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 水墨の美 5 古今・源氏・鳥獣戯画  WASPは過去の話?

2024-09-04 17:11:14 | 日記
A.日本の水墨画
 日本の小学校では、筆と硯と墨、それに半紙を置くフェルトの下敷と文鎮・水差しなどの「お習字セット」を用意して、子どもたちに日本文化としての筆墨を体験させる授業がある。昭和の時代までは、毛筆で手紙や看板を書いたり、年賀状も毛筆で書く年配者がいたけれど、いまは「書道」というお稽古事としてわざわざ習うだけで、日常的に筆を執って文字や絵を描くこと自体、稀になっている。いやワープロ、スマホの普及で、ペンを手で持って文字を書くことすらあまりない。だから、日本人の毛筆の質はみじめに劣化し、政治家などがこれみよがしに色紙に毛筆で「揮毫」のまねごとをするが、みじめなほどひどい字であることを自覚すらせず自慢する。自分は伝統文化を知っていると言いたいのだろうが、毛筆の美しさを知っていればこんな字を人の目に晒すのは恥だと思うべきだ。

「日本で「水墨画」がえがかれ出したのは、ふつうは鎌倉時代とされている。中国へ渡った禅僧らによって持ち込まれて、次第にこちらでもえがかれるようになり、南北朝時代を経て室町時代には、はっきりとした姿を持つようになる。しかし、ここまで見てきたような「筆墨」による表現という面から見れば、それ以前にも「水墨」といえるものはあった。
 ともかく筆と墨でえがけばよいのなら――本書の冒頭で見たように――水墨画の歴史は、ほとんどがこの二つの道具を手に入れたときから始まるといっていい。日本でも、すでに法隆寺金堂の天井裏などに、工人たちによる「筆墨」の落書きがあった。前にみた仲間うちの顔をささっとえがいたものや奇麗な天人の絵がある一方で、トイレの落書きのようなものもあり、彼らにとっての法隆寺建設が、宗教的な営為ではなく「お仕事」だったことが感じられて面白い。
 ちょうど、中国では殷仲容や呉道元が活躍する頃である。白鳳から奈良時代にかけては、唐が東アジアにおけるグローバル・スタンダードのようなもの。中国風になることが一種のグローバリゼーションで、平城京のプランや律令制度のみならず、造形の世界でも仏像をはじめとして「唐様」が幅をきかせていた。「大唐インターナショナル」の風に乗って、画も日本にやってきており、呉道元の「筆墨」を反映したかもしれない菩薩の画が、正倉院にあることも前に見た。
 遣唐使に従った人々も「水墨」の存在は知っていたはず。たとえば「雪中芭蕉」の王維は、阿倍仲麻呂の帰国に当たって長文の序をそえた詩を寄せている(「送秘書晁監還日本国幷序」)。結局、仲麻呂は彼の地で没してしまうのだが、無事に帰ってきていたら日本の水墨の歴史はちょっと変わったかも知れない――などというのは歴史屋には御法度の「たられば」で、日本で受け入れられたのは、高松塚古墳にえがかれた人物のような着色画。山水画も「麻布山水」と呼ばれるシンプルな墨の線による小景があるけれど、主流は「青緑山水」と呼ばれる群青や緑青、青や緑で山々をえがくもので、それらが次第にアレンジされて「やまと絵」になってゆく。
 まだ必死で漢字を取り込み、馴染ませようとしていた時期である。大量に行われた写経は、仏教を広めるためでもあったが、経典を写すことによって識字率を上げるものでもあった。結果として立派な唐の書風による経典が残されはしたが、空海のように彼の地に渡り、中国風の書を我がものとした人は稀で、日本の人々が「筆墨の文化」に馴染んだとはいえなそう。こちらで「線のよろこび」が見出されるのは、やはり「仮名」が作られゆく過程でのことだろう。
 ご承知のように、無文字文化だった日本では、奈良時代には和歌の表記にも漢字を借りた。「万葉仮名」と呼ばれるそれは、画数の多い表意文字を表音文字として使う無理に加えて、歌を書く感覚にも馴染まなかった。これを動因として、まずは漢字を崩した「草」と呼ばれる草書のような字体が使われ、これが「仮名」へと飛躍する。もとは漢字だけれど、造型的にはほとんどもとのかたちを払拭している。
 例えば「つ」のもとは「川」だが、かたちの上から、それを想像するのは無理だろう。「川」の縦三本をまったく無視して、緩やかな弧にしてしまった段階で、「造形」としてはまったくの別物になっている。「止」が「と」になり、「保」が「保」になるときにも、程度の差はあれ草書からのジャンプがある。このような飛躍は、日本文化を取り込んでアレンジするときによく起きること。コートレット(côtelette)がトンカツへ、そしてカツ丼へとジャンプするように、この飛躍によって異文化に接したものが、ほとんど日本のオリジナルと化すのである。「仮名」もその典型で、すでに「漢字」へは戻れない。
 これによって――漢詩にとっての漢字と同じように――自分たちの感覚で、和歌を表記するすべを手に入れることになる。詠われれば四声の強い抑揚が耳に響き、書かれれば漢字が意味を目にこだまさせる詩に対して、流れるように詠まれる歌には、連綿体の仮名の流れが相応しい。それぞれの文化には、それに相応しい表現の媒体が必要なのだが、東アジアの辺境にあった日本では平安時代にそれが作りあげられるのである。
 その典型とされるひとつが、11世紀半ばに書かれたという「高野切(こうやぎれ)」。書かれているのは『古今和歌集』、いうまでもなく醍醐天皇の勅命によって延喜五年(905)頃に編まれた、最初の勅撰和歌集である。「高野切」が書かれたのは、それから一世紀半ほど後の、ちょうど平等院の鳳凰堂(阿弥陀堂)ができた頃。平安時代の造形の感覚が洗練の頂点を迎える時期である。本当に素直できれいな連綿体で、強い抑揚はつけずに、穏やかな旋律を奏でてゆく。中国における「気韻生動」」とはまったく別のタイプの筆遣い。人々に馴染んでいった「筆墨」のよろこびが感じられ、それはさまざまに記し留められることになる。
 『源氏物語』の筆と墨
 『源氏物語』から拾ってみれば、ラヴレターでもある歌をかく筆墨には、細やかなまなざしがそそがれる。たとえば、明石の君からの歌を読む場面(「明石」)。「浅からずしめたる紫の紙に、墨つき濃く薄く紛らはして……」と書の表情を記した後に歌が続き、「手のさま書きたるさまなど、やむごと亡き人にいたう劣るまじう上衆めきたり」との評が記される。香を焚きこめた紫の紙に書かれた連綿体の和歌の「墨つき」は濃く薄く……。この「墨つき」が、「墨付き」つまり墨の紙への付き方なのか、「墨継ぎ」つまり筆に墨を含ませ直すことなのかははっきりしないが、いずれも墨のつき方による濃淡のリズムを見ているわけで、どちらであってもそう気分は変わらないものだろう。そんな墨の調子から筆を運ぶ様子を想像し、「高貴な方にも劣らないほど品がよく‥‥‥」と女性の人となりにまで思いを馳せる。
 また「少女」では、五節(ごせち)の舞姫の歌の「青摺の紙、よく取りあへて、紛らはし書いたる濃墨・薄墨、草がちにうちまぜ乱れたる」風情に「人の程につけてはをかし」という。歌を読みながら、連綿体の流れを感じ取り、それを通じてられた書き手の印象を語る。まあ恋の手管だから「書きぶりのたおあやかさに騙されて‥‥‥」ということもあったようだけれど、このまなざしは「書は人なり」という単純さを超えて、作品の些細な観察の上で、その向こうに作者の像を見るという態度に通じている。それは中国の文人たちの「心手相応ず」――心と手と筆とはすーっと繋がっており、それを墨の表情から逆に辿ることができる――という可塑的な感覚とさして違わない。
 このような「筆墨の文化」のなかで。墨による卓抜した表現が育まれたことを、「高野切」の『古今和歌集』や西本願寺の『三十六人家集』そして『源氏物語絵巻』の詞書(ことばがき)などが語ってくれる。
 話を画の世界へと移せば、平安貴族の華やかな装束に象徴されるポリクロームの世界に対する、モノクロームの魅力も気づかれていた。紫式部は、これを「墨絵」の比喩を用いて語っている。一条天皇の皇子・篤成親王の御湯殿の儀-―皇子誕生のときに、吉日を選んで産湯を使わせる儀式-―の場面である。
 「よろづの物のくもりなく白き御前に、人のやうだい色あひなどさへ、けちえんにあらはれたるを見わたすに、よき墨絵に髪どもをおほしたるやうに見ゆ」(『紫式部日記』)。
 産後の一週間は、世話をする女性たちの装束は白ずくめ。そのなかで女房達の湯某がくっきりと目立つのを、「上手な墨絵にえがかれた人の黒髪のよう」であるという。「けちえん」は「掲焉」で、「著しい」また「際立つ」の意である。
 ここからは、すぐに「白描絵巻」が思い浮かぶ。「高房卿艶詞絵巻」は、ほとんど墨だけでえがかれた王朝絵巻で、藤原高房と小督の悲恋をえがいたものとされている。小督は『平家物語』で知られる高倉天皇が愛した女性。娘を中宮にしていた平清盛に恨まれて出家させられるのだが、高倉天皇のところへ行く前の恋人が高房だったらしく、その恋の歌をもとにして絵巻が作られたという。テーマは『源氏物語絵巻』と変わらぬ恋物語だが、華やかな著色の世界とは対極の静けさで、ほとんど時間が止まっているよう。特に目を引くのは女性たちの黒髪で、平安女性のチャームポイントが、見事に強調されている。
 美女つながりで、中国の「白描」と比べてみよう。(宮素然の)王昭君の物語の一場面。前漢の元帝(在位前48~33)の命で、匈奴の呼韓邪単于と政略結婚させられた悲劇の美女が、強風のなかを馬で行く。線は細いが筆の入と出は見えて、髪の線と衣の線は質を変え、少々隈もつけてリアルに人物をえがきだす。
 これに対して「高房卿艶詞絵巻」では、黒髪の流れるような曲線に抑揚はなく、艶墨と呼ばれる濃墨の面も均質で、人をえがきつつモノクロームのデザインともなっている。そんななかで、小さな唇に点された赤も効果的。アクセントとなると同時に、人々に人間味を添えている。長くのびた黒髪は、色無き世界でなまめかしさを増し、紫式部のいう「よき墨絵」の魅力を端的に見せてくれている。中国の白描をもとに作ったに違いないのだが、「漢字」と「仮名」と同様に、造形の質は大きく違い、日本文化のアレンジ能力・トランスフォームの力を示す好例である。
このような「白描絵巻」と呼ばれるものは、鎌倉時代以降のものしか残っていない。それもあって、『紫式部日記』の「墨絵」も「源氏物語絵巻」のような著色の絵巻の下絵だとする解釈もある。たしかに「高房卿艶詞絵巻」のきっちりした感じは、鎌倉時代のものだが、平安時代にも「よき墨絵」が存在したことは、素直に認めていいだろう。「白描絵巻」を可能にするほどに「筆墨」が成熟していたことは、あの「鳥獣戯画」からも納得できる。
「鳥獣戯画」
 誰もが思い浮かべることができる数少ない絵巻のひとつだろう。図は「甲巻」と呼ばれる、最も優れた巻の断簡である。扇子をもった猿が両手を上げて何か叫んでいる。図には見えない右の方では、鹿に乗った猿と、狐に乗った鼠が競争をしているのだが、その鹿が騎手の猿を振り落として、この猿の方へと突っ込んできているのだ。線の性格は、白描絵巻とはまったく違って軽妙闊達。数少ない線で、動きと表情をえがき出す。
 そのなかでいい味を出しているのが鼠の後ろ姿。杖をつき柿の実を引きずっているのだが、たったこれだけの線なのに、ちゃんとモデリングができている。ちょこっと出っ張らせた左肩の線が効いていて、少々猫背(?)なところまでイメージできる。向こう側にある顔も、耳とヒゲからだけで、なんとなく想像できる。これももちろん「胸中のサル」「胸中のネズミ」で、ちゃんとイメージができているから、彼らに自由なポーズを取らせ、動かすことができるのだ。
 もうひとつの特徴は、猿も狐も蛙も鼠も、えがき出す線の質が変わらないこと。この等質感のおかげで、みんなが仲間に見えてくる。中国の白描では、着衣や髪など、えがく対象に合わせて線の質を変えていた。リアルさを追求すればそうなるが、そこは放棄して「全体の和」を重んじる。画面に統一感を与えるこのやり方は、一部の絵巻にも見え、現在の漫画にも通じるものである。
 草花をえがく線は、細くしなやかなものに変えてはいるが、こちらもリエリティの追求というよりは、線と線とを呼応させ、リズムを作り出すためのもの。画家は「筆」の表現力をよく知って、それを実現する技を身につけている。ついでにいえば、部分的には「墨」も見え、花には濃淡のコンビネーションを入れ、子供を肩車する蛙では、斑点だけで体に丸みを出している。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.104-113.

 白猫ではなく「白描(はくびょう)」とは、文字と同様に筆の線だけで絵を描く技法のことで、線だけでなく滲みや暈しを使う水墨画とは、この点で異なる。白描画が漢代から描かれていたのに対し、水墨画はもっと後の唐で出現するという。日本ではさらに鎌倉時代になって、水墨画があらわれるが、白描の方は平安時代には描かれていて、鳥獣戯画はその傑作として今も残る。


B.レコンキスタ(失地回復)の時代
 「レコンキスタ」という言葉は、718年から1492年までに行われた複数のキリスト教国家によるイスラーム支配下にあったイベリア半島の再征服活動の総称。イスラム教に奪われた土地を再度キリスト教の土地に取り返す運動は15世紀の終わりに成功を収めて、スペイン王国とポルトガル王国ができあがる。そこから失ったものを取り戻す、失地回復という意味を帯びたレコンキスタの時代がいま蠢いている、という東京新聞のインタビュー・シリーズ。今回は元CIA工作担当官だったカール氏に、現在のアメリカについて聞いている。大統領選の行方だけではなく、メイフラワー号到着と開拓、合衆国建国、南北戦争という歴史をながめつつ、トランプとハリスのどちらを選ぶかが、アメリカの歴史的転換点になる背景を述べる。この人は最初のメイフラワー号の末裔だという。

「南北戦争以来“内戦”の危機 CIA元工作担当官 グレン・カール氏に聞く
 古い「ワスプの物語」崩壊  共和トランプ氏と民主ハリス氏の対決となった2024年の米大統領選。白人男性中心の「古い米国」から、非白人や女性らが主役となる「新しい米国」への移行期を象徴する。前回に続き、米中央情報局(CIA)の元工作担当官グレン・カール氏に大転換時代のリスクを聞く。
 ―「白人国家」だった米国は今、大きな変貌を遂げつつある。
「私の祖先はメイフラワー号で北米にやって来た。(信仰の自由を求め、1620年に英国を出航した清教徒ら100人余りの中に)一族5人が含まれており、私はその子孫に当たる」
「清教徒らは(北東部)ニューイングランド開拓の礎を築いた。もちろん、先住民はずっと以前から暮らしていたが、入植者に限って言えば、私は『元祖アメリカ人』の血を引いている」
「自分のような欧州移民の末裔は、かつては大多数を占めていた。私が生まれた1956年の白人比は89%。ヒーローはジョン・ウェインで、初期の宇宙飛行士も皆、白い肌をしていた」
「逆に言えば、非白人は圧倒的なマイノリティー(人種的少数派)だった。私の通ったボストン近郊の高校には約2500人の生徒が在籍していたが、アジア系は確か8人だった」
「その中の1人が私の(中国系の)妻だ。中国系の人々はチャイナタウン(中華街)に住むことはできても、私たち夫婦が現在暮らしている(豊かな)地区の住人にはなれなかった」
「幼なじみも差別を味わった。ユダヤ系という理由から門戸を制限され、私と一緒にハーバード大学に進学することができなかった。彼はユダヤ系の大学に入り、歯科医となった」
「理不尽極まりない話だが、かつての米国の現実だ。この国は白人、アングロサクソン(英国系)、プロテスタント(新教徒)という『ワスプ(WASP)の物語』の上に成り立っていた。
  60年代の「革命」
 ― 白人中心の世界が幕を下ろすきっかけは?
「1960年代半ばの「革命」だ。人種差別を禁じる64年の公民権法に続き、移民の国別割当制を廃止する改正移民法が65年に成立した。これらの法律は、米国に大変革をもたらした」
「先述の通り、北米には最初、英国人が入植した。程なくドイツ系の移民を受け入れるようになり、次いでイタリアなどの南欧系、現在のウクライナを含む東欧のユダヤ人に扉を開いた」
「しかし、アジアや中南米からの移民は制限されていた。移民法の改正によって、ようやく誰でも米国に来られるようになった。公民権法と併せ、白人中心の世界が瓦解し始めたのだ」
「中国系の女性と結婚したこともあって、私は『ワスプの物語』の崩壊についてよく考える。個人的には進歩と捉え、歓迎しているが(非白人の台頭を)快く思っていない者も少なくない」
― 共和党のトランプ氏は彼らを糾合し「反革命」を試みている。
「(往時の繫栄を支えた)産業が廃れて仕事を失い、社会の中で「居場所」をなくした白人労働者や農民たちは、様変わりした世の中に怒り、エリートを憎み、将来におびえている」
「トランプ氏は彼らの思いを共有し、政治的に表現する。その力を侮ることはできないが(『ワスプの物語』が広く息づいていた)『革命』前の世界に引き戻すことはできない」
「なぜなら、彼の信者は相対的に消え去りつつあるからだ。56年に人口の89%を占めていた白人は今や50%台だ。2045年ごろには半数を割り込み、少数派になると予測されている」
「こうした潮流にあらがい、トランプ氏が(1960年代の『革命』を覆す『反革命』を)強行すれば、これに反発する(左派の)人々と衝突し、国を揺るがす暴力に発展するだろう。
「だから私はトランプ現象が現れ始めた10年近く前から、警鐘を鳴らし続けてきた。『米国は19世紀の南北戦争以来、最大の危機に直面している』と。状況はこの間、劇的に悪化している」
「米国の民主主義はすでに大きく損なわれている。支持する候補が負けたら『票が盗まれた』と騒ぎ、選挙結果を覆す反乱を起こす者さえいる。トランプ氏自身がそれをあおり、増幅している」
「南北戦争は南部と北部の衝突だった。来る『内戦』は異なる形を取る。(二つの地域間の)地理的対決ではなく(二つの文化間の)社会的対立として、国を大きく引き裂く行動を呼び寄せる」 (共同)」東京新聞2024年9月3日夕刊3面。

 1960年代米国に「革命」が起きていた、という指摘はジョン・ウェイン的白人男性の支配を当然のように思って育った人たちにとって、確かに「負の革命」的だったのは確かだろう。
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