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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「現代音楽」(カッコつき)・・(カッコつけ)について

2014-04-30 23:44:59 | 日記
A.「国民性」の問題ではなくて・・「国家性」の意味
 報道によれば、韓国では先日来の旅客船セウォル号沈没事件以来、犠牲になった200人以上の修学旅行の高校生への同情と、先に逃げた船長以下乗組員への非難に始まり、過積載で利益重視だった船の経営者や、政府の対応などことごとく国民の怒りを買い、ついに朴大統領が国民に謝罪する羽目になったが、それもまた誠意がないと火に油を注いでいるという。韓国では自分の湧き上がる感情を表情や態度にあらわさず、自己表現を抑制する人間を陰険で信用できない悪人とみる傾向が強いと言われる。確かに、韓国映画やドラマなどに出てくる人々は、感極まると大声で泣きわめいたり、飛びかかって罵倒したり殴ったりする人物がたいていは誠実で正義感の強い善玉になっている。今回の事件で、当局に詰め寄って怒っている姿の映像が流れているが、日本人から見るとむやみに感情的に昂奮しているようにも思えるだろう。日本では、泣いて食ってかかったり、土下座して謝ったりする姿は、ちょっと理性に欠けるやり過ぎで、かえって大袈裟すぎて裏に何かあるので、と勘繰ったりするかもしれない。謝る方も紋切型の言葉を棒読みして、並んで頭を下げるだけで、国民はまあしょうがねえか、と許してしまう。ステレオタイプな決めつけはよくないが、日韓の民族文化の感性はかなり違うのかもしれない。
 それはともかく、韓国ではわれわれは経済発展を遂げ、先進国になって得意になっていたけれど、今回の事件であまりに危機管理も生命の尊重優先もできておらず、国家国民としてとても自慢できるような状態にない、かもしれないという反省の言説がメディアに登場しているという。日本の韓国中国が大嫌いの排外主義者なら、ざまあみろとまた罵声を浴びせるのだろうが、そういう民族差別的感情からではなく、国家のせいくらべ、「国家の品格」という言葉も一時あったけれど、オリンピックが大好きな保守派が無意識に想定している、世界で何番目、という発想について、韓国のみならずぼくたちも考えてみる価値があると思う。
 国家の役割は、国民の生命財産を守り、国民一人一人が幸福を追求する基礎的な条件を整えることだ、というのは当然と思える。しかし、すべての国家がそういう目標をもって国家を作っているわけではない。例えば、かつてのソヴィエト連邦では、強力な社会主義国家を建設することが、最終的に国民の幸福を実現する唯一の道だとして、私的欲望(所有・消費)は抑制して国家への奉仕を国民に求めた。あるいは、戦前の帝国日本は国民の私的な幸福追求は、国家が認める範囲で可能なものでしかなく、国家の最終目標は天皇の統治を永続させることにあった。天皇の栄光を輝かせるために全国民が場合によっては命を捨てる、そのことによって恩恵が国民に上から与えられるので陛下に深く感謝しなければいけない、となっていた。
 その帝国が敗けた戦後の日本では何を国家の目標としたのだろう?それは明日の宿題。



B.「現代音楽」の難解さのひみつ
 音楽についての広範な理論と解説、という点で柴田南雄氏の仕事は特筆される。テレビやラジオの音楽番組などでも柴田南雄という名はしばしば聞いたものだ。この4月に岩波から現代文庫として新刊で出た『音楽史と音楽論』は、もとは放送大学のテキストとして書かれたものだという。時間的には古代から現代まで、空間的には東洋から西洋まで、およそ音楽という営みについて広く論じてそのカヴァーする範囲は広い。そのぶん、柴田氏はとても駆け足ですべてを解説しようとしているので、ひとつひとつについてはもうちょっと踏みこんで知りたいとは思うが、とりあえず「現代音楽」の部分を抜粋してみる。

「現代音楽」の語は、長いあいだ曖昧に用いられてきたが、ほぼ一九七〇年代以後は、第二次世界大戦後に新しく起ったスタイルの音楽に限定して用いられるようになった。年代としてはほぼ一九五〇年以後の創造である(ただしオペラ作品の場合は、例外的に二十世紀前半の作品をも「現代オペラ」と呼ぶ場合がある)。
 さて、これに先立つ「古典派=ロマン派」時代(一七五〇~一九五〇)の末期、すなわち二十世紀初頭以来、アーノルト・シェーンベルク(一八七四~一九五一)は、何世紀ものあいだ優位を保っていた長調・短調の調子感を極度に拡張し、一九〇六年頃には無調音楽を、やがて一九二一年にはそれを組織化した十二音音楽を創始し、数々の大作を残した。しかし、一方一九二〇~三〇年代は、新古典主義の時代と呼ばれていることからも判るように、古典派初期の作風への回顧的な風潮が強かった。だがそれは「古典派=ロマン派」の時代に限らず、どの音楽時代においても、その末期にあらわれる共通の傾向だが、第二次大戦直後の一九二〇年代には、とくにその傾向が著しかった。フランスの「六人組」やストラヴィンスキーのこの時期の作品に、その特徴が明瞭に出ている。
 それに加えて、一九三〇年代以後、ドイツの民族社会主義(ナチ)とソヴィエト・ロシアの社会主義リアリズム理論による芸術規制の結果、クラシック音楽の様式は極度に保守的になっていた。前者ではオルフの「カルミナ・ブラーナ」(一九三七)、後者ではその時期のプロコフィエフ、ショスタコーヴィチの交響曲やカンタータなどが、その特徴を顕著に示している。
 更に、ファシズムとそれに続く第二次大戦を避けてヨーロッパからアメリカ合衆国に亡命した作曲家たちは、アメリカの聴衆を意識して、あるいはアメリカの音楽生活に適応して、彼等のヨーロッパ時代の前衛的な作風を著しく後退させた。一言でいうなら、わかりやすい、多数の聴衆が楽しめる作風に変貌した。バルトーク、ヒンデミット、ミヨー、ヴァイルなどがそうであり、さらには一時期のストラヴィンスキーやシェーンベルクの作品にさえ、アメリカの商業主義的音楽生活が影を落としている。
 そして、ヨーロッパは多年の戦禍と若者の減少で、一九五〇年ごろから、ようやく第二次大戦後の作曲界の新たな胎動が始まり、新様式の作品がぞくぞく発表されるようになる。そもそも、西洋芸術音楽はすでに述べたように、一二世紀中葉に中世多声音楽が起こって以来、、キリスト教と合理主義に支えられて一筋の発展を遂げてきたのだが、第二次大戦後は、非常に異なる思想と方法を受け入れた。その様相は詳しくは後述するが、西洋音楽のそれまでの様式には見られなかったさまざまな要素が取り入れられた。例えば、十二音技法をさらに発展させた形での数の順列・組み合わせによる音選びの方法、尾との電子的発信音による作成や合成や変形、さらに非西欧、例えばインド、日本、中国、アフリカ、インドネシア等の諸民族の思想(例えば禅、易)、音楽観、その楽器の音色や特徴的な演奏方法を大幅に取り入れること、などである。いわば西洋音楽は世界音楽に変貌、脱皮しつつあるかに見える。当然、非西欧の音楽家や楽器を、それが伝統的であろうとなかろうと、そこで組み込んでしまう傾向も著しくなった。第二次大戦の直後にこのような傾向の原点に立っていたのは、ロス・アンジェルス生まれのアメリカ作曲家のジョン・ケージ(一九一二~一九九二)であった。
 このような変化は、従来のヨーロッパ中心の世界に対して、政治・経済・軍事などの分野でのアメリカの発言力の増大、さらにはアジア・アフリカなどの、いわゆる第三世界の台頭の平行現象でもある。もちろん、旧美学の信奉者は、音楽の世界に侵入したこの種の変化を容認せず、激しく否定しようとする。もっとも、新しい傾向を容認すまいとする傾向は、西洋音楽史上、何時の時代にも様式が大きく変化するごとに現れる一種の繰り返し現象で、現代もその例外ではない。では、一九五〇年ごろを境とする新たな「世界音楽の時代」は、どのような想念と手段と方法で動き始めたのであろうか。今それを、次の七項目に分けて項目ごとに略説しよう。
(A)音列音楽(ミュジック・セリエル)
(B)初期の電子音楽
(C)ミュジック・コンクレート
(D)偶然性の音楽
(E)諸民族の音楽語法の借用
(F)ミニマル・ミュージック
(G)ロマン主義の復興(新たな単純性)」柴田南雄『音楽詩と音楽論』岩波書店、2014、pp.206-209.

 柴田氏の示唆のお蔭だけではないが、ぼくも20代の頃、「現代音楽」に興味をもって、普通ではなかなか見つからないレコードを探して、シェーンベルク、ベルク、メシアン、ブーレーズ、シュトックハウゼンなどの作品を聴いてみたことがある。非常にマイナーな世界に思えたが、結構探すと東京では「現代音楽コンサート」なども行われていて、二、三度聴きに行ったこともあった。メシアンの元で学んだ黛敏郎が「題名のない音楽会」を始めていた頃で、ジョン・ケージなども紹介されていた。セリエルや電子音楽などは数学のようなものなのかと思った記憶がある。確かに数学と音楽は古代から繋がりがある。

「第二次大戦直後の一九四六年から開始された、西ドイツの小都市ダルムシュタットにおける「国際現代音楽夏期講習」は、ひとたび壊滅したヨーロッパの音楽創作を再び軌道に乗せる上で大きな役ア割を果たした。むしろ、そこに講師および生徒として集まった若い作曲家たちは、戦後のヨーロッパ作曲界の再建の成否の鍵は自分たちの手に握られていると自覚し、その牽引力となって活動し、一時的にせよ強大な影響力を発揮した。その主たる目標は、戦前・戦中の保守主義の徹底的な払拭であり、ラディカルな前衛性を前面に押し出した。
 前記のようにナチ時代のドイツでは、ユダヤ人であったシェーンベルク(一八七四~一九五一)とその一派の十二音音楽の演奏は禁止されていた。それもあって、ダルムシュタットの初期には、十二音音楽の学習と再認識に主力が注がれた。シェーンベルクの弟子のアルバン・ベルク(一八八五~一九三五)とアントン・ヴェーベルン(一八八三~一九四五)を加えた三人を中心とする「新ヴィーン楽派」の作曲様式は、戦後の現代音楽の出発点となった。この、十二音音楽の名誉回復と復活は、非ナチ化という当時の一般的風潮に沿うものでもあった。
 もっとも、それは一面では極めて閉鎖的なグループ内での創造運動であり、一般の聴衆の批判からは隔絶した場所で、ひたすら自分たちの語法を尖鋭化していったのも否定できない事実であった。
 ともあれ、そこから生まれた最初の新様式が「音列音楽」(ミュジック・セリエル)である。その創始者はフランス人のオリヴィエ・メシアン(一九〇八~一九九二)であり、彼が一九四六年の夏、講師をしていたダルムシュタットで作曲したピアノ曲「音価と強度のモード」はこのスタイルの最初の代表作となった。この曲では、シェーンベルクでのように、音の高さ(ピッチ)だけをセリー(音列)化するのでなく、音素材の他の要素、すなわち音価(音の持続、長さでリズムを形成する。この曲では二四種)、アタック(ピアノ曲ならタッチの差異。音色に関係する。この曲では一二種)、強度(最強から最弱まで七種)の三つの要素をセリー化した。この手法は、しかし彼がすでに「トゥーランガリーラ交響曲」(一九四六~一九四八)などの一部で試み、また、すでにウェーベルンの「管弦楽の変奏曲」(Op.30. 一九四〇)でも、不完全な形で用いられていた。この手法では、互いに響きの性質のひじょうに異なる個々の音素材の集合によって一曲が成立し、そこに、他の方法では達成できない一種の感覚美が醸成される。以後の一時期、ブーレーズ(一九二五~)など、多くの作曲家がこの手法を用いており、一九五〇年代の時代様式のひとつの典型と見なされる。
 こうした様式の出現にともない、「古典派=ロマン派」の時代の「音楽の三要素」、すなわち音楽はメロディー、リズム、ハーモニーの三者から成る、とする定義は現実と合わなくなり、新たに『五つのパラメーター』として、
 音高(メロディーの要素)
 持続(リズムの形成要素)
 音色(種々の楽器の音色による。ピアノならタッチの種類)
 強度(ピアノからフォルテまでの諸段階)
 方向(音源の方角。また、固定か移動か)
が提唱された。
 これらの諸パラメーターは、それぞれ何種類ずつかの段階(音高も、必ずしも一二種とは限らない)を設定し、あらかじめ定めた順序に従って並べたり、それらの順列組み合わせによって曲が構成されていく。また、前期のメシアンのピアノ曲では、四種のパラメーターの組み合わせは固定しており、つまり、鍵盤上のどの音もそれぞれ固有の属性(持続、音色、強度)を持っている。この作法による音楽には、調子感がないだけでなく、作曲者の感情の推移や感覚の変化に対応して音が選ばれたり、動いたりはしない。むろん、作曲者は全体の響を的確に予想はしているのだが、細部の構造は多分に偶然的であり、むしろ、確率的に決まる。そこに、従来の作曲では結果し得ない、無機的な数の観念の介入があり、この方法に拠ってのみ達成できる一種の感覚的表現や、新たな音楽美の世界が現出する。また演奏技法の上にも、当然新しい問題を投げ掛けている。」柴田南雄『音楽詩と音楽論』岩波書店、2014、pp.210-213.
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悩めない大学生について・・

2014-04-28 19:59:14 | 日記
A.大学生のカウンセリングから
  長い間大学の教師をやっていると、学生の変化というものを感じるときがある。それがどういうものか、簡単に説明するのは難しい。ただ昔は、同世代の若者がみな大学に来るわけではなかったから、大学生というのは日本という社会の中で、比較的恵まれた親のもとで、順調に受験の階段を上って来て、自分と自分を取り巻く人間の世界について、ある程度自分を対象化してみることができ、知的にものを見る能力を備えていると想定して、教育は組み立てられていたと思っていた。しかし、進学率が上昇して同じ学年の子どもたちの半数以上が大学にくる時代になって、何か基底の部分で大きな変化が起きているのかもしれないと思う。それを表面な部分で捉えて、いつの時代も通俗的に言われたような「いまどきの学生は・・」云々という口ぶりではなく、実際に日常的に大学生に接している立場から、それを考えて何がいえるのか?
  最近話題の本のひとつ、最相葉月「セラピスト」はその点で河合隼雄の「箱庭療法」と中井久夫の「絵画療法」を手がかりに、精神医学やカウンセリングの現状を追いかけている。その中から、ぼくには興味深かった、関西のある大学で二十年以上学生相談室で専任カウンセラーをしている高石恭子さんの取材部分から。

 「学生相談室で受ける相談件数は、年間延べ千八百件。そのうち箱庭療法を行うケースは二、三十件で、一人で複数回作る場合もあるが、多くは一回きりである。友だちができない、就職がなかなか決まらない、といった悩みから、精神疾患との向き合い方まで相談はさまざま。カウンセラーは学生が退室すると記録を取り、片付けを行うとすぐに次の学生を迎える。その連続である。一期一会は学生相談の現場でも変わりなかった。
「箱庭療法はやりにくくなっています。絵画療法もそうです。箱庭や絵画のようなイメージの世界に遊ぶ能力が低下しているというのでしょうか。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなったのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張は高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです」
 何に悩んでいるかわからないなら、学生たちはここで何を訴えるのですか。
「最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない」
 むかつく、もない?
「むかつく、というのは苛立ちや怒りの対象があるということです。でも、最近は対象がはっきりせず、もやもやして、むっとして、そしてこれが一定以上高まるとリストカットや薬物依存、殴る、蹴るの暴発へと行動か、身体化していきます。でも、なぜ手首を切りたくなったのか、その直前の感情がわからない。思い出せない。一、二年ほどカウンセリングを続けて、そろそろわかっているだろうと思っていた人がわかってくれていなかったことがわかる。それぐらい長く続けてもわからないのです。悩むためには言葉やイメージが必要なのに、それがない。身体と未分化というのでしょうか、○○神経症と名付けられるのはごく少数派です」
 以前はそうではなかったのでしょうか。
「ええ。私が相談室に入った一九八〇年代は、クライエントにはまだ主体性がありました。抱えている問題を言葉やイメージで伝えることができました。ところが、今は、言葉にならないというだけでなく、イメージでも表現できないのです。箱庭を作りたい、絵を描きたい、夢について語りたい、という学生も減りました。かといって、カウンセラーのほうにも箱庭に誘うゆとりがありません」
 河合(河合隼雄:引用者註)はかつて、箱庭療法がどんなクライエントに実効性をもつかについて、「箱庭という表現によって、その人が内面的な表現ができるかぎり、だれにとっても意味を持つ」(『トポスの知』)と述べていた。だが、その前提が崩れかけているということか。」最相葉月『セラピスト』新潮社、2014、pp.283-284.

 ぼくもこれまで接した学生のうち、何人かはここでとりあげられているような症例に近い学生に出会ったことがある。ぼくはセラピストではないので、ただ慎重に通常の学生に対するような態度で接するのはマズい、と感じて、彼ら彼女らが抱える悩みや困難を、黙って聴くことでどのような解決の道があるのかを探った。ぼくの大学にも学生相談室があったので、ケースによってはカウンセラーや、技術的に対処できる場合は学生支援室に連絡して、それなりに解決された場合もある。しかし、専門家に任せれば必ずうまくいく、ともいえない場合もあった。
 箱庭療法については、ぼくの大学はかなり早い時期から心理相談に取り組んでいたので、身近に箱庭もあったし、ケース研究なども行われていた。ただ、それは素人が関与することを拒んだ世界で、クライエントへの社会的な偏見も強かったから、そのような技法が必要なことは理解できたが、精神分析についてフロイトから接近してみると、果たしてこれで治療としてどこまで意味があるのか、疑問を抱くこともあった。医学も心理学も、社会を抜きにしては結局最終的な治癒はありえない。いや、それはあまりにも社会学的だとしても、心の病を広く捉えたときには、カウンセリングで問題が解決するなどと考えるのは、それこそ素人の偏見だろう。

「高石が学生の特徴について研究した「現代学生と高等教育に求められるこれからの学生支援」(二〇〇九)と題する論文がある。それによると、学生相談の場で出会う学生たちに大きな変化が見られるようになったのは、二〇〇〇年を過ぎた頃からだ。
 変化は、大きく三つある。
 一つは、先に高石が語ったような、「悩めない」学生の増加である。問題解決のハウツーや正解を性急に求める学生と、漠然と不調を訴えて何が問題なのかが自覚できていない学生に二極化しており、とくに後者については、内面を言葉にする力が十分に育っていないために大学に適応できず、対人関係にも支障をきたし、いきなり、自傷、過食嘔吐、過呼吸、過敏性腸炎、つきまとい、ひきこもりなどの行動化・身体化に至ってしまう。手首を切っても、なぜ切ったのか、どんな気持ちで切ったのか、切ることで何が得られるのか、あるいは失われるのか、などを訊ねても答えられない。気づいたら、切っていたのであって、そこには何の反省も後悔もない。「なぜだかわからないけどイライラし、落ち込み、切ってしまうんです」。そういって、カウンセラーの前で茫然と涙をこぼす。
 二十年前はそうではなかった。相談にやってくる典型的な学生像は、「青年期のアイデンティティ模索の悩みや、付随するさまざまな症状(対人恐怖、強迫、離人など)を訴え、カウンセラーが共感的に傾聴していると、学生自らが語りつつ答えを見出し、解決に向っていく」というものだった。だが、二〇〇〇年を過ぎた頃からそのような例は年々減り、精神医学的な診断にあてはまるような心身の症状をもつ学生も少なくなっている。かといって相談者数が減っているわけではなく、むしろ増加している。なんだかわからないけれど苦しいからといってやってくる。
 二つめの変化は、「巣立てない」ことである。
 精神的な疾患など特別な背景をもたないのに引きこもっている学生は、甲南大学で在籍者の0.75パーセント程度いる。一万人規模の大学であれば、数十名から百名近い学生が不登校・引きこもりの状態であっても不思議ではない。近年増えつつあるのが、就職先が内定し、単位も取得しているにもかかわらず、社会に出る不安からうつ状態やパニック症状に陥る、いわゆる「内定うつ」と呼ばれる学生たちである。このため、学生の親からの相談が増加しており、相談室の総利用件数のうち一割近くが親である。巣立てない子、子離れできない親、という現象は、二十年前までの、全人的成長を支援することを目的とした学生相談では対処できない。
 三つめの変化は、「特別支援」を要する学生の増加である。特別支援を要する学生というのは、発達障害やその傾向をもつ人々のことだ。二〇〇五年に発達障害者支援法が施行され、高等教育においても発達障害者への特別な教育上の配慮が義務づけられたことから、これまでは「変わった学生」「困った学生」と思われていた学生たちが、「支援を必要とする学生」とみなされるようになった。学業に支障はなくても対人コミュニケーションに困難をもつ学生は、時としてトラブルに巻き込まれたり、逆にトラブルを引き起こしたりしやすい。このため、大学でも、学生が就学し、卒業して社会人になっていくまで総合的かつ継続的に支援していくことが求められるようになったのである。」最相葉月『セラピスト』新潮社、2014、pp..284-286. 

 この部分、ぼくには「巣立てない」ことや「特別支援」については、とくに異論はないが、「なにが悩み苦しみなのかが、自分自身わからない」という事態については、社会学的にとても興味がある。それはむしろカウンセリングを求める1%の病理的な学生にではなく、「ふつうの」80%の学生も多かれ少なかれそうなのではないか、と感じるからだ。かつては進路に悩み、友人に悩み、家族に悩み、恋愛に悩むのは「若者の特権」と言われた。み~んな悩んで大きくなっていったという言い方もあった。しかし、今の大学生を見ていると、一見さして悩んでいるように見えない。どころか表向き明るく元気でニコニコしている。綺麗に着飾り、友人とは楽しく語らい、愉快に冗談を飛ばして受けを狙っているようにしか見えない。しかし、一歩踏み込んでみるとかなり深刻な悩みがありそうなのだ。でも、それを人に見せることは自ら禁じている。どうしてそうなるのか、何かちょっとしたきっかけで、それが垣間見える瞬間がある。元気そうに活動している学生ほど、実は深い闇のような部分を抱えている。多くの大人たちはそれに気づかず、頭から教訓を垂れたり、自分勝手な解釈で理解の道を閉ざしてしまう。若者たちはそれを感じた瞬間に、ああまた同じだ、とヒいてしまう。ここを超えないと始まらないということだけはわかる。



B.マッコイ・タイナーのジャズ
 たまたま、マッコイ・タイナーを聴いている。50年代のモダン・ジャズ黄金期を考えてきて、そのあとの60年代以降のジャズについては、その延長上で考えてしまったが、マッコイ・タイナー「ザ・ワンダラー」やハービー・ハンコック「ウォーター・メロンマン」を聴いてみると、ジャズの進化がどういう軌跡を辿ったかが、なんだか忘れていた気がして気になった。でも、時間がないので、これについてはまた。 とりあえずマッコイの経歴だけフォロー。
 アメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト。ジョン・コルトレーンのレギュラー・カルテットでの活動や、バンドリーダーとしての活動で有名。ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。母の勧めで、13歳の時にピアノを始める。その後、近所にバド・パウエルが引っ越してきて、大きな影響を受けた。1955年にジョン・コルトレーンと出会い、1960年にコルトレーンのバンドに加入。ジミー・ギャリソン(ベース)やエルビン・ジョーンズ(ドラム)と共にコルトレーンを支え、『コルトレーン』『バラード』『至上の愛』『アセンション』など多くの作品に参加。また、1962年にはバンド・リーダーとしてインパルス!レコードと契約し、初のリーダー・アルバム『インセプション』発表。しかし、コルトレーンがフリー・ジャズに傾倒するのを良く思わず、1965年12月に袂を分かつ。1967年、ブルーノートと契約し、『ザ・リアル・マッコイ』などのリーダー・アルバムを発表。ブルーノートからの2作目『テンダー・モーメンツ』(1967年)は、他界したコルトレーンに捧げた曲「モード・トゥ・ジョン」を収録。1971年後半には、ソニー・フォーチュン(サックス、フルート)、カルヴィン・ヒル(ベース)、アル・ムザーン(ドラム)を従えたレギュラー・カルテットを編成し、同年マイルストーン・レコードに移籍。1972年には来日公演を行う。その後も、様々なレーベルから作品を発表。

 
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音楽の堕落について アドルノ?

2014-04-26 22:12:11 | 日記
A.フランス人のテロリスト
 たまたま先日のNHK「クローズアップ現代」を見たら、アルカイダの復活と西欧の若者の参加というテーマで、レバノンとフランスでのアルカイダ系のテロリストを取材した報告をやっていた。その中では、9.11テロをひき起した国際テロ組織アルカイダは、その後のアフガニスタン戦争やイラク戦争で拠点を失い、指導者もビンラディンはじめ多くが逮捕殺害されたりして、一時は衰退したといわれていたが、最近は各地で勢力を伸ばしているという。それは統一的な組織の形をとらず、武装した少数のグループに分かれてアルカイダを名乗って活動するネットワーク的なものになっているらしい。問題はそこに、フランスなどから若者が新たに参加しているという話題である。番組では、中東に行ったフランス人のある若者とその母へのインタビューなどをとりあげていた。彼はイスラム教徒ではなく、フランスには多い北アフリカ出身者でもない。いわば普通の純フランス人なのだが、あまり恵まれた境遇ではなく、ムスリム系の友人などと接するうちアルカイダに惹かれて中東に行き、テロ組織に入ったという。
 こういう事例があちこちで増えている、というほどではなく、せいぜい数十人くらいだというが、国境を越えた活動が厳しく取り締まられるアルカイダにとっては、EU・フランスのパスポートをもつ若者の加入は何かと役に立つだろう。テロ対策には脅威になる。これを見ていてぼくは、このフランス人の若者の行動と動機について、どう説明するのか気になった。解説に呼ばれた東大准教授氏は、このような説明をしていた。
 従来、フランスで社会的に不利な境遇に陥り不満を抱いた若者の多くは、犯罪に絡んだりマフィアなどに関係してフランス社会の裏街道、闇の世界に行くと考えられたが、このアルカイダ系若者は、そっちにはいかずむしろアッラーの神が命じる聖戦の大義に惹かれ、国境を越えて世界変革への武力闘争に参加しようとした、これは新しい傾向ではないか、と。イスラム教の土壌がある場所でイスラム原理主義が受け入れられるのは理解しやすいが、カソリックを基盤とするフランスのような先進国内の若者が、アルカイダに惹かれるのはなぜだろう?
 でも、そういえば昔、日本赤軍というのがあって1970年前後の大学紛争・街頭政治闘争の中にいた大学生など日本の若者が、世界同時革命を叫んでパレスチナに渡り、イスラエルなどで外国人であることを利用してテロを実行した。あれとどう違うのだろうか?フランスのことは詳しくは知らないが、たぶん似た側面と違った側面があるのだろうと思う。似た側面とは、自分の生まれた国で政治的変革を目指すのではなく、世界でも貧しい人々がもっとも虐げられ悲惨な状況にある場所に行って、武力闘争に身を投じるという行動で、違った側面とは、その機動力となる思想がかつてのマルクシズム流民族解放革命路線ではなくて、イスラーム原理主義であることだ。しかし、先進国の恵まれない若者の不満が、過激なテロリズムに向かうという見立ては、どこまで妥当しているのだろうか?
 これも最近出たばかりの樋口直人『日本的排外主義 在特会・外国人参政権・東アジア地政学』名古屋大学出版会、という本を見つけて購入、読んでいるので、少し引用させてもらう。

「(1)寄る辺なき底辺の反乱?――『ネットと愛国』の前提を俎上に乗せる
 ネット右翼が話題となる時、決まってある種のステレオタイプがついてまわる。すなわち、社会の縁辺で満たされない生活を送り、疎外感や不遇観に満たされた者がいる。ほとんどが男性である彼らは、蓄積される一方の鬱憤を晴らす場をインターネットに見出し、韓国、中国、「在日」といった「敵」のバッシングにいそしむ。常時パソコンにかじりついて待機しているとしか思えないくらい、どのニュースが出てもいち早く反応、どんな話題でも「中国、韓国、在日」に結びつけて貶すコメントを書き込む異様な熱意。――Yahoo!のニュース速報をみていると、暇を持て余して非生産的な活動にしか情熱を注げない、そんなネット右翼像を首肯したくもなる。
 日本で排外主義的な言説がインターネットを覆うに至った二〇〇〇年代は、日本の経済的なプレゼンスが低下し、非正規雇用の増加や格差・貧困が問題化された時期でもある。社会的排除を被る者が程度としても人数としても増加し、それに対する認知が高まるなかで、排除された者がはけ口を求めるという説は実感に沿っている。それだけに、排外主義運動の発生と拡大を不満・不安と階層で説明しようという思考が強固に根を張ってきた。だが、第一章(引用者註:この本の第1章誰がなぜ極右を支持するのか、のこと)でみるように外国における極右政党の支持基盤は、不満・不安と階層で説明できるほど単純ではない。正確にいうと、そうした単純な支持者像は経験的研究の蓄積により、大幅な修正を余儀なくされてきた。
 では、日本についてはどうなのか。排外主義運動にかんして取材を重ね、決定版ともいうべき『ネットと愛国』を著わした安田浩一の議論を素材として、先行する説の妥当性を検討することとする。安田の著作は、裏付けのない思い付きを並べた類書とは異なり、決してお手軽でいい加減に作られた本ではない。排外主義運動という同じ対象にかんして調査した経験から判断すれば、安田の取材活動はかなり行き届いており、著作に登場しないものも含めて手厚く取材がなされている。『ネットと愛国』が、ジャーナリズム大賞と講談社ノンフォクション賞を受賞したのも、発掘的ジャーナリズムと手厚い取材の両方が評価されたゆえのことだろう。ただし、そうした取材を経て得られたリアリティゆえに、安田の常識的で素朴な思い込みにもとづく解釈が、読者には信憑性をもって受けとめられてしまう。」樋口直人『日本的排外主義』名古屋大学出版会、2014. Pp13-14.
 樋口はまず、1980年代に極右政党が抬頭したヨーロッパを中心に極右運動の経験的研究をフォローして、4つの関連する理論を検証している。4つとは「近代化の敗者論」、競合論、抗議政党論、合理的選択論である。日本には右翼はあっても極右はない、というのが定説だったという。確かに以前は日本では排外主義や移民排斥は、既成右翼の主張の中核ではなかった。日本の右翼は伝統的な権威としての天皇崇拝や反共主義を訴えていた。それが欧州の極右政党との違いだったが、最近の排外主義的動きは、欧州極右に近づいてきた面があるといえるのかもしれない。もう少し読んでみることにする。



B.音楽の堕落?
 かつてヒトラーは、芸術には崇高な芸術と堕落した芸術があると言って、国家権力によって崇高な芸術作品を顕彰し、堕落した芸術作品を弾圧抹殺しようとした。その基準は作品そのものの価値というよりは、それを作った人間がアーリア人であるか、ユダヤ人であるかという単純なものだった。音楽についても、ベートーベンやワグナーは純粋なドイツ人であるからその作品は素晴らしく、マーラーやシェーンベルクはユダヤ系であるから堕落音楽だとした。ナチスは亡びたので、戦後このような妄見は否定され、ユダヤ系音楽家はほっとしたが、「堕落した音楽」があるというアイデアは、その後も別の形で現れた。社会主義国家での芸術は、そのイデオロギーに合致するものは振興奨励され保護されたが、それに反すると見られた途端、弾圧された。では、西側ではどうだっただろう?いわゆるポピュラー音楽は国家に弾圧されるというほどのことはなかったが、市場で売買されさまざまな形で発展したが、それが生産され流通され消費される形への批判は「堕落した音楽」、あるいは「音楽の堕落」としていまも語られている。たとえば・・。

「音楽が真の意味で商品となるのは、ポピュラー音楽に対する巨大な市場が生み出されてからのことである。この市場はエジソンの発明の頃には存在していなかった。それは、アメリカの産業機構による黒人音楽の植民地化の産物に他ならなかった。商品のこうした発展の歴史は典型的である。反復的商品となった反抗の音楽、戦後経済の高度成長の真直中における経済危機の前提をなし、すぐさま消費に馴化されていった若者の爆発、ジャズからロックへ。そして、それは、市場、即ち、供給と需要を同時に生産するために、解放への意志――それはつねに息を吹き返し、捉え直される――を疎外しようとする試みへとつながっていく。(ジャック・アタリ『ノイズ 音楽/貨幣/雑音』金塚貞文訳・みすず書房」)
 まさに「ジャズからロックへ」、ポピュラー音楽のヒットチャートにロックが顔を出し、音楽市場をロックが支配するのを当時のアタリは目の当りにしたのである。そしてロックの堕落現象をも目撃することになる。アタリはこう続ける。
 音楽が堕落したのではなく、われわれのまわりに堕落した音楽が増えたのである。ポピュラー音楽とロックは、回収され、植民地化され、殺菌された。六〇年代のジャズが、政治的出口のない暴力の避難所であったとしても、それは、執念深いイデオロギー的且つ技術的回収に付きまとわれた。ジミー・ヘンドリックスはスティーヴ・ハウに、エリック・クラプトンはキース・エマーソンにその地位を奪われた。今日、普遍化し、それとは明示し得なくなった堕落が反復の成功の条件の一つとなっている。もっとも基本的な、もっとも平凡な、そしてもっとも意味のないテーマが、消費者の日常的気がかりに一致し、歌手のワンマン的見世物を意味するとき、ヒットするのである。」林浩平『ブリティッシュ・ロック』講談社選書メチエ、2013、pp.219-220.

 アタリのような見解は、すでに音楽社会学の古典ともみなされるアドルノに強い主張として現れていた。また、マーティン・ジェイ『アドルノ』から・・。

「なぜアドルノが、こうした近づきがたい「破壊的な」音楽のあるタイプだけが真に批判的だと感じたのかを理解しようと思うなら、われわれは、音楽の社会に対する関係についての彼の一般的な議論をもっと綿密に検討してみなければなるまい。音楽の生産と再生産と消費に関するその複雑な弁証法的分析を通して、アドルノはこうした諸関係のほとんど全局面を探査している。しかし、このなかでももっとも重要なのは生産である。というのも、「音楽の社会的分配と社会的需要などは単なる副次的現象にすぎないのであり、その本質は、音楽そのものの客観的な社会的構成だ」からである。アドルノが音楽の生産ということで考えているのは、作曲過程のことなのだが、彼は、この作曲過程が作曲家の卓越した才能を現前化するものだとか、あるいは、作曲家が外的諸力によって完全に支配されていることを示すものだといった、いずれにせよ誤った考え方からこの過程を救い出そうと望んでいる。「いかなるものであれ真の音楽は、構成的契機と模倣的(ミメーシス)契機から成るひとつの力の場なのであり、他の力の場と同様、そのいずれかの契機によって尽くされるものではないのだ。」してみれば、真の「音楽的主題は個人的なものではなく、集団的なものであり」、作曲家の個人的な技巧と、作曲家が自由にしうる過去から遺贈された手段との複合体である。したがって、音楽的生産は、完全に自律的でもなければ、だからと言って、幾分かはそれを写しとっているにせよ、社会的生産に還元されうるものでもないのである。アドルノが幾分懐疑的なクルシェネックに語ったところによれば、作曲とは「一種の解読作業――あるいは一種の自己想起の作業――である。〈原文〉は、それがおのれ自身を照明するまでじっくりと見つめられる。この照明の突然の閃光、〈意味〉を秘めたこの閃光こそが、その生産の瞬間なのである。…‥私が否定したいのは、弁証法の主観的な側面ではなく、その〈自足性〉だけである。この自足性こそまさしく弁証法が否定しなければならないものなのであり、弁証法的唯物論という概念が私にとってきわめて重要なものになるのも、このゆえなのである。」
 作曲が一種の解読作業であるからこそ、これはその構成的契機、つまり作曲家の主観性の客観化に還元されえず、むしろ模倣という契機をも同じように必然的なものとして含んでいるのである。この模倣がアドルノの美学理論において果たしている中心的な役割については、のちほど手短にもっと明らかにしてみるつもりだが、今この模倣ということを音楽の用語で言い表わしてみるなら、何よりもまずそれは、いかに純粋な音響でさえもある外的な社会的現実の表現だ、ということになろう。「音楽的素材」――ある特定の時点である作曲家に利用可能な形式と内容の両面から見た音の組合せを、彼は好んでこう呼ぶのだが――は、社会の物質的現実に関係づけられている。そして、社会の物質的現実の合理化もまた、音楽的素材の合理化に間接的影響を及ぼす、というわけである。すでに見たとおり、アドルノは、芸術的な生産技法(テクニック)から区別したいと望んではいたものの、この両者が関係するさまざまな様態を甘受する力をも持っていたのである」マーティン・ジェイ『アドルノ』木田元・村岡晋一訳、岩波書店、1987.pp212-214.

 たとえばジャズが、「黒人の置かれた社会状況への怒りや反抗」を表現しているとか、ロックが「イギリス社会の閉塞的状況を感知した若者の抗議の爆発」に創作の根源を求めるとかいうのは、あまりにステレオタイプなあてはめで、それに反する議論や事実はいくらでもみつけられるだろう。アドルノはもちろん、そんな程度のことを言っているのではない。彼が持ち出す否定の弁証法は、音楽創造の閃光がたんに感情の爆発ではなくて、構成、解読、模倣、という契機も重要だと言っている。そして、音楽は生産され、再生産され、消費される過程の全体をみる必要があり、その力は輝きを放つと同時に、いずれ堕落する。

「音楽の再生産は、その生産を越えたところにある。生産と再生産のこの区別は、作曲家と演奏家、総譜(スコア)とその楽器による現実化、演奏会と技法の伝達や保存、といった分業から結果してきたものである。アドルノは、驚くべき博識を駆使して、こうした再生産のあらゆる側面を、つまりブルジョワ期における生産者と消費者のあいだのさまざまな媒介を探査する。ブルジョワ家庭という私的空間に対する室内楽の関係とか、派手で威圧的な指揮者たちとファシズムのFührer prinzip(指導者原理)との不吉な結びつきとか、あるいは、音楽的「アウラ」の破壊に及ぼすラジオ放送の影響力といったように、アドルノが西洋の音楽生活における再生産のもつ様々な含意にくわえたその批評は、挑発的でもあれば独創的でもあった。彼は、ほかならぬ生産と再生産との区別をさえも、音楽の抽象的本質とその感覚的現われとの、作曲家の思想と演奏家によるその解釈との非同一性の表徴として評価するのだが、このことは、二〇世紀中葉の電子音楽におけるこうした区別の事実上の崩壊に対して彼が示した不安によっても裏づけられる。こうした崩壊が含意している脱差異化は、音楽の否定力が管理された世界にますます強く統合されつつあることの証拠であろう。「技術(テクノロジー)の発展は、最初は音楽外的なものとみなされるが、次には作曲という意図のもとに管理されるようになり、そしてついには音楽内部の発展に収斂してゆくことになる。芸術品がおのれ自身の複製(Reproduktion)になってしまうのであってみれば、複製が芸術作品になるということも予想しうることであろう。」危険なことに、その結果は、文化産業において起こっている芸術の道具化の過程に接近することになる。「それによって技法(テクニック)と内容とのあいだの緊張関係がますます低下してゆくのは当然である。音楽の描写がもはや何ものの描写でもなくなってゆくにつれて、その手段の本質も、それによって描写されるものの本質といっそう合致してゆくように思われる。」
 最後にアドルノは、経験主義的心情をもった音楽社会学者たちよりもはるかに強い懐疑の念をもってではあるにしても、音楽の需要をも検討している。『年誌』に掲載された一九三八年のエッセイにおける「聴取能力の退行」の分析に始まって、一九六二年の『音楽社会学序説』における聴衆の類型学にいたるまで、アドルノは、音楽に対して批判的かつ知的に応答する能力の衰退、文化産業の勢力の増大に平行して進行するこの衰退を嘆きつづけている。アドルノのこうした見解のうちに傲慢な専門家のさげすみを見てとるのは容易だが、アドルノが主張するのは次のようなことなのである。

 批判的類型学が目を向けている支配的な状況は、ある決まりきった仕方でしか聴かない人びとのせいで生じたのでもなければ、ましてや彼らのこうした精神状態を固定してそれをいっそううまく利用しうるものにする文化産業のシステムのせいで生じたのでもない。そうではなく、こうした状況は社会の深層に根ざしているものなのであり、まずは精神労働と肉体労働の分離に、次いで高級文化と低俗文化との――分離に、そして最後に、虚偽の世界に正しい意識などありえようはずはないのだし、音楽に対する社会的な反応の仕方でさえ虚偽意識の呪縛のうちにある、という事実に根ざしているのである。(Adorno,’Einleitung in die Musiksoziologie’p.197.)
」マーティン・ジェイ『アドルノ』木田元・村岡晋一訳、岩波書店、1987.pp214-216.

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楽器instrumentalはたんなる道具toolか?

2014-04-24 21:38:37 | 日記
A.バラク・オバマ
 東京はいま、アメリカ大統領を国賓として迎えて、都心を中心に各駅には警察官が総動員体制で警備に当っている。反米を唱えるテロリストは世界中にいるから、日本で何か事件が起きては国際的にとてもヤバい、というのは当然だ。しかし、大統領は国賓とは言うものの、2泊3日で迎賓館にも泊まらず、首脳会談をさっさと終えると明日は韓国に向けて旅立つ慌ただしさである。安倍首相は、銀座のすし屋で楽しく会食し、アメリカが日本をこんなに大事にしてくれたとご満悦で、メディアも大歓迎で成果を強調している。しかし、日米関係になにか格別の変化があったとは思えない。
ちなみに以下はThe Wall Street Journal の報道。
「オバマ米大統領と安倍晋三首相は24日、首脳会談後の共同記者会見で、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉の妥結に向けて両国が引き続き努力することを表明した。オバマ氏は、日本と中国が領有権を主張している尖閣諸島(中国名は釣魚島)が日米安全保障条約の対象となることを明言した。
 両首脳は記者会見で大きな政策発表はしなかったが、日米同盟の将来について楽観的な見通しを示した。オバマ大統領の訪日前はTPP交渉の打開に向けた期待が高まっていたが、安倍首相は両国当局者が協議の継続で合意したと表明するにとどめた。
 オバマ大統領は、交渉を担当する両国の閣僚に協議の継続をゆだねるとしつつも、日本の自動車と農業市場の開放が制限されていることが今も障害になっていると発言。これらを解決することが必要だとし、「今がその時だと考えている」と語った。」

 オバマ氏の経歴を改めてネットで辿ってみた。1961年8月に、ハワイ州ホノルルで生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身のルオ族、母親はカンザス州出身の白人、アン・ダナム。 父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚、 アンは妊娠しており、半年後に彼を出産する。父であるオバマ・シニアは、ムスリム(イスラム教徒)であり、イスラム教の戒律(イスラム法)では「ムスリムの子は自動的にムスリムになる」とされ、イスラム法が適用される国において、脱教は、現在においても死刑とされているが、バラク・オバマ自身は、現在、プロテスタントに属している。キリスト合同教会(英語では"the United Church of Christ (UCC)"で、キリスト連合教会、合同キリストの教会、統一キリスト教会などとも訳される。)信徒。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている。
 バラク・オバマは、自分自身の幼年期を、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが、心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した。1963年、両親が別居、翌年離婚。
 1965年、父はケニアへ帰国した後、政府のエコノミストとなる。オバマ・シニアは、ハワイ大学からハーバード大学を卒業したため、将来を嘱望されていた。1982年、オバマ・シニアは、自動車事故が原因で逝去、46歳であった。オバマの母は、バラク・オバマとオバマ・シニアの離婚後、人類学者となった。 その後、ハワイ大学において、親交を得たインドネシア人留学生で、後に、地質学者となったロロ・ストロ(1987年没)と再婚。1967年、ストロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデターが勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した。
 オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った。1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンリー・ダナム(1992年没)とマデリン・ダナム(2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫に進学し、在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に、飲酒、喫煙、大麻やコカインを使用したと自伝で告白している。なお1972年に、母のアンがストロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国、1977年まで滞在する。同年、母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。この間に、1980年にアンと継父のストロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年に亡くなった。
 以上のように、青年時代のオバマはハワイにおいて白人の母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。1979年、同高校を卒業後、西海岸で最も古いリベラルアーツカレッジの一つであるオクシデンタル大学(カリフォルニア州ロサンゼルス)に入学する。2年後、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する。1983年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社やNPO「ビジネスインターナショナル」社(Business International Corporation)に1年間勤務し、その後はNew York Public Interest Research Groupで働いた。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居。オバマは1985年6月から1988年5月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者として務めた。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援、大学予備校の教師の事業、オルトゲルトガーデン(en:Altgeld Gardens, Chicago)の設立と居住者の権限の確立に一役買った。
 1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長に、2年目にはプレジデント・オブ・ジャーナルの編集長に選ばれた。1991年、法務博士(Juris Doctor。日本の法務博士(専門職)に相当)の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了[注 4]しシカゴ大学の法学フェローとなる。ハーバード大学ロー・スクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。 1992年、シカゴの弁護士事務所において、親交を得たミシェル・ロビンソンと結婚。 1998年にマリア、2001年にサーシャの二人の娘に恵まれた。1995年には、自伝「Dreams from My Father(邦題:『マイ・ドリーム』ダイヤモンド社)出版。 また、シカゴ大学ロースクール講師として、合衆国憲法を1992年から、2004年まで、講義を実施していた。

 バラク・オバマがアメリカ合衆国大統領に選出されたとき、世界は驚いた。確かに長い黒人への人種差別の歴史をもつアメリカで、アフリカ・ケニヤ出身の黒人を父にもつ人物が大統領になったという事実は、画期的だった。しかし、この経歴をみると、彼は遠い昔にアフリカから奴隷として拉致され連れてこられた黒人の子孫ではない。とはいえ彼の肌の色は少々問題とはされた。けれども、もはや合衆国は人種が社会的な偏見や差別をもたらす国ではないということを、オバマ大統領は何よりも雄弁に示していたし、オバマの政策や思想はノーベル平和賞を与えられるだけの価値をもっている、と世界が認めた。

 ここまでは、いまや常識の範囲である。問題は、ぼくたち日本国民にとってそれがいま、どういう意味をもつのか、誰も実はあまり考えたことがない。オバマ就任直後の核兵器廃絶を唱えた演説は、日本でも大きな話題になった。しかし、いまだにアメリカは強力な核保有国であり、世界最強とも言える軍事力をもっている。だが、オバマ民主党の基本的スタンスは、シリアへの介入を踏みとどまったように、もはやアメリカは面倒な民族紛争に積極的に軍事力で関わることは好まない。ウクライナについても、たぶん同様だろう。
 新聞各紙は、オバマ大統領が「尖閣」を日米安保の対象に含まれると言ったことを、大成果のように書いているが、それはこれまで確認されてきたことを言っただけで、新しいことは言っていない。もし尖閣で紛争が起きたら米軍が動く、と約束したと受け取るのは勝手だが、オバマが念を押すように言っているのは、東アジアで面倒な紛争はやめてくれということだろう。アメリカにとって中国は格別に大事な国であり、中東やロシアの小国と事を構えるのは一番望まないことである、ことは間違いない。少なくとも日本に対しては、「靖国参拝」のようなバカな行為は百害あって一理なし、だということをオバマは安倍に言ったに違いない、と勝手に推測する。



B.楽器がなければ音楽はできないか?
 音楽のはじまりはたぶん、人が声を出して歌ったことと、そのへんにあるものを叩いたり振ったりして音を出したことだろう。それから人類は、いろいろ工夫して楽器というものを発明していった。しかし、楽器がなければ音楽はできないのだろうか?たぶん、そうではない。実際、楽器も弾けず譜面も読めなくても、立派に音楽を創作する人はいる。それは、人が楽器なしでも、音楽を記憶することができるからだ。演歌大好きなオジサンはたいてい楽器はできないし楽譜は読めない。しかし、巧みに歌を歌える。それは口で真似をして練習すればいい。
 最近話題の全盲を称した作曲家が交響曲を書いたというのが、インチキだったという事件は、逆に言えば、視覚や聴覚に障害があったとしても、音楽はできるとみんなが思ったということになる。しかし、オーケストラ曲を作曲するためには、多様な楽器について専門的な知識が必要であるだけでなく、近代音楽の前提である和声や調性の理論を知らなければ、作曲など不可能なのである。少なくとも、楽器をちゃんと演奏しようと思ったら、譜面は読めなくても楽器の押さえ方、どこを押せばどの音が出るかは知らなければ曲にならない。それは、ある音楽の固有のスタイルを習得し、リズムとメロディとハーモニーをどう組み合わせれば、人に聴かせる音楽になるかを楽器を使って学習する必要がある。
 たとえばジャズは、ドラムスやベースが刻むリズムに乗せて管楽器、たとえばアルトサックスやトランペットがさまざまな曲想を即興で展開していく。ピアノもスウィング時代までは、メロディ楽器ではなくてベースを刻む役割だった、という。どういう楽器を使ってバンドを組むかは、なかば偶然の要素もあるけれども、一度形が決まるとそれが音楽の形式を枠づける。ジャズはもともと単独の演奏ではなく、管楽器と打楽器を中心にしてバンドで演奏し、しだいに大編成のバンドになっていったが、多数の合奏は楽譜と指揮者が必要になる。ひとりひとりの奏者は、音符のひとつを出し和音と音色を混ぜ合わせてひとつの曲になる。
 ビ=バップ以降のモダン・ジャズは、そういう楽譜と指揮者に支配されたパートでしかない奏者の役割に耐えられず、個の表現を追求してクインテット、クアルテット、トリオと小編成で即興のかけ合いを命にしていった。そのとき用いられた楽器としては、管楽器なかでもサキソフォンやトランペット、それにピアノ、ドラムス、アコースティック・ベースが定番だった。もちろん他の楽器、コルネットやトロンボーンとか、ヴィブラフォンとか、ギターやヴァイオリンなども使われたが、大編成のオーケストラとは違って、ナマ楽器は音が小さいから、大ホールや野外には向かない。
 西洋の楽器の歴史は古いといっても、今あるほとんどの楽器は、単純な打楽器を除けば、せいぜい18世紀ぐらいに開発されて19世紀以降に現在の形になったといわれる。M・ヴェーバーが「音楽社会学」でやっているように、さまざまな楽器が同じ曲を合奏するためには、バロック時代のバッハによって、平均律音階による近代的な調性音楽の体系が完成されて初めて可能になったからだ。多様な楽器を一つの楽器のように編成したオーケストラは、その完成形になる。
楽器の分類は打楽器、金管楽器、木管楽器、弦楽器というものが一般的に使われるが、金属製のフルートやサックスが木管楽器だったり、弦楽器と打楽器が合体したピアノはどこに入るか、など厳密に考えれば難しい。理論的には、どうやって音を出すかによる分類がある。
 シンバルやカスタネットのように、何かを叩いて音を出す「打奏体鳴楽器」、太鼓やドラムのように被膜を鍋などに張って響かせる「膜鳴楽器」、笛やリコーダー、フルートなどの空気振動を筒などに送り込んで増幅させる「気鳴楽器」、葦、竹、金属などで作ったリードを震わせるクラリネットやサクソフォン、オーボエなどもこの「気鳴楽器」の一種になる。さらに、ハーモニカやアコーディオン、リード・オルガンなどは、ひとつの音だけを出す笛をたくさん並べたフリー・リード「気鳴楽器」である。これに対し、トランペットなどの人がマウスピースで唇を震わせて音を出す「気鳴楽器」が、金管楽器になる。琴やハープ、ギターやヴァイオリンのような、弦を張ってその振動を箱のような共鳴体で増幅するのが「弦鳴楽器」になる。ピアノもここに入る。20世紀の半ばになって、振動を電気的に増幅する技術が登場して、アンプとスピーカーで大きな音にし、さらに音源自体が電気的に造られるシンセサイザーが発明されて「電鳴楽器」が現れた。(この項、MS/Encarta参照)

 ジャズからロックへの変化を楽器で考えれば、どちらもベースとドラムスがあるのは共通するから、サックスやピアノが消えてエレキ・ギターが主役になる「電鳴化」と、ジャズではマイナーだったヴォーカルの言葉が、ロックでは主役に躍り出たことだろう。また、ジャズではアドリブで各楽器がソロを回していくパターンがあったが、ロックの基本は一体化したバンドの合奏である。これらを大きく考えてみれば、西洋音楽のベースにあるのは、バロック時代に遡る通奏低音がリズムを刻み、それに乗せてリード楽器がメロディを奏で、それに伴奏がさまざまな和音を響かせる、という構造が確立していたことにすべては基づいている。
 もちろん、西洋以外の文明が開発した音楽は、必ずしもそういう構造をもっていない。しかし西洋列強が16世紀以降地球上のさまざまな地域を植民地化していった過程で、音楽もまたこの基本構造をいやでも採り入れていく結果となった。その意味でも十二音平均率の発明は、偉大なのであると思う。
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これでイイのか?それで・・イーノだ!

2014-04-22 22:02:45 | 日記
A.安倍首相は集団的自衛権でなにがしたいのか?具体的に考えることが必要だ。
 岩波『世界』5月号で、憲法学者水島朝穂氏が「安保法制懇の「政局的平和主義」 政府解釈への「反逆」」という論文を載せている。ここで水島氏は、歴代内閣が「屁理屈」ではあっても、憲法との関係で内閣法制局の意見にもとづき慎重な理由づけを行ってきた政府方針を阿部内閣は覆し、私的な懇談会をつくって実質的な解釈改憲をしようとするものとみなし、2008年に安保法制懇報告書が主張し、安倍首相が今回集団的自衛権行使にむけた政府解釈を閣議決定しようとした内容について、ひとつひとつ批判を加えている。そしてその後半で、以下のような記述があった。

「自衛隊による在外邦人救出について当該外国政府が同意する場合に「今は輸送しかできないがそれで良いのか」について。在外邦人救出のための武力の行使は自衛権発動の要件が欠けており、許されない。
 歴史を想起してみよう。1932年、上海の共同租界地の日本人僧侶が中国人に殺害され、怒った在外邦人のデモが暴徒化、日本大使館等に押しかけ海外派兵を要求。海軍は陸戦隊を派兵し、上海事変が起こる。当然海軍から犠牲者が出る。それもわかっていたことで、やがて陸軍の上海派遣軍が編成され大きな戦争になる。上海事変は、既に共同租界地には自国の居留者保護のため各国の軍隊が駐留していたのだから、安保法制懇のいう「外国政府の同意」があった事例といえるだろう。つまり出だしは日本人の犠牲であり、その上に軍人の死が重ねられていくうちに世論が沸騰する。マスコミも無批判に「上海危機」と書きまくる。そして全面的な戦争に突き進む。国家が煽らなくとも、事が起こると下から「軍を出せ、早く出せ」という声が沸き起こってくるのである。
 いま、植民地支配を正当化する政治家が絶えないなか、朝鮮半島における自衛隊の邦人救出活動に韓国政府が簡単に同意するとは考えにくいが、仮に同意を求められたとして、自衛隊に武力行使を認めれば、上海事変のように交戦が拡大する可能性は否定できない。安易な武力行使が暴力の連鎖を生みだした歴史に学ぶべきだろう。」水島朝穂「安保法制懇の「政局的平和主義」」『世界』2014年5月号、pp.89-90.

 安倍首相らは、「日本を取り巻く安全保障環境に、重大な危険が増している」という認識のもとに、これまで政府が堅持してきた専守防衛、非核三原則、武器輸出禁止、そして集団的自衛権は権利はもつが行使しない、としてきた原則、それは憲法にもとづく踏み越えられぬ一線だったのだが、その一線を越えたくてしかたがないようだ。しかし、ぼくたちは別の意味で、危機感をあまりにもたないできたのかもしれない。今の世論の状況をみると、尖閣にしろ、竹島にしろ、そこでささいな紛争が起き一人でも日本人の犠牲者が出れば、かつての「上海事変」という戦争の勃発によく似た事態がおそらく起きてしまう。ただ、当時は日本軍が出ていったが、自衛隊はそういう行動をとることをほんらい想定していない。
 先日来の韓国での旅客船沈没事故も、韓国の国内問題ですんでいるからよいようなものの、もしあの船に日本人観光客が一人でも乗っていて犠牲が出ていたら、笑いごとでなく邦人救出に自衛隊を出せ、という声が起きるかもしれない。恐ろしい危険は具体的に迫っている。



B.ブライアン・イーノのこと
 ロックのことを細かく追いかけるのは、やや疲れを感じるので、一気に飛んでしまった。元ロキシー・ミュージックのシンセサイザー奏者、ブライアン・イーノは「反音楽家アンチ・ミュージシャン」を自称するという。

「ブライアン・イーノは、様々な楽器を手がけ、歌も歌う。テープ類を操作してサウンド・エンジニアのようにサウンド作りも行い、またデヴィッド・ボウイやU2をはじめ,様々なバンドやロック・ミュージシャンのアルバムのプロデューサーも務めている。ロキシー・ミュージックでの二枚のアルバムをはじめ、ロック系のアルバムに限っても、一九七三年の『ヒア・カムズ・ウォーム・ジェッツ』以来、デヴィッド・バーンとの共作である二〇〇八年の『エヴリシング・ザット・ハプンズ・ウィル・ハプン・トゥデイ』まで何枚も出している。イーノはまた、周知のように、環境音楽でもあるアンビエント・サウンドの生みの親でもあって、現代音楽ふうなサウンド(ニュー・エイジ・ミュージックという呼称も定着している)のアルバムをたくさん生んでいる。その創作活動は息の長いものであり、昨年にはアンビエント系の新作アルバム『LUX』を発表した。
イーノの創作するサウンドが、公衆の支持を得られない難物では決してない証拠には、マイクロソフト社のパーソナル・コンピュータ用のOS「Windows95」の起動音楽をイーノが手がけていることを挙げればよいだろう。また音楽活動のみならず、ヴィデオ・アーティストとしての大きな業績もあることは、第四章で詳しく言及した通りである。
エリック・タムの好著『ブライアン・イーノ』が紹介する或るインタビューで、イーノはこう述べている。
私はアンチ・ミュージシャンだ。私は、音楽の技巧は音楽の芸術性に関係ないと思う。

まさにこれが「ロックの思想」に他なるまい。イーノは楽譜は読めないし、何かの楽器の演奏技術に秀でているわけでは決してない。エリック・タムが「このようないわば決然たる技術の欠如は、イーノの音楽制作に対する理性的なアプローチの中核をなしている。(略)技術の欠如が必然的に創造性を引き出すという点である」と述べるのが示唆的である。イーノは、サウンドそのものを、純粋に受容するのだ。サウンドというものを、哲学者のカントのいう「物自体」として知覚している、と言っていいかもしれない。
無論、イーノが近年発達の著しいデジタル・テクノロジーに精通しており、彼がサウンドを作るためにスタジオに籠るときには、必要にして十分なテクノロジーは手元に用意されているのを忘れてはならない。ロキシー・ミュージックがデビューした一九七二年以来、サウンド作りに関するテクノロジーは日進月歩で進展している。イーノがこの時代に生まれ合わせた、ということは僥倖だったろう。」林浩平『ブリティッシュ・ロック』講談社選書メチエ、2013、pp.212-214.

 どうもこの林浩平氏の私的思い入れが強すぎる文章は、感心できないのだが、ここでもカントの「物自体」をこういうふうに持ち出されても困ってしまう。ただ、ロックの中からイーノが出てきたことで、ロック・ミュージックは現代化を遂げたことは確かだとぼくも思う。それはもはやロックの概念を超えて、現代音楽(この「現代音楽」という用語は、ただコンテンポラリーな音楽という意味では使われず、20世紀前半から、従来の西洋クラシック音楽の最先端でそれを否定しながら展開された難解きわまる音楽、というものを指していた)に接近したという意味で、ロックはやっぱり死んだのだ。
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