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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

女優列伝Ⅴ 北林谷栄3  役者の文章

2017-07-31 01:26:09 | 日記
A.女優列伝Ⅴ 北林谷栄3  役者の文章
  男優列伝に続き女優列伝をこのブログでは気ままに書いているが、ご本人が著書やインタビュー記録などで自分の言葉を語ってくれている場合は、なるべくそれを引用することにしてきた。劇作家は物書きの仲間になっても、演出家や俳優は舞台の上が仕事場で、文章を書くのは余計なことだから、インタビューを受けて話すのは容易くできても、自分で筆をとるのが得意だという人は多くない。和歌や詩や俳句なども、そう簡単に書けばいいというほど易しいものではないし、なまじ有名になってしまった人なら、うかつに自分の文章を世間に発表など怖くてできないかもしれない。
 散文を人が読んで楽しめる域にまでいくには、多くの文章を読んでいるだけではなく、自分でたくさんの文章を書いてみる訓練が必要だろう。文才というのは、韻文では天性の発露もあるだろうが、長い散文では天性よりは思考力と広い教養、そして推敲の技が必要だと思う。そのような意味で、北林谷栄さんの書く文章は、良い文章をたくさん読んでいる教養と、全体を眺めた構成力と、江戸っ子ならでは口調のリズムがあって、かなり読ませる味のある文章だと思う。たとえばこれ、映画のロケでのエピソードなのだが、ただふつうに書き起こすのではなく、自分の犬の姿態から話を始めている。
 
 「尚半  だいぶ前、うちにいた犬はおかしなやつで何か失敗をすると股の間に顔を突っ込んでしまい、ほとぼりがさめるまでその恰好をやめない。駄犬の羞恥というのは不憫なものだった。彼奴(そやつ)の気持ちもわからないではないという気分を味わったのは、ごく最近のことだ。
 今年(九〇年)の初夏、「大誘拐」という映画のロケーション撮影で吉野山の奥に長滞在したときのことである。
 緒形拳という方と宿の部屋がむかいあいになり、演技のほうも相棒ということなので、ついお茶などを共にする機会があり、その際緒形さんから何か好きな言葉を書いて、と軽く言われてその気になったのが右の駄犬シュウ太郎(漢字で書くとかわいそうなのでやめる)と同じ肢態に私を追い込む羽目になろうとは。
 好きな言葉は考えるまでもなく、すぐに出てきた――「以紅専深」
 一九六〇年、初回に新中国にお招きを受けたとき賓館の壁に見た清雅な書の一句だった。通訳さんに意味を確かめたところ「コレワ眞ゴコロヲ以テ熱烈ニ自分ノ専門ノ道ヲベンキヨシ、ソレヲ深メテイキマショウ。デスカラタイヘンイイコトバデス。ナント、ヨクコレニ注意シマシタデスネ」と讃めてもらった。無邪気に受けとってみると、なんら不遜な意などはない。その文字もとても素朴でいい感じだった。これよこれよと膝を打つような気持になって手帖に書きとめて帰国してから三十年近くなる。それ以来何か書けと命ぜられるたびに「以紅専深」とつつしんで悪筆をふるうことで切り抜けてきた。
 さてそのときの撮影も終り緒形さんと惜しくもお別れをした。緒形さんは数日後にお仕事で急遽中国のほうに出発されるときいて、私も記念に何か書いていただきたいと願った。場所柄吉野の手すきの紙を探し求めた。緒形さんは良い字を書く方で、ロケ先といえども中国製の古陶らしい美しい小さな陶硯と本式の筆を座右に用意しておいでなのを私は見とどけていたから。
 その後、二三カ月たち自分も二つばかり大仕事を終えたつい先日、緒形さんかられいの吉野の手すき紙がヒラリと一枚送られてきた。前後無言、ただ紙の中心に淡い墨色で「尚半」とそれだけがある。尚なかばなり。なんという上質な風韻のことばだろう。このたびの中国の旅でどこかで心にとめて戻られたものとみえる――。私は自分の書いた例の「以紅専深」を閃光のように思い出した。真心を以て道を深めたい。深めたいとは何だ。私のような者が猪口才にも大まじめで、そんな口真似をしたことの恥ずかしさよ。
 緒形さんの「尚半」の前に、私は毛並みまで赤くなって後肢の間に顔を突っこまねばならなくなった――。シュウ太郎の真似をして私もほとぼりのさめるのをしばらく待って、これからは尚半、尚半とつつしんでこれにしたがうより道はないだろう。自分の言葉を見つけるまでは。
 そして、そのうちには誰も何も書けと言わなくなるだろう。眠るはよき哉。」北林谷栄『蓮以子 八〇歳』新樹社、pp.150-152.

 エッセイとしてよくできているうえに、緒形拳という人の書家の腕への讃仰を、それとなく効果的に描き出す。こういう技はなかなかできるものではない。次は若いときの出来事を回想しながら、太宰治と心中死した女に会ったという話を出しながら、いつのまにかその人物よりも当時のお茶の水の風景とそこで祖母と生きていた自分を、懐かしく振り返っているが、考えてみれば昭和15年という戦争になだれ込む直前の時代を書きとめることになっている。

 「山崎富栄のこと  彼女が太宰治と死をともにした相手と知ったとき、私はなぜだか、なるほどと思った。つまり、どうしてもイメージがつながらないところが、なるほどなのかもしれなかった。おかしなことに、当の彼女よりも、その母親のほうの顔や姿態が私にはさきに思い浮かび、それが心中死体として水から引きあげられたもののように二、三日、目の先にチラついて困った。母親という人は金色のつるの眼鏡を細い鼻すじにのせた、貧血性体質の小柄な女性で、私は彼女からキンキンした苦情を何度か浴びせられたことがある。もう二十年ばかり前になるが、ある短い期間、私は彼女のいわば店子であった。そして太宰と死んだ富栄さんも、私の見知っているかぎりでは母親そっくりの面だちで、ただし眼鏡はフチなしの近眼鏡であったことをおぼえている。
  昭和十四年から五年にかけて、私はある事情からしばらくの間、演劇の仕事を退いて、八十近い祖母と二人で逼迫した暮らしをしていた。新聞広告でありついた仕事というのが上の鴬谷にあったある講義録の発行所の事務員で、その講義録というのは「正規の学歴ナシで普通文官の試験をアナタモ受ケラレマス」式の、地方の青年たちをカモに刊行されているものであり、普文大学などと大ソレた名のりをあげていた。講義録一巻ごとにトジこまれた答案用紙と称するものに、購読者が克明に回答してくるのを、虎の巻と照らしあわせて赤インキでこまかい書き入れをし、もっともらしく送り返すのが事務員の仕事であった。昼も伝統をつけるしめっぽい部屋で、机上に山をなす質疑応答をバカ正直にていねいに果たしているうちに、私は夕方になると目がかすみ、トリメのような症状になった。
 ちょうどその頃、部屋借りしていたのが、お茶の水美容洋裁学院と名のるものの三階の、空教室を貸間にしているガランとした奇妙な一室で、山崎富栄さんの家というのがそれだったのである。ねずみ色のコンクリートの建物で、屋内の空気はいつも澱んでいて、三階の寄合世帯の共同流し場にはしばしば、なめくじがいた。高橋是清を職人風にしたようなのが富栄さんのお父さんで洋裁部の校長さんであり、はじめにのべた神経質な小柄なお母さんが美容のほうの校長さんであって、そのほかには先生というものはいなかったようである。祖母にきいたところによると、男の校長さんは洋服屋の職人さんから財をおこし、女の校長さんは日本髪の髪結いさんから叩きあげた人なのだそうであった。それはそれでまことに結構なことだが、それだけあって、電気、ガス、水道のメートルの計出の仕方など、一代でとにかく、小なりといえども事業というものを築こうとするには万事このようにやらねばならぬものかいな、と憮然とさせられることもあったわけである。
 私の借りた部屋の、教室づくりの窓から見下ろすと、彼方にお茶の水の駅があり、そのむこうにニコライ堂のドームが望まれた。窓の下は本郷三丁目につうじる広いアスファルト道路で、ちょうど順天堂病院の横手通用門と向きあっている。
 その順天堂の通用門というのは、いまから三年前の一九五八年、私の恩師と呼ぶべき久保栄先生が入院中、窓に帯をかけて縊死を遂げられた病棟へとひらかれている。後年、そのような宿命的なツナガリを、その病棟と自分との間に生じようとは露しらず、ニ八歳の私は無造作に朝夕、その棟と対していたわけだ。一階が洋裁学校、二階が髪結い学校だったので、うす暗い階段からいつも髪の毛のこげる匂いがのぼって来たといっても、決して気のせいではなかった。ある夜、山﨑富栄さんが初めて、私の部屋の教室風引き戸を叩いた。紙を貼ってはいけないというので、私が大和糊を塗りつけて又おこられたという重たい硝子戸である。私はそれまで富栄さんを見たことがなかった。
 とにかく一階二階と女ノ子が右往左往しているので、どれがこの家の娘だか考えたこともなかったのである。富栄さんは祖母から、孫はいまはやめているが、新協劇団の女優で――というようなお喋りをきいて、アラ、遊びに行きたいワ、と言ったとかで祖母が是非きてください夜なら居ります、などとおせじを言ったもののようであるが、トリメになるほどくたびれている私には夜更けのお客は迷惑であった。しかし、彼女は部屋に入ってきてなんだか話していったが、話の内容は私も忘れてしまった。が、彼女も、女優になりたい、というようなことをたしかに言ったのはおぼえている。そのとき彼女が、ステージ、ステージという言葉を使うので、私はオヤオヤと思ったことをおぼえている。たいした本ではなかったが、とにかく並んでいる蔵書というものに一ベツも払わなかったことも妙に印象的におぼえている。それ以後、私がこの部屋を追い立てられて中野に移るまで、彼女は一度も訪れなかった。私に叱られた祖母は二度とおせじを言わなかったのだろう。
 彼女についてはこれだけだが、このときから二、三年のち、私は宇野重吉、信欣三などの先輩たちがおこした瑞穂劇団という移動演劇に参加した。時は戦時体制の急激に苛烈化したときで、男女ともにダンブクロと命名された、スフ国防色のズボンに、おなじスフ国防色のリュックを背負った。当時、瑞穂は大政翼賛会傘下の移動劇団として、しかし仕事の実質としては、後退の最後の一歩だけはなんとか踏みとどまりながら演劇の灯を絶やすまいとする、くるしい手品のような活動を山村につづけていたもののようであった。ようであったというのは二人の先輩も一言もそれを、それとして口には出さなかったからである。
 こんな時期に、私は、いくらか痛快な気持ちで太宰治の小説集というものを二、三冊つづけて読んだ。たしかに四国巡演のときで、春であった。汽車のなかで、私は宇野重吉とむかいあっていた。宇野さんは自然科学的な(たしか魚類についての)本を読んでいた。いまになって私は、ワカルナ――と、ときどき思い出す。私は私で、ちょうどそのとき、そのダンブクロ姿で太宰の「服装について」という小説を読んでいた。読むすすむうちに、なんのこと、私にはその向こう側にボードレールのピモダン館時代の回想録がハッキリと姿を現してきて、そうなるととても読めない。一言にして言えば――いや、言わないにしても、それ以来、汽車のアミ棚においてきてしまってそれ以来、私は太宰の作品というものを手にしないで今日にいたった。
 先日、順天堂の横を、知人と久保さんの話をしながら通った。見ると山﨑学校のあとは報徳なにやらという胃腸病院になっていて、昔とおなじ三角形の地形に、まるで新しい建物がのっていた。それを私は横目に見ながら通りすぎたものである。」北林谷栄『蓮以子 八〇歳』新樹社1991、pp.170-175.

 終わりの部分に出てくる、太宰の小説を読んで「ボードレールのピモダン館時代の回想録」というのがあり、それで太宰を読むのをやめたという記述。北林さんがその時、何を感じたか判る人には判る文章だが、このへんがさすがである。ちょっと解説してしまうと、ピモダン館というのはパリのサン・ルイ島にある当時の高級住宅地にあった邸宅(オテル・ピモダン、またはローザン公の館という建物)で、詩人ボードレールはここで20歳1843年からの2年を過ごし、詩集『惡の華』の大半を書いた場所。文学者・芸術家とつきあい恋人への詩を書く日々だったが、ぜいたく三昧に借金を重ねたため母から送金を打ち切られ、彼は自殺を図り、命は助かったが母の元に戻った。つまり北林さんは、太宰の放蕩生活をボードレールに重ねて、あいそをつかしているのだ。

 「蓮以子八〇歳  蓮以子は私の本名です。1911年、明治四十四年の、つまり明治の残光のなかに生まれ出た偶然を何故ともなくよろこんでおります。
 生れ落ちて、まだ命名もされぬうちに、ある事情から祖母の手に引き渡されました。
 名無しの赤ん坊は、きっと眠るか泣きわめくかしていたことでしょう。
 祖母は自分の名前の鈴子という字を二つにタテ割りにして鈴の字のツクリの令という部分を私にあたえてくれました。この人は武家の出で、それなりの美意識をもっている人でしたので令という字のそっけなさを女らしくないと感じて連以と万葉仮名ふうに書いてとどけ出てくれたのだとのちにききました。私が少女期をむかえる頃に蓮の花の蓮にかえて蓮以子としたほうがお前にはよかろうとそんなことをつぶやいたのをきいて、それがいいやとおおいに同感してそれ以後この六朝ふうのイメイジのある書き方を自分から使うようにしていきました。少々たおやめぶった風情が気にならないことはないのですが、この種の情感にはどこか憧れるところが私にあるのは本音であります。
 もひとつわざわざ八〇歳と言あげしましたのは、この頃は老齢者に対して子ども扱いをする風潮が目だってきておりますので、八〇歳とはコドモではないんだぞとりきんでいるつもりもあってのことなのです。
 老人に対して優しくして下さっているいたわりの現れかもしれませんが、公共的な集まりとか病院とかなどでは高齢者の人たちに小児ことばで話しかけたり説明をしたりするのが日常ふつうで、こそばゆい感じがつのり、私などは聞いていてどうも閉口してしまうのです。この小児扱いは当人の心もちを稚く退化させていき、むしろボケを誘発するものと思います。八〇歳という年齢は、ふつうのことを考えているし、ふつうの言葉で自分の内面を表白すること位はできるのだし、又、させなくてはならないということを常々から言いたかったので「蓮以子八〇歳」という名のりが、ごく自然なかたちで出てきたまでのことです。ちょっと突拍子もないとお感じかもしれませんが。」北林谷栄『蓮以子 八〇歳』新樹社1991、pp.211-212.

 北林さんのこういう文章を読むと、女優として一流であったことは論を俟たないが、エッセイスト・文章家としても優れた人だったな、と思う。「八〇歳という年齢は、ふつうのことを考えているし、ふつうの言葉で自分の内面を表白すること位はできるのだし、又、させなくてはならないということを常々から言いたかった」という言葉はなるほどと思うけれども、これは北林さんのような人だから言えることだとも思う。このとき80歳の北林さんは98歳まで生きた。



B.ぼくは道徳教育は大事だと思う・ただし明晰な市民としての・・
 この国の為政者はときどき思い出したように、子どもに道徳教育と愛国心をしっかり教え込まないといけないと言い出して、いろんなアイディアを学校教育にもちこんできた。その理由は、いじめ自殺が起きたのは子どもたちに道徳観倫理観が欠けているからだ、少女売春や少年非行が後を絶たないのは誘惑や欲望に流される心の弱さが現われているのだ、北朝鮮の脅威や中国の圧力が強まる中で子どもたちにはしっかり愛国心を植え付ける必要がある、といったようなことを口走って、教育政策に反映させようとする。では、その道徳や愛国の中身はどのようなものなのか?
 まさか、あの19世紀の「教育勅語」なんじゃあるまいな?と危惧したら、安倍晋三総裁や稲田朋美(前)防衛大臣の固い信念はそこにあるらしいのだ。でも、道徳の授業が小学校で教えられるときに、先生たちはなにを手がかりにすれば、教育効果をあげられるのだろうか?まずは教科書。

「道徳教育、大切なことは? 貴戸理恵
 小学校で来年度から「特別の教科 道徳」がスタートする。道徳の教科化は大津いじめ自殺事件などを受け、政府が2013年に提言したものだ。だが、教科化が議論されていた時の疑問は解決されないままだ。
 そもそもいじめの原因は道徳の劣化なのか。価値の押し付けにより個々の内面の自由が侵されるのではないか。現場教師の負担が増えるだけではないか。「決まったことだから」と思考停止せず、本源的に考え続ける必要がある。
 実行の段階では目の前の作業に追われ、視界が狭くなりがちだ。たとえば、教科書検定で、あまりにも表面的な修正が要求・実施されたことは記憶に新しい。「高齢者への尊敬と感謝」が不足しているとの検定意見で「おじさん」から「おじいさん」に表記を変えた教科書。「伝統文化の尊重」の観点から「パン屋」を「和菓子屋」に変更した教科書。「価値の押し付け」以前に、思考停止にも見える。
 この「あまりにも表面的」という印象は、教科書を開くといっそう強まる。全体的に「規則を守れ」「感謝せよ」「挨拶はきちんと」というメッセージであふれているのだ。確かにこれらは、政治的・世代的・階層的な立場をこえて否定されにくいだろう。しかし、大切なのは「無難さ」ではあるまい。
 では、大切なものとは何か。アメリカやオーストラリアなどの教育現場で小学校低学年向けの哲学系の授業などによく使われる絵本に「たいせつなこと」(内田也哉子訳、原題The Important Book)がある。この本では、子どもにとって身近なものから、その本質とは何かを考えていく。
 たとえば、スプーンならば「てでにぎれて/たいらじゃなくくぼんでいて/いろいろなものをすくいとる/でもスプーンにとって/たいせつなのは/それをつかうと/じょうずにたべられる/ということ」という具合だ。靴やりんご、空などが登場し、ラストは「あなた」について考える。「たいせつなのは/あなたが/あなたで/あること」
 他方、日本の道徳教科書すべてに採用された「かぼちゃのつる」は、以下のような話だ。ぐんぐんつるをのばすかぼちゃはハチや犬に「みんなのとおるみちだよ」などと止められるが「こっちへのびたい」と聞かず道路にはみ出す。揚げ句、トラックにひかれて泣いてしまう。テーマは「わがままをしない」である。
 あまりの落差に愕然とする。「たいせつなこと」が存在の本質を見通し子どもの自己を根底から肯定しようとするのに対し、「かぼちゃ」は表層的な寓話を通じて自我を世間にとって都合よく曲げようとするのみだ。後者は子どもをなめていないか。それぞれの教育を受けた人が後に出会ったら、その差は明らかだろう。
 自由で民主的な国の価値教育は一般に「個人のよりよい生」と「社会における共生」を目的とする。だが、共生社会を創るにはまず「自己が自己である」ことを認められていなければならない。そうして初めて「他者が他者である」ことを尊重できるからだ。この重要性に比べれば、感謝や挨拶などは表面にすぎないだろう。
 道徳教育について、子どもの学び・育ちについて、「大切なこと」とは何か。大人の側が問い直し、軌道修正する必要を感じる。 (関西学院大学准教授)」東京新聞2017年7月30日朝刊5面、時代を読む。

 日本の文教政策に関与する保守政治家の表明している道徳教育観は、かなりの程度、憲法と戦後社会で否定されたはずの「教育勅語」を理想のモデルとしていると疑わざるをえない。それは、たとえば学校教育の基本指針に、政治的中立を謳うことで逆に民主主義や自立した市民の自由な意見表明を抑圧し、国家・天皇に異議を唱える者は異端者だと見做す偏見を奨励する。問題は道徳教育のテキストの枝葉末節ではなく、人間がいまの社会のなかでなにを大切にするか、なのだ。幼少期から教育勅語や軍人勅諭を徹底的に叩き込まれたはずの日本軍人が、戦争のなかでどのような行動をとったか、いまの政治家は知らないか、考えようとしない。
 「空気を読まないワガママな自己主張」は、ダンプに轢かれて泣きをみるぞ!が道徳だというのは柔順な臣民を作ろうという意図に基づく。しかし、どうやらそれは定着しているのかもしれない。いずれ平穏な日常すら窒息してしまう。世の中の空気を読んで、ヤバい人間だと思われないように賢く立ち回るには、どんなにバカげていると思われても、とりあえず調子を合わせているほうが安全だと思う直観的に素直な人はこの国の80%になっている。
実はそれは100年前から基本的に変わっていないのだが、これから世界を生きる子どもたちはどう思うのだろうか?日本という稀有な歴史をもった島国が、世界史に新たな可能性を切り拓くとすれば、19世紀半ばに明治維新が達成したアジアでの積極的成功とそれに続く失敗を、いまこそ冷静に、日帝の罪悪を率直に認め、その上で市民としての人権human rightと精神の自由Libertyを自分の国に定着させることに全力を注ぐべきだった。
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女優列伝Ⅴ 北林谷栄2  :軍人の眼

2017-07-29 15:00:41 | 日記
A.女優列伝Ⅴ 北林谷栄2
 劇団民藝で1963年に初演された「泰山木の木の下で」という芝居がある。作者の小山祐士(1906~1982)は、広島生れで8月6日直後の「原爆砂漠」を自分の眼で見ている。小山が瀬戸内の海を眺めながら「泰山木」を執筆している間、自分に言い聞かせていたのは、「決して叫んではいけない」「決して理屈をいってはいけない」であったという。脚本完成前から、劇団民藝は上演を決め、演出は宇野重吉、主演の老女は北林谷栄だった。
 この芝居の背景として、広島の原爆があるのだが、それだけでなく核の拡大がある。1950年代以降の東西対立のなか、米ソ核兵器の開発競争が激化。1954年3月、アメリカがビキニで行なった水爆実験により、マグロ漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴び、乗組員が犠牲になった。この事件を契機に世界的な原水爆禁止運動が広がり、翌1955年、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催された。1960年に新日米安保条約が改定され、その6年前には自衛隊が創立、保守派政治家は日本国憲法の改定を綱領に謳っていた。しかし、60年安保改定は国民の反発を買い、強引な岸内閣は倒れた。安保闘争後に成立した池田内閣は、改憲を棚上げにして国民所得倍増計画をうちだし、日本は高度経済成長のもと急速に工業化されていった。そうした中で、北林谷栄さんは、主役のハナという婆さんを演じた。

「—―この「泰山木の木の下で」のハナ婆さんなら、ごく自然に優しく声をかけてくれますね、きっと。
北林 いや、優しさというのとも違いますでしょう。おしゃべりで人恋しい性質(たち)なんですよ、ハナは……。いつのまにか話が「泰山木の木の下で」に入っちゃったけれど(笑)。たとえばジェット機を見て「こがいに寒ぶい日に、あがいに風を切ってジェット機を飛ばしんさったんじゃァ、アメリカの軍人さんは、いっそう寒ぶいでひょうにのう」って言いますね。なにかすぐ安直に他人の身になっちゃう、それが堕胎の常習犯として生活してきているわけですね。底辺の庶民だからこそ、もっている「親切好き」なんですが、近代的な意味の人間愛とは違う。要するに自分の流儀なんです。ちょっと押しつけがましいし、世話好きなんですね。それが自慢でもある……。
――初演が一九六三年ですから、そのころにはまだ、きわめて日本的ではあるけれど、ハナのような“人情”が濃厚に生きていたように思うんですが。
北林 この頃、いまこそ、この無関心の時代にこそ、こういう芝居を演じて歩きたい、という気持ちがするんです。この戯曲は幾人もの“被爆者”の運命が骨子になっております。演出の(高橋)清祐さんが稽古を始める第一日目に、原爆という事柄をただ民族の経験として知っているというだけでなくて、自分たちの歴史のなかで、それをどういうふうに心に突き刺しておくことができるか、そういう部分をもう一度揺さぶりたい、と戦後派のみんなに言ってくれまして、ありがとういい話をしてくれて、と私もお礼を言ったんです。原爆を想起せよ、というようなアピール劇じゃない。もっと庶民の底を流れる気質とかに関わって、日本人というもの、日本人の一途な姿と原爆体験とを心に刻みつけてほしいというのがこの「泰山木の木の下で」です。だから今年だけでなく、二,三年続けて演って歩きたい。一度に五十箇所も演ると、それこそ私の体がアウトですので(笑)、一年に二、三十箇所ずつくらいを三年ほど続けて、まだ生きていたらその先を考えようと、清祐さんと話し合ってるんです。ただ、くたびれるだろうと思うの。来年あたり、八〇歳になりますが(笑)。八〇の人間の労働量としてはいささか危ない……。
 —―せりふだけでも、かなりの量ですね。
北林 せりふの量もそうですけど、あのお婆さんは六〇歳代でしょう。その一生の質量というか、五、六十年間の実生活が彼女のなかにつまっている。しかもその間に、九人の子供を生み、次々に戦争と広島(げんばく)とで被害を受けつづけている。それから堕胎の常習犯で何度かアげられてもいますね。女囚生活の体験までが、おハナさんの存在のなかに煮つめられているんですね。それだけの重さがあります。私などがくぐってきた甘やかされた六、七十年とは違う、辛い人生です。その実生活の重さを表現するには力(りき)がいるんですね。いまの体力だと、ちょっとこたえます。おまけにニ十七年前よりも、ハナのせりふのなかに彼女が辿ってきたいろいろなものが見えるように思うので、その分だけ、これは大変です。
 —―いま、力がいる、とおっしゃいましたg、ト書きやせりふでは、むしろ“可愛い老女”というイメージが強調されていますね。
 北林 初演の時は、小山(祐士)先生も演出の(宇野)重吉さんも、かわいくかわいく演ってくれといわれました。でも、あれだけの人生を背負ってきた人のかわいさというのは、ただかわいいっていうだけのものじゃない。相当にしたたかでしょう。小狡いところもあるでしょう。けれども持ち前の小児性というか、稚気がちっともすりへらないで残っていて、ときどきぴょこんと顔を出す。私は、年よりというものは、本来はいやらしいとこのあるものだと思います。そのいやらしさも、ちゃんと見えていて、なお天性の愛くるしさがどうしてもとび出してしまうときに、かわいいんでしょうね。私自身は、このハナさんをかわいいというよりふびんだと思うの。船の中で、刑事に身の上話をしますね。九人の子供が成績も良く、健康に育ったから、”優良多子家庭”とかに選ばれて、厚生省から表彰されたっていう話を大自慢する。あの無学丸出しの大ジマンはとてもいとおしいです。いかにも貧しくて、哀しいですね。物質的にも貧困だけど、文化的な意味ではもっと貧しい。それから亭主が、「世の中ァ、誰がなんと言おうと、万事、銭、ただ銭じゃけんの」って言って、「おい、ハナ、あしゃ、やっちゃるけんのう。是非、成金になってみせちゃるけんの」とよく言ってたって話しますね。そういう希望そのものが実に貧寒で、演っていて胸が痛くなります。ハナが大得意で言えば言うほど、痛ましくて哀れです。最後の死にぎわとか、磯部の奥さんの赤ん坊に「光太郎ちゃん、こらえてつかァさいよ。怨まんで……」なんて泣くところなんか私としては好まんのです。自分の趣味で言っちゃァ悪いけれど(笑)。人生のなかで、チカッチカッと人間の生涯の断面からのぞくほんとうに哀切な部分というのは、本人が悲しんで泣いたり、センチメンタルになって演じるところじゃありませんでしょう。
――そういう意味での日本の貧しさはちっとも変わってないですね。最近も。ハナ婆さんはそういう日本人の根源的な生活の質みたいなものを非常によくあらわしていると思います。
北林 ハナ婆さんっていうのは、刑事に「まあ、若旦那さん、どうぞお上がりなってつかァさい」っていって座布団を出すときに、表を見て裏を返して、一ぺんはましだと思うほうを出すんだけど、すぐまた裏返す(笑)。こっちむけたり、あっちむけたり、そういう按配をするところが昔の日本人なのです。昔の日本人、昔の庶民の暮らしぶりは、ほんとうに慎ましくてね。というと、自分は庶民じゃないみたいだけれど(笑)、自分ももちろん大庶民の一人です。この「泰山木の木の下で」もそうですが、よく描けている役には、そういうけなげさとか、何ともいえない哀しさ、踏みつぶされてきた医事なんかが、くっきりと出てきますね。そういう意味では、このハナ婆さんも日本の庶民一つの代表タイプといえるでしょうね。
――石牟礼道子さんが、以前、「わたしは生きたい」のパンフレットに北林さんの演技について書かれていて、とても感激したことがあるんです。映画「ビルマの竪琴」のなかの老婆でしたね。「民衆というものの原型」を演じきっておられる、と書いて、そういう民衆の存在が「人間の歴史の豊饒をあらわしている」……
北林 いや、それはほめすぎです。そんな演技ができたとは思いませんが、ただ庶民の実生活というのは、大正なら大正の歴史の襞々のなかの何かが、昭和なら昭和の歴史の襞々のなかの何かが、ひと刷毛サッとどこかにのぞいているはずなんです。あの人たちの存在の仕方が、どこかにそういう彼らの“主張”を提示してるはずなんです。だから何かひとかけらでもいいから、演技の工夫というか独創を生みだして、その人物の“主張”を提示してみたいと思ってしまうんですね。
――映画「にあんちゃん」のなかで、朝鮮人の金貸しの老婆を演られて、子守歌代わりに朝鮮のきれいな古謡を歌われたことがありましたね。あれは、そういう意図から出たサッとひと刷毛でしょうか?
北林 そうそう、あれはね、そう言っていただくと嬉しいの。あの婆さんは金貸しひと筋の無味乾燥な、まあ因業ババアでしょうね(笑)。でも朝鮮民族が持っている歴史的な背骨も哀感も、あの人物のなかにもひと刷毛くらいはあるはずで、どこかでそれをのぞかせたいと思ったんですね。それで金達寿さんに紹介していただいて、確か焼肉屋さんだったと思いますが、在日朝鮮人のある人に朝鮮の古い民謡を教えてもらいました。
 —―歌そのものも、北林さんがご自分で探し出してこられたんですか?
北林 ええ、メロディは、といったって、いまここでは歌えませんが(笑)、歌詞は日本語に訳すと「月よ、月よ、李太白の愛でし月よ」っていうんです。美しいでしょう。赤ん坊を背中にくくりつけて、暗い空地でそれを歌った。”李太白の愛でし月”ですよ、いいでしょう。私は、一人の子どもとして、関東大震災の時の朝鮮人虐殺の片鱗を目撃しています。その印象のせいか、小さいときには、朝鮮人に会うと済まないような、日本人である自分が恥ずかしいような気分になったものでした。私がもの心ついた大正から昭和にかけては、おとなりの朝鮮民族にたいして日帝の嵐が理不尽に吹き荒れていた時代です。そのなかを、くぐり抜けてきた朝鮮民族は、大変剛毅な民族だという感銘が、私にはつよくあるんです。だから金貸しの婆さんといえども、そういう民族全体の歩みに参加しているひとりだという実感があります。ばあさんの心の底に流れている民族の美しさを、どこかで暗示できたらと思ったんですね。
 ――役の人物から、その人物の底に沈んでいる“主張”を発掘してこられる?
北林 それがなければつまらないですね。俳優の仕事というのは、他人が書いたせりふを、ただその通りにしゃべるだけでは、もの言う木偶のようなものですからね。書いた人にも意識されていなかったものに、どうさわっていくか。それが演出でもあり、俳優の役の創造でもあるわけでしょう。そういう点では、重さんと私とは、とても神経がよく合ったんですよ。お互いに言うこと、感じることがパッとわかる。だから喧嘩もしましたけれど(笑)。たとえばさっき例に挙げた船の中の場面ね。重さんは「そこは、ドザまわりみたいに田舎芝居ふうで演っておくれよ」って言ったの。「相当みっともない感じになるわよ」って言うと、「いいよ、いいよ、見ててテレルようなのがいいんだ」って言う(笑)。それで、ほんとうにドサまわりのサイテイの芝居みたいな調子で、亭主とのかけあいの場面を刑事さんに語って聞かせてるわけですが、こういうかなしい貧しい詩情を、重ちゃんって人はよくわかって、愛好していた。やっぱりこれも昔の貧乏人をよく知っている者の語り口のひとつなんですね。そういうときに重ちゃんと好みが合う、神経が合うんですね。あの人が亡くなって私は孤独です。
―― 宇野さんは福井県回帰症で(笑)、北林さんは銀座っ子でらっしゃって、ずいぶん好みが違うようにみえますが……。
北林 やっぱり同世代人なんですね、きっと。
 —― それは、お二人とも、社会運動として演劇の道をつらぬき、いちばん日本がひどかった時代に文化を創ろうとしてこられたからでしょうね。
北林 私は、文化をどうかしなきゃなんてひとつも思いませんでしたね(笑)。非常に単純に、イワユル良心的に生きるというやり方をやってみようと思って、縛られてもいいやってかんたんに思ってました。でも、そういう同時代人同士だから、重ちゃんは私のことを“戦友”と言ってたんです。
 —―喧嘩相手の戦友?
北林 「お前ら、喧嘩するような相手がいないだろう」って、重ちゃん、みんなに自慢してましたよ(笑)。これは(アンティークのランプを指して)、「泰山木の木の下で」の初演の後で、重ちゃんがプレゼントに楽屋にもってきてくれたの。ご本人は北陸ふう民芸趣味の人だったのに、これ、とてもロマンティックでしょう、伊太利製です。どんな顔してこれを買ったんだろう(笑)。「泰山木の木の下で」の台本を読むときには、いつもつけます。重ちゃんがそばにいてくれる気がするから……。せりふの音に対して非常に敏感な耳をもつ演出家だったということはよく知られていますが、あの人は人間の内面が見える演出をと、内面、内面とそれを大事にしていた人だと思います。稽古のときは、いつも目をつぶってきいている。演っている役者なんか見ていない。で、役の人物の内面から外れた声とか、せりふとか、表現とかになっていると、パッと目をあけて、決してそのままパスさせるということがなかったですね。
 —― 北林さんに、おばあさん役を最初にすすめたのは、宇野さんなんだそうですね。戦時中の瑞穂劇団で「左(と)義(ん)長(ど)まつり」でしたか?
北林 そうなの。重ちゃんが貧農の息子で、たった二歳年上の私が、その七十何歳かの老母の役(笑)。あの人はその頃から演出者の目玉を備えた人で、私はその頃は、チンピラでちっともおばあさんぽくなかったけれど(笑)、私のなかにおばあさん役の可能性を見つけてくれたんだと思います。そのときは、重ちゃんが私に演らせようとして、演出の久保田万太郎さんに強談判してくれたんで、もし私がしくじったら重ちゃんに恥をかかせるっていうんで、考えて考えて、工夫して、とにかく勝負を挑みまして、まあ一応、成功したんですが、その工夫はやはり見当違いでした。何しろニ七、八歳の女のコですから、亀の甲羅の曲がったようなものを針金で作りまして、着物の下に背負ったんです。やはり若いときは、外側から老いをみせようとする。いまは、おハナさんの年齢を二十ばかりオーバーしてしまいましたから、今度の「泰山木の木の下で」ではもう少しシャリッとしなけりゃいけない(笑)。外側から若返るんじゃなくて、今度は、ごく自然に、その人物がどう生きたのか、その人の生きてきた軸を考えようと思います。
 —― 外側からではなく役をつくる。というのは、ことばにすると簡単ですが容易ならざることですね。
北林 私のお師匠様は久保栄なんですが、久保先生は「生活印象は俳優の武器庫である」という名言を残されています。たとえば、子どものときに近所におばあさんがいて、すごく意地汚いおばあさんだったとしますと、そのおばあさんへの好悪の感情は別にして、人間の意地汚さにまつわる様ざまな形象が、たくさんのショットとして記憶のなかに刻印されることがありますでしょう。そういう断片を一杯たくわえて持っていることが大変に役を躍動させてくれます。こういう些細なことがらでも、私は十分に本質的な生活印象として「使える」と思うんです。また、本質につながるものを拾い出さなければなりません。さっきも、些細なことだから意識的に観ておく、より深く自分のなかにイン・プットしておく、無精をしていては役者はダメと申したつもりですが、何を見ても火事場の野次馬じゃだめなんですね。どこで生活印象として蒐集しておくが、そのシャッター・チャンスはおもしろいものです。些細な生活印象を自分の武器庫、つまり貯蔵庫にためていくんですね。私の唯一のとりえは、小さいときから物事を凝視するのが好きで、それが体質化したことかもしれません。たとえば戯曲を読んで、その内容を追体験する。そのときに武器庫に入っているさまざまな、些細なことがきっかけになって、想像力が自由にはばたくことができるわけですね。私は久保先生からニラまれてましてね。しょっちゅう、「あんたは絶望的です」っていわれてた(笑)。でも、チリも積もれば山となる式で、タラタラ、タラタラと可能性というものに期待して、生活印象と取り組んできました。そう早く自分に見切りをつけて、癇癪を起してはいけない。とにかく見つめるという作業が好きでないとつとまらない商売なのです。」北林谷栄『蓮以子 八〇歳』新樹社、pp.77-79.

 ぼくは「泰山木の木の下で」の舞台を見てはいないのだが、その戯曲と舞台での北林さんのハナ婆さんの演技は民藝の名作として語り伝えられていることは知っていた。でも演出家宇野重吉と北林さんの深い関わりや信頼については、この本で初めて知った。



B.アメリカ軍の使命
 米軍は通常の軍隊がもつ陸軍army、海軍navy、空軍air forceのほかに、海兵隊marine corpという軍隊をもっている。通常の軍隊は自国の領土領海への他国の侵犯に反撃し撃退するための軍事力であるとされているが、海兵隊のような軍隊は、自国内ではなく必要とあれば世界のどこへでも素早く展開して軍事作戦を行うための装備や訓練をもっぱらとする。しかしこれは相手国からすれば、国境を超えて力を行使する侵略軍に他ならない。世界各地に展開するアメリカ軍の役割は、もはや狭い意味の自国防衛ではなく、世界秩序をアメリカの考える世界戦略に合わせて作り替えるためにあるといえる。それは海兵隊だけではなくて、海軍や空軍もあるいは陸軍も基本的には同様だと言っていいだろう。その米太平洋軍のトップの司令官は、横須賀市生まれの米海軍軍人と日本人の母との間に生まれたハリー・ハリス氏だという。

「太平洋 覇権の行方:米と同盟国 抑止力のかけ算 米太平洋軍司令官 ハリー・ハリスさん
 いま米国が直面している課題は五つあります。ロシア、中国、北朝鮮、イラン、テロです。このうち、イランを除く四つの課題は米太平洋軍(司令官・ハワイ)が担当する地球の表面積の約半分と、その中にある36の国・地域を擁するアジア太平洋と深く関わっています。38万人の兵力をもつ私は世界を「自分の四つの課題+イラン」として見渡しています。
 司令官に就いた2015年に比べると、この地域は悪くも、良くもなっています。
 北朝鮮はこの2年間で確実に脅威が増しました。金正恩朝鮮労働党委員長は米国本土を射程にした核搭載の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射というゴールに突き進み、達成されつつあります。中国は北朝鮮に対して外交や経済面で圧力をかけているとはいえ、できることをすべてやっているとは思えません。
 中国は東アジアで覇権国家を目指すとともに、南太平洋の小さな島々や南アメリカへの動きも加速させています。中国との関係にどれだけ価値を置くかは受け入れ国の判断であり、米国はとやかくいう立場ではありません。
 ただ、南シナ海での中国の人工島造成を、私は「万里の長城」になぞらえて「砂の長城」と呼んで問題視しています。国際法で保障されている「航行の自由」を守るため、米軍は艦船などを派遣する「航行の自由作戦」をしています。中国が南シナ海を支配しようとするのであれば、世界全体の問題のはず。「南シナ海で米国の対応は十分か、効果があるのか」とよく聞かれるのですが、「なぜ米国1カ国だけが『航行の自由作戦』をやっているのか」と逆に問いたい。
 ただ、それぞれの国の判断であり、様々な形のオペレーションがあるでしょう。5月から長期任務にでていた護衛艦「いずも」はシンガポールから東南アジア諸国連合(ASEAN)の海軍士官を乗せて南シナ海を航行しました。プレゼンスを世界に示したこと、若い士官が現場を目の当たりにした意味は大きいでしょう。
 ここ数年の変化といえば、巨大化する中国を前に、米国をパートナーに選ぶのが一番だという認識が急速に醸成されつつあることです。米国にとってもこの地域の五つの同盟国、タイ、フィリピンに加え、日本、オーストラリア、韓国との同盟関係が重要になってきており、同盟の意義を再認識しています。7月は日米印の海上共同訓練や米豪合同演習もありました。日米豪印の4カ国の演習も実現させたいと思っています。
 以前は忙しさで寝られない夜を過ごしていたのですが、少し休めるようになりました。理由は日本の存在が大きい。安全保障法制や防衛協力など日本側のニーズに基づいた新たな動きが、結果的に日米同盟に大きく寄与しているのです。太平洋軍司令部と自衛隊の統合幕僚監部との関係はかなり強化されています。海軍軍人としてのキャリア約40年の中で、日米同盟はいま最も良好です。
 イラクやシリアで過激派「イスラム国」(IS)の掃討作戦をしてきましたが、ISに忠誠を誓う武装組織はいまアジア全体に広がっています。政府軍と激戦を繰り広げているフィリピン南部ミンダナオ島の例は、我々に目を覚ませという「アラーム」です。
 抑止力はかけ算です。「国家の能力×決意×シグナル発信力=抑止力」。一つでもゼロだと、抑止効果はゼロです。米国は十分な軍事力もあり、必要なときにはその能力を使う意思があり、自分たちの国益は自分たちで守るんだと言動で示しています。
 日本を含め各国の抑止力の「宿題」が何であるか私は評価を下しませんが、どれも米国だけの問題ではありません。対テロのような分野では日本が国際的にリードできるかもしれません。」朝日新聞2017年7月28日朝刊15面オピニオン欄 耕論。
 *1956年、神奈川県横須賀市生まれ。父は米海軍軍人、母は日本人。ハーバード大、ジョージタウン大で修士号取得。太平洋艦隊司令官など歴任。

 昨日も北朝鮮が日本海にミサイルを発射したというニュースが流れ、緊張が走った。稲田朋美防衛大臣辞任発表に続いたので、なにか北がこの隙に乗じたかと日本政府は焦ったかも知れないが、どうやらそんなことではなく、前から対米示威行動として予定されたことのようだ。「抑止力はかけ算。「国家の能力×決意×シグナル発信力=抑止力」の一つでもゼロだと、抑止効果はゼロ」という考え方は、知的に磨かれた軍人のものだが、われわれにとって気になるのは、それがもはや米軍だけで維持されるものではなくなって、同盟国はなんらかの軍事的貢献を求められているということだ。北朝鮮がICBMに力を注いで、「国家の能力×決意×シグナル発信力」を精一杯発揮しているのは事実だから、それに対して何をするのがもっとも有効なのか?国連PKO部隊の活動日報という重要記録書類を隠蔽した疑惑、などということで防衛相が辞任するような日本の自衛隊は、とても世界に貢献するような使命を果たせない、と国民は知ったのだから。
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女優列伝Ⅴ  北林谷栄   最低賃金引上げ「目安」

2017-07-27 21:40:13 | 日記
A.女優列伝Ⅴ 北林谷栄
 原泉さんも「おばあさん女優」といわれたが若い頃はふけ役ばかりやっていたわけではない。そこへいくとこの北林谷栄さんこそ、30代からおばあさん役で当たりをとった人で、演技としてふけ役を演じ、ほんとにおばあさんになってからも数々の名演技を残した女優であった。原さんも北林さんも、戦前の新劇の老舗、新協劇団で舞台に上がり、一緒に活動した仲間だったし、戦後もいろいろな舞台や映画で共演している。

「私はよく、おばあさん俳優などといわれる。おばあさんになる苦心は? おばあさんにふんするのにどんなふうに研究してますか? インタビューといえばかならずといっていいほど受ける質問はこれだ。苦心は、しているといえば苦心だらけだし、してないといえばしていないことにもなる。研究といってもこれという研究なんてりっぱなことはしたことがないし、また物心ついたときからじっと目を注いで研究しつづけてきたともいえる。私は祖母に育てられ、その祖母を深く、強く、切実に愛しつづけたからである。
  話によれば祖先は増田右衛門尉長盛という豊臣方の大名で、これはだいぶん遠いが、祖母の父は金沢丹後藤原義久というアンチ幕府派の小大名であった。江戸幕府との間に双方無言の了解のようなかたちが成り立って、この曽祖父は表向き徳川の御用達の菓子司という体の、武家の格式だけをゆるされた一種の変則的な商人と改まった。私の祖母はこの家の二女であり、当時、渡来中であった西洋医ヘボンの門弟である尾台某に嫁した。その祖母が若い蘭学医の夫に早く死別し、実家に戻り、心ならずも二度目の夫を迎えさせられた。それが私の祖父にあたる人で、これは美濃の貧農の五男で江戸に奉公に出、口入れ桂庵からこの店に連れてこられて、何年となく汗水たらして働き、その労苦と商才を買われて三番番頭までのし上がったという塩原多助タイプの人間なのである。
  つまり女大学式の武家的教養と、加うるに多少の洋楽風の啓発を若い蘭医の先夫から受けた祖母にとっては、立身出世と、蟻のような動物的勤勉と拝金を志とする祖父との結婚がどんなに苦痛であったか察しられる。
祖母は生涯を夫を厭いぬいて終った。私が幼くて、まだ祖母のひざの間に足をさし入れて暖めてもらいながら寝つくほどの幼さであったにもかからわず、祖母は私の頭をなでながら、自分にともなく、私にともなく、よく言ったものだ。「この方のところへならお嫁に行きたいと思う方のところへでなきゃ、決してお嫁に行っちゃいけませんよ」
  私は恋愛というものを非常に大事に、というより捨て身に考えずにはいられないが、その底にある一服の清涼の感じは、祖母がわずか四、五歳の私に倦かずささやきつづけたあのことばによるような気がする。私はこの祖母を愛し、一挙手、一投足も、哀憐の情なしで見ることはできなかった。この祖母は昭和二十年の夏、終戦を見ずに八四歳でこの世を去ったが、その間の三十年あまりの歳月を、私の内部に生活印象として蓄積されたこの祖母の言行は、強烈に生きている。私は、そういう祖母に育てられた。私はまだ乳をのむころから母を失ったので、祖母の真の子どもといってもいいほどであった。
  例の勤倹力行型の祖父は、明治初年の舶来文明がお先走りの時代人にもてはやされ、封建的な土壌の上に形式上の異国趣味が急激に取り入れられはじめたその時流にのって、明治初年、やっと開化した銀座通りに洋酒輸入の問屋をひらいた。商売は機運にめぐまれ、数年後には間口九間、倉庫にはトロッコを通わせた店舗を、レンガ通りにデンとかまえた。そして、私の父は一粒種としてほしいままに育てられながら、いっぽう祖母の方針で、加納治五郎の塾に幼少から入れられ、厳格な教育を受け、そのためでもあるまいが、娘の私のみるところ、生活的なもろさと、狂気じみた癇癖との両面を持つ、精神のコントロールのへたな人間に仕上がってしまったようだ。
  彼は当時の慶應義塾を出て、サンフランシスコの商科大学まで修め、パリパリのハイカラ紳士としての押し出しを持っていたが、私の子ども心の印象を、いまの私の感覚でいってみるなら、ハイカラさと伝法さをいっしょくたにしたようなダンディだったような気がする。父はアメリカから帰ると横浜の商館番頭の娘である私の母と、母がまだ十七歳であったにかかわらず結婚した。母は虎の門女学館の生徒で、いうなれば彼女も時代の先端を行く娘だったらしい。
  焼けてしまったこの亡母の写真のなかに、髪はマァガレットふうにあげ、手に一輪の造花のバラを構えた一枚があるが、ういういしいおとがいや、胸元に反して、そのまなざしに不敵な老成した趣があったのをおぼえている。
  しかし、私は母のもっていたときく、その人を人とも思わぬようなギリッとした強さ、よい意味でも悪い意味でも、一歩もゆずらぬ精悍さを受けつぐことはできなかった。生まれたときから祖母のももでアンヨを暖めてもらい、祖母のあとばかりを追ってさびしがっていた、人恋しがりやが私である。“ばあさん子は三百値がやすい”であり、“きょうだいのうちで、いちばん抜けているのが大きいねえちゃん”と呼ばれる、私であった。」北林谷栄『蓮以子八〇歳』新樹社、1991.pp.28-31.

 北林谷榮(きたばやし たにえ、1911- 2010、本名安藤令子/蓮以子)さんは、劇団民藝の創立以来のメンバーで、30代から数多くの老け役を演じた「日本一のおばあちゃん女優」として知られた。1911(明治44)年、東京市銀座の洋酒問屋「大野屋」に生まれ、父方の祖母の手で育てられる。山脇高等女学校を卒業後、築地座の舞台を見て演劇に惹かれ、新劇女優を志し1931年に創作座の研究生となる。1935年に「温室村」で初舞台。1936年、新協劇団へ入団し築地小劇場の『どん底』ナスチャ役(ルカ役は滝沢修、ペペル役は宇野重吉、錠前屋役は小沢栄太郎)で注目を集める。久保栄を「お師匠さま」と仰ぎ、以前から知り合いだった宇野重吉や、信欣三[9]とともに3人でサークル「文殊会」を組む。1940年、新協劇団は強制的に解散させられ、戦時下は移動劇団・瑞穂劇団で各地を巡演。
  1945年に画家の河原冬蔵と結婚し1男1女を儲けたが、北林が仕事で地方に出かけている最中に幼い娘が火傷で不慮の死を遂げ、夫とは後に離婚。画家の河原朝生は長男。1947年、宇野重吉や滝沢修らと民衆芸術劇場を設立。1950年には劇団民藝創立に加わり、以後幹部女優として『かもめ』、『泰山木の木の下で』など多くの舞台に出演した。多くの映画・テレビなどで老女を演じた。
  2010年4月27日、肺炎のため死去(永眠)。満98歳没。北林谷栄の芸名は20歳の頃に長野県を旅した時に、林、谷川の美しさに感動してつけたという。



B.最低賃金と原発汚染
 最低賃金が都道府県単位で決められていて、その金額は地方に行くほど安い、ということは知られている。その決め方は、各都道府県でそれぞれ検討して決めるのだが、政府が全体的な引き上げの「目安」を示してそれに近づけるよう努力する、という形になる。少しでも高くなる方が労働者にはありがたいわけだが、支払う企業側には最低賃金が上がることは負担が増えるからいやがる、という構図になる。東京の大学生ならアルバイトの時給は千円以上は当たり前でも、沖縄の大学生はそんな時給をくれる求人はない。地域による物価や生活のコストは多少違っても、賃金は生活の必要から産出されるわけではない。

「社説 最低賃金 底上げを早く広く 
 今年度の最低賃金引き上げの目安額(時給)が決まった。全国平均では25円で、時給は今の823円から848円になる。時給で決めるようになった02年以降で、最大の増額だ。
 安倍首相が掲げる「年3%程度ずつ引き上げて、時給1千円を目指す」という方針に沿った決着である。今年の春闘で中小企業の賃上げが好調だったことも追い風になった。
 とはいえ、主要国のなかでは千円を超えるフランス、ドイツなどと比べてまだまだ見劣りする。経済が順調で人手不足感が強い今は、引き上げの好機だ。もっとペースを早めたい。
 今回の目安をもとに、これから都道府県ごとに引き上げ額を決める。昨年度は、47都道府県のうち6件で目安を上回った。地域の実情を踏まえつつ、さらに多くの県が「目安プラスアルファ」をめざしてほしい。
 今後の大きな課題は、地域間の格差をどう縮めていくかだ。
 全国平均で最低賃金が848円になるとは言うものの、実際にこれを上回るのは東京や神奈川、大阪など大都市部に限られる。働く人が多く、最低賃金自体も高い大都市部が平均を押し上げており、むしろ地方との格差は広がる傾向にある。
 国は所得水準や消費実態などの指標をもとに都道府県をA~Dの4ランクに分け、ランクごとに引き上げの目安額を決めている。Aランクごとに引き上げの目安額を決めている。Aランクの中で時給が最高額の東京(現在は932円)とDランクで最低額の宮崎、沖縄(同714円)の差は現在、218円だが、目安どおりに増額が実施されるとこの差が222円に広がる。
 時給が700円台前半では、1日8時間、月に20日働いても月給は12万円に満たない。これで生活を支えるのに十分な水準と言えるだろうか。
 地域間の格差を是正しつつ、より広く底上げを図るにはどうすればよいか。下位のランクで引き上げを手厚くする。より上位のランクへの区分変更を柔軟に行う。そうした具体的な方策について、国の審議会で議論をさらに深めてほしい。
 最低賃金のアップを定着させるには、体力に乏しい中小・零細企業への経営支援の強化や、大企業と下請けの取引条件の改善など、環境作りも欠かせない。「下請けいじめ」で公正取引委員会が指導した件数は、昨年度、過去最多の6302件にのぼった。監視体制の強化が必要だろう。
 社会全体の底上げを実感できるよう、歩みを加速させなければならない。」朝日新聞2017年7月27日朝刊14面社説。

 これは朝日の社説だから、まあ常識的な見解と格差是正をコメントして終り。もうひとつ、これは東京新聞の「本音のコラム」から。

「核と政治的正統性:竹田茂夫
 今年五月、米国北西部のハンフォード核処理施設でトンネル崩壊事故があり、放射能漏れを恐れた現場の数千人が退避した。大戦中の原爆製造計画で設けられたこの施設は、冷戦期に九基の原子炉と五基の処理施設で核爆弾用のプルトニウムを生産した。長崎の原爆の原料もここで作られた。
 八〇年代終わりの操業停止後には米国で最も汚い跡地と呼ばれ、残滓処理工場や二億リットルに上る地下タンク内の汚染物質や膨大な汚染地下水をめぐって、技術的・政治的論争や政府を巻き込む訴訟を引き起こしてきた。
 四十年間の核物質生産が労働者や近隣住民に及ぼした健康被害が問題化したのは、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故がきっかけだった。米国でも軍事機密のベールに隠れて、多くの核施設で杜撰で非人道的な政策が行われてきたのだ。
 K・ブラウン『ブルートピア』は、米国と旧ソ連が合わせ鏡のように、核の生産・廃棄や労働者管理で互いに模倣したことを描いている。
 米国政府から生産を請け負った大企業が独裁者のように秘密都市の住民を統制したり、旧ソ連が労働者の士気を鼓舞するために個人消費万能主義を推進するといった具合だ。
 原発事故や核兵器がもたらした環境汚染は米国と旧ソ連の政治的正統性を揺るがせた。日本はどうか。 (法政大教授)」東京新聞2017年7月27日朝刊、27面こちら特報部。

 原発運転と核兵器は、使い道は違うが仕組みは同じで、東西冷戦時代は米ソの二大大国が開発を競った。スリーマイル島とチェルノブイリで原発事故が起きたことは、ある意味で予期された範囲内のことだったかもしれない。
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女優列伝Ⅳ 原泉3  核兵器を持てる、ようにしておく?

2017-07-25 12:06:25 | 日記
A.女優列伝Ⅳ 原泉3 
 人はある時代のなかに生まれて、その子どもから大人になるごく短い時期に、世界に対する態度、ものの見方の大枠を獲得する。獲得というよりも、刷り込まれるといってもいいかもしれない。20歳前後の若い頭に、現代世界の正確な全体像やその基礎となる知識を獲得できるチャンスも能力もふつうはもてない。昭和の初めという時期では、高等教育を受けることのできた若者は、ごく少数だったし、メディアといっても新聞くらいで誰もが新聞が読めたわけでもなかった。
  小学校を出ただけで働くのは珍しくない時代に、たまたま島根から上京した少女が演劇の世界に触れて、そこで出会った人間関係のなかで社会的政治的関心をもつようになった女優、原泉子さんの場合、左翼運動への関わりは、書物や学問からではなく、築地小劇場などでの演劇活動と仲間からの耳学問で形成されたものと思われる。
  昭和の初年代、帝国大学に学ぶ若い大学生が流行のようにマルクス・ボーイになっていったのも、ひとつの特殊な時代相が反映していたといえる。それは何といっても、1917年ロシアに革命が起こり、レーニンが指導するボルシェビキが社会主義国家ソヴィエト連邦を樹立したという歴史的事実が大きく影響している。原泉子さんが警察に逮捕された昭和8年は、西暦1933年。ロシア革命からまだ16年しか経っていない。大学生がマルクスやレーニンの著作をどこまで理解していたかはともかく、世界の趨勢は新しい社会主義という方向に向かって動いていくと考え、この流れに乗っていくのが「新しくカッコいい」と思った若い世代が生まれ、彼らはやがて革命を恐怖した政府権力によって徹底的に弾圧され転向を迫られる。
  21世紀の現在からみると、まったく世界の状況は違っているのだが、時代の流行に若者は「敏感」に反応するし、それは多くの場合「軽薄」で「感情的」な形をとるのは、今も同じだ。安物のイデオロギーはそこにつけこむ。

「ほとんど一ヶ月にわたる松竹少女歌劇の争議はどのようなものだったか、今は歴史年表の二、三行に収められてしまっている。
 初めは、東京浅草松竹座の音楽部員から火の手があがった。華やかなレヴュー興行の陰で、それを支えている楽士たちは、演し物全部の演奏を交代もなく通してやらされていて休憩時間も充分とれないまま、たてつづけに演奏しなければならない状態だった。厳徹が中心になって楽士たち三十人が待遇改善要求を出した。これに対して、会社側は中心人物の馘首と、楽士たちの減給処分で応えてきた。ちょうど、浅草松竹座では、六月七日からシェークスピア劇を初めてレヴューに取り入れた「真夏の世の夢」の公演にはいっていて、ロングランも予定されていたのだが、これは、馘首問題のため、六月十日で興行中止になる。
 六月十三日、レヴューガールたちに伝わった楽士の馘首減給問題は、レヴューガールたち自身の不満を一挙に爆発させることになり、二百三十人のレヴューガールが、二十六か条の改善要求をまとめて会社側に提出する。
 六月十四日の各新聞は、一斉にこれを報道する。たとえば、その朝の「東京朝日新聞」十一面では〈華やかな女性の憤慨、松竹レヴューガールの不平一度に爆発――あたし達の部屋は南京虫の巣、総てお話にならない〉と見出しをつけ、意気さかんで明るい表情の少女たちが〈スローガン 一、馘首減給反対 一、女生徒を酷使するな 一、中間搾取絶対反対 一、待遇改善 一、衛生設備完備 松竹少女歌劇音楽部・歌劇部〉と書かれた大きな紙を囲んでいる写真を添えている。
 恒例となった春のおどりでは、一ヶ月以上のロングラン興行をうつことができる東京松竹少女歌劇のことである。それに、ターキーこと水の江瀧子やオリエこと津坂織江など、男役のスターが出現して「男装の麗人」などと言う言葉が流行語になるほど、人気絶頂の松竹少女歌劇である。その少女歌劇で争議がおこり、人気のターキーが“輝ける委員長”になったというのだから、世間の人々は興味深く注目するわけである。
 組合事務所は、浅草にあるたつみ屋料亭の二階があてられた。十六日には、ここで組合員の父母兄姉が八十名ほども集まって保護者会を開き、水の江瀧子の義兄ら六名の代表が選ばれ、「生徒たちのもっともな要求を入れて早期解決をせよ」と松竹本社に決議文を手渡している。このあたり、紡績工場などの争議で父兄の方から攻めおとす会社側の常套手段に先手を打った形である。
 十六日、硬化している会社側は、浅草松竹座などを閉鎖して、レヴュー『真夏の世の夢』の看板をとりはずしてレヴュー休演を通告する。この休演通告の時点で争議は、はっきりとストライキの形をとる。レヴューを休演して十七日からはつなぎに、浪曲大会を興行するという会社側の企ては、争議を側面から支援しようとしていた浅草六区の全館が協力して、予定されていた木村重友浪曲一座とかけあったので、流れることになった。
 争議は、大阪松竹少女歌劇にもとび火して、要求書を出してストライキに入ったので、興行中だった「メリーゴーランド」は中止になる。
 東京でも大阪でも、支援の資金もあったが、自分たちのサイン入りブロマイドなどを売って闘争資金を作った。
 三月末には三十数名の脱落組があったというものの、まずまず団結を守ってきたところへ、七月十二日、水の江瀧子ら幹部十名ほどが逮捕される。この日の朝、別のところで逮捕された泉子はそれから四カ月も囚われの身になるのだが、水の江らはその日のうちに釈放となった。この彼女らの逮捕は、脅しの意味だったのだろう。
 争議は、七月十五日には、松竹本社城戸専務と委員長水の江瀧子の間で覚え書が交わされて収束するのである。覚え書の内容には、一、最低賃金の制定 一、衛生設備の完備 一、公休日の制定 などが歌われて、要求の内容はある程度入れられたものの、ドル箱の人気スターには傷がつかないようにした上で、飛鳥明子、若山千代らが争議責任者として解雇される。ここに至って、その解雇を不当とする闘いはもはやおこらなかった。
 松竹本社は、その月のうちに松竹少女歌劇部を解消して、本社直属の松竹少女歌劇団(SSKD)を誕生させている。
 泉子は、七月十二日の朝捕まってしまったのは“駒形のどぜう”にひっかかったからだと自分では思っている。あの時、あれにひっかからなければ、捕まらなかったのに、つくづく馬鹿なことをしたと、自分の身らかでたサビのように反省している。
 前の晩、浅草にある映画演劇関係の組合事務所で松竹少女歌劇争議についての連絡や相談の会がもたれ、深夜までかかってしまった。帰ろうかどうしようかと迷っているところへ、泊っていってあした駒形のどじょうを食べて帰ろうや、という二木独人の提案があって、食いしん坊の泉子は一も二もなく同調してしまったのだ。それに、仁木、岡田、秋山槐三となら雑魚寝でも安心できる。気心の知れない男だと、仲間でも夜中に這い寄ってくることを警戒しなくちゃならない。いつかなんぞはそういうことがあって、あしたの朝、顔も合わせられないようなことはごめんだからねッ、とピシャっと拒絶したのだった。—―その夜、組合の二階でウトウトっとしたところを、特高に叩き起こされて捕まってしまったのだ。これでせっかくのどじょうはおじゃんになってしまった。
 七月十二日には少女歌劇の争議関係者を一斉に逮捕する、というのは会社側とつるんだ特高たちの方針だったのだから、どこにいたとしても捕えられるに違いないのだけれど、泉子には、やはり駒形のどじょうを食べてから帰ろうと思ったばかりに捕まってしまったような気がしてくる。
 浅草の象潟署の監房に放り込まれてやがて昼近くなった頃、ターキーなど今度の争議の中心になった幹部ら十人ほどが同じ房に入れられてきた。ワイワイガヤガヤ、十八、九歳の娘たちのことなので、いっぺんに賑やかになるが、それも束の間、夕方にはもう彼女たちは釈放され、泉子一人が残される。
 あくる日、ニ十九日間の拘留をいい渡された。これが泉子の長い留置場暮らしのはじまりだ。
 看守の手伝いをしている雑役は、扱いによってはこちらの連絡係もしてくれる。その雑役が、逮捕不当の抗議行動としてハンガーストライキをやろうという二木ら三人からのメッセージをもってくる。ハンストって言えば、何も飲まず、食べずでやればいいんだなと、泉子もハンストにはいった。実は、泉子は、ハンストといっても水分は摂るものだということを全然知らなかったので、自分流の解釈で水さえも飲まずにがんばる。最初の日は、監房を閉じている金網の仕切りのその網の目に手の指、足の指をひっかけるようにしてよじ登って、衝立で遮られている仁木たちのいる監房の様子をのぞき見たりする元気があった。二木独人が、大きな体を大の字にひろげて、他の者に風を送ってもらっているのが見える。特高関係だというので一目置かれているのだろう。
 三、四日たって、雑役が、泉子がほんとに何にも口に入れていないのを見て、あっちは水飲んでるよぉ、味噌汁飲んでるよぉ、と教えてくれたけれど、その時はもう手遅れで、泉子は足腰が立たなくなっていた。ひょろひょろと自分ながらに頼りない感じで、皮膚もいつの間にか干からびて、夏だというのに汗も出ずカサカサになっている。
 ちょうどその頃、本庁の特高がやってきて呼び出されることになったのだけれど、もう一人では歩けなくて、象潟署の特高の肩にぶらさがるようにして取調室へ出て行った。本庁の特高は芦田だった。小林多喜二を虐殺したテロ専門の特高だ。その芦田が、「これ、お泉ちゃん」と新聞をひらひらさせて見せる。そこには、地下活動をしていた杉本良吉がついに捕まったという記事が載っている。泉子に見せて、その反応をみて、それから責めようというつもりらしい。泉子が杉本らの非合法活動とどのような線でつながっていたかを、しめあげて吐かせようという気なのだろう。もちろん泉子にはそのつながりがある。
 けれど、泉子の衰弱したからだは、杉本逮捕の事実に対してさえも、何の反応を示すこともできなかった。その結果ただ無表情にきき流したことが泉子に幸いした。もともと馬鹿正直なほどに、泉子のからだは敏感に反応を示すたちで、心の中の動きがすぐに顔色に表れて隠しようもないことになるのだけれど、泉子は血の気が失せて干からびていて反応どころではなかったのだ。
 さすがのテロ専門の特高である芦田も、こんな泉子にはテロを加えない。女を素裸にして辱しい目にあわせて取り調べるくらいなんとも思っていないような特高だということは、泉子も承知している。象潟署というのはきついので有名な警察署で、ハンストにはいった泉子たちを、生意気にも、と憎んでいるから、泉子が水さえも飲んでいないことを知っても放っておくし、ふらふらになっているのを見ても警察医を呼んだりはしなかった。芦田は急いで警察医を呼ぶよう手配してくれる。泉子は、それに乗って、便所に行くにも裸足で行かせるようなこんな不潔な留置場は我慢できない、私を調べるつもりなら別の署へ移してからにしてくれ、と芦田に要求する。泉子はこうして、取調べがきつくて、乱暴で、不潔なことで有名な象潟署の留置場から四谷署へ移された。
 泉子は主として、共産党の組織との関係を調べられる。どうやってそことつながっているか、どういう組織系統になっているか、くり返しくり返し調べられる。どう調べたって、泉子は非合法活動に関わってはいるものの、共産党や、共青の正式のメンバーではないのだから、組織の成員だったというようなことが浮かび出てくるはずもない。特高の方から泉子など知りようもないような組織の系統図を見せて、新しく泉子からさぐり出すものはないかと責めているのだ。これほど一所懸命に運動に加わっている原泉子が組織と関係ないはずはない、あの一所懸命さは組織の命令を忠実に遂行しているということだ、というふうにしか特高には見えないのかも知れない。
 そうやって、二十九日の拘留期間を延長延長で、象潟―四谷―洲崎―神楽坂―四谷、と泉子は五署をたらいまわしになったあと、もうこれ以上責めても何も出てこないと結論されたのか、十月の末、釈放される。夏の初めの七月十二日に捕まってからほぼ四カ月、泉子は夏の服装のままだったが、街はもう初冬の気配さえしのばれる晩秋になっていた。
 起訴留保で釈放されるのに当たって、泉子は一つだけ条件をのんだ。検事の前で「もう政治運動はやりません」と約束したのだ。ただし「演劇活動は今後もつづけます」とはっきり告げた。」藤森節子『女優原泉子 中野重治と共に生きて』新潮社、1994,pp.146-152.

 こうした体験を聞くと、勇敢な女闘士をイメージするだろうが、女優原泉子が左翼反体制運動に関わった動機はイデオロギーではない。松竹少女歌劇のストライキ支援や小林多喜二の死直後の行動などでも、ただ自分の周りの親しい人々への楽しい交流の結果と、不当な警察権力への義憤のような感情から活発に動き回る若い女であったにすぎない。彼女に思想があったとすれば、それは夫となった中野重治によって教わったものだったろう。
  中野重治(1902-1979)は、福井県坂井氏出身、四高から東京帝国大学独文科で窪川鶴次郎、堀辰雄らと同人誌『驢馬』を創刊して、卒業後も詩や小説を書き、プロレタリア文学運動とともに共産党に加入して活動した、という人である。弾圧の中で入獄転向、戦後共産党に復帰して1947年から50年に参議院議員も務めた。『新日本文学』の中心メンバーとして戦後文学の代表作家の一人とみられたが、1964年に共産党の路線対立で除名され、神山茂夫らと「日本のこえ」を結成。政治家としての中野は、左翼内部の権力争いに明け暮れて消耗したかもしれないが、文学の方の仕事はいまも高く評価されている。代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』など。
 ここで引用した藤森節子さんの八十歳からの原泉聴き取り記録をもとにした『女優原泉子』の執筆動機も、藤森さんの夫が中野重治に私淑して自宅を訪ねたことに発している。それはとても貴重な昭和史の記録でもあるが、一人の女性の個人史に密着しているがゆえに、国家権力による過酷な左翼運動弾圧が、どういう時代の布置状況から発生したのかについては、考察が及ばない。ぼくも以前は、この時代の左翼運動について多分に悲愴で英雄的な人々というイメージを持っていた。しかし、原泉子さんを含め、当時の活動に関わった人の主観的な動機は、もっと多様で意外と楽天的で軽薄なものですらあったのかもしれない、と思った。そう思うと逆に、昭和初年代の日本社会はロシア革命に共鳴できるだけの人民意識の近代化を達成していたのかもしれない、とも思う。このへんは、歴史社会学的な研究課題だろうな。




B.核兵器を持てるようにしておく、深謀遠慮
  東日本大震災での福島原発事故の問題で、あれほど原発は危険だ、リスクが大きすぎるという声が高まったときに、政府は必至で大丈夫、安全は確保できると沈静化を計り、いつのまにかまた原発再稼働を実現させることに成功しているわけだが、あのとき言っていた夏季の電力不足とか、原発の低コストや環境負荷の話など最近はとんと聞かない。どうも原発存続のためにはあらゆる理由、あらゆる詭弁を弄しても構わないかのような動きが出てくるのは何なのか?最大の懸念材料である原発から出る「核のゴミ」プルトニウムなどを日本がため込む必要性といえば、結局「日本はその気になればいつでも核兵器を作れるぞ」と核保有の潜在能力を確保しておきたい、という意図しかないのではないか。それは電力の問題でも、経済の問題でもなくて、安全保障つまり軍事的観点から来ている。

「憲法を考える 「核保有 否定されず」脈々:政府解釈「必要最小限なら」学者から疑義
 唯一の戦争被爆国として核軍縮を強く願う日本。だが、その日本が、安全保障の話になると、米国の核の傘に頼り、核兵器禁止条約を進める国際社会の動きに背を向けている。それどころか、「日本国憲法では核兵器は禁止されていない」という政府解釈すらある。なぜ、このような相矛盾する対応をとり続けるのか。憲法で核兵器禁止を明記した欧州オーストラリアの試みと比較し、考えた。

 そもそも平和主義の憲法9条を持つ日本が、核兵器を保有することは許されるのか。政府の解釈によると、答えはイエスだ。
 安倍内閣は昨年4月、「核兵器でも、必要最小限度にとどまるものであれば、保有することは必ずしも憲法の禁止するところではない」との政府答弁書を閣議決定した。集団的自衛権に関連した質問に対しての答弁だが、「核兵器は憲法上禁止されていない」との従来の見解を踏襲した。
 憲法学者からは疑問が呈されている。答弁書が出た直後、青井未帆・学習院大教授は本紙の取材に、「憲法9条2項で戦力不保持を定めた時点で、核兵器という選択肢はないと考えるべきだ。世界的に浸透している『核兵器の非人道性』の観点から、『必要最小限度にとどまる核兵器』はありえない」と述べた。
 だが、政府解釈をみると、「戦力に至らない自衛力はある」という立場から、自衛力として許されるものは何か、その上限が議論されてきた。大陸間弾道弾(ICBM)や長距離戦略爆撃機は、もっぱら他国攻撃に使われるから許されない、とされた。一方、核兵器については保有の可能性が残された。
 原点は、安倍晋三首相の祖父、岸信介元首相である。
 1957年5月、岸は国会答弁や記者会見で、「核兵器も今や発達の途上にある」「すべての核兵器を憲法違反とは言えない」と述べた。
 のちに回顧録で「憲法解釈と政策論の二つの立場を区別し、明確にしておく」ことが狙いだったと記している。
 生前の岸に長時間のインタビューをした政治学者の原彬久・東京国際大名誉教授は、「岸は『必要最小限』は時代状況で変わると考えていた。核武装を政策選択肢として残したわけで、この考えは、保守内部の一定の勢力に受け継がれている」と指摘する。
 たとえば、稲田朋美防衛相は野党時代の2011年、雑誌の対談で「長期的には日本独自の核保有を国家戦略として検討すべきではないか」と発言、防衛相就任後も発言の撤回を拒んでいる。
 もちろん、安全保障の専門家の多くは、日本が核武装すれば、米国の疑心を招き、国際的な不拡散条約(NPT)体制を崩壊させる、と批判する。核兵器は現実の選択肢として検討されてはいない。
 だが最近、北朝鮮の核・ミサイル開発問題などが深刻化するにつれて、相手側のミサイル発射基地を自衛隊がたたく敵基地攻撃論など、勇ましい議論が注目を集めるようになっているのも事実だ。
 国際安全保障が専門の石田淳・東大教授は、次のような懸念を示す。
「日本の安全を高めるという目的を達成する手段とは何か。それを問う議論が欠けている。憲法上何が許されるのか、何をどのように守るべきか、コンセンサスが国内にすらない状況では、関係国との共通認識も得られない。不安をぬぐう備えが相手の不安をかきたて軍拡を引き起こす『安全保障のジレンマ』から抜け出せない」朝日新聞2017年7月25日朝刊7面、視点・論点・注目点
 
  軍事的なパワー・ゲームで国家間の「安全保障」を考えるミリタリーな思考法では、実際に戦争をする場合を想定して互いの戦力を計測する。北朝鮮がやっているように、大きな軍隊や通常戦力を維持するには多大な予算支出が必要になるから小国には苦しく、それより核兵器の方がはるかに抑止効果がありコストは安くすむ。もし自国を攻撃してくる国があれば、その国の中枢を核攻撃できるのだと示しておけば、じゅうぶんな戦略的防衛策になる、というのは確かに合理的かもしれない。
  日本は島国で長大な海岸をすべて武力防衛するなど不可能だ。「自衛のみ」の武力を前提にする自衛隊も、できれば核兵器をもつか、もてるんだよと示しておけば非常に安心できると考える人は、保守派防衛族以外にもいるだろうと思う。ただそれが戦後一貫して否定されてきたのは、なんといっても広島・長崎の被爆体験を国民の大多数があってはならない悲劇、戦争のもたらした負の遺産と考えてきたからだろう。さすがにこの世論の前には、日本が核開発をするなどという提案はうかつにはできない。しかし、密かに「核は持てる」ようにしておくことが必要で、それが「ふつうの国」「強い国」のもとにある、と考える思考が一部の政治家の頭のなかに生き延びている。どうやら安倍晋三氏もそう考えているのなら、恐いことだ。
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女優列伝Ⅳ 原泉2  文化の階層差を感じる時

2017-07-23 16:32:12 | 日記
A.女優列伝Ⅳ 原泉2
  あれはいつ頃だったか?1960年代の半ば。たぶんぼくは中学生になった頃で、家で毎週購読していた『歴史画報』という写真と解説入りの図版雑誌が好きで、江戸時代を扱った「近世歴史画報」からはじまって、明治維新から日露戦争に至る「近代歴史画報」になると錦絵に加えて当時の新聞雑誌などの画像や写真が増えてくる。その後、新聞社などの総合企画として刊行されるビジュアル画報シリーズは、カラー写真やイラスト満載で紙質も上質なものになるが、60年代はまだ印刷技術も向上しておらず、紙も悪く不鮮明なモノクロ写真ばかりだった。それでも、中学生には難しそうな歴史書を読むより、歴史上の出来事をビジュアルに見ていくのが楽しかった。
  そして次に出たのが「昭和現代画報」シリーズで、昭和の初めから年を追って様々な事件やニュース、とくに戦争に至る昭和戦前期の出来事を丁寧に追いかけていた。前のシリーズより圧倒的に写真が増え、新聞等に載った報道写真も充実してくる。60年代半ばという時点で、昭和戦前の日本への一般の視線は、軍国主義と破滅的戦争になだれ込んだ「暗黒の時代」という捉え方は広く浸透していた。つまり「戦後」から「戦前」を見て、その愚かな過ちを確認するという形で編集されていたと思う。ぼくはある日の午後、それをぺらぺら眺めていたのだが、ある写真を見て思わずぞくっとした。
  昭和8年、プロレタリア文学の旗手と言われた作家の小林多喜二が、警察の拷問で殺されたときの写真だった。当時の日本では、非合法の共産党を弾圧する「特高」警察が、次々と活動家を逮捕し組織を壊滅させようと拷問をしていた、とある。多喜二の死体写真には腫れあがった下半身や無残な死に顔が写っていた。警察が「拷問」の果てに政治犯を殺してしまう、ということの意味を考える前に、ぼくは自分がもし今の政治権力に反抗するような行動をしたら、このように無残な拷問や死を覚悟できるか、と考えて恐ろしくなったのだ。肉体の苦痛に負けて、簡単に自白してしまうのではないか。思想とか信念とか言っても、拷問の恐怖に耐えられる自信があるか、耐えられてもそれは殺されてしまうのでは、結局負けではないのか?いろんな疑問が一気に湧いてきて、そのページを前にぼくは30分ぐらい考えていた。
 同じページに、自宅に戻った多喜二の死体のまわりに集まって嘆き悲しむ人々の写真があった。文学・出版関係の友人知人に混じって千田是也など新劇の人もいると説明がある。その枕元にひとりの若い女性がうつむいている。それが女優原泉、当時は左翼劇場という劇団にいた原泉子さんだということは、もっと後になって知った。

 「昭和八年(1933)二月二十一日、火曜日。きのうまでの公演、プロレタリア演劇の国際的十日間『砲艦コクチェフェル』(『吼えろ支那』改題)と『全線』もおわったし、きょう朝九時から午後三時までの東京地方裁判所に対する〈コップの犠牲者たちの予審促進、統一審理要求、ひどくなった通信の制限への抗議〉行動をすませた泉子は、ニ十五日からの関西公演のための稽古や準備があるとはいうものの、いくらかほっとした夕べのひとときをすごしていた。だから、築地小劇場へ配達されてきた『朝日新聞』の夕刊を、泉子は誰よりも早く開いてみることになった。どれどれ、と、たばこをくゆらせながら、一面の大見出しなどを斜めにみたあと、新聞を開いて二面に目を通そうとしたとたん、
  『小林多喜二氏 
    築地署で急逝
      街頭連絡中捕はる』
  という三段見出しの文字が、むこうから目に飛び込んで来た。
「えっ」
  いきなり肌が粟だち、全身の知が頭へかけのぼったと思ったら、さーっと引いて、冷たくなる。気を確かにもって!と、自分を励ましながら、え、どうして、どうしたの、いつ、どこでつかまったの――と、記事を読もうとするけれど、目は宙をはしってしまって文字が読めない、読んでも、頭が受けつけてくれない。
 やっとのことで、絶命した小林多喜二が、築地病院の前田博士のところに運び込まれたことがわかる。〈「心臓まひ」で絶命〉と書いてあるのも確かめる。「心臓まひなんて!ウソ、ウソ」、岩田義道の時だってそうだった、奴ら、殺す気で拷問したんだ。
 とにかく、多喜二の屍体をみればすぐわかることだ。そいつをまず確かめなくては。屍体なんて考えたくないけれど、奴らにゴマ化されないように、ちゃんとした手を打たなきゃ。こう考える時には、もう泉子のからだは動いている。
 泉子は夕刊を摑んで、劇場のまん前にある内科の丹羽病院へとびこむ。「ここに書いてある築地病院ってどこですかッ」。病院はちょうど築地署の裏手にあることがわかって、泉子は走っていく。百メートルあるかなしかの近いところで、今までそこに築地病院があることを知らなかったのが不思議なくらいだ。
 この時、泉子がやっとのことで飛ばし読みした朝日新聞の記事は、次のように書かれている。
 
2月21日夕刊(日付は22日夕刊)
 「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は二十日正午頃党員一名と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林特高課員に追跡され約二十分にわたって街から街へ白昼逃げ回ったが遂に溜池の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された。最初は小林多喜二といふことを頑強に否認してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後五時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手当を加へた上午後七時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた。ニ十一日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された当時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られてゐる。

  息を切らしながら築地病院へ行ってみると、仲間の者はまだだれも来ていない。泉子が一番早かったらしい。
  とにかく、ほんとうに小林多喜二なのかどうか確かめたい。ほんとうに心臓まひなのかも確かめたい。屍体は、一体どんな状況なのか、この目で見なくてはいけない。泉子は、多喜二の屍体に逢わせろ、見せろと強く要求する。見張っているのは顔見知りの特高だけれども、ガードは固い。見せられないんだろ、と食ってかかるが、泉子は、押しのけられる。泉子はほとんど逆上して泣きわめく。幾度食ってかかっても効き目がないことを知って、とりあえず劇場に戻ることにする。
  ひどく興奮している様子だが、こうしてはおられない、打つべき手を打たなくちゃと、劇場へ戻る道々、自分なりの考えをまとめてみる。泉子は、左翼劇場員として赤色救援会の組織に加わっているので、指示を待たなくても、一刻も早く手を打たなければならぬことについての心得がある。たとえだれかがすでに手を打っていてもそれならば、それはそれでいい。とにかく、今自分にできることをすぐにやろう。三ヶ月ほど前の、去年の十一月、拷問視させられた岩田義道の時と同じになってはいけない。あの時は、屍体を受けとるのとひかかえに〈死因――肺結核・脚気衝心〉と記された書類に家族が判コを押してしまわないようにしなければ――。そうだ、藤川夏子たち左翼劇場の若い人の力をかりて手を打とう。この場合二通りに考えてみる。おっかさんの小林セキが、まだ馬橋の家にいる場合と、すでに家を出てしまっている場合。家を出てしまっていた時はおっかさんが築地署にはいる前になんとしてもつかまえて、〈死因――心臓まひ〉と書かれた書類には絶対判を押さないように念を押さなくちゃいけない。築地署の前でピケを張る人たちには、おっかさんの歳かっこう、背かっこう、顔の感じなどを言いふくめて出かけてもらう。これで一つよし。
 次は弁護士。青柳盛男弁護士へ電話をする。これは幸いにすぐに連絡がつく。
 もう一つ、死亡状況確認のために、医師の安田徳太郎博士に来てもらいたい。この人にはいろいろなことで世話になっているけれど、安田は岩田義道の病理解剖にも立ち会っている。岩田の時は、口腔内から小さなひしゃくで一リットルもの血をくみだしたことなど、医師の立場から状況報告をしてくれた。安田にも連絡はつく。
 そうした手配をしている間にも、とにかく築地小劇場に行けば様子がわかるのではないかと人が来る。貴司山治、大宅壮一、時事新報社の笹本寅記者に前川カメラマンらも、築地署へ行ったが真暗だった、と劇場へやってくる。泉子は、彼らを案内する形でまた築地病院へ行く。特高は、「遺族じゃないと渡さない。会わせることはできない」という。その上、しらじらしくも、「遺族をさがしている」「今、北海道の本籍へ照会している」というので、泉子はカッとする。前の年の文化関係の大がかりな検挙をうまく逃れた多喜二は姿をくらまして地下活動にはいっていたから、警察は、おっかさんに目をつけて小林宅を見張っていたじゃないか。「本籍とは何だ。東京に出てきてから何年もたって、現に、あんたたちの方が小林の家をよく知っているくせに、そんなバカなこと言うんじゃないよッ」と泉子は食ってかかる。涙でぐしゃぐしゃになりながら叫ぶ泉子の腕を特高がつかまえて検束するといってひっぱる。この時、もう片方の腕をひっぱって「きょうは、ま、かんべんしてくださいよ」と助けてくれたのは笹本だ。相手は、笹本が新聞社の人間ということもあってか、ちょっとひるんで腕をはなした。

  警察が小林宅に連絡を取った時、小林宅が留守だったのは事実だ。おっかさんは出かけていたし、弟の小林三吾の方は、全く知らないまま夜までヴェイオリンの稽古に出かけていた。だから小林宅が留守だということに関してだけいえば事実だった。だが、だからといって北海道の本籍に問いあわせるとは、ほんと「バカ言うんじゃないよ」。警察としても、あわてていたのだろう。

   ところでおっかさんは、夕方出先から帰ったところを隣の人に呼びとめられ、いまラジオが息子さんの多喜二の死を伝えた、築地病院だ、と知らされて直接病院の方へ行った。もちろん見張りの特高は書類に判コを押すまでは、親といえども対面させない。まず築地署へ行けと言う。ここでおっかさんは築地署へ行き、本来ならばピケの網にひっかかるところだったのだが、この日、おっかさんは、多喜二の姉の幼子を預かっていて、その児をねんねこ半纏でしょっていた。これを多喜二のおっかさんとは気がつかず通してしまった。こうして、何も知らないおっかさんは、言われるままに〈心臓まひで死亡〉と書かれた書類に判コを押してしまう。この手続きをしてはじめて、息子と対面させ息子の屍体を引き渡すということなのだから、おっかさんとしてもこうするよりほかなかった事情もある。
 おっかさんは、ちょうどかけつけてくれた親類の小林一二と共に、築地署の水谷特高主任に案内されて病院へ行く。そこには、弁護士の青柳、三浦、土屋も、医師の安田も顔を揃えて待っていた。コップ(日本プロレタリア文化連盟)関係では、佐々木孝丸、染谷格(当時『都新聞』、後に『テアトロ』編集長)も来ていて、この二人は屍体が警察の車で運び出されるとき、もしや、おかしな、手の届かないような所へ持ち去られるのでは、と警戒して、タクシーでこの車を尾行する。これは幸いにも杞憂に終わる。
多喜二の屍体が杉並区馬橋の小林宅に着いたのは夜も十時ごろである。」藤森節子『女優原泉子 中野重治と共に生きて』新潮社、1994. pp.122-128.

 小林多喜二の死を、そのとき現場で体験した人の生々しい記録だが、中学生のぼくが感覚的に感じた「暗い時代」の救いのない悲惨さとは、現実は少し違ったものだったのかもしれない、と思った。昭和8年に共産党あるいはそのシンパとして運動に関わることは、確かに相当に覚悟の要ることではあったが、この時点ではまだ労働者農民の共感や支援も期待でき、原さんが生きていた演劇の世界では、当局の規制をしのぎながら舞台を成功させ、仲間と結構楽しく過ごしていたようにも思える。だから逆に、多喜二や岩田義道の警察による虐殺は、ありえない出来事で、政府権力に逆らうとどうなるかを恐怖を伴って日本の社会に知らしめた事件だったのだろう。
  当時の日本は専制的無法国家ではなく、警察といえど法律に従って職務を執行し、裁判官や弁護士が公正な判断を求め、新聞などマスコミもある程度政府を監視する機能を果たしていたといえないことはない。野党的な指導者に導かれた労働運動や農民運動も部分的には力をもっていた。それがこのあたりから弾圧され退潮していったのは、ロシア革命の波及を恐れた日本の支配層が、日本にもできた共産党を天皇制転覆を狙う反体制革命組織として取り締まる「治安維持法」に頼ったのと、その威力が、地下に潜った共産党だけでなく、表の社会にもどんどん波及していった結果だろう。やがて、政府の政策批判どころか、左翼の本を持っているだけで警察に呼ばれるようになっていった。松江から上京して貧困の中でも、つっぱりモガをやって女優になった原泉子さんの青春が、どのようなものか、想像もできないが想像してみたい。



B.「格差社会」から「階級社会」へ
  いわゆる「アメリカン・ドリーム」は、どんな家族、どんな境遇に生まれても、本人にやる気とチャンスさえあれば、自力でもっと上の成功に辿り着ける自由な社会、という意味だろう。ヨーロッパやアジアのような古い伝統や歴史のある国では、生まれがものをいい、生まれた時から身分や人種や宗教などの属性によって、チャンスが制約され、下の者ほど不利益や差別を受ける。それに比べて新大陸アメリカでは、王様や貴族のような古い体制に乗っかった支配者がおらず、誰もが自由に自分の力を発揮できる、と少なくとも信じられる場所だった。しかし、それはもう遠い昔の幻のようなもので、現代のアメリカはupper middleとそれ以下の階層の間の経済的社会的格差が広がるばかりだ、という論説である。 

 「格差固定化の企て:高学歴層が築く 見えない壁  デイビッド・ブルックス
  過去一世代の間に、大卒以上の学歴を持つ層は、驚くほどうまく、その恵まれた地位を我が子に引き継いできた。さらに、その他の階層の子どもが自分たちの仲間入りをする機会を狭めることにも、怖ろしいほどたけてきている。
  彼らがいかに巧みに第一のタスク――わが子の後押し――をこなしているかは明白だ。重要なのは、子にひたすら尽くす「ペディアクラシー」だ。この数十年間、米国の上位中間層は、できのいい子どもを育てることを人生の中心に置いてきた。
  上位中間層の母親には様々な手段も育児休暇もあるから、高卒の母親よりも母乳育児をする割合がずっと高く、その期間もはるかに長い。
上位中間層の親は、それより下の所得階層の親に比べて、2倍から3倍の時間を就学前の子どもと過ごすことができる。1996年以来、裕福な層の教育費は300%近く増加したが、その他の層ではほぼ横ばいだ。
中間層の暮らしが厳しくなるにつれ、上位中間層の親はわが子が決して階層を滑り落ちないよう、ますます必死になっている。もちろん、自分の子孫に尽くすことは何も悪くない。
  ◎         ◎         ◎ 
  倫理的に問題となるのは、第二のタスク――違う階層の子どもを同じ機会から排除すること――だ。米ブルッキングス研究所のリチャード・リーブスは、近著で、高学歴層が社会制度を操作する構造的な方法について詳述している。
  その最たるものが地域ごとの住宅の建築規制だ。高学歴層は、ポートランドやニューヨーク、サンフランシスコといった地域に住む傾向にある。これらの地域では、良い学校や良い就職機会のある場所から、貧しくて教育レベルの低い人々を遠ざけるような住宅や建築の規制が敷かれている。
   これらの規制は、米国全体の経済成長に破壊的な影響を及ぼしている。ある経済学者たちが行った研究によれば、米国の上位220の都市圏における住宅建築規制は、1964年から2009年にかけて、米国の経済成長の総計を50%以上押し上げている。さらに、格差拡大の深刻な要因にもなっている。ジョナサアン・ロスウェルの分析では、最も規制の強い都市が最も規制の弱い都市と同等になれば、地域間の格差は半分になるという。
   リーブスが指摘する二つ目の構造的障壁は、大学入試だ。高学歴の親は、優秀な教師がいる地域に住む。さらに、親類縁者が卒業生であれば優遇される制度や、学びのある旅を多く経験して育ったことが評価される入学基準、就職につながる無給のインターンシップといった恩恵を子に与えることができる。
  だから、米国の競争率の高い上位200の大学に通う学生の70%が所得分布の上位25%の出身でも、不思議はない。米国のエリート大学群は、その入学基準を掲げて特権の巨大な山々の頂きに座り、奨学金制度でその他の人びとにはちっぽけなはじごを用意して両親を満足させているのだ。
  ◎         ◎         ◎ 
  リーブスの本に感銘を受けた私だが、著者と何度か話すうち、彼が強調する構造的障壁よりも、その下の8割との間を隔てるインフォーマルな社会的障壁の方がより重要だと考えるようになった。
  先日、私は高卒の女友達と昼食に行った。無神経なことに、そこはグルメなサンドイッチ店だった。「パドリーノ」や「ポモドーロ」といったサンドイッチの名前、ソップレッサータ、カポコッロ、ストリアータ・バゲットといったサンドイッチの名前を前にして、彼女の表情がすぐさま凍りつくのを目撃した。他の店に移ろう、かと尋ねると彼女は不安げにうなずき、私たちはメキシコ料理店で食事をした。
   米国上位中間層のさまざまな機会に恵まれた文化は今、その階層でたまたま育っていなければ判読できないような文化的記号で彩られている。それらは、人が誰しも持つ、屈辱や排斥への恐れに訴えかける。「お前はここで歓迎されていないぞ」というのが主たるメッセージだ。
  エリザベス・カリッドハルケットは、徹底した分析による著書で、高学歴層は消費や富の誇示によって障壁を築いているのではないと主張する。むしろ、希少な情報を持つ者しかアクセスできない慣習を確立させることによるのだという。
  機会に恵まれた地域で居心地よく暮らすには、正しいバレエ・エクササイズをし、正しい抱っこひもを使い、ポッドキャスト、屋台、お茶、ワイン、ピラティスにいたるまで、正しい好みを持つ必要がある。当然、(現代作家)デイビッド・フォスター・ウォレスや、子育て、ジェンダーなどについても、正しい態度が求められる。
  高学歴層がはりめぐらす複雑な網は、自分たちを残してその他の人びとをゆすり落とす揺りかごのようだ。(高級食品スーパー)ホールフーズ・マーケットであなたと共に心地よく買い物をする客の80%が大卒である理由は、値段ではなく、文化的規範のせいなのだ。
 社会的地位に関するルールには、結束を促す機能がある。高学歴の人々を引き寄せ、相互の絆を強め、その他の人々を遮る。高学歴層が築いてきた流動性に対する障壁は、目に見えないだけに一層強力になっている。それ以外の人には、その障壁が何かを言い当てることも、理解することもできない。ただそこに壁があることだけは分かっているのだ。(©2017 THE NEW YORK TIMES)(NYタイムズ、7月11日付 抄訳)」朝日新聞2017年7月22日朝刊、11面オピニオン欄「コラムニストの眼」。 

  いわゆる文化資本の階層格差について、社会学はずっと注目はしてきたが、現代アメリカでこういう形で現れているのは、そうなのか、という気がする。それで思い出したのだが、大学生の時、ちょっとおしゃれなジャズ・サロンのような店があって、そこにたまたま後輩の女子学生とお茶に入ったことがあった。グランド・ピアノがあって時間が来ると客からリクエストをとって、ピアニストが一曲弾いてくれる。その日もリクエストでジャズのスタンダード名曲が次々流れたのだが、ウェイターがぼくたちの席にも来て「何かリクエストは?」と聞いた。彼女はジャズなど聞くような環境に育っていなくて、戸惑って「じゃ、リチャード・クレイダーマンの曲を」と精一杯カッコつけて言った。それは場違いなリクエストだから、ぼくはあわてて「いや、サテン・ドールをお願いします」と言ってフォローした。何か気まずい雰囲気が流れた。
  何かを知っていること、何かを知らないこと、些細なことなのだが、文化というものの階層的残酷さのようなものが図らずも露呈する。アメリカがそうなっているのなら、今の日本でもたぶんそれと似たようなことが起っていても不思議でない。
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