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 水墨の美 6 禅僧と山水画   イタリアの慰安婦像

2024-09-07 16:02:22 | 日記
A.「水墨」の窓口としての禅宗
 「和」の伝統というとき、たとえば茶の湯とか華道とか、謡とか日本舞踊とか、あるいは「和室」や「和装=着物」とかという具体例がたくさんある。茶室は小さな木造建物だけれど、畳を敷き詰め、障子や襖で囲われ、床の間に掛軸や花卉が置かれ、着物を着てそこに座って茶と菓子をいただく作法が決まっている。外には池に石が置かれた庭が見える。これぞ現代にもしっかり残る「和の極致!」ということになるが、これらはみな鎌倉時代までの日本にはなかった。源氏物語が書かれた平安時代には、宮殿に障子はなく床は板の間で畳は敷き詰められていなかった。貴族たちが来ている衣装は、のちの着物とはだいぶ違っていた。
 要するに「和風=日本文化の原型」はみな中世室町時代に生まれたもの、といっていい。筆墨で文字や絵を描くことは、平安貴族も得意だったけれど、床の間に飾る掛軸や襖に絵を描く水墨画は、宋から元、そして明という中国で発達したものが日本に伝わって人気になったことからくる。そして、それは主に禅僧によって持ちこまれた輸入文化だった。書院造りも床の間も禅宗寺院の影響から生まれてくる。この中国直輸入の貴重品は「唐物」と呼ばれた。物だけでなく本場の中国から禅僧もやってきた。同時に、中国の文化に憧れて彼の地に渡る日本人も出てきた。
かつて遣隋使・遣唐使として中国に渡るにはたいへんな苦難を越えなければならず、選ばれたエリートだけが留学を果して帰国したけれど、ごく少数だった。しかし、15世紀の室町時代になると、もちろん海を越えるのは楽ではないが、人も物も交流は盛んになり、足利幕府は遣明船を出して貿易を図った。そうした風潮の中で、中国文化の直輸入から「日本化」へとすすみ、それが建築や書画骨董や文学、そして水墨画の伝統にまでつながっている。

「大きく変化したのは、平安時代の末から鎌倉時代にかけて。中国から新たな文化の波が入ってくるのだが、その主な窓口となったのが禅宗だった。「日本文化」は行き詰ると、新たなものを求めて外へと目を向ける。平安時代の末もその時期で、天台宗の行き詰まりから特に仏教界でそれが起きることになった。比叡山から出た僧侶たちのなかには、法然や親鸞のように国内でどうにかしようとした人の一方に、聖地である中国そしてインドへと思いを馳せた人々がいた。臨済宗を伝えた栄西や曹洞宗を伝えた道元、そして新たな律宗を伝えた俊芿(しゅんじょう)など。
 しかし「水墨」にとってより重要なのは、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(1213~1278)や無学祖元(むがくそげん)(1226~1286)といった来朝僧である。生粋の中国人が、本場の禅と中国文化を身にまとってやってきたのだから。蘭渓は、寛元四年(1246)に博多に着き、京都を経て北条時頼(ほうじょうときより)の招きで鎌倉に入る。異国での布教を考える僧が、一人で乗り込んでくるはずはない。中国流の寺院システムを運営するための最低限のスタッフは同行したはずだ。名が知られるのは、弟子の義翁紹仁と龍江応宣くらいだが、寺も建てねばならないし、儀礼に必要なものもある。仏画や「頂相(ちんそう)」と呼ばれる僧の肖像画も必要だから、画師(画僧)も連れてきたに違いない。
 そして、建長五年(1253)に、時頼のパトロネージで完成したのが建長寺、中国風の大寺院で「完全にあちらと同じ」というわけにはいかなかったが、左右対称を基本に、いわゆる七堂伽藍が整然と建ち並び、母国から持ってきた、またこちらで作られた中国風の彫刻や仏画が混じるなか、寺内では中国語が飛び交った。いってみれば、鎌倉駅前にハーヴァード大学の分校が出現したようなものである。
 水墨の世界で、その雰囲気を感じさせるのが、「達磨図」(向嶽寺)と「蘭渓道隆像」(建長寺)。ともに画上に蘭渓の賛(さん)(像主を賛嘆する詩文)があるのだが、どちらもかなり本格的な「中国風」なのである。禅をインドから中国へ伝えた達磨のがっちりとした体は、力強く抑揚のある濃墨の線で、インドアーリアンらしい彫りの深い顔立ちは、鋭く細い線で、えがき込まれている。こういう堂々たる立体感とリアリティは、日本の画にはあまり見られないもの。蘭渓の頂相も、衣には丁寧に立体感がつけられて、その風貌がリアルに再現されている。
 日本の水墨としては最も早い時期の画なのだが、どちらもとても完成度が高く、蘭渓が連れてきた中国の画師(画師)か、そのもとで鍛えられた日本の画師(画僧)がえがいたものらしい。異国の美術を受け入れるとき、モノだけがやって来るのと、作り手が技術と現地の感覚をともなってくるのとでは大きく違う。画だけを見ての「見よう見まね」では、最初は下手でだんだんと上手くなるのだが、「最初が立派」なところに、この時代の特徴があった。
 この時代の禅宗は、日本の歴史のなかでも稀にみる「国際性」を持っていた。蘭渓の後にも中国の僧の来朝は続き、こちらからも数多くの禅僧が禅の本場へと留学して、彼の地の情報や文物を持ち帰る。寺院のシステムから漢詩文、書画や工芸や茶……。禅だけではなく、同時代の中国文化が、この窓口を通じて流れ込んだ。留学して中国語を覚え、禅宗寺院が中心ではあるが、各地を旅してあちらの文化を実感する。絵画についても、どのようなものがどのように使われ語られているかを知っていた。
 日本で「水墨画」が「禅」に結びつけられるのも、このような事情のためである。たとえば栄西が伝えたという「茶」も、中国ではもちろん禅宗の専売特許ではなく、富裕な人々の一般的な飲み物だった。禅宗と禅僧が、中国文化全体の受け皿となっていたために、持ち込まれたすべてに「禅」のレッテルが貼られる傾向が生じたのである。「水墨」も同様で、禅宗寺院にもさまざまな性格の書画があった。
 それを垣間見せてくれるのが、鎌倉の円覚寺にある『仏日庵公物目録(ぶつにちあんこうもつもくろく)』という所蔵品のリストである。円覚寺は、蘭渓道隆に次いでやって来た無学祖元を開山として、時の執権・北条時宗(ほうじょうときむね)が建てた寺。仏日庵は、その時宗を祀るところで、その什物は最高権力者のコレクションの面も持っていた。
 記された書画をざっと見てゆくと、まず「頂相」が四〇幅ほどあり、その後にさまざまな画壇がならんでいる。布袋・寒山拾得(かんざんじっとく)らの「散聖(さんせい)」は、すぐ後で紹介するように「禅の水墨」に独特なもので、またまた呂洞賓(りょどうひん)・鍾離権(しょうりけん)といった道教の仙人がおり、龍虎の対幅も禅寺でよく目にする水墨の画題である。
 一方で、猿や猫の絵に宗教色はなく、墨梅・墨竹は「水墨四君子」と呼ばれる中国の文人画の典型的な画題の二つ。そして数は少ないが山水画もあって、画のメニューはかなり揃っている。書では、禅僧の書である「墨蹟」に交じって、張即之(ちょうそくし)という書で知られた南宋の文人の名も見える。さらに後ろの方には、筆・筆架(ぴつか)(筆置き)や硯などの文房具も見える。全体として見れば、あちらの禅寺にあったものが一セット、そっくりやって来たという雰囲気で、そのなかに「水墨」もあった。
 あちらの文物を取り入れるうえで幸運だったのは、初期の留学僧たちが目指した江南に中国の都があったこと。宋王朝は、北方の女真(じょしん)の王朝・金に追われて南へと逃れ、建炎元年(1127)に杭州に仮の都を置く。
 宮城があったのは今も観光地として賑わう西湖(せいこ)のほとり。古来の景勝地で、文人墨客の遺蹟も多く、湖のなかに伸びる白提(はくてい)・蘇堤(そてい)は、それぞれ唐と北宋の大詩人、白居易と蘇軾が築いたもの。湖中の孤山は北宋の隠逸の詩人・林逋(りんぽ)(林和靖(りんなせい))が籠もっていたところ。そんな豊かな文化のイメージに加えて、仏教の聖地でもあり、湖は数多くの寺院に取り巻かれていた。禅宗寺院も「五山」と呼ばれるトップランクの五つの寺のうち、第二位の霊隠寺(りんにんじ)がここにある。
 そのような地に、皇帝と官僚そして画院の画家たちもやってきたわけである。そもそも西湖の周囲は15キロほどしかない。この小さな地域に、政治と宗教と芸術そして江南の都市文化が折り重なるという、中国の歴史のなかでも稀な状況が生まれたのである。杭州市街の南西に置かれた宮城も、広大とは言い難いものだった。北京も都の機能のすべてを備えてはいるが、広大かつ人工的な大都市で、雰囲気はまったく違う。
 「上に天堂有り、下に蘇杭有り」と、蘇州とともに地上の楽園にたとえられた杭州には、この距離感のなかで細やかで濃密な文化が育ち、絵画にも小ぶりだけれど神経の行きとどいたものが生まれてゆく。皇帝に庇護された禅宗の世界でも、すぐそばに画院画家がいるという環境のなか、「禅の水墨」が洗練されてゆくのである。その杭州が元の攻撃にあって無血開城するのが1276年。それまでに入宋した初期の留学僧たちは、この都の空気を吸うことができた。そこで洗練された「禅の水墨」のなかから、最も特徴的な水墨の人物画を見ておこう。
  牧谿の「老子図」
 「老子図」は、南宋を代表する禅僧画家・牧谿がえがいたもの。画面に見えるのは、いやな目つきの鼻毛がぼうぼうとはえたおっさんで、とても偉大な思想家には見えない。後に「東山御物」と呼ばれる足利将軍家のコレクションの大名品、といっても素直に納得する人はまずいないだろう。「洗練された禅の水墨」の最初の例がこれ、というのもどうかと思ったが、この種の水墨の特徴からよくわかる。
 まずは目。すこし横長の濃墨の点が打たれているだけだが、一筆でやや宙に泳ぐようなまなざしまで表現できているのはすごいこと。それ以前の問題として、素人がやると両目の視線がずれてしまうことが多い。着衣の線は震えているが、こんな線しか引けなかったからではない。わざと震わせて、老子の着衣の「よれよれ感」を表しているのだ。そして伸び放題の髪や髭や鼻毛に、口も細かいところは分からないが力なく開いた雰囲気が出ている。数少ない筆でここまでえがき出しているのだから、やはり「名品」なのである。
 それにしても、なぜこのような変わり者がえがかれるのか。いまは「奇人」というとマイナスのイメージがあるが、本来は悪い意味ではない。たとえば、荘子は「畸人(奇人)とは人に畸りて、天に侔しきものなり」(『荘子』「大宗師」)といっている。「奇人」は、ふつうではないけれど天の道――世界の原理――に通じている。逆にいえば、道に通じた人は、こざかしい世間のルールなどには縛られない。見かけなど気にすることはないから、ふつうでない方が当たり前なのである。
 老子は耳がとても大きいので「老耼」というなど、身体的な特徴が加わることもある。この画の人物も耳が大きいので「老子」と呼ばれているのだが、牧谿の自画像ではないかという説もある。いずれにしても漂うのは「奇」の雰囲気で、それが「禅の水墨」の獲得した人物画の表現でもあった。
 禅は生真面目な僧よりも、破天荒なタイプを好む。弟子を接化(せつけ)(指導)するに当たっても、「臨済の喝、徳山の棒」といわれるように、臨済宗の祖・臨済義玄(りんざいぎげん)(?~867)はやたらと怒鳴り、同じ時代の徳山宣鑑(とくやませんかん)(780~865)は棒でひっぱたく。小舟に寝起きして、教えを乞いにやってくる層を、櫂で水に突き落とした船子徳誠(せんすとくじょう)のような人もいる。それを代表するのが「散聖」と呼ばれる、正統な僧ではなく奇行で知られ、しかし「道」には通じた人たち、独特のキャラクターと風貌で、「禅の水墨」の好画題となってきた。
 まず挙げられるのは、森鷗外の短編でも知られる寒山拾得だろう。唐時代に天台山――浙江省の東北部にあり、六世紀に智顗が天台の法門を開いた聖なる山――に居たとされる伝説的な人物で、寒山は山中の寒巌という洞窟に住み、拾得は寒山に拾われて、天台の本拠・国清寺の庫裏(台所)で使い走りや釜たたきをしていた。乞食のようななりをして、ぶつぶつとひとりごとをいい、人々を罵倒し、また高笑いをする。正気ともみえないのだが、いうことはいちいち「道」にかなっていたといい、寒山は文殊の、拾得は普賢の化身ともされた。
 とくに寒山には『寒山詩』と呼ばれる詩集があって、気ままに暮らす風狂の達道の「楽道」(仏教の道を楽しむ)の象徴的存在とされてきた。実在は疑われる人たちだが、世俗を罵倒し超越する独特の「笑い」が彼らの表象となっている。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.117-124.

 「寒山拾得」という人がいるのではなく、寒山と拾得は別人なんだけど、「奇人変人」で脱俗散聖の象徴になっている。これは禅の仏教思想というよりは、荘子などの道教に近いな。


B.イタリア・サルディーニャの慰安婦像
 従軍慰安婦を描いた少女像は、日本ではさまざま物議を醸す危険物のような扱われ方もするが、遠いヨーロッパのそれも地中海の島、イタリア領のサルディーニャ島の海辺に設置されたというニュースがあった。どうしてここに?と聞けば、以下のような事情らしい。

「慰安婦の記憶 伊の地でも 性暴力への警戒喚起 「日本への嫌がらせではない」
 旧日本軍の慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」が6月、イタリアに建てられた。設置を支援した韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義蓮)は、近い将来に全ての元慰安婦がなくなっても、被害の記憶を伝える活動を続ける方針を示している。日本政府が撤去を求める中、あくまで設置を続けるのはなぜか。李娜栄(イナヨン)理事長(56)に聞いた。(聞き手=ソウル・木下大資)
 -イタリアに少女像を設置した経緯は?
 元教師でBTS(K-POPグループ)ファンのイタリア人女性が韓国の歴史に興味を持ち、私たちに連絡してきた。性暴力への警戒心を喚起するため、地元に少女像を立てたいと考えたようだ。現地のスティンティーノ市長は人権弁護士出身で関心が深く、話しが早く進んだ。最終的に正義蓮が同市に提案する形を取り、像の制作費と運送費も負担した。
 -海外で少女像の建立を進めようとしているのか。
 その地域の要請を受けたときだけ支援するのであって、正義蓮がどこかに「必ず建てる」という意図を持って進めることはない。私が理事長に就いた2020年につくった内規で、海外の公共の場所に建てる場合に限り費用などの支援ができる。ドイツ・ベルリンの少女像などが該当する。韓国内に約140体ある少女像については、11年に前身の韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)がソウルの日本大使館前に設置した1体を除き、まったく干渉していない。
 -日本では少女像に否定的な反応が強い。日本政府も世界各国への設置に抗議している。
 少女は過去にあった痛みを記憶し、亡くなった方々を追慕し、現在も起きている戦時性暴力と、日常の性暴力に対する警戒心を喚起するものだ。日本への嫌がらせや、攻撃するような意味はない。日本政府が像を撤去しようとする過剰反応を続ければ、むしろ韓国人の敵対心を刺激する。実際、韓国内にある少女像の多くは、15年の日韓慰安婦合意で像の撤去問題が浮上して以降に建てられた。
 -今後の正義蓮の活動方針は?
 少女像の建立を特別に重要な事業とは考えていない。最も重視しているのは慰安婦問題関する資料の整理や保存、博物館の活性化だ。現在9人が生存している被害当事者が亡くなれば、運動の熱気は下がるかもしれないが、日本政府が責任を認めなければこの問題がなくなることはない。重要なのは、より良い世の中をつくるために(被害者の)記憶をどのように継承するかだ。」東京新聞2024年9月4日夕刊3面。
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