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読書と人生・清水幾太郎 3 社会学やったら…  安保3文書のなかみ

2023-01-11 22:33:13 | 日記
 A.昭和初年のマルクス・ボーイたち
 清水幾太郎は1907(明治40)年7月生まれで、東京帝国大学文学部に入学したのが1928(昭和3)年、満年齢で21歳だった。かれの育った少年時代は、西洋的近代化の進捗するいわゆる大正デモクラシーの東京で、日露戦争に勝った日本が、東洋の大国として経済的・政治的に発展すると同時に、第1次大戦とロシア革命を経て、マルクス主義が新しい革命思想として輸入されてくる時期でもあった。ちなみに明治40年生まれの人を拾ってみると、物理学者の湯川秀樹、経済史の大塚久雄、民俗学の宮本常一などという人もいるが、文学関係では火野葦平、高見順、中原中也、井上靖、平野謙、亀井勝一郎という人たち、政治家では戦後活躍する河野一郎、三木武夫、などは保守派だが、江田三郎、瀬永亀次郎などがおり、共産党の春日正一、そして一歳下だが宮本賢治がいる。ほかにも演劇関係の東野英次郎、岡田嘉子とロシアに行った杉本良吉などもいる。昭和の元年前後に、大学生とくに演劇や文学や社会科学を学んだ人たちは、ソヴィエト連邦が組織した共産主義による世界革命のセンター、コミンテルンからの影響を受けてできたばかりの共産党に関わる人がかなりいた。マルクス・ボーイが大学生の流行思想になり、その指導者として現れた英独仏留学帰りの福本和夫は、マルクスを原典で理解したと称する「福本イズム」を掲げて共産党の幹部として知的ヒーロー扱いされた。しかし、まもなく福本イズムは本家コミンテルンから批判され、失脚。共産党の活動を危険視した政府は、治安維持法をつくって徹底弾圧・検挙をしたのが、昭和三年の3・15事件だった。
 この共産党の結成から弾圧、そして壊滅までの1920年代の左翼運動を、明治40年生まれの人たちは、多感な青春時代に経験し、次に来る軍国主義と侵略戦争の時代を屈折した心で生き延びることになる。
 社会学者を志して高校から大学まで清水幾太郎が生きていた以上、彼がこの共産党を当時どう考えていたかは、非常に興味深いところである。しかし、この『読書と人生』にはそこに直接触れた記述は見当たらない。思想としてのマルクス主義についてはぽろっと出てくる。しかし、彼はマルクス主義にも共産党にも、それに具体的に関わるようなことは書かない。だから逆に、戦争末期に書かれたこの文章には、そこにあえて触れていない意図があると推測される。戦後の清水の言動は、平和運動、反米運動の論客として60年安保まで、派手に展開されて行くことからみれば、彼が大学にいた昭和の初めに共産党の弾圧、国家による「国体」の強制にたいして、何を考えていたのかは知りたいところである。  

 「三 脱出の方向   ト・アペイロン 
 関東大震災から暫くの間、私は何を読んだのか全く覚えていない。両国のバラックの図書館へは頻繁に通っていた記憶があるが、何を借覧したかは思い出せない。学校の帰途、徒歩で目白台から神田へ出て、古本屋を一巡して、それから、また本所の片隅まで歩いて帰るという癖が出来ていたが、神田で買った本といえば、仏教の入門書とダダイズムの解説書位のもので、両方とも著者と書名とを忘れてしまった。確かに書物は私にとっては大きな刺激であり力であったけれども、その当時の私には書物以外の刺激と力とが決定的な強さを以て迫っていたとしか思われない。本の力は他の諸力の背後に隠れていたのであろう。しかし他の諸力、私はこれについて書きたくない。そこで、今の
私としては、それに触れるのを避けて、この問題を処理して行くよりほかに道がない。
 体裁よく言うと、主として私の生活を突き動かしていた力は、次にあげる三つであったように思われる。第一に、私は何よりもまず青年であった。当時は今よりも瘠せていたし、時々ひどい熱を出して寝ることはあったが、その底には争われぬ若さがあった。気力があった。この若さと気力とは私を次々に新しい問題の前に立たせた。私は自分を試していたのであろう。かぼそく、」おどどどしながら、しかも私は漸く自分の力を信じ始めていた。そして自分のその力、その態度に気を取られて、ボンヤリしていることが多かった。
 第二に、私たちの一家が震災で受けた打撃は大きかった。どうして立ち直ることが出来たか、全く理解に苦しむのである。かなりの期間は、焼跡に焼けトタンの小屋を建てて住んでいた。私の家の裏側に広がっていたスラムは完全に焼けてしまったけれども、やがて昨日も一軒今日も一軒と小屋が殖えて、ほぼ元通りのスラムができあがるまでに、そう長い時間はかからなかった。その中を通じる路地は、そんなに晴天が続いていても、一足歩くたびに、下駄が泥水に沈む。土地が低いのと、下水が完備していないためである。そこで人間が生れ、人間が育ち、人間が死んで行く。私の家の後に、家中がレプラ患者である家族が二組、隣り合わせに住んで、何れも革細工を仕事としていた。私はその家の子供たちと遊んでいた。遊ばなければ悪いような気がしていた。最初私と友達になった頃は、何処にも異常はなかった少年が、暫くするうちに、成長と伴って、手の指の関節などに変化が起こって来る。変化は日を遂って進行する。彼の父親は狭い小屋の奥の暗いところに寝ていた。そのうちに父親は死んだ。私の友達は父親と同じ道を歩んでいるのであった。
 第三に、しかし私は既にあのドイツ語の『ファウスト』を丸善で買ったのである。これを買った日に私の運命の或る部分が決定されたと言ってよい。何とかして自分を学問との関係において生かしたいという願いが、『ファウスト』と一緒に固定してしまったのである。学問とは何であるか。もちろん、それは分らない。当時の私にしてみれば、学問とは何か特別の雰囲気という以上には何も摑めなかったが、その空気の魅力はもはや打ち消し難い絶対的のものでああった。だが例によって、学問が大切だ、と烈しく感じはするものの、それを準備する着実な散文的な努力を重ねて行くことはなかった。私の中学はイエズス会の方法を採用していたのであろうか、教室の机が成績順に並んでおり、級長の席はそこだけ一段高くなっていて、私はいつもそれに座っていた。先生の質問は必ず成績の一番悪い生徒へ向けられ、次第に上の成績の生徒へ進んで来ることになっていたから、質問が私のところまで来ることはなかった。私はこの制度のお蔭で予習も復習もやる必要はなく、謂わば怠け放題であった。私は怠けながら、そして周囲の様々な刺激に心を奪われながら、何もせずに、ただ学問が大切だ、と思い込み、その思いに昂奮していた。
 右の諸力を結びつけてみると、結局、私はかなり陰惨な状況の中で例の大望を学問と結びつけて抱きしめていたということになる。これを別の見地から眺めると、下町風のものと山の手風のものとが、私の内部で戦い合っていたことになる。私は下町の子。威勢のよいもの、歯切れのよいものが好きである。上品な、オットリした、澄ました、冷静な、つまり、山の手風の態度がどうも我慢できない。そういう山の手風の人々の間に入ると、ただ無闇に腹が立って、ことさら下品な言葉を使ったり、前後を弁えぬ軽率な振る舞いに及んだりする。べらぼう目、表六玉、という調子の言葉が、いくら抑えようとしても、出て来てしまう。けれども同じ下町といっても、日本橋と本所では全く違う。もし私が日本橋だけに住んでいたら、私の下町風の要素はもっぱら趣味的なものに終わってしまったろうが、本所の生活は趣味ではなく、寧ろ一つの問題を私に突きつけた。時代に追い越されて行く江戸の空気でなく、現在の秩序と約束から食み出したものを見せてくれた。山の手の連中がオットリと澄ましていられるのは、本所が見せてくれる現実にソッポを向いているからだ。私はそう言いたかったのであろう。べらぼうめ、などと口では言いながら、私は和服を好まなかった。白足袋で角帯というような下町趣味は唾棄すべきものと感じた。
 私は山の手が嫌いである。その頃は主として山の手の官吏や会社員が利用していた省線電車やバスは、なるべく乗らないことにしていた。少々時間がかかっても私は汚い市電の方を選んだ。しかし私にとって下町と山の手という問題はそう単純ではない。『ファウスト』は、どう力んだところで、所詮下町のものではないからである。私が漠然たる感情のままに自分を託している学問というもの、これは決定的に山の手のものである。この意味で私は山の手に対して拭い得ない劣等感を抱いていた。中学の二年生か三年生の時、大西祝の『西洋哲学史』に材料を仰いで「アナクシマンドロスのト・アペイロンについて」などという滅茶苦茶な演説を試みたのも、劣等感に対する私の挑戦であり、それ自ら劣等感の告白であったに違いない。実はあの嫌いな山の手の仲間に入れて貰いたかったのだ。劣等感の問題については、私はどうしても与謝野麟のことを書かずにいられない。麟は鉄幹晶子夫妻の何番目かの息子であり、中学で私と同級であった。彼は別に秀才ではなかったが、背後の家庭のために、先生たちはみな彼に一目置いていたし、彼自身もよくこれを知っていて、時々、シニックな奇矯の行動に出ていた。私は彼の富士見町の家へも、また後には荻窪の家へも行ったことがあるし、今から思えば、私は彼の言葉は全身を耳にして聞いていた。麟は便箋を綴るのに鼻糞を用いたりして屡々私を閉口させたが、彼がただ上品で冷静な山の手風でなかったことが私には大きな仕合せであった。私は彼を通して、自分の目指している世界を盗み見ようとしていた。私は山の手は嫌いだが、山の手に頭を下げねばならなかった。
   ガブリエル・タルド 
 ガブリエル・タルド(Gabriel Tarde)にLes lois sociales, 1899という小冊子がある。社会現象における反覆、対立、適応の三側面を簡潔に描き出した書物である。この本は風早八十二氏が『タルドの社会学原理』という表題で翻訳、岩波書店から出版されていた。初版は震災直前の大正十二年八月、私の持っている第二版は大正十三年三月。私は中学の四年の時にこの本を買った。いくら読んでも理解できない。錦糸堀から江戸川橋までの市電の中でこれを読んだことを覚えている。この本は今も私の机辺にある。私とこの書物とが結ばれた事情について少し述べなければならない。
 目的地のない脱出を企てていた私は、大正十三年の前半に、漸くその方向を決定することが出来た。或る晩、火事があった。火事と聞くと、私はいつも自転車を飛ばせて見に行くので、その夜も随分遅かったが、早速駆けつけた。火事は、本所から川を一つ距てた亀戸の大きな紡績工場であった。燃えているのは、裏手の方の建物で、表門の方は無事である。しかし私は表門に犇めいている女工たちの群れを見た。高い鉄の門は固く閉ざされている。女工たちはみな寝間着を着て、手に風呂敷や竹行李を持っている。女工の宿舎が焼けているのだと言う。火は次第に表門の方へ廻って来て、煙で呼吸が苦しい。だが門を閉じているので外へ出られない。女工たちは「門を開けてくれ」と泣き叫んでいる。何時まで経っても、門は開かない。私は門を手で押したり引いたりして見たが、勿論動きはせぬ。「門を開けたら、女工が逃げてしまうから、会社は開けはしないさ。前借ってものがあるからね」と火事見物の一人が言う。
 火事はやがて消えた。しかし私は家へ帰ってから眠られなかった。早く鎮火してよかったと思いながら、何となく物足りなかった。馬鹿にされたような感じである。現実に欠けているものを、私はソロソロ観念の上で補い始めていた。私はそこに巨大な不正の姿を見たと信じた。私はこれを頭の中で一つの問題に纏め上げた。やがて、私は見たもの、感じたもの、考えたものを表現したいという衝動を抑えることが出来なくなった。表現しないことは、不正の味方をすることにほかならぬ、と自分に言い聞かせた。
 火事の数日後、学校で弁論大会があったように覚えている。雨の降る日であった。ハッキリしないが、四年生の一学期であったろう。私は早速この火事の事件について演説した。その場の情景、泣き叫ぶ女工たちに対する同情、門を開けようとしない会社への非難。」私は喋っているうち、次第に誇張と潤色とを加えて、話を面白くしてしまった。聴衆である生徒たちの反響について何も記憶に残っていないが、「恬として恥じざる態度」という言葉を私が用いたことだけは覚えている。私の演説が終わるや否や、隣席の生徒監鯨井砲兵大尉が私から心覚えの草稿を取り上げ、「こっちへ来い」と生徒監室へ私を連れて行った。鯨井先生は自ら私の草稿を読み上げた。その中に「恬として恥じざる態度」という言葉があった。先生はこれを「カツとして」と読むのである。私はおかしくて堪らなくなり、「これは、テンとして、と読みます」と訂正してあげたところ、「余計なことを言うな」とまた叱られた。
 私は翌日も翌々日も調べられ、処分されることになった。私はここで加藤光治先生について書かねばならない。先生は国語の受持で、私が中学にいる間、私たちのクラスの担任であった。時々、私は先生に向かって生意気な質問を試みたが、先生は何時も最後まで相手になって下さった。その後、私も教壇に立つ身になったものの、先生が私に示されたような態度は、私には真似が出来ない。どんなことがあっても、先生は私を絶望させなかった。先生は私の成長だけを考えてくれた。演説のため処分されようとした時も、最後まで私を庇ってくれたのは先生であった。
 先生は中野の鷺宮におられる。もうずいぶん老人になられたことであろう。私はいくら感謝しても感謝しきれないものを先生に負っている。けれども先生が私に教えてくれた最も重大な一点について、私は先生に感謝すべきか或いは先生を恨むべきかに迷わざるを得ないのだ。この事件があってから間もなく、私は先生のお宅を訪ねた。更めてお詫びする気持であったのだろう。その時に、先生は、「君などは社会学をやった方がよい」と言われた。私は思わず唸った。それに限る、それ以外にどんな道があるというのか、いや、それは何年も前から決まっていたのではないか、そうだ、社会学ということにしよう、とその場で決定した。先生は国語の受持であったが、古い社会学者である遠藤隆吉氏に師事されたこともあって、社会学について若干の知識を持っておられたのである。こうして万事は先生の一言で決定した。と言うより、私の軽率な早合点で決定したと言うべきかも知れぬ。そうではない。そうは思いたくない。それよりも、以前から私の内部に醗酵していたものが、ここに一つの爆発を遂げたと見るべきであろう。社会学は一つの学問である。丸善、『ファウスト』、ト・アペイロン、与謝野麟という系統に属している。これは疑いない。その上、社会学は本所のスラムと深い関係がある筈であり、また亀戸の紡績工場の事件とも繋がりがあるに決まっている。社会学というのは、きっと威勢の良い学問であろう。下町と山の手との間に一本の道を発見することが出来たのである。
 先生を訪ねた翌日であろうか、私は神田で『タルドの社会学原理』を買った。難しくて判りはしない。しかし私は、手応えがある、遣り甲斐がある、などと勝手なことを考えた。
 脱出の方向は決まった。決まったとなると、何とかして手段を素通りしたいという我儘な性質から、もう矢も楯も堪らなくなり、それと同時に中学の生活が日増しに馬鹿らしくなって行く。一日も早くこの中学から逃走せねばならぬ。何かの機会に、私は同級生に対してこういう態度を露骨に見せたに違いない。彼らが大勢で私を撲ったりしたのも、恐らくそのためであろう。電車の中で、それも乗客の目の前で、私に短刀を貸してくれて、加勢してやるから復讐しろ、と言ってくれた仲間があったが、私はその好意だけを受けることにして、翌日そのまま短刀を返した。私の仲間には、人生意気に感ずという調子の不良の連中が多かった。この事件は私を益々せきたてて、中学からの逃走という願望を強めることになった。大正十四年に東京高等学校に入学した。もし入学試験に落第したにしても、私は中学の五年生にはならなかったであろう。用意のため、私は、私立大学の予科を二つ受けて合格しておいた。しかし幸いに高等学校に入ることが出来た。入ると直ぐ、日本社会学会の会員になった。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977年、pp.33-41. 

 清水幾太郎という人が、ドイツ語文献を読む知的能力において、同級生たちを軽蔑するほど卓越していたと同時に、どこまでも自己を恃みわざと難しいものを読もうと高望みをする、鼻持ちならない少年だったことがわかる。それは山の手の有閑階級の息子たちへの劣等感と裏返しの優越感を、ドイツの社会学に接近することで満足させていた。


B.今までの自衛隊ではないとすれば…
 先月、自民党の提言をもとに安保3文書の改定が閣議決定された。それは具体的にどういう内容なのか?今までの自衛隊が基本としてきた「専守防衛」「文民統制」という考え方が消えたか、限りなく薄まっている。それはなぜそうしなければならないのか?そしてこの重要な問題を、国会で説明と議論もしないというのは、議会制民主主義の軽視または無視ではないのか。とりあえず、朝日新聞に(しかも片隅の31面に)解説らしきものが載っていた。

 「安保3文書で組織改編 自衛隊に「常設の統合司令部」 震災の教訓 陸海空を一元運用
 敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有が新たに盛り込まれ、昨年12月に改定された安全保障関連の3文書では将来の自衛隊の在り方も示された。「防衛政策の大転換」とされるこの節目で、自衛隊の組織は大きく変わることになる。
 3文書に示された組織改編の方針のうち、最も大きな変更点は「常設の統合司令部の創設」だ。「国家防衛戦略」で「陸海空自衛隊の一元的な指揮を行い得る常設の統合司令部を創設する」と明記。「防衛力整備計画」では設置時期が「速やかに」と記述された。
 現在の自衛隊の制服組(自衛官)トップは統合幕僚長(統幕長)で、陸海空の自衛隊部隊を使う立場にある。ただ、倒幕長は防衛相を補佐する仕事に忙殺され、部隊を使いこなす余力が少ないとの指摘があった。そこで今回、部隊を指揮する機能を常設の「統合司令部」に与え、統幕長は防衛相の補佐に専念する形とすることになった。
 統合司令部の創設は、東日本大震災当時に幕僚長だった折木良一氏が訴えてきた。折木氏は被災者捜索や原発事故対応など多岐にわたる任務を指揮しつつ、官邸や防衛相、米軍との調整も同時進行させた。原発への放水では自衛隊と警察、消防、東京電力などとの調整も必要だったという。
 そんな経験から「部隊指揮に手間取ることは致命的な結果をもたらしかねない」と折木氏は指摘する。こうした提言を受け、陸海空の各自衛隊の運用を一本化する統合司令部を常設して統合司令官を置き、日常から全体を把握する仕組みに大きく変わる。
 ただ、防衛相内には「自衛官トップが統幕長という点は変わらない。統合司令官に部隊指揮を任せても、統幕長が統合司令官に指示するなら、組織の結節点が一つ増えるだけでむしろ効率が悪くなる」との声も。「防衛省を補佐する仕事に倒幕長が専念すれば、官邸との距離も近くなる。また、部隊との距離ができて部隊指揮への政治の関与が難しくなる可能性があり、文民統制(シビリアンコントロール)が利きにくくなる」との指摘もある。
 設置場所をめぐっても省内の各組織で意見が割れている。事務官が属する内局や海自は東京・市谷の本省、陸海空自衛隊をまとめる統合幕僚監部や陸自は東京。練馬の朝霞駐屯地をそれぞれ推しているとされ、主導権争いの様相も呈している。来年度予算に関連経費は盛り込まれておらず、設置時期は数年先になりそうだ。
 沖縄周辺重点化 イージス艦増強 
 陸海空の各隊では、陸上自衛隊の姿が大きく変わりそうだ。「防衛力整備計画」には、那覇市を拠点とする第15旅団を「師団に改変する」との方針が示された。定員最大4千人程度の旅団に対し、師団は定員最大8千人程度。これまで以上に沖縄県周辺に部隊を重点配備することになる。
 その上で、相手の射程外の離れたところから攻撃することを担う「スタンド・オフ・ミサイル部隊」の設置が盛り込まれた。新たに可能とする敵基地攻撃を担う部隊だ。
 一方、陸自が持つ戦闘用と情報収集用のヘリコプターを廃止し無人機に置き換え、常備自衛官定数のおおむね2千人を海上自衛隊や航空自衛隊などに振り分ける「縮小策」も記された。海自はイージス艦を8隻体制から10隻体制に増やす。米国製巡航ミサイル「トマホーク」を搭載させ、敵基地攻撃の主力とするという。
 空自は「航空宇宙自衛隊」に名称を変更し、宇宙分野の部隊を拡充する方針が示された。この名称は、安倍晋三氏が首相当時に自衛隊幹部が集う会議で言及していたものだ。
 陸上自衛隊北部方面総監や防衛相補佐官を歴任した志方俊之・帝京大名誉教授(安全保障)は、こうした変化について「予備自衛官で補える陸を減らし、専門性が高い海空に振り分けた」とみる。そのうえで、「統合司令部創設でますますシビリアンコントロールが重要になる。防衛相周辺の事務官を増やすなど政治の自衛官統制を強める仕組みを作り、組織改編を実効性のあるものにする必要がある」と話す。 (成沢解語)」朝日新聞2023年1月11日朝刊31面社会・総合欄。

 戦後の自衛隊創設にあたって、多くの議論がなされ、とくに憲法9条の規定からすれば、ありえない軍事組織を作るうえで政府もいろいろな約束をした。しかし、「日本を取り巻く安全保障環境の激変」という抽象的な状況認識を理由に、根底から自衛隊を作りなおそうとする自民党の構想は、あまりにアメリカの影が深く投影しているようにみえる。
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