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読書と人生・清水幾太郎 2 中学・高校時代  今年の予測

2023-01-08 21:00:51 | 日記
A.独逸学協会学校中学と東京高等学校
 のちに社会学者になる清水幾太郎は、日露戦争後の1907(明治40)年に東京の日本橋両国に生まれた。彼の家は旧幕時代旗本だったというから、浅草橋門内にあった武家屋敷に住んでいたとしても、日本橋は繁華な下町である。維新後没落した士族の一家は、竹の取引で辛うじて生活していたが、清水が中学生になった頃、さらに没落して川向こうの本所(亀戸辺り)に転居する。そして1923(大正12)年9月1日の関東大震災で一家は焼け出され、焼跡の掘立小屋で暮らす罹災者になった。それでも、彼は関口台の独協中学に通い続ける成績の良い生徒で、3年を終えたところで中野にできた旧制高校の東京高等学校に入学する。独協中学は、ドイツ語学習を中心とした独逸学協会がつくった旧制中学で、他の中学では外国語学習は英語を必修にしていた。この時代、英語ではなくドイツ語を学ぶのは、特にドイツ医学を必修化していた医学校志望の生徒に人気だった。清水は医者志望でもなかったが、ドイツ語を学ぶことに優越感を感じたようだ。本所・亀戸から江戸川橋・関口台の学校に通うには、市電を使えばよいが、彼は帰路かなりの距離をよく歩いたという。若いから平気で歩いたのだろうが、途中に神田の古書店街に立ち寄って、書物とくにお目当ての洋書を手に入れるのが楽しみだったようだ。旧制中学生は子どもといっても、大正時代には東京大阪でも同世代の3割くらいの進学率で、さらにその先の旧制高校はエリート養成の難関だったから、「意識高い系」生意気な中学生(しかも当然男子校)が多かった。14歳の清水幾太郎も、かなり背伸びした生徒で、ドイツ語やるならゲーテ『ファウスト』を原書で読んでみようと丸善で『ファウスト』を買う場面が出てくる。

 「二 本所の片隅   ファウスト
 大正十年の初夏、私は緊張した顔で丸善の本店の階段を上って行った。私は中学の一年生であった。店員は私を二階左手の奥へ連れて行って、梯子をかけて、上の書棚から水色の表紙の本を出してくれた。クレーナー版の「ファウスト」(Faust, Kroners Taschenausgabe)である。値段は七十銭。私は本を受取ると、威圧するような周囲の空気から一刻も早く逃れるために、そのまま階段を駆け下りた。壁を蔽う夥しい外国書、床に敷きつめた赤い絨毯、それをとめている真鍮の金具、いや、窓から差し込んでくる日光さえ、一年生の私にとっては、何か圧迫するような威厳を備えたものであった。しかしドイツ語の『ファウスト』は私の手にある。私は家へ帰って、Faustという語を小さな独和辞典で引いた。この辞典には、ファウスト伝説のことも葉、ゲーテの作品のことも書いてなくて、ただ「拳骨」と出ている。ああ、『ファウスト』とは拳骨のことであったのか。だが拳骨であろうと、何であろうと、とにかく、『ファウスト』はすでに私の手にある。私は亀子文字を辿りながら、声を出して読んでみた。『ファウスト』と共に、、丸善と共に、私の生活の中へ一つの新しい力が現われて来たのであり、その力は私の脱走に決定的な方向を与える役割を果たすものであった。
 『ファウスト』を買った日から二年ばかり前、私の一家は日本橋の両国から本所の片隅へ移り、同時に職業が変わった。同じ下町といっても、江戸時代の繁栄と趣味とをとどめている日本橋と、工場の煤煙の下にスラムの人々が蠢いている本所とでは、何も彼も違う。私は容易にこの新しい生活に慣れなかった。本を読むどころの騒ぎではなかったのであろう。何を読んでいたか、私は全く記憶していない。やがて私は小学校を卒業したが、それからどうするという見当もついていないので、或る人の勧めるままに、神田の某商業学校に入った。今日と同様、その頃の私も少し軽率であったのであろう。商業学校に入ったものの、毎日の簿記と珠算とに閉口して、というより、学校の空気が嫌になって、一学期が終わらぬうちに退学届を出してしまった。夏休になる頃から、何処かの中学に入ろうと考え、方々の中学の受附を訪れてみたが、誰も真面目に相手にしてはくれない。仕方がないので、二学期から日本橋の高等小学校に入れて貰った。勿論この学校を卒業するという気持ちはなく、三学期が終えたら中学へ行こうと考えていた。私がある易者を訪れたのも、やはりその頃であったろう。彼は私の顔をつくづく眺めて、医者になる方がよい、直ぐ博士になって、直ぐ金持ちになる、と断言した。そこで私は、当時医者を志望する少年が集っていた独逸学協会学校中学へ行こうと決心した。しかし、正直に言って、私には医者であろうと何であろうと、それはどうでもよいことで、私の一家が置かれている現状、私自身が立っている境遇、そこから逃走することが出来さえすれば、それで満足なのであった。私は心の半分で医者になった自分の姿をぼんやりと考えながら、この由緒ある、そして今は見る影もなく微禄した中学の門を潜った。大正十年の春から大正十四年の春まで、私は亀戸に近い本所の片隅から目白台の中学へ通った。
 中学生といえば、英語をやるものと決まっていたのに、自分はドイツ語をやるということが、一種の誇りであった。ぼくはドイツ語をやっている、と誰かに話したところ、その誰かは、それなら『ファウスト』を読まなければ駄目だ、と言う。猿飛佐助の忍術や、有本芳水の詩で育てられて来た私にとって、『ファウスト』が何であるか判る筈はなかった。野球のファーストに似ているなどと心のうちで考えたが、何れにしても、これはきっと大変なものに違いない、と思い、そして丸善へ駆けつけたのであった。
   焦燥という方法 
 『ファウスト』は買った。けれども漸く初等文典の中途まで進んでいるという程度のドイツ語では、いかに丹念に辞書を引いても、見当のつく訳はない。私は時々大声を上げて朗読して、それで満足することにした。私にとって、『ファウスト』の意味はむしろ象徴的なものであったと見る方がよい。それは小学校の二宮先生や図書館の八木さんが抱いていた大望と深い関係があるものであった。それは私の周囲と内部とに亙って縺れ合い戦い合っている様々の要素に取捨を加えて、これをある方向に統一して行く上に一つの役割を果たしたのである。そこには、私が大望を遂げるために片時も見失ってはならぬ何者かが潜んでいる。そう私は信じた。しかし『ファウスト』の難しさと、現在の自分のドイツ語の力、この二つのものの距離は、見渡すことの出来ぬほど大きい。一度『ファウスト』のことをかnが得ると、ただ毎日の課業を滞りなく果たして行くということに、、一体、どれだけの意味があるのか。抑々この速度で進んで行って、あの広大な距離を埋め尽くすことが可能なのであろうか。私は忽ち焦り始めた。そして、私は到頭我慢が出来なくなった。一冊の独習書を買い込み、、ひとりでドイツ語を先へ先へと勉強して行った。
 焦燥と粗忽とは何時になっても私から離れない。考えてみると、慌てて『ファウスト』を買った流儀は、その後の私が幾度となく繰り返して来たものにほかならぬ。ドイツ語は中学で四時間、高等学校で三年間やったから、或る程度まで物になったが、他の語学の場合は、焦燥と粗忽とだけを方法として進んできたようなものである。大学へ入ってから一学期間、鈴木信太郎先生の「フランス語前期」に出席すると、もう我慢がならなくなって、よし、オーギュスト・コントを読んでやろう、と決心して、その日に『実証哲学講義』全六巻(Auguste Comte, Cours de philosophie positive, 6 tomes, 1830-1842)の安い版を神田の古本屋で買い、中学一年生の時の『ファウスト』と同じ調子で読み始めた。しかし今度は成功した。随分時間はかかったが、第一巻の最初の部分と、社会学を取り扱った第四巻、第五巻、第六巻は、何とか読み終ることが出来た。今日の私が辞書を頼りに少しでもフランスの本を読むことが出来るのは、この乱暴な修行のお蔭である。
 フランス語はどうやら成功したが、ロシア語は完全に失敗した。大学を卒業するころにロシア語を始め、最初は独習書を頼りにし、後に「サヴェート友の会」で湯浅芳子さんの講義を聞いた。講義は間もなく警視庁の干渉のため中止になってしまったが、中止になる以前に、私はロシアから『マーラヤ・エンチクロペジア』を取り寄せていた。全十巻、六十円であったと思う。この本が届くや否や、それこそ文字通り昼夜兼行、社会学関係の数十項目を、惨憺たる苦心で読み進め、そして読み終った。読み終ると同時に、神田の古本屋を読んで売り払ってしまった。買値よりも十円高く、七十円に売れたと覚えている。他の項目は立派なものであったかも知れないが、社会学関係の項目はきわめて平凡なおざなりの内容であった。当時の私は従来の社会学説をマルクス主義の立場から反省するという努力を重ねていたので、ロシアにおける社会学の取り扱いに対して過度に敏感であり、またそれに大きな、或いは大き過ぎる期待をかけていたのである。この『マーラヤ・エンチクロペジア』は、ガッカリするために買い込んだようなものであった。そしてこれを売り払うと同時に、ロシア語は私から遠ざかって行った。
 だが世には私と同じ流儀の人間がかなりいるのではなかろうか。古本の洋書を買うと、よく訳語の書き込みのあるのに出会う。難しい専門用語に書き込んであるのはよいとして、中には、Contents(目次)、Chapter(章)、from(から)、World(世界)という類の訳語が書き込んであって、数ページは殆ど真黒になっているのがある。数ページで諦めてしまったに違いない。この程度の単語の知識で全館を読み通すというのは並大抵のことではなかろう。無謀なかつ無駄な努力だと思うと同時に、私は自分が同じような方法で辿ってきた道に気づいて、ガッカリするな、もう一遍やってみろ、と声援を送りたい気持ちになるのである。
  関東大震災 
 『ファウスト』の話は別にして、私は何を読んでいたのであろうか。それがどうしても思い出せない。思い出せない、ということには、恐らく、二つの理由があろう。第一に、中学生の背丈にあった書物というものが一般に極めて乏しかったという事情である。客観的に見たら、丁度手頃な本はあったのであろうが、それを当てがわれると、、こちらが意地悪く背伸びしたい気持ちになってまさか子供ではあるまいし、という態度に出て、これを受けつけない。反対に、これこそ、と思ってこちらが飛びつく本は、あちらが受けつけてくれない。難し過ぎるのである。こういう不幸な事情は、今日では改善されているのであろうか。私の経験では、或る程度まで自分の要求に適いかつ実際に読める本といえば、結局のところ、小説類に限られていた。或る期間、青年がほとんど例外なく文学青年であるという事実は、一方、青年期の精神及び身体の特質に由来する必然的な面があると共に、他方、文学書を除いて、青年の要求を充たしながら、しかも彼の読書能力で処理し得る書物が皆無に近いという偶然的事情のために生じているに相違ない。社会、経済、政治、宗教などの諸問題を平易に興味深く書いた本があれば、つまり読者に対するサーヴィスの精神に貫かれた本があれば、多くの青年は不幸な文学青年にならなくても済むのであろう。私はそういう書物を見なかった。毎日のように本所の奥から両国の図書館に通ってはいたが、読んだものといえば、やはり小説が多かったように思う。モーパッサン、ストリンドベリ、アナトール・フランスなどの名前が記憶の底に沈んでいる。
 何を読んだか覚えていない他の理由は、三年生の時に経験した関東大震災である。私の家は一瞬のうちに潰れ、間もなく焼けてしまった。私たちは完全な丸裸になり、文字通りの無一物になった。そのために震災以前の本は一冊も残っていない。私自身の記憶を頼りにするほかはないのである。努力の末に辛うじて思い出すことが出来るのは、大西祝の『西洋哲学史』と、クロポトキンや大杉栄の著書だけである。前者を記憶しているのは、この書物から材料を得て、ギリシア哲学に関する無鉄砲な演説を試みたことを覚えているからによる。後者については、大正十二年八月に茅ケ崎へ行った時、クロポトキン及び大杉栄の著書を携行した覚えがある。アナーキズムが現在の私にどのような痕跡をとどめているかは、自分では判らないが、乏しい財布をはたいてアナーキストの著書を買っていた時期が暫く続いたことは確かである。
 大震災で本は全部焼けてしまった。それ以前に何を読んだかをここに報告することが出来ない。しかし私は大震災の時に、人生という大きな書物の重い頁を繰ったのである。父は四十歳を越えたばかりであったが、あの衝撃で一度に老人になってしまった。私は十七歳、一挙に大人になった。私が引きずって来た子供の生活は、九月一日の正午に終わり、その瞬間から、私は今日と変わらぬ大人になった。以前の記憶が曖昧なのは、私自身のこうした変化によることが多いのであろう。無一物のまま焼野原に投げ出された私たちの一家は、この条件の下で新しく生きて行かねばならなかった。系図を初めとする凡ての古いものが焼けて、私を過去に繋ぐ絆は剰すところなく失われた。主観的にも客観的にも、この大地以外に立つべき場所はなく、この足以外に自分を支えるものはなかった。
 二学期は十月か十一月になってから始まった。秋風が吹いていた。私はシャツ一枚を身にまとい、馬方の被るような大きい麦藁帽子を被って登校した。同級生の家は殆どみな焼けず、制服制帽で来ていた。私は級長であったので、そういう奇妙な姿で号令をかけて、みなにひどく笑われた。しかし私は訳もなく元気であった。陰気になる理由が何処にもないように思われた。自分が勝つに決まっている競技がこれから始まるというような気持であった。だが、もしその私をあえて陰鬱にするものがあったとしたら、それは大杉栄が殺されたという事件と、朝鮮人虐殺の事件とである。当時の私が大杉栄の思想を十分に理解していたとは言えない。彼に対する理解も同情も頗る曖昧なものであったに過ぎぬ。しかし、彼に対して、彼が殺された事件に対して、自分は或る特別の関係と関心とを持つ人間であると信じた。また私は朝鮮人の友達が多かった。わずか一学期足らずしか在学しなかった神田の商業学校で得た三人の友達はみな挑戦院であった。後に高等学校の三年間最も親しく交際した唯一の友達もやはり朝鮮人である。大震災と結びついたこれ等の事件を通じて、不安と憤懣とは空しく私の内部に蓄えられて行ったが、しかしこれを合理的に処理して、自分の気持をある方向へ進ませるための道具が私には欠けていた。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977年、pp.24-32. 

 没落旗本の孫が、恵まれた境遇とは言えなくても、旧制中学から旧制高校へと進み、やがて東京帝国大学にも入ることになる清水という人の青春は、ある意味興味深い。学校で、山の手の良家の息子が多い中学・高校の同級生と違っていたのは、彼が生粋の江戸っ子、日本橋両国生まれの都会人で、薩長藩閥の成り上がり田舎者のエリートへの対抗心と劣等感がないまぜになったエネルギーを、ドイツ語そしてフランス語の文献を読むことに、無茶苦茶な情熱を注いでいたこと。そこで彼のユニークな資質は、旧幕時代のノスタルジーに生きるほかない元旗本御家人の疲弊した世界からの脱出、そして下町庶民とは無縁の気取ったエリート予備軍の山の手ぼっちゃん世界からも脱出を図ったことだろう。その脱出は、一定の成功を見ることになるが、彼が選んだのが「社会学」であったことは、独特の色合いをもってその先の彼の道を、迷走させていくことになる。


B.年頭所感のひねった夢想
 2023年の世界がどのような変化を遂げて変わってくのか。2022年に起こったウクライナ戦争はまだどうなるか、誰も予測できないように、この先もっと難しい問題が顕在化するような、いやな感じがするのも近年のことだ。考えてみれば10年ほど前までは、いろいろあるにしても(実際東日本大震災と原発事故はあったが)、この国が全体として取り返しのつかない方向へ、奈落へ落ちていく予感のようなものは感じなかった。いずれぼくたちは、この困難を克服するだろうと思えた。だから、いまは希望をもちたいのだが、どうも悪い材料が沸いて出てくるばかりだ。内田樹氏の年頭の希望的観測も、どうも明るいというには逆説的で皮肉に充ちている。

 「時代を読む:2023年の予測  神戸女学院大学名誉教授・凱風館館長 内田 樹 
 年初の寄稿なので、世界と日本のこれからについて予測をしてみたい。お断りをしておくけれど、私の予測はだいたい外れる。主観的願望のバイアスが強すぎるせいである。そのつもりで読んで欲しい。
 ウクライナの戦争は年内にたぶん収束する。どこかの国が調停に入って、両国間には帰属の明らかでない領土が存在するということを認めて、停戦に持ち込む。プーチンは侵攻失敗の責めを負って失権。停戦後の外交交渉には彼の後継者が当たることになるだろう。
 中国の台湾進攻は起きない。いま中国はコロナのせいで経済成長が止まり、過度の国民監視のせいもあって、国民の不満は受忍限度に近づきつつある。それを逸らすために「外敵」への憎悪を掻き立てるという古典的な手段はもうロシアが使ってみせて、「間尺に合わない」ということがわかっている。それに台湾では中国に融和策を取る国民党がヘゲモニーをとりそうである。それならしばらく「様子見」というのが中国にとっては合理的な解だろう。
 ◇   ◆   ◇ 
 米国の分断はもうしばらく続く。でも、どこかで仲裁役が登場して「和解」の手立てを講じることになる。
 そもそも米国は建国以来ずっと統治原理上の深刻な分断のうちにある。最大限の市民的自由を求める人たち(リバタリアン)と、連邦政府による社会的統制を求める人たち(フェデラリスト)の対立は、合衆国憲法制定時から、南北戦争を経て現在まで続いている。米国の現状はこの二つの統治原理の対立と妥協の産物である。だから、言い方は変だが、米国は「分断慣れ」している。何より61万人の死者を出した南北戦争という痛苦な分断経験がある。日本の戊辰戦争の死者は八千四百人だが、それにもかかわらず今に至るまで「長州と会津」の間には抜きがたい反感が残っている。それを考えると、その七十倍の死者を出した内戦の傷跡を癒すために米国人がこれまでどれほどの努力をしてきたのか、多少は想像することができるはずである。
 「ラストベルトのトランピストたちにも一掬の涙を注ぐべきだ」という論調の記事をこのところ米国メディアでよく見かける。これは内戦後に行われた「国民的和解のためには南軍の敗軍の兵たちにも一掬の涙を注ぐべきだ」という主張の何度目かの再演である(例えば西部劇映画は二十世紀に採用された「南北和解のための物語」である)。和解のためにどのような「物語」を採用すべきかを米国人は歴史的経験から学んでいる。
  ◇   ◆   ◇ 
 最後はわが国について。統一地方選挙で、統一教会との癒着が指摘された地方議員が次々と落選して、自民党は大きく議席を減らすだろう。首相はその責任を取って辞職。誰が後継者になるかは想像の埒外だが、「誰がなっても代り映えがしない」ことだけは確かである。そして、低い内閣支持率のまま、次々と国民生活を困窮させ、市民的権利を抑圧し、東アジアの軍事的緊張を高める政策が採用されて、日本はますます生きにくい社会になる。
 それのどこが「希望的観測」だと言われるかも知れないが、「ディストピアを詳細に描くことでディストピアの到来を阻止する」のはオーウェルの『1984』以来の文学の骨法である。私もここだけは「願望」を自制して、先見のひそみに倣うのである。」東京新聞2023年1月8日朝刊5面、社説・意見欄。
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