A.「国民性」の問題ではなくて・・「国家性」の意味
報道によれば、韓国では先日来の旅客船セウォル号沈没事件以来、犠牲になった200人以上の修学旅行の高校生への同情と、先に逃げた船長以下乗組員への非難に始まり、過積載で利益重視だった船の経営者や、政府の対応などことごとく国民の怒りを買い、ついに朴大統領が国民に謝罪する羽目になったが、それもまた誠意がないと火に油を注いでいるという。韓国では自分の湧き上がる感情を表情や態度にあらわさず、自己表現を抑制する人間を陰険で信用できない悪人とみる傾向が強いと言われる。確かに、韓国映画やドラマなどに出てくる人々は、感極まると大声で泣きわめいたり、飛びかかって罵倒したり殴ったりする人物がたいていは誠実で正義感の強い善玉になっている。今回の事件で、当局に詰め寄って怒っている姿の映像が流れているが、日本人から見るとむやみに感情的に昂奮しているようにも思えるだろう。日本では、泣いて食ってかかったり、土下座して謝ったりする姿は、ちょっと理性に欠けるやり過ぎで、かえって大袈裟すぎて裏に何かあるので、と勘繰ったりするかもしれない。謝る方も紋切型の言葉を棒読みして、並んで頭を下げるだけで、国民はまあしょうがねえか、と許してしまう。ステレオタイプな決めつけはよくないが、日韓の民族文化の感性はかなり違うのかもしれない。
それはともかく、韓国ではわれわれは経済発展を遂げ、先進国になって得意になっていたけれど、今回の事件であまりに危機管理も生命の尊重優先もできておらず、国家国民としてとても自慢できるような状態にない、かもしれないという反省の言説がメディアに登場しているという。日本の韓国中国が大嫌いの排外主義者なら、ざまあみろとまた罵声を浴びせるのだろうが、そういう民族差別的感情からではなく、国家のせいくらべ、「国家の品格」という言葉も一時あったけれど、オリンピックが大好きな保守派が無意識に想定している、世界で何番目、という発想について、韓国のみならずぼくたちも考えてみる価値があると思う。
国家の役割は、国民の生命財産を守り、国民一人一人が幸福を追求する基礎的な条件を整えることだ、というのは当然と思える。しかし、すべての国家がそういう目標をもって国家を作っているわけではない。例えば、かつてのソヴィエト連邦では、強力な社会主義国家を建設することが、最終的に国民の幸福を実現する唯一の道だとして、私的欲望(所有・消費)は抑制して国家への奉仕を国民に求めた。あるいは、戦前の帝国日本は国民の私的な幸福追求は、国家が認める範囲で可能なものでしかなく、国家の最終目標は天皇の統治を永続させることにあった。天皇の栄光を輝かせるために全国民が場合によっては命を捨てる、そのことによって恩恵が国民に上から与えられるので陛下に深く感謝しなければいけない、となっていた。
その帝国が敗けた戦後の日本では何を国家の目標としたのだろう?それは明日の宿題。
B.「現代音楽」の難解さのひみつ
音楽についての広範な理論と解説、という点で柴田南雄氏の仕事は特筆される。テレビやラジオの音楽番組などでも柴田南雄という名はしばしば聞いたものだ。この4月に岩波から現代文庫として新刊で出た『音楽史と音楽論』は、もとは放送大学のテキストとして書かれたものだという。時間的には古代から現代まで、空間的には東洋から西洋まで、およそ音楽という営みについて広く論じてそのカヴァーする範囲は広い。そのぶん、柴田氏はとても駆け足ですべてを解説しようとしているので、ひとつひとつについてはもうちょっと踏みこんで知りたいとは思うが、とりあえず「現代音楽」の部分を抜粋してみる。
「現代音楽」の語は、長いあいだ曖昧に用いられてきたが、ほぼ一九七〇年代以後は、第二次世界大戦後に新しく起ったスタイルの音楽に限定して用いられるようになった。年代としてはほぼ一九五〇年以後の創造である(ただしオペラ作品の場合は、例外的に二十世紀前半の作品をも「現代オペラ」と呼ぶ場合がある)。
さて、これに先立つ「古典派=ロマン派」時代(一七五〇~一九五〇)の末期、すなわち二十世紀初頭以来、アーノルト・シェーンベルク(一八七四~一九五一)は、何世紀ものあいだ優位を保っていた長調・短調の調子感を極度に拡張し、一九〇六年頃には無調音楽を、やがて一九二一年にはそれを組織化した十二音音楽を創始し、数々の大作を残した。しかし、一方一九二〇~三〇年代は、新古典主義の時代と呼ばれていることからも判るように、古典派初期の作風への回顧的な風潮が強かった。だがそれは「古典派=ロマン派」の時代に限らず、どの音楽時代においても、その末期にあらわれる共通の傾向だが、第二次大戦直後の一九二〇年代には、とくにその傾向が著しかった。フランスの「六人組」やストラヴィンスキーのこの時期の作品に、その特徴が明瞭に出ている。
それに加えて、一九三〇年代以後、ドイツの民族社会主義(ナチ)とソヴィエト・ロシアの社会主義リアリズム理論による芸術規制の結果、クラシック音楽の様式は極度に保守的になっていた。前者ではオルフの「カルミナ・ブラーナ」(一九三七)、後者ではその時期のプロコフィエフ、ショスタコーヴィチの交響曲やカンタータなどが、その特徴を顕著に示している。
更に、ファシズムとそれに続く第二次大戦を避けてヨーロッパからアメリカ合衆国に亡命した作曲家たちは、アメリカの聴衆を意識して、あるいはアメリカの音楽生活に適応して、彼等のヨーロッパ時代の前衛的な作風を著しく後退させた。一言でいうなら、わかりやすい、多数の聴衆が楽しめる作風に変貌した。バルトーク、ヒンデミット、ミヨー、ヴァイルなどがそうであり、さらには一時期のストラヴィンスキーやシェーンベルクの作品にさえ、アメリカの商業主義的音楽生活が影を落としている。
そして、ヨーロッパは多年の戦禍と若者の減少で、一九五〇年ごろから、ようやく第二次大戦後の作曲界の新たな胎動が始まり、新様式の作品がぞくぞく発表されるようになる。そもそも、西洋芸術音楽はすでに述べたように、一二世紀中葉に中世多声音楽が起こって以来、、キリスト教と合理主義に支えられて一筋の発展を遂げてきたのだが、第二次大戦後は、非常に異なる思想と方法を受け入れた。その様相は詳しくは後述するが、西洋音楽のそれまでの様式には見られなかったさまざまな要素が取り入れられた。例えば、十二音技法をさらに発展させた形での数の順列・組み合わせによる音選びの方法、尾との電子的発信音による作成や合成や変形、さらに非西欧、例えばインド、日本、中国、アフリカ、インドネシア等の諸民族の思想(例えば禅、易)、音楽観、その楽器の音色や特徴的な演奏方法を大幅に取り入れること、などである。いわば西洋音楽は世界音楽に変貌、脱皮しつつあるかに見える。当然、非西欧の音楽家や楽器を、それが伝統的であろうとなかろうと、そこで組み込んでしまう傾向も著しくなった。第二次大戦の直後にこのような傾向の原点に立っていたのは、ロス・アンジェルス生まれのアメリカ作曲家のジョン・ケージ(一九一二~一九九二)であった。
このような変化は、従来のヨーロッパ中心の世界に対して、政治・経済・軍事などの分野でのアメリカの発言力の増大、さらにはアジア・アフリカなどの、いわゆる第三世界の台頭の平行現象でもある。もちろん、旧美学の信奉者は、音楽の世界に侵入したこの種の変化を容認せず、激しく否定しようとする。もっとも、新しい傾向を容認すまいとする傾向は、西洋音楽史上、何時の時代にも様式が大きく変化するごとに現れる一種の繰り返し現象で、現代もその例外ではない。では、一九五〇年ごろを境とする新たな「世界音楽の時代」は、どのような想念と手段と方法で動き始めたのであろうか。今それを、次の七項目に分けて項目ごとに略説しよう。
(A)音列音楽(ミュジック・セリエル)
(B)初期の電子音楽
(C)ミュジック・コンクレート
(D)偶然性の音楽
(E)諸民族の音楽語法の借用
(F)ミニマル・ミュージック
(G)ロマン主義の復興(新たな単純性)」柴田南雄『音楽詩と音楽論』岩波書店、2014、pp.206-209.
柴田氏の示唆のお蔭だけではないが、ぼくも20代の頃、「現代音楽」に興味をもって、普通ではなかなか見つからないレコードを探して、シェーンベルク、ベルク、メシアン、ブーレーズ、シュトックハウゼンなどの作品を聴いてみたことがある。非常にマイナーな世界に思えたが、結構探すと東京では「現代音楽コンサート」なども行われていて、二、三度聴きに行ったこともあった。メシアンの元で学んだ黛敏郎が「題名のない音楽会」を始めていた頃で、ジョン・ケージなども紹介されていた。セリエルや電子音楽などは数学のようなものなのかと思った記憶がある。確かに数学と音楽は古代から繋がりがある。
「第二次大戦直後の一九四六年から開始された、西ドイツの小都市ダルムシュタットにおける「国際現代音楽夏期講習」は、ひとたび壊滅したヨーロッパの音楽創作を再び軌道に乗せる上で大きな役ア割を果たした。むしろ、そこに講師および生徒として集まった若い作曲家たちは、戦後のヨーロッパ作曲界の再建の成否の鍵は自分たちの手に握られていると自覚し、その牽引力となって活動し、一時的にせよ強大な影響力を発揮した。その主たる目標は、戦前・戦中の保守主義の徹底的な払拭であり、ラディカルな前衛性を前面に押し出した。
前記のようにナチ時代のドイツでは、ユダヤ人であったシェーンベルク(一八七四~一九五一)とその一派の十二音音楽の演奏は禁止されていた。それもあって、ダルムシュタットの初期には、十二音音楽の学習と再認識に主力が注がれた。シェーンベルクの弟子のアルバン・ベルク(一八八五~一九三五)とアントン・ヴェーベルン(一八八三~一九四五)を加えた三人を中心とする「新ヴィーン楽派」の作曲様式は、戦後の現代音楽の出発点となった。この、十二音音楽の名誉回復と復活は、非ナチ化という当時の一般的風潮に沿うものでもあった。
もっとも、それは一面では極めて閉鎖的なグループ内での創造運動であり、一般の聴衆の批判からは隔絶した場所で、ひたすら自分たちの語法を尖鋭化していったのも否定できない事実であった。
ともあれ、そこから生まれた最初の新様式が「音列音楽」(ミュジック・セリエル)である。その創始者はフランス人のオリヴィエ・メシアン(一九〇八~一九九二)であり、彼が一九四六年の夏、講師をしていたダルムシュタットで作曲したピアノ曲「音価と強度のモード」はこのスタイルの最初の代表作となった。この曲では、シェーンベルクでのように、音の高さ(ピッチ)だけをセリー(音列)化するのでなく、音素材の他の要素、すなわち音価(音の持続、長さでリズムを形成する。この曲では二四種)、アタック(ピアノ曲ならタッチの差異。音色に関係する。この曲では一二種)、強度(最強から最弱まで七種)の三つの要素をセリー化した。この手法は、しかし彼がすでに「トゥーランガリーラ交響曲」(一九四六~一九四八)などの一部で試み、また、すでにウェーベルンの「管弦楽の変奏曲」(Op.30. 一九四〇)でも、不完全な形で用いられていた。この手法では、互いに響きの性質のひじょうに異なる個々の音素材の集合によって一曲が成立し、そこに、他の方法では達成できない一種の感覚美が醸成される。以後の一時期、ブーレーズ(一九二五~)など、多くの作曲家がこの手法を用いており、一九五〇年代の時代様式のひとつの典型と見なされる。
こうした様式の出現にともない、「古典派=ロマン派」の時代の「音楽の三要素」、すなわち音楽はメロディー、リズム、ハーモニーの三者から成る、とする定義は現実と合わなくなり、新たに『五つのパラメーター』として、
音高(メロディーの要素)
持続(リズムの形成要素)
音色(種々の楽器の音色による。ピアノならタッチの種類)
強度(ピアノからフォルテまでの諸段階)
方向(音源の方角。また、固定か移動か)
が提唱された。
これらの諸パラメーターは、それぞれ何種類ずつかの段階(音高も、必ずしも一二種とは限らない)を設定し、あらかじめ定めた順序に従って並べたり、それらの順列組み合わせによって曲が構成されていく。また、前期のメシアンのピアノ曲では、四種のパラメーターの組み合わせは固定しており、つまり、鍵盤上のどの音もそれぞれ固有の属性(持続、音色、強度)を持っている。この作法による音楽には、調子感がないだけでなく、作曲者の感情の推移や感覚の変化に対応して音が選ばれたり、動いたりはしない。むろん、作曲者は全体の響を的確に予想はしているのだが、細部の構造は多分に偶然的であり、むしろ、確率的に決まる。そこに、従来の作曲では結果し得ない、無機的な数の観念の介入があり、この方法に拠ってのみ達成できる一種の感覚的表現や、新たな音楽美の世界が現出する。また演奏技法の上にも、当然新しい問題を投げ掛けている。」柴田南雄『音楽詩と音楽論』岩波書店、2014、pp.210-213.
報道によれば、韓国では先日来の旅客船セウォル号沈没事件以来、犠牲になった200人以上の修学旅行の高校生への同情と、先に逃げた船長以下乗組員への非難に始まり、過積載で利益重視だった船の経営者や、政府の対応などことごとく国民の怒りを買い、ついに朴大統領が国民に謝罪する羽目になったが、それもまた誠意がないと火に油を注いでいるという。韓国では自分の湧き上がる感情を表情や態度にあらわさず、自己表現を抑制する人間を陰険で信用できない悪人とみる傾向が強いと言われる。確かに、韓国映画やドラマなどに出てくる人々は、感極まると大声で泣きわめいたり、飛びかかって罵倒したり殴ったりする人物がたいていは誠実で正義感の強い善玉になっている。今回の事件で、当局に詰め寄って怒っている姿の映像が流れているが、日本人から見るとむやみに感情的に昂奮しているようにも思えるだろう。日本では、泣いて食ってかかったり、土下座して謝ったりする姿は、ちょっと理性に欠けるやり過ぎで、かえって大袈裟すぎて裏に何かあるので、と勘繰ったりするかもしれない。謝る方も紋切型の言葉を棒読みして、並んで頭を下げるだけで、国民はまあしょうがねえか、と許してしまう。ステレオタイプな決めつけはよくないが、日韓の民族文化の感性はかなり違うのかもしれない。
それはともかく、韓国ではわれわれは経済発展を遂げ、先進国になって得意になっていたけれど、今回の事件であまりに危機管理も生命の尊重優先もできておらず、国家国民としてとても自慢できるような状態にない、かもしれないという反省の言説がメディアに登場しているという。日本の韓国中国が大嫌いの排外主義者なら、ざまあみろとまた罵声を浴びせるのだろうが、そういう民族差別的感情からではなく、国家のせいくらべ、「国家の品格」という言葉も一時あったけれど、オリンピックが大好きな保守派が無意識に想定している、世界で何番目、という発想について、韓国のみならずぼくたちも考えてみる価値があると思う。
国家の役割は、国民の生命財産を守り、国民一人一人が幸福を追求する基礎的な条件を整えることだ、というのは当然と思える。しかし、すべての国家がそういう目標をもって国家を作っているわけではない。例えば、かつてのソヴィエト連邦では、強力な社会主義国家を建設することが、最終的に国民の幸福を実現する唯一の道だとして、私的欲望(所有・消費)は抑制して国家への奉仕を国民に求めた。あるいは、戦前の帝国日本は国民の私的な幸福追求は、国家が認める範囲で可能なものでしかなく、国家の最終目標は天皇の統治を永続させることにあった。天皇の栄光を輝かせるために全国民が場合によっては命を捨てる、そのことによって恩恵が国民に上から与えられるので陛下に深く感謝しなければいけない、となっていた。
その帝国が敗けた戦後の日本では何を国家の目標としたのだろう?それは明日の宿題。
B.「現代音楽」の難解さのひみつ
音楽についての広範な理論と解説、という点で柴田南雄氏の仕事は特筆される。テレビやラジオの音楽番組などでも柴田南雄という名はしばしば聞いたものだ。この4月に岩波から現代文庫として新刊で出た『音楽史と音楽論』は、もとは放送大学のテキストとして書かれたものだという。時間的には古代から現代まで、空間的には東洋から西洋まで、およそ音楽という営みについて広く論じてそのカヴァーする範囲は広い。そのぶん、柴田氏はとても駆け足ですべてを解説しようとしているので、ひとつひとつについてはもうちょっと踏みこんで知りたいとは思うが、とりあえず「現代音楽」の部分を抜粋してみる。
「現代音楽」の語は、長いあいだ曖昧に用いられてきたが、ほぼ一九七〇年代以後は、第二次世界大戦後に新しく起ったスタイルの音楽に限定して用いられるようになった。年代としてはほぼ一九五〇年以後の創造である(ただしオペラ作品の場合は、例外的に二十世紀前半の作品をも「現代オペラ」と呼ぶ場合がある)。
さて、これに先立つ「古典派=ロマン派」時代(一七五〇~一九五〇)の末期、すなわち二十世紀初頭以来、アーノルト・シェーンベルク(一八七四~一九五一)は、何世紀ものあいだ優位を保っていた長調・短調の調子感を極度に拡張し、一九〇六年頃には無調音楽を、やがて一九二一年にはそれを組織化した十二音音楽を創始し、数々の大作を残した。しかし、一方一九二〇~三〇年代は、新古典主義の時代と呼ばれていることからも判るように、古典派初期の作風への回顧的な風潮が強かった。だがそれは「古典派=ロマン派」の時代に限らず、どの音楽時代においても、その末期にあらわれる共通の傾向だが、第二次大戦直後の一九二〇年代には、とくにその傾向が著しかった。フランスの「六人組」やストラヴィンスキーのこの時期の作品に、その特徴が明瞭に出ている。
それに加えて、一九三〇年代以後、ドイツの民族社会主義(ナチ)とソヴィエト・ロシアの社会主義リアリズム理論による芸術規制の結果、クラシック音楽の様式は極度に保守的になっていた。前者ではオルフの「カルミナ・ブラーナ」(一九三七)、後者ではその時期のプロコフィエフ、ショスタコーヴィチの交響曲やカンタータなどが、その特徴を顕著に示している。
更に、ファシズムとそれに続く第二次大戦を避けてヨーロッパからアメリカ合衆国に亡命した作曲家たちは、アメリカの聴衆を意識して、あるいはアメリカの音楽生活に適応して、彼等のヨーロッパ時代の前衛的な作風を著しく後退させた。一言でいうなら、わかりやすい、多数の聴衆が楽しめる作風に変貌した。バルトーク、ヒンデミット、ミヨー、ヴァイルなどがそうであり、さらには一時期のストラヴィンスキーやシェーンベルクの作品にさえ、アメリカの商業主義的音楽生活が影を落としている。
そして、ヨーロッパは多年の戦禍と若者の減少で、一九五〇年ごろから、ようやく第二次大戦後の作曲界の新たな胎動が始まり、新様式の作品がぞくぞく発表されるようになる。そもそも、西洋芸術音楽はすでに述べたように、一二世紀中葉に中世多声音楽が起こって以来、、キリスト教と合理主義に支えられて一筋の発展を遂げてきたのだが、第二次大戦後は、非常に異なる思想と方法を受け入れた。その様相は詳しくは後述するが、西洋音楽のそれまでの様式には見られなかったさまざまな要素が取り入れられた。例えば、十二音技法をさらに発展させた形での数の順列・組み合わせによる音選びの方法、尾との電子的発信音による作成や合成や変形、さらに非西欧、例えばインド、日本、中国、アフリカ、インドネシア等の諸民族の思想(例えば禅、易)、音楽観、その楽器の音色や特徴的な演奏方法を大幅に取り入れること、などである。いわば西洋音楽は世界音楽に変貌、脱皮しつつあるかに見える。当然、非西欧の音楽家や楽器を、それが伝統的であろうとなかろうと、そこで組み込んでしまう傾向も著しくなった。第二次大戦の直後にこのような傾向の原点に立っていたのは、ロス・アンジェルス生まれのアメリカ作曲家のジョン・ケージ(一九一二~一九九二)であった。
このような変化は、従来のヨーロッパ中心の世界に対して、政治・経済・軍事などの分野でのアメリカの発言力の増大、さらにはアジア・アフリカなどの、いわゆる第三世界の台頭の平行現象でもある。もちろん、旧美学の信奉者は、音楽の世界に侵入したこの種の変化を容認せず、激しく否定しようとする。もっとも、新しい傾向を容認すまいとする傾向は、西洋音楽史上、何時の時代にも様式が大きく変化するごとに現れる一種の繰り返し現象で、現代もその例外ではない。では、一九五〇年ごろを境とする新たな「世界音楽の時代」は、どのような想念と手段と方法で動き始めたのであろうか。今それを、次の七項目に分けて項目ごとに略説しよう。
(A)音列音楽(ミュジック・セリエル)
(B)初期の電子音楽
(C)ミュジック・コンクレート
(D)偶然性の音楽
(E)諸民族の音楽語法の借用
(F)ミニマル・ミュージック
(G)ロマン主義の復興(新たな単純性)」柴田南雄『音楽詩と音楽論』岩波書店、2014、pp.206-209.
柴田氏の示唆のお蔭だけではないが、ぼくも20代の頃、「現代音楽」に興味をもって、普通ではなかなか見つからないレコードを探して、シェーンベルク、ベルク、メシアン、ブーレーズ、シュトックハウゼンなどの作品を聴いてみたことがある。非常にマイナーな世界に思えたが、結構探すと東京では「現代音楽コンサート」なども行われていて、二、三度聴きに行ったこともあった。メシアンの元で学んだ黛敏郎が「題名のない音楽会」を始めていた頃で、ジョン・ケージなども紹介されていた。セリエルや電子音楽などは数学のようなものなのかと思った記憶がある。確かに数学と音楽は古代から繋がりがある。
「第二次大戦直後の一九四六年から開始された、西ドイツの小都市ダルムシュタットにおける「国際現代音楽夏期講習」は、ひとたび壊滅したヨーロッパの音楽創作を再び軌道に乗せる上で大きな役ア割を果たした。むしろ、そこに講師および生徒として集まった若い作曲家たちは、戦後のヨーロッパ作曲界の再建の成否の鍵は自分たちの手に握られていると自覚し、その牽引力となって活動し、一時的にせよ強大な影響力を発揮した。その主たる目標は、戦前・戦中の保守主義の徹底的な払拭であり、ラディカルな前衛性を前面に押し出した。
前記のようにナチ時代のドイツでは、ユダヤ人であったシェーンベルク(一八七四~一九五一)とその一派の十二音音楽の演奏は禁止されていた。それもあって、ダルムシュタットの初期には、十二音音楽の学習と再認識に主力が注がれた。シェーンベルクの弟子のアルバン・ベルク(一八八五~一九三五)とアントン・ヴェーベルン(一八八三~一九四五)を加えた三人を中心とする「新ヴィーン楽派」の作曲様式は、戦後の現代音楽の出発点となった。この、十二音音楽の名誉回復と復活は、非ナチ化という当時の一般的風潮に沿うものでもあった。
もっとも、それは一面では極めて閉鎖的なグループ内での創造運動であり、一般の聴衆の批判からは隔絶した場所で、ひたすら自分たちの語法を尖鋭化していったのも否定できない事実であった。
ともあれ、そこから生まれた最初の新様式が「音列音楽」(ミュジック・セリエル)である。その創始者はフランス人のオリヴィエ・メシアン(一九〇八~一九九二)であり、彼が一九四六年の夏、講師をしていたダルムシュタットで作曲したピアノ曲「音価と強度のモード」はこのスタイルの最初の代表作となった。この曲では、シェーンベルクでのように、音の高さ(ピッチ)だけをセリー(音列)化するのでなく、音素材の他の要素、すなわち音価(音の持続、長さでリズムを形成する。この曲では二四種)、アタック(ピアノ曲ならタッチの差異。音色に関係する。この曲では一二種)、強度(最強から最弱まで七種)の三つの要素をセリー化した。この手法は、しかし彼がすでに「トゥーランガリーラ交響曲」(一九四六~一九四八)などの一部で試み、また、すでにウェーベルンの「管弦楽の変奏曲」(Op.30. 一九四〇)でも、不完全な形で用いられていた。この手法では、互いに響きの性質のひじょうに異なる個々の音素材の集合によって一曲が成立し、そこに、他の方法では達成できない一種の感覚美が醸成される。以後の一時期、ブーレーズ(一九二五~)など、多くの作曲家がこの手法を用いており、一九五〇年代の時代様式のひとつの典型と見なされる。
こうした様式の出現にともない、「古典派=ロマン派」の時代の「音楽の三要素」、すなわち音楽はメロディー、リズム、ハーモニーの三者から成る、とする定義は現実と合わなくなり、新たに『五つのパラメーター』として、
音高(メロディーの要素)
持続(リズムの形成要素)
音色(種々の楽器の音色による。ピアノならタッチの種類)
強度(ピアノからフォルテまでの諸段階)
方向(音源の方角。また、固定か移動か)
が提唱された。
これらの諸パラメーターは、それぞれ何種類ずつかの段階(音高も、必ずしも一二種とは限らない)を設定し、あらかじめ定めた順序に従って並べたり、それらの順列組み合わせによって曲が構成されていく。また、前期のメシアンのピアノ曲では、四種のパラメーターの組み合わせは固定しており、つまり、鍵盤上のどの音もそれぞれ固有の属性(持続、音色、強度)を持っている。この作法による音楽には、調子感がないだけでなく、作曲者の感情の推移や感覚の変化に対応して音が選ばれたり、動いたりはしない。むろん、作曲者は全体の響を的確に予想はしているのだが、細部の構造は多分に偶然的であり、むしろ、確率的に決まる。そこに、従来の作曲では結果し得ない、無機的な数の観念の介入があり、この方法に拠ってのみ達成できる一種の感覚的表現や、新たな音楽美の世界が現出する。また演奏技法の上にも、当然新しい問題を投げ掛けている。」柴田南雄『音楽詩と音楽論』岩波書店、2014、pp.210-213.