勝つ!」という単純なる世界観は、複雑なる現実に押し潰されて見る影もない――それは1960年代から始まって今に至るも、です。男の子はヤクザにはなっても“男”にはならない。世の中に裏切られた女は、“男”になる――そしてそれはヤクザになるということだった。他のヤクザ映画の主人公達はみんな“ヤクザになってしまった主人公”でしかなかったけれども、緋牡丹お竜だけは、ヤクザ映画の世界に降り立った男(ヒーロー)だったんです。
私ははっきり言って、お子様向けのチャンバラ映画で戦後の幕が開かれたんなら、ヤクザ映画にだってキッチリと“少年ヤクザ映画”というものがあったってよかったと思うんですね。ヤクザの家に生まれたけれどもお父さんが「お前だけはヤクザにしたくない」と言ってちゃんと中学校に入れる手筈はしておいてくれたにもかかわらず、お父さんが悪人の手にかかって殺されると中学の方では入学取り消しを言って来た。心の支えとなるお母さんはいなくて、親戚筋の親分衆はおタメゴカシを言って組を乗っ取っちゃう。もう、くやしさを噛みしめて男の子は一人旅に出て自分を磨かなければならないところに追いつめられて――というのはそのまんま、緋牡丹お竜よりも男の子にふさわしいような話です。チャンバラ映画が衰退してヤクザ映画の全盛期が来たというのは、“理想の江戸時代”がもう終って仕方なく、フィルムの中の江戸時代人は近代の夕まぐれに足を踏み込んだというのに等しい訳で、それはそのまんま“現実”というものに直面してはねのけられてしまった少年の運命に等しいようなものですからね。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.365-366.
あらためて橋本治氏の提示した問い、なぜ江戸時代が終わって50年も経った大正時代に、映画という新奇なメディアに夢をかけた人たちが、チャンバラ時代劇を作ったのか?そしてそれを見た観客が、見たこともない侍が刀を振り回すドラマに熱狂したのか?これは解くべき愉快な謎だな。
B.歴史を生きた不遇な人物
中公文庫に収められている、明治の軍人・石光真清の手記『城下の人 一 西南戦争・日清戦争』、『曠野の花 ― 義和団事件』、『望郷の歌 ― 日露戦争』、『誰のために ― ロシア革命』という4冊の本がある。これは、日本の明治以来の近代をリアルタイムで生き抜いたある一人の男の、凄絶ともいえる記録である。こういう文章が残っていること自体、歴史をほんとうに知る重要な手がかりだと思う。
「戦争は必要なのか 諜報に半生捧げた男の疑問:編集委員 駒野 剛
JR熊本駅から東へ10分ほど歩く。白川を越えてまもなく、目的地があった。入口にロープが張られ「ようこそ石光真清記念館へ」の紙。しかし、誰もいない。記念館を所有する熊本市から教えられた警備会社に連絡を取り、鍵を開けてもらった。
木造2階建ての民家が記念館である。石光は1868(明治元)年にこの家で生まれ、76年の神風連の乱、翌年の西南戦争を体験し上京するまで過ごした。西郷軍を迎え撃つ熊本鎮台司令長官谷干城が石光の父真民をたずね、2階の書斎で熊本、鹿児島の情勢を聞いたという。民家は戦の目撃者だ。
尚武の時代に生を受けた石光は陸軍将校となり、日清、日露戦争、そしてロシア革命後の混乱期、日米などが派兵した「シベリア出兵」に至るまで、祖国に尽くした。
普通の軍人のように戦場で命のやりとりをするのではなく、諜報活動、つまりスパイとして敵地に入り、生業を持つ傍ら、敵の実力や配備状況など戦争の帰趨を制する秘密情報を入手することに半生を捧げた。
◎ ● ◎
ロシアに強い関心を持ったのは近衛師団の将校時代、「大津事件」に遭遇したからだ。警備の巡査が来日中のロシア皇太子に斬りつける未曽有の不祥事が起きた。日本中が震え上がる。強国の怒りを恐れた明治天皇自ら皇太子に謝罪する騒動になった。
加えて日清戦争で得た中国・遼東半島を露独仏3国の干渉で放棄させられたことも、石光の対ロシア観を敏感にさせる。
ロシア語を猛勉強し、留学の許可を得て、中ロ国境のロシア軍の拠点の都市で暮らし始めるが、軍による中国住民約3千人の虐殺事件を目にする。義和団事件に呼応すると疑われ起きた悲劇だ。石光は東アジアの血闘史が開幕したと受け取った。
事件後、陸軍から旧満州地域の交通の要衝ハルビンで諜報活動を命じられ、洗濯屋や写真館を経営しながら、ロシア軍の装備や重要施設の情報を集め、その後の日露戦争で生かされることになる。
戦後、東京都内の郵便局長を務めるが、ロシア革命が勃発、影響調査を参謀本部次長で後の首相、田中義一から命じられる。
ロシアに戻った石光はシベリア出兵をめぐり二転三転する祖国に疑問を持ち始める。残した手記にある。「中央と第一線の間ばかりじゃない、各機関の間にさえ、出兵についての統一的な考え方が出来ておらん」「大戦のドサクサにまぎれて僅かな武力で東部シベリアの独立をはかろうなんて、そりゃ出来ることじゃない」
「目的が達せられないことを承知で、犠牲を払うことが忠誠であろうか」「自分は与えられた責任を立派に果たした……そう考えてすむことだろうか、そんな形式主義が官界にも軍界にも浸透している」
日本はバイカル湖畔のイルクーツクまで占領するが、結局撤退に追い込まれ富と命を浪費して終わる。野心を各国に見透かされた上、シベリア出兵の反省なく満州事変という謀略に手を染め泥沼に落ち込む。第2次大戦終盤、出兵の復讐を受けるようにソ連軍の侵攻を受け、北方領土も失った。
◎ ● ◎
「戦争でこの島を取り返すのは賛成か、反対か」「戦争をしないとどうしようもなくないか」。北方領土訪問に同伴した国会議員が、元島民に発言して衆院の糾弾決議を受けた。双方の憎悪の連鎖を増幅する戦争が、最終的な解決策にはなるわけがない。
何より深刻に思うのが、選良の一人というだけでなく、東京大学経済学部を卒業して経済産業省の官僚まで務めたトップエリートの彼が、歴史に学ぼうとしていないことだ。過去の失敗を繰り返さないためには、歴史に謙虚に向き合わねばなるまい。
諜報活動で、石光が得た富や名誉はほとんどなく逆に多くの借財に苦しんだ。1942(昭和17)年、亡国に向かう祖国を見ながら波乱の一生を終えた。記念館を訪ねる人は年に10件あるかどうか、だという。」朝日新聞2019年6月26日朝刊、13面オピニオン欄、多事奏論。
明治維新によって東洋の島国に創られた日本という国家が、その後の西洋を追いかける近代化を達成し、植民地まで持つ強国に成り上がったあげく、無謀な戦争に突入し悲惨で惨めな敗北を喫したという歴史の事実を、ぼくたちは見たくない汚点のように無視している。その敗北を導いたのは、独善的な日本帝国陸軍・海軍の軍人たちだったということになっているが、その軍人たちの中にこそ、この祖国のために粉骨精神働き、その祖国の危機を憂え、冷静に理性的に未来を見通したが故に、結局名誉とも称賛とも無縁だった不遇な生涯を送った人がいた、ということを忘れたくないと思う。