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 水墨の美 4 趣味としての水墨  女子は地方へ…という愚策

2024-09-01 15:02:19 | 日記
A.文人画
 優雅な趣味をもつことは、余裕ある人生を生きることにつながるけれども、そういう境遇を得られる人はある意味、恵まれた人である。職業をもってお金を稼ぎ、人に役立つ仕事をしていると、ふつうはなかなか趣味に没頭する余裕はない。「文人墨客」という言葉は中国で言えば、明代にできたという。さほど古い言葉ではないらしい。中国では科挙という制度が長く続き、難しい試験に合格しなければ「士大夫」という特権階級になることはできない。ある意味誰にも受験可能な共通試験によるメリトクラシーが定着していたわけだが、合格者は少数エリートで、科挙に挑戦した多くの志願者は、知的学習を長い間頑張るわけで、それでも挫折する人の方が圧倒的に多かった。いわゆる中国の詩人や文人となったのは、この科挙に通れなかった挫折者が多い。しかし、教養と趣味がよい人物なら、残りの人生を貧しくても優雅な趣味に生きたいと思ったのだろう。そこで、書画や詩を楽しむ文人というものが生まれ、後世に残る作品を作った、というわけだな。
 日本でも、この趣味に生きる「文人墨客」が登場するのは、たぶん南北朝から室町時代だと思われる。雪舟などの水墨画家は、五山などで学び学問ができたが、禅僧でもあったので、職業画家とはいえない。いわばこのようなインテリ層が文人になっていく。島尾先生のご高説を読んでみよう。

「張彦遠が「古より画を善くする者は、衣冠貴冑(いかんきちゅう)、逸士高人(いつしこうじん)に匪(あら)ざるは莫(な)し」(『歴代名画記』)というように、素晴らしい画をえがくのは、王侯貴族や高位の官人そして在野の賢者たち、という主張は以前からあった。絵画の芸術性を主張し、その地位を高めようとするときに現われる論理として、中国にあっては自然なもの。実際にもそのような人たちはおり、早くは後漢の蔡邕、六朝には顧愷之らが知られ、唐代では第二章で触れた王維が象徴的な存在だが、「文人画家」が社会的な存在として意識され、「文人画」というジャンルがはっきりと姿を現すのは北宋の時代になってからである。
 ただし、「文人画」という呼称も古いものではなく、明時代の末の董其昌(1555~636)が「文人の画」といったのがはじまりという(『画禅室随筆』)。董其昌は「芸林百世の大宗師」=百代に一人の大先生と呼ばれ、書画の理論家として後世まで強烈な影響力を持った人。禅の流派になぞらえて、文人の画を「南宗画」、職業画家のそれを「北宗画」と呼んで、中国絵画史を書き直した。「七太夫」の方も、古代の大夫という階級の名からはじまって、その指示するものは時代によって変わる。
 宋代の特徴は、なんといっても中国の上級公務員試験である科挙を通過して、官僚となった人々が、旧来の貴族に代わって国家の中枢を占めるようになったこと。この官僚機構の上に絶対的な権力を持つ皇帝が居るという体制になった。科挙は隋代からあったのだが、ここまで全面的に機能させたのは初めてで、原則として万人に開かれ、家柄や門閥よりも、個人の能力が重視されることになった。
 この新たな「士大夫」たちは、官僚であると同時に知識人=「文人」であり、詩文と書を得意とするのはもちろんのこと、広く文化と学問の分野で指導的な役割を果たした。彼らが新たに作り上げた理論を「宋学」と総称するが、なにしろ科挙の難関を通って来ているから理屈っぽい人が多い。いま見た蘇軾もそのひとりで、彼らによって絵画の理論も洗練され、また文同のような画家も出て、「文人画」ははっきりとした姿を現すのである。
 第一章でも触れたように、彼らはプロの画家ではなく、あくまでも趣味という意味で、自らの画技を「墨戯」=墨の戯れと呼んだ。この名も象徴するように、その主体が岩絵具を溶いて塗らねばならない「著食」ではなく「水墨」だったのは自然な成り行き、こうして、「文人画家」と「職業画家」は、中国絵画史を支える画家の、二つの大きな流れとなってゆく。
  画の論理 
 このように理屈っぽい北宋の人々は「形似」から「精神論」「人格主義」へと一気に飛躍はしない。その中間のさまざまなレヴェルも論じられている。
 たとえば蘇軾が記す、戴嵩(たいすう)という牛の絵の名人の話。この人の闘牛の画を見た牛飼いの童子が大笑いをする。「なぜか」と聞かれて、「牛が闘うときには、角に力を入れ、尾は引きつけて両足の間に入れるもの。ところがこの画の牛は尾をふっている」という。要するに牛の画の名人が牛の修正を知らないというのである。蘇軾は、これを「田畑のことは下男に聞け、機織りのことは下女に聞け」と「餅は餅屋」の諺でまとめる(「書戴嵩画牛」)。「絵なんだから、いいじゃない」とか「しっぽを振っている方が、躍動感があって……」というふうにはならず、あくまでもリアルさを求めて牧童を認める話になっている。
 もうひとり、この時代を代表する理論家の沈括(しんかつ)(1031~1095)も似た話をいくつか記している(「夢溪筆談」)。「なぜ牛や寅をえがくときには細かに毛をえがくのに、馬ではえがかないのか?」とか、画の中の猫の瞳孔が細くなっているのを見て「これは真昼のネコだ」といった人の話など。象徴的なのは仏像の光背の話。本来は仏が発する光なのだが、木の仏像では扁平な板で表され、像の後ろに立てられ、時に頭に付けられる。それで仏を斜めから見てえがくときに、光背も斜めから見たようにえがくものがあるのだが、沈括はこれを非難する。この仏の発する光は本来は「常円」、つまりどこから見ても円に見えるというのである。
 「仏」ではなく、「木像」なんぞを写すからこうなってしまう。いってみればミメーシス、プラトンは、さまざまなものの本質を「イデア」といい、それがもつ個別的なかたちを非本質的なイデアの「模倣」として「ミメーシス」と呼んだ。私はイデアのようなものだが、そのイメージを写した仏像というミメーシスを、さらに写したのでは模倣の模倣。それで本質からかけ離れてしまうというのである。
 そしてまた王維である。沈括は王維の「袁安臥雪図」を持っていた。袁安(?~92)は後漢の高官で、都の洛陽が大雪で飢饉になり、みんな必死で食べ物を探しているのに、一人ゆったりと家で寝ていた。「なぜか」と聞かれて「市中の食糧不足を案じて」と答えたという。悠然たるさまが人気の画題でよくえがかれたのだが、王維の画には雪の中に芭蕉がえがいてあった。芭蕉は寒さには強いとはいえ南方のもの。「南の島に雪が降る」で、季節外れという以上にともかく合わない。しかし沈括はこれを絶賛する。
 その理由が「此れ乃ち心に得て手に応じ、意到りて便ち成る。故にその理は神に入り天意を迥得す」(『夢溪筆談』)というもの。なんとなく見慣れてきた言い方だが、「天からのインスピレーションが王維の創造力にはたらいて、心に浮かんだイメージをそのままにえがいたらこうなった。だから、常識に反しているようにみえるその「理」は、天の意を得たものなのだ」。
 「雪の中の芭蕉が?」と思われるだろうが、沈括も「こういうことを俗人と議論するのは難しい」と続けている。彼の主張は「書画の妙は当に神を以て会すべし」ということ。「神」は前にも触れたように、「天」「道」の霊妙な働きであり、それを感じられる人の心である。画はそのような心で理解せねばならない。「俗人で悪かったね」といいたくなるが、さまざまなタイプの絵画を知ってしまった今では、感覚的に理解するのは難しくはないだろう。
 表現手法としてみれば、意外なものの組み合わせで見る人を驚かせるというタイプで、「デペイズマン(Depaysement)」に通じる。シュルレアリスム(超現実主義)で常套の表現手段となったもので、例として常に引かれるのは「ミシンと洋傘の手術台の上での不意の出会いのように美しい」という、フランスの詩人ロートレアモン(1846~1870)の詩(『マルドロールの歌(Les Chants de Maldoror)』)の一節。マグリッドやダリの絵と共に、「雪と芭蕉の不意の出会い」を思い浮かべてみれば……。
 張彦遠は「王維はしばしば四季を気にせずに、桃と杏と芙蓉とを一幅のなかにえがいてしまう」と言っていたと伝えられる(『夢溪筆談』)。この一節は現存する『歴代名画記』にはない)。季節を無視した不条理ではあるが、絵画ならではの自由さと面白さ。もっとも日本では四季をえがいた屏風が当たり前だから、ことさらに書き立てるほどのことでもないが。
 いずれにしても、「雪中芭蕉」は大詩人である王維の想像力――職業画工にはない「文人」の発想――を語ろうとするものである。蘇軾も「呉生は妙絶なりと雖も、なお画工をもって論ずべし。維はこれを象外(しょうがい)に得て、仙翮(せんかく)の籠樊(ろうはん)を謝するが如き有り」(「王維呉道子画」)と、呉道玄はまだ画工の域だが、王維は仙鳥が鳥籠に囚われぬように、物を象るという域を超えているという。
 今ならその能力は、ピカソの天才を褒めあげるように、王維個人に属するのだろうが、完全に自立した「個としての芸術家」というイメージは、大ざっぱにいえば西洋近代の産物である「道」が生き生きとはたらいていた時代には、王維が「天意に感応した」という語り口の方が自然だった。
 王維の「雪中芭蕉」は「文人画の祖」の逸話として知らぬ人のないほどに有名になり、随所で引かれることになる。沈括の「分かるやつにしか分からない」といういい方は――初めて現れたときの印象派や抽象画のように――「ゲイジュツはむずかしい」という永遠の問題(?)ではあるけれど。
  「気」の表現 
 郭煕が生きたのは、このような時代だった。六朝の宗炳からは600年が経つが、山水画の理念の基本は変わらない。一方で、それを具現化する表現の方法は「水墨」を得て大きく進み、「理念」と「造形」とを繋ぐ理論も、極めて精緻になってゆく、宮廷画家である郭煕も、これに対応するための理論武装をしつつえがく必要があった。「形似」はもちろんのこと、「常理」に通じ「造化」の霊妙さを宿した水墨山水を。
 その結果が冒頭から見てきた「林泉高致」と「早春図」である。もういちど彼の言を引けば、「山は水を以て血脈と為し、草木を以て毛髪と為し、烟雲を以て神彩と為す」という。人の体に喩えて、すべてが生き生きとしていなければ、というのはいかにも中国風の表現。それぞれの部分についても、たとえば「水の潺湲ならざるを即ちこれ死水と謂う」と触れる。「山の血脈」が、さらさらと流れるようにえがいていなければ死んだ水。さらに「水は山を得て媚……」と、山と水とが相俟っての山水の美を語る。このような視覚的・感覚的なイリュージョニズムに、さらに「道」「造化」の霊妙さを重ね合わせねばならない。
 これを可能にする、基本的なモチーフが「気」だった。すでに触れたが、中国で考えられた万物を成り立たせるエネルギー。「元気」といえば世界がまだ未分化の渾沌だったときの原初の「気」であり、新たな造語をふくめて「生気」も「邪気」も「病気」も「大気」も、すべてここから発している。人の体の中での「気」の通り道を「経絡(けいらく)」と呼び、鍼灸でこれを利用するのは周知のところ。不可視かつ幽遠な「天」や「道」とは異なって、気功の術を受ければ体に感じられ、そしてときに目に見える。
 たとえば「雲は山川の気なり」(『説文解字(せつもんかいじ)』)という。山にかかる雲そして烟霞は、山の吐き出す「気」である。いわゆる「風水(ふうすい)」では、大きな山脈を「龍脈」と呼ぶ。大地の血管のようなもので、その地下を「気」がどどっと流れており、それが分岐して末端で出てくるところが「龍穴」である。山はこの「気」に満ちたところ。そこに遊ぶのはそのエネルギーに浸ることでもあった。「森林浴」に類するものははるか昔からあり、「パワースポット」も別に新しいものではない。
 画の六法の第一の「気韻生動」の「気」ももちろんこれで、「気韻」は画家のものであると同時に、対象に満ちるものでもあり、書や画に具現され感じられるものでもあった。
  霧のように岩をえがく
 この「雲」や「烟霞」が、いうまでもなく「水暈墨章」の得意とするところで、暈しと滲みを用いてさまざまに表現できる。「早春図」でも、烟霞が山腰を斜めに覆い、右上から射す柔らかな光に、ぼーっと光っているように見える。
「水墨山水」は、これを山や岩へも及ぼした。郭煕に先んじる大山水画家・李成(りせい)(919~967)のえがく岩について、北宋の文人画家で鑑識の大家でもあった米芾(べいふつ)(1051~1107)は、「李成の淡墨は霧中に夢みるが如く、石は雲の動くが如し」(『画史』)といっている。李成の淡墨は霧の中で夢を見るようで、石は雲が動いているよう。米芾はこれを「功多くして真意少なし」、技巧に走って、本質の表現になっていないと否定するのだが、李成を継いだ郭煕の岩も、やはり「石を描くこと雲のごとし」(黄公望『写山水訣』)といわれた。
 たしかに「早春図」の岩は雲のようにも見えるが、気になるのはぬらぬらとした輪郭線。もちろん実際にこんな線は見えない。内側では墨の濃淡でまるみを出しているから、それだけでいいのかも知れない。実際、輪郭線を使わないえがき方はあって「没骨」と呼ばれるのだが、それでは文字どおり「骨がなくなって」しまう。「早春図」の岩から輪郭線を消したところを思い浮かべてみれば、骨格を欠いた感じになるだろう。やはりここでも「筆」と「墨」―-比喩的にいえばドローイングとペインティング――を兼ね備えねば。ペインティングだけでやってしまうと、厚みは出ても「骨法用法」が失われてしまうのだ。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.90-98.


 「気」は合気道の理論でも知られるが、もとは朱熹が説いた朱子学の格物致知と理気二元論からくる。南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系である朱子学は、日本で使われる用語であり、中国では朱熹と彼に先行した北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。北宋・南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである。また、陸王心学と同じく「理」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。朱子学では、おおよそ存在するものは全て「気」から構成されており、一気・陰陽・五行の不断の運動によって世界は生成変化すると考えられる。気が凝集すると物が生み出され、解体すると死に、季節の変化、日月の移動、個体の生滅など、一切の現象とその変化は気によって生み出される。この「気」の生成変化に根拠を与えるもの、筋道を与えるものが「理」である。「理」は、宇宙・万物の根拠を与え、個別の存在を個別の存在たらしめている。「理」は形而上の存在であり、超感覚的・非物質的なものとされる。 (以上はWikipediaによる)
日本では江戸幕府が朱子学を官学とし、林羅山の学統を幕府の公式学問とした。孔子孟子の儒学を宋代に抽象理論として世界を理と気から説明し、これに対し明代の陽明学や闇斎学は朱子学を体制擁護の観念論として批判したとみられる。


B.少子化対策の姑息
 行政当局が、ある政策目標を達成するために、手っ取り早く手をつけるのは、補助金を使って当事者にある行動を取るように誘導する手法である。ある行動をすればお金がもらえる、というならば、それに乗る人はどれほどいるのだろうか。もちろん問題によってそのような効果をもたらすものもあれば、そうでないものもある。コロナ禍でのワクチン接種などは、感染拡大を防ぐために政府は無料でワクチン接種をすすめた。これはお金を払うのではなく一律無料にすることで、感染予防の政策効果を徹底させようとしたわけだが、少子化対策と人口移動の問題では、そう簡単に乗る話ではない。それは個人の人生の自己決定に介入することになる。官僚が考えたとすれば、想像力に欠けた愚策だと言われてもしかたがない。

「どこから突っ込みを入れるべきかと考えているうちに、「事実上撤回」となった。東京23区から地方へ移住する独身女性への支援金制度案である。小紙が方針を報じたのは先月29日。翌30日に、自見英子(はなこ)・地方創生相が記者会見で「再度の検討を指示した」と述べた▼案は最大60万円で、加算を含めて検討された。地方の婚活イベントに参加する交通費も支援し、移住には就労や企業を条件としないという。働かなくていいから地方に移住して結婚し、子どもを産んで欲しい――。そんな思惑が見え見えで批判されたのは当然だろう▼東京への一極集中、地方からの女性人口の流出、進む少子化。これらの問題を「まとめて解決だ」と言わんばかりの安易な内容に、めまいがした。案をつくった内閣府で疑問の声は出なかったのか▼ニッセイ基礎研究所の天野馨南子(かなこ)さんは「地方創生の致命的網点」を分析した論文で、「若い世代に選ばれる労働市場」をつくる重要性を説いた。結婚しても一人でも、そこで暮らしたいと思える仕事や文化があるかどうかが大切だ▼今の女子学生たちは「出産適齢期」を強く意識し、必要以上におびえている印象がある。昨日のオピニオン面で、学識者がそう語っていた。ちまたには「若年女性が少子化政策のカギを握る」といった報告書などがあふれている▼ケチな制度案は撤回されたが、女性たちの心境を思うと胸が痛む。結婚も出産も居住地の選択も、個人の自由である。改めて言うのも悲しいが。」朝日新聞2024年9月2日朝刊1面「天声人語」。 


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