gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「シャボン玉ホリデー」の「おかゆコント」が記憶の片隅から・・

2016-06-16 15:24:03 | 日記
A.「シャボン玉ホリデー」
 これもいまや65歳以上の高齢者が記憶する話題なのだが、1961年6月に始って1972年まで11年間、毎週日曜日18:30~19:00日本テレビ系列で放送された音楽バラエティ番組が「シャボン玉ホリデー」だった。牛乳石鹸の一社提供番組だったので、番組冒頭でモォー~とウシが鳴き、ミニコントに続けて「しゃぼんだ~ま、ららららららら(^^♪)」のテーマ曲をザ・ピーナッツが歌う。毎回一つのあるテーマに沿ってザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツ、並びに毎回登場するゲストを交えて、コントや歌、トークなどを展開。年末には「忠臣蔵」が恒例で、大石内蔵助や吉良上野介に扮した面々があほコントをやった。
この番組からは数多くのギャグが生まれ、特にステテコ姿の植木等の「お呼びでない?こりゃまた失礼致しました!」は番組を代表する伝説的なフレーズとして親しまれ、やがてドリフターズに受け継がれるTVのおふざけギャグ・コントがこのへんから始まった。中学生だったぼくはこの番組の終盤で、ザ・ピーナッツが歌うジャズの名曲「スターダスト」を毎週聴いて綺麗な曲だなあと思い、それからスタンダード・ジャズを聴くようになった。クレージー・キャッツは元々ジャズ・バンドだったのだ。「とんま天狗」「てなもんや三度笠」などの大阪系お笑い番組も人気だったが、「シャボン玉ホリデー」はどこか垢抜けたジャズのセンスが漂っていて、好きだった。
 当時多くの人気タレントを擁していた渡辺プロダクションと日本TVの提携制作だったので、「こんにちは赤ちゃん」の梓みちよ、スパーク三人娘の中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、に男子3人組スリー・ファンキーズなどがよく出ていた。やがてブームとなったザ・タイガースなどのグループサウンズも登場、この番組から小松政夫、なべおさみ、などコメディアンとして知られる人も出てくる。あの頃録画ヴィデオなどなかったから、ぼくらはみんな日曜の夜、家でテレビの前に座っていたわけだな。
 それで何で今頃「シャボン玉ホリデー」を思い出したかというと、この中でしばしば出てくるコントに「おかゆコント」というのがあって、ハナ肇が病気で寝たきりの父親、ピーナッツがその娘に扮し、哀しいギター曲が流れる中(ピーナッツ)「おとっつぁん、おかゆが出来たわよ」(ハナ)「いつもすまないね」で始まる。瀕死の老人を看取る双子の娘、というシリアスな場面に、まったく無関係な吃驚な人物が闖入し、事態がめちゃくちゃになり「あ、お呼びでない?」とか「ふざけんな!」で落とす。人の病や死という悲劇的状況を、ナンセンスに笑いのめすコントは、繰り返し見せられているうちに、嫌なこと苦しいものに対するには悩むのではなく異次元に飛んで笑ってしまえばいい、という気分に馴染んでくる。
 1960年代の日本人は、戦後の貧しい時代の生活を記憶していた。病気や貧困や犯罪の影があちこちに見えていて、表現の世界ではそれを深刻に描く作品が多かった。要するに「生真面目」「くそまじめ」な目で描かれていたので、娯楽としての笑いは、芸能、映画、TVでも、伝統的な落語万才の寄席芸人、時代劇中心の大衆演劇の笑いしかなかった。そこに現われたクレージーキャッツの笑いは、垢抜けたアメリカ文化の匂いがした。加山雄三の若大将シリーズと並行して、高度経済成長の快進撃に同調していたと思う。植木等が歌ったのは、農村や下町自営業の世界ではなく、通勤サラリーマンの世界だった。暗いものは笑って明るい未来を生きよう!という気分を「おかゆコント」はよく表していた。そしてその後の日本テレビ業界は、「くそまじめ」路線は片隅に追いやりバラエティ化し、コント化し、ギャグ化を進め、いまや番組の多くがタレントがはしゃいでおしゃべりするだけで視聴率を競い、結果として見るに値しないものになっている。日本社会自体がいわばお笑いバライェティみたいな気分になったとき、現実の方は自分がどいう場所でどんな生活をしているのかさえ定かにつかめない世界になって、「貧困」が数量化されても実感がなく、実は至るところで経済的にやせ細ってきている。これを笑って飛ばせるほど、時代は甘くない。



B.宗教のもたらす倫理性の根拠
 16世紀の半ば、日本に鉄砲とキリスト教が伝わって来て、日本人は自分たちとはまったく別の文明、新たな事物と知識と考え方に遭遇した。この異文化の伝播について、一般に知られているのは、鉄砲の方は戦争のやり方に影響を与え、キリスト教の方は急速に信者を増やしたが、戦国の世を統一した秀吉と、続く徳川幕府は武器を民衆から取上げ、キリスト教はこれを厳しく禁圧した。切支丹が多く加わっていた反乱「島原の乱」に懲りた権力の切支丹禁制は徹底していたので、その後幕末まで日本にキリスト教信者は存在しなかった。と言われたが、幕末に開国してキリスト教国の外国人がやってくると、秘かに隠れていた「隠れ切支丹」が現われた。
 みつかったら牢に入れられ死刑になる社会で、信仰をどうやって維持できたのか?表面的には仏教寺院の檀信徒に登録され、踏み絵などのチェックをかいくぐったにしても、指導者も集会の場も欠いたまま一つの宗教体系を伝承することなど可能だろうか?北九州一帯の「隠れ切支丹」の研究によれば、村単位、集落単位で先祖代々「おらしょ」という祈禱文と洗礼様の儀式を伝承していたという。こっそり続けているうちに本来のカソリック教義とは変形してしまった部分もあるというが、それが幕末のカソリック宣教師の長崎渡来・大浦天主堂建設によって、一気に刺激され歴史の表に現われた。その活性化した切支丹たちが、再び政治権力と摩擦を起こすのは、肉親の葬式を仏式ではやりたくない、という形で具体化したときだった。自分たちのやり方で死者を送る、というのは宗教的行為の象徴的な問題であるが、その宗教が国家が禁じているものである場合、それはただちに政治的な問題になる。それがここで出てきたのは、江戸幕府がほとんど倒れかかっていて、長崎のような国際港湾都市では、外国人宣教師の布教活動はまだ違法だが、一般の日本人と接触することは可能になったからだ。いずれ御禁制は解除されるかもしれない、という期待もあったにちがいない。ところが、事態は逆の方に動いた。

「長崎奉行は切支丹処分について幕府の指令を受けに江戸に向かって出発した。慎重だが気の長い話であった。当時、幕閣は大坂、京都に将軍について出ていたので、遥々と江戸まで出かけて行く手間は省けた。老中たちは他の事件に追われ目が廻るようにいそがしかったので、長崎の切支丹が葬式を仏式で行わぬという問題も、緊急に解決を要する大事件とは見ず、適当に処置せよと、あいまいな話で終わった。結果を見て、フランス司教達も楽観を許し、伝道は続けられ、特別の伝道者養成に力をそそいだ。日本人の中からも、熱心で才智すぐれた若い勉強家が出た。後に最初の邦人司祭となった高木源太郎、有安浪造、深堀達右衛門神父などが、それである。達右衛門は、中野郷で大工を習っていたが、ローカーニュ神父の弟子となり、まだ十八歳の若さであったが優秀な伝道師となり、特に困難な老人相手の説得に才能を発揮し、世間からも信頼され、尊敬、愛慕された。こうして新しい努力が続けられているのだ。
 葬礼の方法についても、奉行の寛大な沙汰に随って、庄屋は熱心な信徒が寺の僧侶を締め出すのを黙許し、時に、役人を遣って咎めて、戸主だけに自葬を許したので家族の者の葬式は御法度どおりにせよと申入れる程度で一時と違って穏やかなものである。もとより一般はこれを受付けずに寺と関係なく、自分たちで葬儀を営むのが流行となった。それのみならず、男女とも毎日のように村の会堂に通うので、これまで牛小屋のようにむさくるしい小さい会堂だったのが、本式に改造され、祈祷所、宣教師の居室も設け、役人が見廻って来ても、おおっぴらに祈禱礼拝を行なうようになった。幕府は反抗する雄藩の勢力を抑え切れず、外国の中でフランスの勢力に頼ろうとする傾きに陥っていたので、切支丹の禁制にフランス公使が反対なのを知って、圧迫の手を緩めざるを得なかった。いかめしさを人が怖れる長崎奉行なども、一切、お上の御方針どおり動くだけなので、隠されて来た本体は、実に弱いものなのを、さらけ出していた。
 強権の発動が事故に由る場合も、権力の本質から言って、稀でなく起る。長崎奉行能勢大隅守が幕府の指令を得にまだ上京中だった留守に、もう一人の奉行徳永石見守が、浦上の切支丹に手入れの準備をした。諸藩の武士や土着の市民の間に、宣教師に対する反感が急速に昂まっていた。全国的に根強い攘夷熱が、ここではこの方角に容易に発露の道を見出した。外人宣教師が敵意の対象となり、浦上の切支丹の勢力拡大が、目に余るものと考えられるに到った。天主堂のある長崎波の平では、暴徒が仏像に怪しげな衣服を着せて泥濘の中を曳き摺り廻し、土地に住む切支丹の寡婦がやったことだと称して、庄屋に追放させるように訴え出た。切支丹嫌いは、民間に共通する感情であった。徳永石見守は、この情勢に迎合して、同僚の帰りを待たず人気を取ろうとした。七月十五日(陰暦六月十三日)の夜、公事方掛の安藤銀之助、谷津勘四郎、小峰列五郎に指図を命じ、部下の手付、町方捕吏の者を合わせ百七十人を出して風雨に乗じ浦上村を襲わせた。
 騒動に巻き込まれたローカーニュ師の報告には、次のように記してある。神父は聖器と祭服を捕吏に渡さぬように信徒に命じてから、風雨の中に教会を出て信者の一人の家に批難した。
  (中略)
 捕吏の方では、予定のプログラムを立てて置いて、目星の家に乱入し実力を揮って思うところを行った。平の仮聖堂では、次の早朝にミサを行うことになっていたので、多くの信徒が前夜から入り込んで居たが、急を知らされて、我勝ちに逃げたので。風雨の夜の闇の中といい、山が近かったので、迷って逃げ遅れた一本木の伝道師片岡市右衛門以外は皆逃れた。
   (中略)
捕方は、各郷で捕えた信徒を庄屋の米庫に繋いで置いた。そこへ、村民が不穏な様子を見せ、押寄せるという噂が入ったので急に一条の繩に二人ずつ括り、厳重に警戒して長崎へ護送することにした。役人は後鉢巻して抜刀するものものしさである。長崎までおろすと、市の入口にある船蔵の関所に収容し、門を密閉し、漸く安心して休憩を許して信徒にも水を飲ませてくれた。前夜の風雨でずぶ濡れだし、全身泥まみれになっていた。
浦上では、一本木、野中の信徒が捕手を追って、庄屋の家に押掛け、里郷、家野郷からも血気の若者が幾百人となく自然に集まって押掛けて来た。庄屋の下の路端に青竹が積んであったのが人々の武器となった。竹を割って竹槍を作り、庄屋の家を押し包んだ。庄屋の富十郎は驚いて姿を晦まし、残っていた足軽や手付は、手向かう者は切捨てても苦しくないと命令されて出て来た者で、刀を抜き槍の鞘をはらっていたが、群衆の人数とただならぬ勢いに圧せられて、屋内に隠れ、入口に錠をおろして、息をひそめた。
信徒は玄関まで詰めかけて、偶然通った庄屋の弟を捕え、「伍三郎さん、聖堂の道具を渡しなさい。渡さぬと在らば、踏込んで受取りますぞ」と言争って土足で踏込もうとしたので、「余りではないか、渡すから待って居なさい」と、宥めて置いて、役人に交渉して、祭服を始め没収品の大概の品を出して来て引渡した。ローカーニュ師の懐中時計と靴だけが残ったのを、誰も気がつかない。
それで済んだようなものだが、信者の立腹はおさまらず、「今から奴らを打叩いてやれ」と誰かが言出すと、皆が賛成し、最初には仲間を裏切った佐重という男を、庄屋の隣の柿の樹に括りつけ、見る者毎に「よい面の皮だ」と撲りつけ、その後では、まごまごしている手付等を片端から捕えて、庄屋の米庫に押込んで、叩いた。墓守の千代松という男が、二階の物置に蔵ってある蟹籠の中に小さくなっていたのを見付け、「太っか蟹が入っとるぞ」と言うなり、籠もろ共二階から突落し、籠を出た千代松が森へ逃げ込むと、多勢がかりでこれを狩出して、散々に叩いて引揚げて行った。今度は一部の村民が憤慨し、切支丹に叩かれて黙って居られるかと、新築中だった家を崩して、竹槍棍棒を作り、浦上に襲撃を掛けようとした。これを聞くと、浦上でも一度解散した者が得物を持って馳せ集り、婦女子を山に隠し、要所要所に陣取り、小石を積み、灰つぶてを作り、竹槍を削り包丁を棒の先に付けて村の者の攻め寄せて来るのを待ち構えた。代官高木作右衛門が、これを耳にして馬を飛ばして浦上に駆けつけ、信徒の者を宥めて解散させた。人望のある人だったので、言うことを聞いて引揚げたが、一部の青年が山に隠れて遠見をしていると、幾百人とも知れぬ人々が、眼下の田圃道を、どやどやと進んで来るのが見え、代官が馬をおどらせて、その前に立ち塞がって、叱りつけているのが手に取るように近くに見えた。
無事におさまったものの、やがて明治政府が切支丹処分を下す際に諸外国の手前、この事件を好い口実として取上げ、信徒の一揆とも暴動とも称した。
何れにしても、労働に依って生活し、その上に、感謝と祈禱を日々のつとめとして居る誠実な庶民の集団であった。憤怒を発して暴動の形をとった事実の方が異例なのである。
浦上の信徒から差出した伺書がある。
「私共儀、農業相稼ぎ、不義不道を行わず、質素を守り、寒暑の差別なく骨身辛労仕り候儀、全く後世亡魂(死後のたましい)助かり候儀を頼もしく存じ候一心にて、女童までも辛抱仕り相暮らし罷り在り候。」(「浦上切支丹史」所載)
地底から出た声と聞くべきである。
  (中略)
大検挙の最初の知らせは、朝の五時半に大浦天主堂に達し、夜明けとなると、早くも、浦上の切支丹が二名づつ一本の繩に括られて、長崎へ送られて来ると判明した。市民が沿道に人垣を作って待っていると、続々と六十八人の老若男女が送られて来た。普通の罪人と違い、彼等が至極おとなしく無邪気な面持ちで居るのが、やがて沿道の見物人の心を打った。こんな明るく静かに護送される人間の列を、見ることはなかった。
長崎には外人居留地があり、外国人も事件を知った。同じ日の午前十一時頃、ロシヤ国領事は天主堂のプティジャン司教に手紙を届けさせ、本国公使に報告したいので、何が起こったのか聞かせて欲しいと申入れた。領事は事件の輪郭を既に知っていた。奉行所の通訳に会って、この度の処置は甚だしく非人道なものと考える、と抗議の意思を申入れた。
プティジャン司教も、順に列国領事館を廻って事件につき日本側に対し何分の斡旋を依頼した。フランス国領事、次いで長崎を訪れた米国公使が、奉行に対し逮捕につき警告し釈放の運動をした。しかし、奉行の返事は、切支丹は国法を破る重い罪を犯している。これを召捕るのは自分の役目だが、江戸からの指令を得ずに釈放することは自分には出来ない。列強の諸公使が、キリスト教の禁制を撤廃するように中央に話して成功した場合は別であるが、さもない限り逮捕した囚徒を放免する途はない。彼等を拷問に掛けぬことは、奉行の責任に於て約束する、とのことで合法的な拒否であった。
プティジャン司教は、ローカーニュ神父が浦上で事件に巻込まれたのは判っていたが、帰って来ないので心配した。ローカーニュ師はそのまま山に隠れて居て、時々仮の会堂に忍び出ては、まださかんに集って来る信徒に洗礼を与える仕事を続けていた。司教から是非帰るようにと要請が伝えられたので、ローカーニュ師も襤褸を身にまとい、蓑笠を着て、皮膚の白い足には泥を塗りつけ、畚(ふご)を背負って、山を下って来た。信徒が一人案内に付き、一本木から金比羅山を越えて、琴平神社の辺から市中に入り、彼の為に黒衣を抱えて迎えに出たプティジャン司教と道に出会って相抱き合って悦んだ。」大仏次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、普及版2006.pp.195‐202.

 社会学的にみれば、江戸時代の村落社会を成り立たせていたのは、イエとムラという単位で、イエには家長があり、村には全体をまとめる庄屋がそれを管理するという体制で、その上に村方支配の郡役人、さらに領主である大名や代官がいた。ムラは現在の行政単位よりずっと狭く、自然に先祖代々特定地域に居住する数十件程度の集落である。隠れキリシタンが存続していたのも、こういう日本のムラだとすれば、まずはイエの宗教だが、それは同時にムラの宗教であるはずで、人間関係の密度が高いムラの中に切支丹と非切支丹が長期間共同体を形成することはまず不可能だろう。ムラ共同体全員が隠れキリシタンであれば、形のうえで仏教徒を装って日常的には庄屋が感づいても黙認すれば、まず大丈夫だろう。時間とともに切支丹弾圧時代の緊張も希薄になり、家の中でオラショを唱えているだけなら、政治的な脅威を醸すおそれはないからだ。ところが、幕末の浦上では、その「隠れ」を取り払う衝動が過激化した。それはフランス人神父との接触もあるだろうが、信仰の質が活性化し、遠い祖先の示した倫理性のようなものが思い起こされたのかもしれない。では、その宗教性の質とは何だったのか?信者たちの多くは文字を知らす、聖書は読めないのに、キリスト教の本質的な教義に確かにすぐ共鳴したのだから。(この項続く)
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 文化に埋め込まれた無意識・... | トップ | 大英帝国の国力と住民の倖せ... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あなたは? (宮島将郎)
2019-01-18 16:29:57
わたしは日本テレビOBですが、あなたはどなたですか?
返信する
メール (宮島)
2019-01-18 16:39:15
miyajima@mukashi.tv
返信する

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事