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宮崎駿さんと、ドラクロア・・

2016-03-10 04:28:29 | 日記
A.絵を描くことと絵を動かすこと
 人は昔から紙や板に絵具と筆で絵を描いてきた。紙とクレヨンをはじめて手にした子どもは、そこに自由に描くかたちや色で、イメージが具象化するのを体験する。頭の中にはっきりとイメージがあってそれが手を使って紙の上に現れるように思えるが、実はそうではなく、クレヨンを動かしながらイメージができていく、というのが最初の体験だろう。目の前のものをそのまま写生してみろといわれても、子どもはすぐにはうまく写生できない。まして、見たこともないものを描け、といわれたら困ってしまうだろう。しかし、絵を描く訓練をして技術が熟達すると、目の前にないもの、見たこともないものでも描けるようになる。しかしそれも、いろいろな物や光景をイメージの断片として記憶し具象化できるだけの蓄積をもっているから可能になる。
 画家はそういう訓練をしたプロなのだが、ふつう二次元の絵画は平面に固定した画像を描いているから、一度描いてしまえば動いたりはしない。絵具の劣化や環境の変化、あるいは破損などで痛んだりするが、絵の画像が動くことはない。そういうものとして画家は描いている。しかし、絵の連続で物語を展開するマンガでは、時間の差をとり入れて画像のモンタージュでストーリーを描く。さらにアニメーションを前提に絵を描く場合は、一枚のレイアウトという絵は、動く場面のある一瞬をイメージしているにすぎなくて、絵はもちろんそのままでは動かないが、描く画家の頭の中ではすでに人物や風景はどんどん動いている。だが、こういう高度な作業は、誰にでもできるわけではない。

 ちばかおり「ハイジが生まれた日」45
 「高畑勲は、レイアウト(場面設定)をアニメの鍵を握るポジションだと位置づけており、それを宮崎駿に託している。レイアウトとは、演出家の意図が示された絵コンテをもとにした設計図ともいうべき図面のことだ。そのシーンをどう見せるかを決定する重要な仕事であり、画力はもちろん、映像表現や撮影手法まで視野に入れた、アニメーションの総合的な力が必要とされるが、通常は各原画マンの裁量に任されていた。
 本来平面である絵を動かす難しさは、それを奥行きのある空間に見立ててキャラクターに演技させることにある。絵画とは決定的に違うところだ。例えば歩き方一つとっても、どこをどう歩かせるのかで表現が変わってくる。加えてレイアウトには人物の位置や動きだけでなく、地形や建物の構造、小道具、光の方向まで、画面上の全てのものが設計され盛り込まれる。
 宮崎がまず着手したのは、ハイジを取り巻く世界づくりだった。マイエンフェルトの村から山小屋へ上ると、さらに上に牧場がある。宮崎は下から上へ明確な地形の変化をダイナミックに設計している。宮崎の仕事は、舞台を構築するだけにとどまらず、建物や小道具の設定にまで及んだ。
 「アルムの山小屋の設定を見たときびっくりしたのは、宮崎さんの図面だったら本当に家が建つことです」。こう話すのは背景を担当した川本征平である。高校の建築科を出て建築の実務経験もある川本は、映画のセットなら実際に組み立てるから嘘がないが、絵ならいくらでもごまかしがきくと言う。だからアニメの背景などは、いいかげんなものが多いのだそうだ。だが宮崎の絵は違った。
 「奥行きから構図、カメラの位置から演技のさせ方まで。もうどうしてこんなにリアルに作っていけるのか」。『ハイジ』の制作進行を務めた松土隆二も宮崎の構成力に仰天した。
 高畑の演出を宮崎が次々とビジュアル化していく。レイアウトがきちんと設計されているので、後に続く原画や背景も演出意図を反映させたものになり、作品の完成度もスピードも上がる。だがこれは一人の人間が全て責任を持つということで可能になるシステムであり、従来のテレビアニメの制作現場ではこうした体制は作り得なかった。
 通常ベテランでも一日に数枚程度しか描けないというレイアウトを宮崎は五十枚以上描いた。その上五十二話全てを一人で受け持とうというのである。宮崎は「やる」と決めたら意地でもやり通す人間だった。仕事が煮詰まると突然「こんな会社燃えてしまえ!」などと叫んで周囲を驚かせたが、それはどんなに追い詰められても決して逃げ出さない彼の、行き場のない感情の発露であった。」東京新聞2016年3月8日夕刊、5面文化欄。

 画像フィルムの連続で動く映像を表現できるようになった(それは人間の眼の錯覚なのだが)のは、たかだか1895年のリュミエール兄弟のシネマトグラフ以来とすると120年ぐらい前である。それを実写ではなく色のついた絵で実現したのは20世紀なかばのディズニー・アニメ。そして戦後日本のマンガという文化は、手塚治虫に先導されたTVアニメ技術を築き、そこからもっと組織化されたスタジオ・ジブリの作品は、宮崎駿という特別な才能が実現したこのアニメーションという技術の到達点ともいえる長編アニメ作品を生み出すに至る。
 平面二次元の形態という感覚と、奥行きのある3次元の立体の感覚とは、質的に異なったもので、立体の感覚を二次元平面に描画できる技を獲得するには、おそらく映画というメディアがおおきく影響したと思う。



B.ロマン派の絵画
 ロマン派とはどんな考え方なのか?「ロマンチック」という言葉は、なんだかうきうきとお目めパチクリのハート型に浮ついた気分なんだろうと思う人も多い。しかし、ぼくが「ロマン主義」の定義で一番納得したのは、「社会変革のプランを見失った情熱、つまり挫折した革命の内向」という説明だった。少なくとも19世紀フランスでは、ロマン主義の形成期は、ナポレオン戦争(1799~1815)と符合している。グロは、フランドルのバロック画家ルーベンスに影響され、師ダビッドの重厚な画風から色彩豊かで感情的な画風へと変化をとげ、新古典主義からロマン主義へ移行し、それを権力者ナポレオンを礼賛する戦争画の連作で展開し、一瞬の栄光を浴びたものの、ナポレオンの没落により最後はみじめに自殺する末路をたどった。
 フランス革命が生んだナポレオンという渦巻きがヨーロッパ中を戦争に巻き込んだ挙句、社会変革の激動は一種のしらけに陥り、解放されたはずの精神の自由は反動の嵐の中で行き場を失って内向する。そこから出てきた芸術潮流がロマン主義だった。もはや現実の政治や社会の変革は愚劣な冗談のようなものになるほかなく、若い芸術家の向かった先は、とにかく激しいもの劇的なもの、当たり前の秩序、月並みな美、権威主義的な気取ったアカデミーに唾を吐く過激な表現だった。
ロマン主義の中心人物ジェリコーは、グロの様式の劇的で色彩重視の傾向をさらにすすめ、戦争画のテーマを英雄主義から苦しみの表現へと移行させた。荒海で難破したふつうの人間の苦痛を過酷な状況の中の英雄的スケールで描写した「メデューズ号の筏」(1818~19)は、ドラクロワの「キオス島の虐殺」(1824)で繰り返された。ドラクロワは、新古典主義の形態や輪郭線の強調を否定して、色彩によって画面を造形した。その際に使われた中間色調は、色彩をくすませるのではなく、補色を並置することによって得られる。
彼らロマン派の画家が先輩として憧れたミケランジェロの燃えるような人間の情熱的な姿態、筋肉と汗と風に揺れる髪や衣の表現は、ドラクロアからロダンに伝搬したというお話。

「ドラクロアに対するミケランジェロの形態上の影響は、「ダンテの小舟」の場合だけにとどまらない。例えば、「ゲネザレツ湖上のキリスト」の連作において、ドラクロワは、システィナ礼拝堂天井画の「ノアの洪水」に登場して来るモティーフを採用している。しかし、ドラクロワの場合、構図ないしはモティーフを通じての影響以上に重要なのは、芸術家として、また人間としてのミケランジェロの生き方が彼に及ぼした影響である。すでに二十六歳の時、彼は『日記』(一八二四年一月四日)に、次のような言葉を書き残している。

 「何たる不幸!このように卑俗なものとつねにからみ合っていて、いったいどんな偉大なことが成し遂げられるというのか。あの偉大なミケランジェロのことを考えよ。つねに、魂を養う偉大で厳しい美のみを心の糧とせよ……」

 そして一八五一年には、現在モンペリエのファーブル美術館に所蔵されている「アトリエのミケランジェロ」を描いて、この畏敬する偉大な先輩へのオマージュを捧げている。制作途上の「モーゼ」や「聖母子」像の置かれているアトリエの椅子に腰をおろして、頬杖をついたまま失意に沈むこのミケランジェロの姿が、同時にまたドラクロワ自身の「精神的自画像」でもあることは、すでに指摘されている通りであるが、その事実は、ドラクロワが、いかに強く人間ミケランジェロに惹かれていたかを物語るものにほかならない。
 この点においても、ミケランジェロは、ロマン主義の時代にふさわしい芸術家であったと言ってよい。短命ではあったにせよ幸福な生涯を送ったラファエルロとは違って、ミケランジェロは、十九世紀の芸術家の運命をいわば先取りしているのである。『イタリア絵画史』において、わざわざ「世の凡庸さと衝突する偉大な人間」と題する一章をミケランジェロに捧げたスタンダールは、ほとんど無意識のうちにそのことを予感していたと言えるかもしれない。少なくとも、フランスにおいてはこのスタンダールに始まった「ミケランジェロ復興」は、芸術的にも、人間的にも、ドラクロワに受け継がれ、深められて、近代の歴史を作って行ったのである。」高階秀爾「フランス・ロマン派におけるミケランジェロ」(高階『西欧芸術の精神』所収、青土社、1979)pp.142-144.

 ぼくは10年ほど前、しばらく滞在したパリで、ルーブルをはじめロダンの美術館や印象派の作品を1週間ほど歩きまわって見て回ったことがあるが、ドラクロワのアトリエにも行って、彼の絵を描いた部屋でしばらく坐っていた。19世紀の20年代がどういう時代だったのか、ぼくにはもちろん想像を越えているのだが、そこにはオーギュスト・コントも生きていたはずだ。しかし、マルサスの人口論はすでに登場していたが、ダーウィンの『種の起源』はまだ現れていない。ここでドラクロアは、絵画にどういうことが可能か、ダンテやシェークスピアの文学からありったけのイメージをかき集め、モロッコに行ってイスラム異教徒の危険なファンタジーを夢想し、天空に舞うミケランジェロのスペクタクルを、オリエンタルの幻想に再現しようとした。それが近代最大の彫刻家ロダンに、大きな影響を与えていたというお話である。

「現在すでに古典的名著として広く知られているその『裸体芸術論』(一九五六年)において、ケネス・クラーク卿は、ロダンの独創性をはっきりと認めながらも、彼にロマン派の絵画、特にドラクロワの強い影響があったことを、次ぎのように的確に指摘している。

 「偉大なロマン派の巨匠たちの最後の後継者は、ロダンである。もっとも、こう呼ぶことは、ロダンにとっては不満であるかもしれない。彼はつねに自分がギリシア人とゴシックの彫刻家の弟子であると主張していたからである。しかし、誰しも自己の時代から逃れることはできない。長い歴史の中で見てみれば、ロダンは、ミケランジェロの創意を受け継ぎながら、それをいっそう瞬間的な、そして絵画的なものに変えつつ、ジェリコーとドラクロワの悲劇性を彫刻の世界にまで拡げて行ったものと言うことができる。彼の形態感覚は驚くべきほどドラクロワのそれに近いし、『地獄の門」の中のある種の人間像がダンテの小舟にしがみつく亡者たちの魂から、またあの大理石の『ダナエ』の像が十字軍の馬蹄の前にうなだれる花のような少女像から、影響を受けていないということは、ほとんど考えられないことである。」

 事実、ロダンが、気質的にはきわめて自分と近かった「ダンテの小舟」の巨匠を深く尊敬していたことは、例えば、ポール・グゼルとの対話の中の次ぎの一節からも容易にうかがうことができる。

 「例えばドラクロワは、デッサンを知らないと言って随分非難された。だがほんとうは、それは逆で、彼のデッサンは、彼の色彩と実に見事にひとつになっているのだ。その色彩と同じように、そのデッサンは断続的で、熱っぽく、昂揚されている。それは生命の力と激しさとを持っている。その色彩と同じように、彼のデッサンは時に度はずれとなる。だがその時にこそ、それは最も美しいのだ。彩色とデッサン、このどちらかを一方だけ切り離して鑑賞することはできない。なぜなら、両者はひとつのものなのだから……」

 しかも、ロダンとドラクロワは、気質のみならず、芸術上の趣味においてもきわめてよく似ていた。ロダンが、彫刻における自己の先達としてミケランジェロを深く崇拝していたことは広く知られている通りであり、その点についてはヨーゼフ・セガントナーの優れた研究が充分な説得力をもってわれわれに示してくれるが、ドラクロワもまた、自らイタリアに行ったことは遂になかったにもかかわらず、ミケランジェロを高く評価して、時には自己自身をミケランジェロになぞらえたりまでしている。
 さらに、文学上の趣味についても、ふたりは驚くべきほどの共通性を示している。ドラクロワが一八二二年にはじめてサロンに出品した問題作がダンテの『神曲』から想を得ており、その後も何回か彼がダンテに対してオマージュを捧げているように、ロダンも、その畢生の大作「地獄の門」において、彼自身の尊敬するフィレンツェの詩人から霊感を得てあの巨大なモニュメントを創り上げたのである。
 とすれば、クラーク卿が暗示的に述べているように、「地獄の門」の構想を練っている時、当時すでにルーブル美術館にあったドラクロワの「ダンテの小舟」がロダンの心の中に思い浮かばなかった筈はない。ドラクロワのこの最初の傑作は、発表された時には、ほんのわずかの称讃者を除いて、ほとんどの人から手酷しく攻撃されたが、十九世紀の後半においては、すでにひとつの古典として少くとも当時の「前衛的な」若い画家たちからは強い共感と尊敬の眼をもって眺められており、ロダンとほぼ同世代のマネやセザンヌなどが、わざわざその模写を試みたりしているほどだったからである。
 事実、クラーク卿は上に引用した文章以上にはっきりと具体的事例を指摘しているわけではないが、「地獄の門」のためにロダンが描いた数多くのデッサンのなかには、直接「ダンテの小舟」から霊感を得たと思われるものがいくつかある。例えば、パリのロダン美術館にある「ダンテとヴェルギリウス」のデッサンは、ふたりとも裸体の姿ながら両手を挙げて恐れおののくダンテをヴェルギリウスが抱きかかえるようにして静めているところをあらわしたもので、「ダンテの小舟」に登場するふたりの詩人のモティーフをいっそうドラマチックにしたものと言ってよい。
 さらに興味深い明白な関係は、フィラデルフィア美術館附属のロダン美術館に所蔵されている「ウゴリーノの食事」と題するデッサンにはっきりと見てとれる。このデッサンには、紙の余白にロダン自身の手で “Le repas d’Ugolin-les ombres regardent épouvantés ”(ウゴリーノ食事――亡者どもは驚き恐れてそれを眺める)という書き込みがあるから、その主題が『神曲』のなかの有名なウゴリーノのエピソードからとられたものであることは明らかである。しかもロダンはここでは、空腹を訴えるわが子を見ながら、自分自身激しい飢えに悩まされ、わが子に対して恐ろしい気持ちを抱くあのしばしば芸術表現にとり上げられるウゴリーノではなく、ダンテとヴェルギリウスがまず最初に出会った「氷漬けの男たち」の姿で現れるウゴリーノを描いている。『神曲』のなかのその部分の描写は、次ぎの通りである。

  私たちは彼から離れてその先へ進んだ、
   その時一つの穴に二人氷漬けになった男が見えた、
   一人の頭がもう一人の頭に帽子のようにかぶさっている、
  そして餓えた男がパンをむさぼるように、
   上になった方が下の方の
   脳と項の間に歯を立てている。
  この男が脳蓋やその近辺に噛みついている様は
   テュデウスが怒りにまかせて
   メラニッポスの耳たぶに喰いついたのと変わりはなかった……

 この原文と対照してみれば、ロダンのデッサンはきわめて忠実にダンテの描写にしたがっているように見えるが、しかし、ダンテの文章を読んだだけでは、ふたりの「氷漬けになった男」が、どのように組み合わされているのか明確でない。ところがロダンは、そのふたりを造形化するにあたって、大司教ルッジェーリをまるで解剖台の上に横たえられて屍体のように画面に横長に描き出し、ウゴリーノがその頭のところに立って上から覆いかぶさるように喰いつくという特異なコンポジションを採用した。これは明らかに、「ダンテの小舟」において、ちょうど同じように画面の左端で、水中から半ば身体を出してダンテの小舟にかじりつく亡者の姿を範例としている。犠牲者の顔をおさえる右手の位置や、首を前に曲げてむしゃぶりつく様子なども、ドラクロワのモティーフそのままである。」高階秀爾「ドラクロワとロダン」(高階『西欧芸術の精神』所収、青土社、1979)pp.146-150. 

 西洋の文化において文学と美術は、作家によってその結びつきは濃淡がある。文学といっても、西洋の場合はひとつはギリシャの神話、もうひとつは聖書に淵源する。そこから書き継がれた様々な古典文学は、文字を読めない人びとに文学的理解を深めるために、絵画や彫刻を利用した。そこから膨大な宗教美術が生み出された。中世まで宗教画は美術的表現の中心にあった。それは神の御業をこの世に示す手段であって、それを描く画家の恣意的な判断を越えていた。
 しかし、ルネサンス以後、自覚的な画家たちの眼と腕は人間の具体的な動きや視点にぐっと拘る努力を続け、映像としてのリアルと物語の一場面としての光景がいかにそれを見る人々に、強烈な印象を与えられるかの勝負だと覚悟したのだろう。グロ、ジェリコー、ドラクロアは今から見れば、社会的な文脈を過剰に意識して創作したロマン派のチャンピオンだったと思う。
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