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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

米倉斉加年さんと、「小さなおうち」のこと・・

2014-08-30 02:33:51 | 日記
A. 追悼!
 8月26日、米倉斉加年さんが亡くなった。ちょうど先週、山田洋次の映画『小さなおうち』をDVDで借りて見たところだった。中島京子の直木賞受賞作の小説の映画化だが、この映画の最後の方に、重要な役で米倉さんが出演していた。妻夫木聡の演じた青年が訪ねた北陸の浜辺に住む老人役だった。最近あまり見ることがなかった人なので、なんだか懐かしかった。たくさんの映画やテレビドラマに出て印象深い演技をした俳優だったが、もともと劇団民芸の新劇出身であり、また絵を描く人で画集も多く出している。画家というかイラストレーター的な精密な絵で、絵本作家としてぼくは昔から好きだった。
 今月初めまで講演などをされていたというが、腹部大動脈りゅう破裂のため、福岡市内の病院で80歳で亡くなったという。米倉さんが福岡市出身だというのを初めて知ったが、九州の大学を途中でやめて劇団民藝の演劇研究所に入り、舞台や映画に数多く出演した。ぼくには、NHK大河ドラマの「花神」の桂小五郎とか、最近では「坂の上の雲」の大山巌とか、記憶に残る印象があるが、そういう固い役より「男はつらいよ」での気の弱いサラリーマンみたいな役でこの人が細長い顔でくそまじめに喜劇を演じるのが意外に面白かった。
 報道によれば、米倉さんは今月3日、戦争体験を語る講演会にも参加し、疎開中に生まれたばかりの弟を栄養失調で亡くした自らの経験を綴った絵本を朗読するなどして、平和の大切さを呼びかけていたという。
 人が亡くなっていくのは、この世の摂理というか仕方のないことなのだが、俳優という仕事はある意味で幸福な職業だと思う。役者は自分自身ではなく、台本に書かれたさまざまな人物をあたかもそこに生きている人のように演じていく。それを見て、観客は共感したり反撥したりして記憶に留める。若い役者はその時代の若者の気分を代表し、中年の役者はその時代の力のある世代の姿を反映し、老年の役者は失われた時代の残り香を漂わせ、人々の記憶に確実なイメージを刻印する。俳優でもなければ、会ったこともないたくさんの人に、個人のパーソナルな姿、顔貌、体型、声、仕草まで記憶され想い出されるなんてことはないだろう。
 でも同じ俳優でも女優と男優を比べてみると、もって生まれた若さや美貌を称賛される女優は、その後がきつい。人は誰でも歳をとって、若さや美貌などは儚く失われていく。それに抵抗してみてもしょせんは肉体をもった人間の限界は超えられない。そこへいくと男優は、若さイケメンで売る人はどうせ長持ちしないのは同じでも、別の道はある。米倉斉加年さんは元々二枚目とは無縁なので、演劇における実質的価値がよく分かっていたと思う。俳優は、所詮は監督や劇作家・脚本家や演出家の操作する道具のひとつに過ぎないのだが、役者が舞台の上やキャメラの前で動かなければ何も表現できない。だから、そこで劇中の人物になりきり、しかも自分の身体で生きた人間を観客の目の前に晒す技をもった人間だけが良い役者なのだ。



B.中島京子『小さいおうち』文藝春秋、を読んだ。
 それまでこの人の小説は読んだことがなかった。この作品は直木賞を受賞し、山田洋次によって映画化され、一躍世間の片隅で注目を集めた。ただ、映画はストーリーを追うことに偏して、昭和戦前の東京山の手、という時空の細部までは丁寧に描ききれない。この小説は、丁寧に読む価値がある。

「こうしてわたしたちは、開戦の日を迎える。
 真珠湾の日。十二月八日だ。
ぱっとしない一日だった。
 二、三日前からラジオが壊れていて、終日流れていたという放送を、私も奥様も聞いていなかった。
 やっと知ったのは、夕方になってからだ。
 四年生になってから、ひとりで学校へ通われていたぼっちゃんが、駅から家までの坂道を全速力で駆けてきて、叫んだ。
「やったよ!戦争が始まったよ!日本がハワイの軍港へ、決死の大空襲だよ!」
 奥様はおっとり出ていらした。
「あらまあ、それ、ほんとなの?恭ちゃん」
「そうさ、午後、校長先生が全校生徒を集めておっしゃったんだもの。ラジオ、聞かなかったの?」
「聞いてないわ。ハワイってどこ?蘭印?仏印?」
「なにを言ってるの?お母ちゃま!ハワイと言ったら、西太平洋じゃないか!」
「お母ちゃまは、地理があんまり得意ではないのよ」
「オランダでもフランスでもないよ。アメリカと戦争を始めたんだよ!」
「あらまあ、そうですか」
「そうですか、じゃないよ!だから女はだめなんだ」
 ぼっちゃんは怒って二階に駆け上がり、奥様はふうとため息をつかれた。
「一昨日もお父様は、東條内閣はアメリカと戦わない方針だとおっしゃってたけれど」
 奥様がつぶやくと、地獄耳のぼっちゃんは二階から、
「あんまりアメリカが悪いから、堪えに堪えていた日本がもう、堪忍できなくなったんだ。ああ、だから女は嫌なんだ」
 と、聞こえよがしに怒鳴った。
 奥様も今度はほんとうにひそひそ声で、
「支那との戦争だって四年も続いているのに、また新しい戦争だなんて、ちょっとうんざりするわね」
 とおっしゃった。
 女がだめだからどうなのか知らないが、たしかにこの日は平井家の男二人が異様に盛り上がり、夜中まで、「敵はァ、幾万、ありとてもォ!」と合唱して大騒ぎした。
 旦那様もなぜだかすっかり、開戦派に変貌していたのである。
「アメリカもこれで、もう日本をバカにできないと思い知ったに違いない。日本、よくやった!万歳!」
 旦那様は大きな声でそうおっしゃった。
「社長なども言うのだがね。米英は東洋人を一段下の人間と思っているんだ。それで呑めない条件を次々突きつけてくる。社長がアメリカに行ったとき、いきなり初対面の人間にシュウ、シュウ、と、まるで犬のようにあだ名で呼ばれて困惑したというんだよ」
「あらでも、以前、社長さんはそのお話を、アメリカ人がとても友好的だという例に、引いていらっしゃいましてよ」
「そこが、社長のいいところさ。なんでも好意的に解釈しようとする。日本人の美点でもある。ところが思い出してみると、白人がミスター何々と呼ばれているような場所でも、社長だけシュウだったというんだ」
 直接聞いたわけではないから、社長さんがどんな思いでこの話をしたのかは、わからない。けれど旦那様の中では、「シュウの話」は、まるきり、逆の逸話に変っていた。 
 この日の盛り上がりには、正直、わたしもついていけなかった。
けれど翌日の朝刊の見出しを見たときに、何かがすっと私の中に入ってきて、いろいろなことがわかった気がした。
ああ、始まるのだ。新しい時代が始まるのだ、と思った。
それまで毎日、新聞は、日米交渉がいかにうまくいかないかを、ちまちました小さな活字で取り上げていたのだ。東條さんの渋い顔や、ハル国務長官の憎々しい顔が、黒っぽい写真で入っていて、来る日も来る日も進展しない和平交渉を伝えていた。
しかもその間に、いかにアメリカやイギリスが日本をバカにしているか、腰抜けだと思って見下しているか、無理難題を押しつけても言うことを聞くと思っているかを報道していたものだから、新聞を見るのは、うんと嫌だった。
ところが十二月九日の朝刊には、大きな活字でもって、『米太平洋艦隊は全滅せり』『我無敵海軍の大戦果』と、胸のすくような文字が躍動していたのだった。
わたしは表へ出て、深呼吸をした。」中島京子『小さいおうち』文藝春秋、文春文庫、2012, pp.204-207.

作者、中島京子はこの作品を書くにあたって、昭和戦前の新聞雑誌など、当時の普通の人々が生きていた情報空間を細かい部分に注意を払って探索したという。それはこの作品のリアリティをとてもよく支えていると思う。この日米戦争開戦の日の男たちの昂奮は、21世紀の現在こそ記憶するに値する。この日に生きていた人たちは、その後数年間に起きることを予想できなかった。そして、ありえないと思ったことが次々起こったのである。それでも日本軍は強いに決まっているのだから、いずれは勝つ、と信じた人々はこの戦争が自分たちの生活を焼土と殺戮のどん底に落とすまで、何も考えることができなかった。
 日本が戦争などするわけがない、もし戦争をするとしても、どこか海外の遠いところでアメリカ軍と一緒にするだけだ、と考えている人々は、昭和15年の日本臣民と同様の妄想を信じている。どうしたらこんな愚かな政府と、その気分に無責任に便乗する人々を、止めることができるのだろう?
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結婚式しますか?するならチャペル式?神社式?どっちでもいいよ。

2014-08-28 20:26:37 | 日記
A.結婚式とクリスマスだけのキリスト教
 今の日本では、結婚する人の約半数近くが結婚式を挙げていない、という。正確なデータがあるのかどうか調べてないが、以前のように豪華な結婚式場やシティホテルで大金をかけて結婚式をする人は、ぐっと減っていることは予想される。少子化と晩婚化などで結婚する人自体が減ってくるのと、多額の費用を結婚式にかけるよりは結婚後の生活資金に使う方が合理的であると考えるのも納得できる。バブル時代の豪華結婚式をモデルに、ブライダル商品で儲けた昔にこだわっていては、結婚式産業は衰退するだろう。
 でも、結婚式が一生一度のハイライト、女の子が一瞬お姫様みたいなヒロインになれる、というイメージを定着させた時代の方が、歴史的には特殊だったのかもしれない。もっと昔は、日本人はみんなある年齢になると結婚していたが、結婚式は自宅か神社などで簡素に家族親族だけでお金もかけずにやっていた。でも今も、ぼくの学生が卒業してしばらくすると、相変わらず華やかな結婚式をしている写真などをみると、親も含む経済力の問題に帰するのか、結婚という儀式への社会的な期待はそんなに変わっていないのかもしれないと思う。
ぼく自身のことを振り返ると、いちおう結婚式は都心の式場でやった。ぼくも相手も、結婚式をぜひやりたいとは考えなかったが、家族親族を含め関係者に結婚を通知して、社会関係を維持するには、結婚式をやってしまった方が、やらないよりコストが低いと判断した。ただし費用は親ではなく全部自分で出すつもりだったから、可能な限り安くあげることにして、都内の式場に行って調べたら、やり方次第で費用はかなり抑えられることが解った。費用の積算は料理と衣装が基本で、メニューを見ると一番安い料理はいかにも貧弱、衣装も和装の打ち掛けがピンからキリまで並んでいて、最低はいかにもみすぼらしく、お値段次第でどんどん豪華高額になる。たった2時間ぐらい着ている衣装が高いと50万円くらいする。ばかばかしいと思った。それで農林省関係の半公共施設の会館で、着物はやめてウェディングドレスを叔母さんに作ってもらい、料理も抑えて人数は50人以内に絞った。これでかなりお安くなった。
日本の結婚式の慣例として、呼ばれたお客はお祝いを持ってくる。豪華ホテルでやっても地味な会館でやっても結婚式は結婚式だから、お祝い金の相場はほとんど変わらない。親戚は体面を重んじる人も多かったので、結局結婚式費用の大半はお祝いで足りて、友人を集めた二次会と新婚旅行の費用がかなり楽になった。ぼくの計算は当たった。親戚への案内状を親の名ではなく自分たちの名前で出したら、無礼だと叱られた。でも無視した。だって結婚するのはぼくたちだし、費用も自分で出すのだから、家と家の結婚という考えは否定したかった。それでも、あの頃は結婚式をするのは常識的なことだった。
それよりも不思議なのは、結婚式場で式は神式でやるか、キリスト教式でやるか選べることだった。日本以外の国でこんな不思議なことはないだろう。宗教はご都合次第で選ぶものではない。でもいまも日本では、結婚式で神主の前で杯を交わすか、神父や牧師の前で神に誓うか、どっちでもよくてそれにあわせて衣装も選べる。要するにファッション、心の中の問題ではなく見た目だけの好みなのだ。ぼくは仏教徒なので、ほんとはお寺で仏式の結婚式をやるべきだったのだが、父は坊主をやめていたし、しょせん形式だけのことだと思って神式でやった。クリスチャンでもないのに十字架に誓うのはちょっと抵抗があった。日本では、宗教というものはかくもいい加減に取り扱われている。いまは大多数がキリスト教式を好むらしいが、それでクリスチャンになるわけではない。そしてそれを誰も問題とは思っていない。ばちあたりめ。



B.ふたたび内村鑑三
 日本が明治維新で開国して、禁止していたキリシタン・バテレンの入国を受け入れ、キリスト教の布教も西洋文明を輸入する必要からしぶしぶ認めてから、約10年ほどの間に、プロテスタントの宣教師、とくにアメリカの各宗派セクトは優秀な宣教師を送り込んで、日本人のキリスト教化を図った。幕府が倒れて、西洋の文物が流入し古い文化の中にいた古い世代を否定し、自分たちこそ新時代の先端に立つのだと意気込んだ若者が、英語を学び聖書を学び洗礼を受けた。その多くは、維新の動乱での負け組、新政府には排除された側にいた。
 再び加藤周一『日本文学史序説』の内村鑑三のところから。

「明治維新のまえに、アメリカのプロテスタント宣教師の活動は、横浜を中心としてはじまっていた(一八五九以来)。そのために日本人信者の集団(いわゆる「横浜バンド」)ができて、そのなかからあらわれたのが、植村正久(一八五九~一九二五)である。維新後一〇年ほどの間には、宣教師ばかりでなく、布教活動に熱心な教師もアメリカから来て、熊本洋学校(一八七一以来)や札幌農学校(一八七六)で教え、学生を回心させた(いわゆる「熊本バンド」と「札幌バンド」)。熊本のキリスト者学生の多くは、その後、新島襄(一八四三~一八九〇)の同志社(一八七五創立)に参加する。他方札幌農学校からは内村鑑三(一八六一~一九三〇)が出て、日露戦争以前の青年知識層に測り知れない影響を及ぼした。
 アメリカ人伝来のプロテスタンティズムを受け入れたのは、主として、武士の子弟であり、殊に幕臣または佐幕各藩の藩士の子弟であり、薩長権力に対抗した武士層の者が多い(久山康他『近代日本とキリスト教-明治篇-』、基督教学徒兄弟団発行、創文社、一九五八)。彼らがプロテスタンティズム(長老派、オランダ改革教会派など)を受け入れた理由は、したがって、権力批判の立場と無関係ではなかった。しかしそれだけではなく、キリスト教が『西洋への窓口』としてみえたということもあったにちがいない。それは単に知識や技術への窓口であったばかりでなく、またしばしば徳川封建制の価値観を打破するために有効な価値の体系への窓口でもあった。維新前後の武士層にとって、忠誠の対象の藩から国家への移行が主要な問題の一つでもあったとすれば、日本人にとっての日本への忠誠の意味を強調した宣教師や教師は、期せずして聴き手のいちばん敏感なところにふれていた、ということになる。しかも宣教師(の少なくとも一部)は、あきらかに清廉で、克己心に富み、勇敢でもあった。南北戦争(一八六一~六五)後に招かれた教師の何人かは、戦場の経験さえもっていたから、彼らの人格や生活態度がもと武士の子弟に強い印象をあたえたのは、不思議でない。
 しかしこのような理由のすべては、人間的・文化的なもので、宗教的なものではない。プロテスタンティズムに近づいた明治の青年たちは、必ずしもその教義の中心に近づいたのではなかった。青年時代に一度受洗して、その後まもなく棄教した知識人が多かったのは、おそらくそのためである。著作についてみると、多くの場合に、棄教は何らの劇的な内的戦いを伴っていない。たとえば島崎藤村(一八七二~一九四三)である。また棄教の意識なしに信仰の内容が変質して、はるかにプロテスタンティズムを離れていった者もある。たとえば徳富蘆花(一八六八~一九二七)である。またキリスト教の信仰から別の種類の信仰へ、キリスト教の明瞭な批判なしに、移っていった場合もある。たとえば木下尚江(一八六八~一九三七)である。棄教について高度に意識的であり、その正常化のために激しく努力した極めて稀な場合は、正宗白鳥(一八七九~一九六二)と有島武郎(一八七八~一九二三)であった。プロテスタンティズムの教義の内容と信仰の性質は、おそらく日本の土着世界観と根本的には両立し難いだろう。一方を破らなければ、他方をその宗教的本質において受け入れることはできない。しかし教師の人格に感心したり、西洋文化にひきつけられたり、という程度のことで、日本人の伝統的世界観が根底から否定されることはあり得ないのである。
 しかしもちろんプロテスタンティズムを、その宗教的核心において受け入れ、そのことから導き出される結論のすべてを、生涯を通じて、生きとおした例もなかったのではない。それが六八年の世代では内村鑑三である。
 内村は上州高崎藩の江戸詰め藩士の長子である。その父は、鑑三の一〇歳のときに廃藩置県で職を失った。彼は一二歳で東京へ出て、英語を学びはじめ、一六歳で札幌農学校に入る。事実上学校を創設したクラーク(W.S.Clark, 1826~86)が去った直後、第二期生の一人である。アマーストAmherst学長の現職のまま招かれてきたクラークは、札幌在職一年足らずの間(一八七八~七七)に、第一期生の一六名を回宗させてみずから草した「イエスを信ずる者の誓約」に署名させていた。その第一期生たちが、内村らの第二期生に迫って、同じ「誓約」に署名させようとしたのである。後に内村自身がHow I became a Christian(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』、英文初版、東京、一八九五)で回想しているところによれば、彼は神社に祈ってまで抵抗しようとしたが、遂に屈して、その制約に署名したという。半年の後、メソディスト派のアメリカ人宣教師から洗礼を受けた(一八七八)。その信仰は、農学校を卒業し(水産学専攻)、最初の結婚に失敗した後、アメリカ(主としてニュー・イングランド)で通した三年余の期間(一八八四年末~八八年春)に決定的に強められた。アメリカでは、主に聖書と神学を学び、またアメリカ人に対して「大和魂」を説く文章も書いている。
 帰国後、講師として第一高等中学校の教育勅語(一八九〇)奉戴式(一八九一年一月一日)に列し、天皇の署名した勅語に「敬礼」を行わなかったので、いわゆる「第一高等中学校不敬事件」がおこった。学生、教授、新聞、一般の人々の非難は、内村に集中した。内村が「敬礼」を行わなかったのは、彼が天皇を敬しなかったからではなく、キリスト者の神以外の何ものを「礼拝」することにもその良心が抵抗したからである(「D. C. Bell宛書簡、一八九一年三月六日」)。校長は日本式の「敬礼」が「礼拝」に非ずと説き、内村はそれを前提として「敬礼」に同意し、事件は一応収まったが、彼自身および彼を支持した同僚の一人は、職を失った。しかも事件の直後に、内村は肺炎で生死の境にあり、事件の三か月後には二番目の妻が病没した。
 この事件が日本の近代思想史の上で重要なのは、敬礼をためらった内村の良心において、天皇神格化の否定が明瞭にあらわれていたからである。内村の唯一神の信仰は、国家とその象徴としての天皇に、絶対に超越する。彼は烈しい愛国者であり、日本の国家に超越したその信仰が、日本以外の地上のあらゆる国家にも超越したことはいうまでもない。「基督教は宇宙的宗教であるから」、「外国人に頼らざる福音的基督教、是れ今日に至る吾等の理想とする所である」(「我が理想の基督教」『聖書之研究』、一九〇一年五月)と彼はいった。またその関心が自己の内部ではなく、キリストに向っていたこともあきらかである。すなわち「なぜ己に省みることをやめて、十字架の上に君の罪をあがなひ給ひしイエスを仰ぎみないのか」(「私の信仰の先生」『聖書之研究』、一九二五年二月)である。共同体への帰属と共同体の外に如何なる絶対者も認めない価値観とを中心として築き上げられた日本的世界観のなかで、このような内村の信仰が、例外的であり、かつ画期的であったことは当然である。  
 その後の内村は、愛国的立場から日清戦争(一八九四~九五)を支持したが、最後次第に絶対的な平和主義に近づいてゆく。また同時に無教会主義の立場をも強めて、雑誌『聖書之研究』を創刊し、言論活動を盛んにする。足尾銅山の鉱毒事件(一九〇〇)がおこると、鉱毒地を視察し(一九〇一)、「万朝報」に拠って政府を批判し、日露戦争の危機が迫ると、開戦に反対し、「万朝報」社が開戦指示に踏み切ったとき、幸徳秋水(一八七一~一九一一)や堺利彦(一八七〇~一九三三)と共に退社した。
 内村の非戦論の根拠は、二つあった。その一つは、『新約聖書』の争闘を嫌う精神、殊にその無抵抗主義(「羅馬書」一二章)である。『聖書』の無抵抗主義の背景には、人は人を罰せず、劫罰は神の仕事である、という考え方があり、その考え方は、晩年の内村においては、キリスト再臨信仰によって強められたにちがいない。他方、人の激しい攻撃に遭ったとき、無抵抗主義をとることで、みずから心の平和を得たという個人的な経験も、その考え方を強めたらしい(「余が非戦論者となりし由来」、『聖書之研究』、一九〇四年九月)。いずれにしても内村は個人間の聖書的な無抵抗主義を国家間のそれへ拡大した。彼の平和主義のもう一つの根拠は現実の歴史の観察である。日清・日露の戦争をみて、彼は戦争が戦争を生むこと、平和のための戦争などというものはなく、戦争が終わる毎に軍備はますます拡張されるということを見破っていた。」加藤周一『日本文学史序説』下、ちくま学芸文庫、1999、pp.340-346.

 加藤周一によれば、明治の初めにいっせいに熱に駆られてキリスト教の洗礼を受けた青年のほとんどは、数年で棄教してしまい、それをとくに精神の葛藤を感じることなく、さっさと次なる道にすすんだ。サムライ武士道とキリスト教はシンクロするはずだったのに、どうしてそうなったのか?それを思想的課題として受け取ることのできた少数の人びとのうち、ほとんど内村鑑三だけがキリスト者であり続けた。

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戦争に勝ったことの恐ろしさ、戦争に負けたことのすばらしさ・・内村鑑三のこと

2014-08-26 20:21:35 | 日記
A.「不敬事件」
 内村鑑三といえば、「無教会主義」のクリスチャン、として知られる。
 キリスト教は明治の初めから、おもにプロテスタントの宣教師が日本伝道を始め、急速な文明開化、西洋近代思想の輸入の流れの中で拠り所を求めた旧士族の青年に普及していった。そのなかから、信仰を深めようとアメリカに渡った人びとが、戻ってきて日本各地にミッション系の学校を設立し、新しい教育を行ったことはよく知られている。しかし、結果として、キリスト教は国民の1%にしか普及しなかった。それはなぜだろう?
  札幌農学校からアメリカ留学をへて、帰国した内村鑑三(1861~1930)は、1890年(明治23年)から第一高等中学校の嘱託教員となったが、その年は10月30日に第一次山県内閣のもとで教育勅語が発布された年でもあった。翌年1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式において、内村鑑三が天皇晨筆の御名に対して最敬礼をおこなわなかったことが同僚教師や生徒によって非難され、それが「不敬事件」として社会問題化した。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが許せぬ行為として糾弾された。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。東京帝国大学教授の井上哲次郎が激しく内村を攻撃したことで有名である。日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝は許されると主張したが、日本基督教会の指導者植村正久はこれを認めなかったという。
 キリスト教は、この世界を創造したのが唯一の神である、という教えにもとづき、この世の王、世俗の権力の存在もまた神の作ったものであり、「教育勅語」が価値とする日本だけの神、天皇を崇めることは認めない。親や先祖や共同体を大切に思うことは否定しないとしても、聖書をちゃんと読むならば、神とイエスと精霊以外のものを拝む人びとを繰り返し神は滅ぼす物語が書かれている。内村鑑三は、この原則に沿って、天皇を信仰の対象とすることを拒んだ。それが憎悪の対象とされたことは、記憶される価値がある。
 それから100年以上が経過した21世紀のいま、歴史を考えること、国家を考えること、宗教を考えることが、この国ではないがしろにされている、と思う。



B.「臥薪嘗胆」
 公立学校で入学式や卒業式に「日の丸」をかかげ「君が代」を歌わなければ処罰されるようになったとき、各地で歌わない教員が出てそのこと自体が事件になった。思想・良心の自由を保証した憲法に反するのではないか、という声が上がっていたが、国旗国歌を学校教育が尊重するのは当然だ、という人びとの声にかき消されてしまった。たんに儀式だけのことであればやり過ごすこともできる、と考えた教員もいただろうが、いまやそれは教育の中身にも浸透して、大日本帝国が繰り返した戦争についても、「自虐史観」を駆逐するのだという人びとの力で、「栄光の歴史」へと書き換えられつつある。どうしてこんなことになってしまったのか。
 しかも愚かな排外主義と神経症的なナショナリズムが、この国のあちこちで噴出している。歴史教育は自国の過去を美化するのではなく、よいことも悪いことも、誇るべきことも恥ずべきことも、冷静に正確に確認し次の世代に伝えていくことが使命だと思う。しかし、戦争という劇薬は、多くの国民大衆をときとして野蛮で愚劣な感情に巻き込んで、排外主義・拡張主義に突っ走る。

 「日清戦争における戦勝がいかに国民を昂揚させたかについて、陸奥宗光外相は「狂躍し、驕肆高慢に流れ、国民到るところ喊声凱歌の場裡に乱酔したるがごとく、将来の欲望日々に増長」(『蹇蹇録』一八九五年)していったと記しています。しかし、その国民が三国干渉の報に接するや「社会はあたかも一種の社会的恐怖(パニック)に襲われたるごとく、驚愕きわまりて沈鬱に陥り、憂心怏々、今にも我国の要所は三国の砲撃を受くるの恐れあるもののごとく」意気消沈していったと言います。初めての本格的な対外戦争の勝利に浮き立ち、頂点にまで上っていた感情の高まりに、三国干渉がいかに冷水を浴びせかけ、一挙に不安の底に突き落とすものであったかが、ここには活写されているように思われます。それでは、この昂揚を不安との間で激しく動揺した国民心理は、次にはどういう反応をとっていったのでしょうか。
「分に過ぐるの驕慢を抱きたるに反して、今日は終天の屈辱を蒙りたるの感を生じ、各人その驕慢を挫折せられたるの度合に従い非常の不快を覚え、彼の不満と此の不快とは早晩いずれかの所に向かってか、これを漏らして自ら慰めざるを得ざりしに至りしは、また人情の自然なるべし」と陸奥は、観察しています。そして「不満と不快」の矛先は、まずは「戦争における勝利は、外交において失敗せり」として、外交力の弱さを非難する喊声となって政府攻撃に向かいました。こうした、「不満と不快」の捌け口を「屈辱外交」、「弱腰外交」への攻撃に求めるという言動は、次の日露戦争においては、日比谷焼き討ち事件など、全国規模での暴動となって爆発することになります。
 他方、自国に対する驕慢と他国に対する屈辱は、その屈辱を与えた他国、すなわち三国干渉を主導したロシアへと向かいます。そして、日本に還付させた旅順・大連をロシアが自ら租借すると、その憤激は報復心として国民全体をとらえていきます。
 その国民心理をひとつに凝集していったのが、「臥薪嘗胆」という言葉でした。臥薪嘗胆とは、中国の春秋時代、呉王夫差が越王勾践を討って父の仇を報じるために薪の上に寝、さらに勾践が呉を討って恥をすすぐために苦い肝を嘗めて復仇心を固めた、という故事から、仇をはらすために長期間にわたって苦心、苦労を重ねて自己を励ますことを意味します。三宅雪嶺は新聞『日本』紙上で、政府の外交失敗を論難するためにこの言葉を用いたのですが、国民の間では次第に微弱な国力が三国干渉を招いたとして、ロシアに対する復仇を達成するための国力培養を図るスローガンとして共有されていきました。
 この言葉がいかに国民各層に浸透していったかについては、さまざまな証言があります。
 たとえば、婦人文芸誌『青鞜』の創刊号にその後の婦人解放運動の合い言葉ともなった「元始、女性は太陽であった」を書いた平塚らいちょう(明はる)は、10歳当時の恩師の思い出に触れて「戦勝国である日本が当然、清国から頒けてもらうべき遼東半島を露、独、仏の三国干渉のため、涙をのんで還付しなければならなかったことの次第を、子どもにもわかり易く、諄々と説き、『臥薪嘗胆』と黒板に大きく書いて、子どもたちに強く訴えられたのでした。教室には、遼東半島のところだけ赤く塗りつぶした極東の地図が、その後も長くかけてありました」(『自伝・元始、女性は太陽であった』)と書いています。また、日露戦争では非戦論を唱える平民社の研究会に加わることになる、後のアナーキスト大杉栄は、名古屋の幼年学校時代、遼東半島を赤く塗った地図の掛かった講堂で教頭から、「臥薪嘗胆して報復を謀れ」とは「復讐」せよという意味であると教えられ、また陸軍墓地に参ったときになされた士官たちの講話が「三国干渉の張本であるロシアに対する、弔い合戦の要求であった。僕らはたぎるように血をわかした」(『自叙伝』)と回顧しています。さらには、一九二五年ソ連に行って演劇研究をおこない、帰国後、ソ連社会の紹介に努め、第2次世界大戦中は平和論者としての自己の信念を曲げることなく、弾圧に耐えた秋田雨雀も、青森県黒石町の高等小学校生徒であったときの自分が「驚くべき軍国主義者で、日本は武力によって世界を征服してしまわなければならない」(『雨雀自伝』)という作文を書いていたと回想しています。
 こうして、学校教育だけでなく、あらゆる社会教育機関そしてなによりも新聞、雑誌というメディアを通じて、臥薪嘗胆つまり対露報復のための復讐戦を戦うための精神動員が図られていきます。そして、その言論界をリードした一人である徳富蘇峰自身にとって、大きな思想的な展開をひきおこすことになったのも三国干渉だったのです。」山室信一『日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界―』岩波新書、2005、pp.79-82.

 メディアは人びとの暗い欲望に寄り添う傾向がある。それはあるときは反政府的反権力的に振る舞うが、またあるときは好戦的な政府権力に便乗して、国民に戦争への熱狂を煽る。そのような昂揚は、体制に逆らう少数の声に「不敬」「非国民」「売国奴」という、口汚い罵声を浴びせる。その恐ろしさを、みじめな敗北を喫した「戦後」を生きた国民は骨身にしみて反省したはずだった。しかし、21世紀の現在、この国の権力にある(一部の)人びとは、そんなことは「見解の相違」と無視して、再び歪曲された「国家の栄光」という物語の方向へひた走っている。

「日清戦争を義戦と唱えた内村鑑三は、戦後、それが「略奪戦」に近いものであったとみなしました。そして一九〇三年六月、「その目的たりし朝鮮の独立は、これがために強められずしてかえって弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、その道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆の地位にまで持ち来たったではないか。この大害毒、この大損耗を目前に見ながら、なおも主戦論を主張するがごときは、正気の沙汰とは思えない」(「戦争廃止論」)と日清戦争のもたらした害悪を挙げつつ、日露主戦論を鋭く批判していました。
 そして、日露戦争直後の一九〇五年一一月、内村は「日露戦争より余が受けし利益」という演説において、「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に飲まんと欲するものであります」と述べて、「東洋平和のため」という名目による主戦論のさらなる肥大化を懸念します。
 その後の歴史を知っている私たちには、この予言は的確な洞察を含んだものとして響きますが、日露戦勝に歓喜していた当時の日本人の多くにとっては、内村の指摘などたんなる空言に過ぎなかったのでしょう。なぜなら、戦勝の意義や戦争というものの本質とは何か、を省みるよりも、勝利によって勝ち得た韓国や南満州における権益をいかに維持し、拡大していくか、のほうがはるかに切実な「現実問題」として現れていたからです。
そして統治する空間が拡大したことは、その先にヨリ広い空間の獲得を要求することになります。しかも、それは山県有朋の主戦論と利益線の議論がそうであったように、けっして植民地獲得のための拡張としてではなく、あくまでも自国防衛のためとして正当化されます。日露戦争の開戦に当たって「自個生存の権利のために戦うなり。満州守らざれば朝鮮守らず、朝鮮守らざれば帝国守らざればなり」(「宣戦の大詔を捧読す」一九〇四年二月)として、それを自存のための戦争と唱えた徳富蘇峰は、韓国を併合すると、つぎには「日本の防衛は内蒙古においてす」(「満蒙経営」一九一三年)として、満州から内蒙古への拡張を主張します。そして、中国の主権回復運動にさらされると、「満蒙は日本の生命線」として死守することが日本生存のための唯一の道とされ、それが一九三一年の満州事変を引きおこし、満州国を作るとそれを守るために華北を越え、さらに中国全土へと戦線を拡張していかざるをえない、という間断なき戦争の連鎖を引きおこしていったのです。そして、いったん領土拡張が自己目的化してしまえば、それがなんのためなのか、という意味を問い直すことさえできなくなります。一九四一年一〇月の閣議において、中国からの撤兵か日米開戦かの選択に迫られたとき、その関連について、東條英機陸相が「撤兵問題は心臓だ・・・・・・米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。更に朝鮮統治も危うくなる」と力説しました。こうして、獲得することは喪失することの恐怖をうみ、成算がなくともただ突き進むしかなくなってしまうのです。
 ところで、日本がこのように統治空間の拡張を飽くことなく続けていった時代において、世界ではすでに、歯止めがきかなくなった植民地獲得のための戦争、あるいは自衛や平和のためとして戦われる戦争の廃絶を求める非戦の声が高まり、戦争の惨禍を減少させるための国際的取り組みが始まっていたのです。もちろん、その声はナショナリズムの昂揚の前に、かき消されがちでしたし、国際的な法体系や機構の整備は現実的有効性において限界があったかもしれません。しかしながら「戦争の世紀」二〇世紀は、そうであるがゆえに、戦争を規制し平和を希求する「非戦論の世紀」としても存在したのです。「平和主義(pacificism)」という言葉が初めて用いられたのが一九一〇年であったことも、それを象徴しているのではないでしょうか。」山室信一『日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界―』岩波新書、2005、pp.206-208.

 戦争についてもう一度、根底的に考えてみる必要があると思う。過去の戦争について、そして現在の戦争、これから起こるであろう戦争についても・・・。
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権力者が間違う、ということを考えない人たちが蔓延っているのか?

2014-08-24 23:35:51 | 日記
A.戦争というものの愚劣について
 明治の初めに西洋の社会科学で使う言葉を、日本語に翻訳した知識人は、アルファベットで綴られた書物を苦労して読みながら、幼少以来、自分たちの知識とリテラシーを形造っていた漢文世界、儒教と仏教の教養を駆使して訳語を創造した。徳川幕府が崩壊したばかりの近代化された市民社会などなかった当時の日本の現実にもかかわらず、彼らはかなり正確に西洋の言葉を翻訳によって移植することに成功した。
 今の日本で、日本人は英語が下手だから幼児から英語で教育したほうがいい、などという意見があるが、言語と文化というものの本質がわかっていない暴論だと思う。日本人が英語が下手(ネイティヴ同様に話すことを基準にしなければ、現実にはもうそんな事実もないが)だとしても、われわれが西洋の書物や学問を翻訳で理解でき、大学教育も日本語でやってじゅうぶん世界に通用している、という事実は、実に偉大なことであり、明治の先人のお蔭なのである。アジアでもアフリカでも、西洋に植民地化された国だけでなく、独立を保った国ですら、高等教育を自国語ですることは困難である。それは西洋の学術語の概念に対応する自国語がそもそもないからである。明治の日本は、それを古代以来借り物の中華文明を独自に工夫して、西洋語を片っ端から翻訳してしまった。こんなことをした民族は他にあるだろうか?
 「経済」という語も、economics ,Wirtschaftとは何であるかを考えた日本人が、儒教の「経世済民」から援用して作った。世の動きを見てこれを経綸し、民の生活を安らかにするためにしかるべき処置をとる、これが「経世済民」。つまり経済とは、この意味で為政者に要請される使命ということになる。しかし、西洋語のeconomics にはそういう意味と同時に、「採算のとれる」「お徳用な」という意味が含まれる。なるべく無駄な労力を使わずに、要領よく、最大の利益を手にする、賢いがずる賢い人間の智恵。
 経済学者という人間も、たぶんこの両面があるのだろう。世のため民のため、この社会をいかにコントロールして望ましい状態を保つか、という知恵を提供するとともに、どうすれば大きな利益を効率的に得られるか、人に先んじて有利でおいしい果実を手にするか、を教える学問が経済学になる。ポール・クルーグマンはノーベル経済学賞を受賞したのだから、まちがいなく優秀な経済学者だが、彼はただ経済学という人工的な世界に留まる凡百な経済学者ではない、と次の文章を読んで思った。全文引用で恐縮ながら・・・。

「第1次世界大戦の開戦から100年。当時、「すべての戦争を終わらせるための戦争」であると多くの人が明言した。だがあいにく、戦争は起こり続けた。日に日に恐ろしさが増すウクライナのニュースを目にする今こそ、「なぜ?」と問う好機であるようだ。
 昔むかし、戦争は楽しみや利益のためだった。ローマが小アジアを侵略したりスペインがペルーを征服したりしたのは、金や銀が狙いだった。そういう戦いは今も起きる。オックスフォード大学の経済学者ポール・コリアーは、世界銀行の資金による有力な研究でこう示した。貧しい国々でよく起こるような内戦を予測するには、ダイヤモンドなど略奪可能な資源の有無を見るのが一番だと。反政府勢力が活動の理由として挙げるそれ以外のことは何であれ、大体が後付けの理屈のようである。
 産業革命以前の世界で戦争といえば、原理原則の戦いというよりむしろ、誰が不正な商売を取り仕切れるかという犯罪者一家の間の抗争に近かったし、産業化が進んでいない地域では今もそうだ。
 だが、豊かな近代国家の場合、戦争はたとえ楽勝でもペイしない。ずっと前からの真実だ。英国のジャーナリスト、ノーマン・エンジェルは1910年の著書「大いなる幻影」で、「軍事力は社会的・経済的に無益だ」と論じた。相互依存の世界(汽船と鉄道と電報の時代にすでに存在していた)では、戦争になれば必然的に戦勝国でも深刻な経済損失を被る。さらに、複雑化した経済では、途中でガチョウを殺さずに金の卵を取り出すのは非常に難しいのだ。
 付け加えれば、近代戦はものすごく高くつく。例えばイラク戦争の最終的な費用(退役軍人の医療費なども含む)はどう見積もっても1兆ドルを優に上回るだろう。イラクの国内総生産(GDP)の何倍にも上る。
 だから、「大いなる幻影」の主張は正しかった。近代国家は戦争によって豊かになれない。なのに戦争は起き続けている。なぜか?」ポール・クルーグマン「なぜ戦争をするのか 危うい政権強化の思惑」朝日新聞「クルーグマンコラム@NYタイムズ」2014年8月22日朝刊。

 人間がやってしまう行為の中で、戦争ほど愚かで悲惨な結果を招くものはないだろう、と誰もが思う。にもかかわらず、なぜ今も世界のあちこちで戦争が行われているのはなぜ?クルーグマンは、経済学的に考えても戦争は負ける方だけでなく勝つ方にも、実質的な利益をもたらさないという。若い兵士や民衆の人命を損なうだけでなく、金銭的にも割に合わない。なのに、どうして戦争を起してしまうのか?それは、ある特殊な事情による。

「一つの答えは、指導者たちは算数ができないのでは、ということ。エンジェルはよく、「彼は戦争の終りを予言した」と考える人々から不当な非難を受ける。実際にはこの本の目的は、征服で富を得るという先祖返りした考えの誤りを暴くことにあった。当時はまたそういう考えが広く受け入れられていたのだ。
 楽に勝てるという勘違いはいまだに起きる。推測にすぎないが、プーチン大統領は、少しの費用でウクライナ政府を転覆できる、あるいは少なくともそのかなりの領土を掌握できると思ったのではないだろうか。頬かぶりできるような支援をほんの少し反政府勢力に対して行えば、ここが手に入るだろう、と。
 ついでに言えば、ブッシュ前政権がサダム・フセインを倒して新政府を樹立する費用として予想していたのがわずか500億~600億ドルだったことを覚えているだろうか?
 だがもっと大きな問題は、戦争で政府が政治的に得することが非常に多いことだ。戦争が国益の点で全く理にかなわなくても、である。
 「ハーバード・ビジネス・レビュー」誌のジャスティン・フォックスは先日、ウクライナ危機の根源はロシアの経済実績の悪化かもしれないと論じた。彼がいうように、プーチン政権は国民の注意をそらすものが必要だったと言えなくもない。
 さもなければ無分別だと思われるほかの戦争についても、同様のことが言われてきた。例えば1982年のアルゼンチンによるフォークランド諸島侵攻。原因としてはよく、当時の軍事政権が経済危機から国民の気をそらそうとしたことが挙げられる。(公平を期するために言うと、この主張に極めて批判的な学者もいる)
 実際、戦時には大抵、国民は指導者の下に結集する。どんなにばかげた戦争であっても、またどんなにひどい指導者であっても、である。フォークランド紛争中、アルゼンチンの軍事政権は一時的に極めて人気が高まった。「対テロ戦争」は、ブッシュ前大統領の支持率を一時、目もくらむような高さに押し上げた。彼が2004年の大統領選で勝利したのはおそらくイラクのおかげだ。案の定、プーチン大統領の支持率はウクライナ危機以来うなぎのぼりだ。

 ウクライナでの対立は、他の面でつまづいている独裁主義政権の強化のためと言うのは単純化しすぎだろう。しかしその話には間違いなく、いくばくかの真実がある。そのことは、いくつかの恐ろしい将来展望をもたらす。
 一番間近なところでは、ウクライナ情勢の激化について心配しなければならない。全面戦争ともなれば、ロシアの利益に大きく反するだろう。が、プーチン大統領は、反乱を瓦解させるのはメンツ丸つぶれで耐え難いと感じるかもしれない。
 深い正統性に欠ける独裁主義政権がもはやよい実績を示せなくなったとき、武力をちらつかせて脅したがるのであれば、考えてみよう。もし中国経済の奇跡が終わるとしたら、そのとき(数多くの経済学者がじきに起きるだろうと考えている)、同国の指導者たちはどう駆り立てられるのだろうか。
 戦争を始めるというのは、非常にまずい考えだ。それでも、戦争は起こり続けている。
                      (NYタイムズ・8月18日付)」ポール・クルーグマン「なぜ戦争をするのか 危うい政権強化の思惑」朝日新聞「クルーグマンコラム@NYタイムズ」2014年8月22日朝刊。

 なるほど、と思うと同時に、それは今現在の日本の状況で考えるとちょっと恐ろしい。常識的な知識と正論からすれば、明らかに愚劣な判断でしかない戦争を、始まりは些細ともいえるきっかけだけで気がついたら大戦争になっていた、ということが歴史には数多くある。それを煽り後押しするのは、算数もできない指導者・権力者が頼りにする、無知な大衆の熱狂である。大衆が「早くけしからんあいつらをやっつけろ!」と騒ぐとき、これを冷静に説得するよりも、「よ~し、やってやろうじゃないか!」と便乗する方が、政治家には百倍楽である。安倍晋三という人が、いざというとき、どっちを取るか、「想定の範囲内」であることがホラーである。



B.連続と断絶――過去の戦争・現在の戦争・未来の戦争
 これも、だいぶ前に購入してあった本で、ずっとぼくの書棚にあったにもかかわらず、まったく読んでなかった。たまたま、ジャズピアノのレッスンに出かける前、ふと書棚に眼をやった瞬間、この小さな新書の背表紙の文字が目に入ったのである。
 山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、ぼくらはなんとなく、惨めに敗けた太平洋の戦争はネガティブな戦争としか思えなかったが、もっと前の日露戦争は、東洋の島国国家が明治維新以来、必死で努力してようやく強大な白人帝国を相手に、軍事で世界デビューをした輝かしい「勝った戦争」として誇らしく受け取っていた。たとえば司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、そういう日本人のプライドをくすぐる物語として読まれた。しかし、日露戦争をそういう自己中心的な輝かしい勝利としてだけ見ていいのだろうか?というのがこの本の主題だろう。

「第二次世界大戦終結から六〇年目の二〇〇五年は、さまざまな意味で歴史的な節目となる年にあたります。それは中国にとっては、抗日戦争勝利から六〇年、韓国と北朝鮮にとっては日本植民地統治からの解放独立(光復クゥワンボク)を達成して六〇年になりますし、一九六五年の日韓国交回復からは四〇年になります。
 そしてまた、二〇〇五年は日露戦争が終わって100周年になりますが、その終戦の年、一九〇五年は日本は中国大陸の東北部である「満州」に租借地という名の植民地をもち、朝鮮つまり当時の大韓帝国を保護国化して併合への道を歩みはじめましたから、日露戦争の勝利は東アジア世界にとって新たな支配・服従関係の始まりを画した年にもなったわけです。そのため、韓国において二〇〇五年は、第二次日韓協約による日本の強制的占有(強占カンヂヨム)から一〇〇周年ということになるのです。
 さらに、日露戦争終結から一〇〇周年は、同時に一八五五年の日露和親(通好)条約締結からは一五〇周年にあたります。このことは、国交開始から半世紀で日本とロシアが戦うことになたことを意味しますが、しかし、日露の関係は友好的なエピソードから始まっていました。
 それは条約締結交渉に訪れたロシア特派大使プチャーチンの乗った軍艦ディアナ号が東海沖津波によって沈没したため、伊豆戸田村で代替艦戸田号を建造しましたが、これが日露の協力による日本最初の洋式帆船となったからです。二〇〇五年四月十六日、静岡県下田市で開催された日露就航一五〇周年記念式典に、ロシアのプーチン大統領が「私たちはこうした先人たちの高潔な志を今日においても胆に銘じなければならない」との祝辞を寄せたのも、この史実を指しています。
 こうして友好のうちに始まった日露両国は、半世紀後に日露戦争にまで立ち至りました。しかもその四〇年後の一九四五年八月、日本はロシアからソ連に変った国と、かつての日露戦争の戦場となった地で再び交戦することになります。
 日本人にとって、この日ソ戦争は、終戦直前に当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して一方的な攻撃にさらされたものとしてしか意識されていませんし、それが日露戦争との関連でみられることは稀のようです。ところがソ連にとって、それが日露戦争との関連でとらえられていたことは、一九四五年九月二日、国後島を占領したスターリンが対日勝利宣言を行い、次のように述べていることからも明らかです。すなわち「日本の侵略行為は、一九〇四年の日露戦争から始まっている。一九〇四年の日露戦争の敗北は国民意識の中で悲痛な記録を残した。その敗北は、わが国に汚点を留めた。わが国民は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っていた。四〇年間、われわれの古い世代の人々はその日を待った。遂にその日が到来した」と。
 もちろん、ここにはソ連による対日参戦を正当化するための歴史観の操作があります。なぜなら、日露戦争の評価に関しましても、レーニンの時代には、帝政ロシアが抱いた黄色い大陸(満州)への欲望が日露戦争の原因であったとみられていましたが、スターリンの時代には日本の満州への侵略が原因であり、日本の卑怯な奇襲に準備の整っていなかったロシア軍は勇敢に戦ったが敗北した、というように評価が一変しており、けっしてロシアとソ連が一貫して日露戦争と日ソ戦争を一体視し続けていたわけではないからです。むしろ、日露戦争と日ソ戦争を明治憲法体制という同一の社会体制の下で戦った日本こそ、こうした一つの時間の流れの中でロシアとソ連に対する二つの戦争を見る視点が必要なのかもしれません。」山室信一『日露戦争の世紀 -連鎖視点から見る日本と世界-』岩波新書、2005、pp.i-iii.

 戦争の本質は昔から変わっていない。ただ、戦争の道具・兵器の技術と殺戮のレベルが進化しただけだ。20世紀の半ば、核兵器が登場し、広島・長崎でそれが現実に人の目に見える形で示されたとき、さすがに心ある人々は、これはまずい、今度戦争したら地球自体が取り返しのつかない破壊に陥ってしまう、と思った。でも、強力な武力を手にしたとたん、小学生の算数もできなくなる指導者と、昨日も明日も知ったことか、わくわくと盛り上がって敵をやっつけろ!と昂奮した人々によって、戦争は実現してしまうのだ。愚かな!
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奥尻島の帰りに、東條英機について読んだ。

2014-08-22 20:55:40 | 日記
A.北の島を訪ねて
 さきほど北海道から飛行機で羽田に戻ったところである。
 今回訪ねたのは、「奥尻島」。この島は、北海道南西部の日本海上に浮かぶ島。面積は142.97km²であり北海道では5番めに面積の広い島(北方領土の国後島、択捉島、色丹島を除くと利尻島に次ぐ2位)ということになる。島全体で北海道奥尻郡奥尻町となっていて、人口3,675人(2006年)。島内最高峰は神威山(標高584m)である。町の町制施行は1966年1月1日。主な産業は漁業および観光。特に夏はとれたてのウニやイカが食べられる。奥尻空港があり、函館空港から1日1往復就航する。また奥尻港には江差町との間に通年で日に往復2便、せたな町との間に夏季のみ日に1便または2便、フェリーが運航。
 ぼくは、函館からプロペラ機に乗り継いで、約25分で島の空港に着いた。
 この島の名が全国に知られたのは、1993年7月12日夜に起こった北海道南西沖地震(マグニチュード7.8、推定震度6の烈震、日本海側で発生した地震としては近代以降最大規模)で、島の南西部の青苗地区を中心に津波の被害を受け多くの死者を出したからである。当時約4,700人ほどあった人口は、被害による転出などもあり年々減少傾向にある。北海道南西沖地震のあと、防波堤などの大規模な津波対策がなされた。スマトラ沖地震に続く、東日本大震災の津波災害で、この島が津波対策の先進地ということで各地の防災担当者から注目をあびることとなった。震源に近い奥尻島を中心に、火災や津波で大きな被害を出し、死者202人、行方不明者28人を出した。さらに、ロシアでも行方不明者3人。奥尻島の震度が推定になっている理由は、当時の奥尻島に地震計が置かれていなかったためだという。
 被害は、津波だけでなく、崖崩れ、火災など、集落が全滅に近い所もあった。実際に行ってみると、もう21年経っているので、復旧・復興事業はほぼ完了していて、一番被害の大きかった青苗地区も、高台移転や護岸堤防などが整備されて新しい家並みができている。島を車で一周しても約1時間弱、夏の観光シーズンはすでに過ぎているが、宿泊した西岸の神威脇温泉は静かな集落で、450円で入れる温泉に浸かり、非常に美味なアワビ、イカなどの海の幸料理を満喫した。
 実は、同僚にこの神威脇を故郷とする人がいたおかげで、災害の事だけではなく、この島の過去の歴史についていろいろと有意義なお話を聴くことができて、とても有意義な旅になった。詳しくは改めてお話ししたい。



B.東條英機という人について
 この旅に携行した一冊の本は、保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫、2005.で、飛行機の中で最初の部分を読んだ。いうまでもなく、東條英機という人物は、日本が20世紀の半ば、世界を相手に戦った大戦争の最高指導者、東京裁判でA級戦犯として処刑された軍人・政治家・独裁者として知られる。この本は、綿密な調査によって、東條英機とは何者だったのか、をその出自から最後までを描いた名著として知られる。これもだいぶ前に購入して、ちらほら読んではいたのだが、今回きちんと読もうと思ってこの本だけを荷に入れた。
 とりあえず「まえがき」で著者はこう書いている。

「〈なぜ東條英機を書くのか〉――この五年間、私はしばしば自らに問うた。
 東條英機という人物を、私は、戦後民主主義の持つ概念〈自由とか平和とかヒューマニズムといったものだが・・〉の対極で捉えていた。昭和二十年代、私は小学校、中学校教育を受けたのだが、そのとき〈東條英機〉は前時代を否定する象徴として、私の目の前にあった。学校教育でそうであっただけではない。当時の社会情勢においても、東條はそのような位置づけをされていたと思う。
 正直に告白すれば、私の潜在心理には嘔吐感の伴った人物として、〈東條英機〉が存在しているのを隠そうとは思わない。いやそれは、私の前後の世代に共通のものではないかとも思う。
 しかし、日本近代史に関心をもち、多くの資料、文献を読み、当時の関係者に話をきくにつれ、実は、東條英機をこうした生理的感覚の範疇にとどめておくのは、戦後日本の政治状況の本質的な局面や、そこから生じる課題を隠蔽しておくための効果的な手段ではなかったかと、私は考えるようになった。
 東條英機と陸軍中枢をスケープ・ゴートにすることによって、極東国際軍事裁判の論理は一貫しているし、その判決文の断面は戦後民主主義の土台をもなしてきた。私は、民主主義のイデーが現実の社会から乖離していくのを自覚するたびに、極東国際軍事裁判と連結した戦後民主主義の詐術と作為と、そしてその脆弱さをはっきりと意識するようになった。
 当時東條英機に抗したことが、なぜ戦後の一時期、指導者たりうる効果的な条件のひとつになったのか。アメリカを中心とする連合軍は「デス・バイ・ハンギング」と、東條英機と大日本帝国を断罪したが、はたして彼らに断罪するだけの歴史的役割が与えられていただろうか。
 ひるがえってここから、私はふたつの問題をひきだしてきた。
 ひとつは、東條英機と陸軍中枢だけが、昭和前期における全き否定的存在なのか否かという問題である。それともうひとつは、東條英機の指導者としての資質や性向を、巧みに近代の政治・軍事形態の負の局面に重ね合わせることによって、問題の本質が歪曲されていないかという点である。
 東條英機を悪罵する論者も、肯定の側に経つ論者も、意図的と思われるほど、しばしば論理が類似しているのは驚くべきことだ。そのことは近代日本の政治・軍事形態が、制度的に明確さを欠いていたことをものがたっている。統帥権という、だれも理解しえない魔物の存在などその例だ。
 具体的にいえば、昭和十九年二月に、東條が首相・陸相のほかに参謀総長を兼ねた状況は、「東條が権力欲に憑かれて独裁体制を布いた」という側面と、「大日本帝国憲法を現実的に運用して、東條は国務と統帥の一体化をはかった」という側面の、ふたつの論で比較できる。実際このふたつの論は、基本的には異なっているのに、論理構造だけは表裏のように類似しているのである。
 東條英機をとにかくいちど解剖する必要を感じるのは、この段階にとどまっていてはいけないと思うからだ。そして東條英機を〈普通名詞〉から〈固有名詞〉に戻し、そこで東條の性格と東條がなしたことを明確に区分しておくことが、ふたつの問題を見るうえでの前提になる。東條英機は、歴史的には山県有朋や伊藤博文がつくりだした大日本帝国の〈拡大された矛盾の清算人〉であったと思う。誰かがどこかの地点で、清算人になる宿命をもっていたのだ。そのことを踏まえつつ、東條英機の性格が権力者としての立場にどう反映し、時代の様相をどのように変えたのかを検証していきたいと思った。」保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫、2005. pp.7-9.

まだ、途中までしか読んでいないので、東條についても保坂の論についても、ぼく自身の評価はまだ固まっていないが、これは歴史の細部の確認と、あの戦争についてじっくりと考える上で、避けて通れない課題だと思うことしきりである。
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