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 水墨の美 7 詩書画三絶って?  大家族犯罪?

2024-09-10 16:18:38 | 日記
A.理想の文人
 「万能の天才」といえば西洋ではレオナルド・ダ・ヴィンチがまず思い浮かぶ。絵画、彫刻だけでなく、科学技術、建築など多方面に才能を発揮した。だがレオナルドは東洋の「文人」とは違う。王侯貴族の保護を受けて作品をつくる職人であり専門技術者だったから、趣味で才能を発揮する「文人」ではない。中国の「文人」は、詩と書と画をどれもよくする知識人であり、それらは紙や布の上に墨と筆でさらさらと書く才能である。山水を描いてその上に漢詩を書きこむ。それを見て感心したら、さらに讃という詩か文章を書き加える。これは唐(618 - 907年)から宋(北宋960~1127年、南宋1127~1279年)そして元(1271~1368年)と続く中華帝国で、高尚な文化的伝統となった。
 日本では、この詩書画の現物が伝わってくるのは少し遅れて、南北朝から室町時代はじめの14世紀。とくに禅宗寺院で中国の書画骨董から多くを学んだ禅僧たちによって、実作を試みるようになったけれど、その頃の中国は元が滅びて(元は北方モンゴルに撤退して続くが)、新たな帝国明の時代になっている。すでに元のときに、仏教とくに禅宗は弾圧されていて、「詩書画の文化」は衰弱を始めていた。

「いま「ショガサンゼツ」と発音して、漢字を思い浮かべられる人はどれだけいるだろうか。「詩書画三絶」と書いて、詩と書と画のすべてに優れていること。絶品というときの「絶」で、これが文人の理想的な姿だった。
 古くは、南朝梁の元帝(げんてい)(簫繹(しょうえき)、在位552~554)が、孔子の像をえがき、これに自分で賛を書いて、時の人々から「三絶」と称され(『南史』)、玄宗は、仕えていた学者の鄭虔(ていけん)が、自らかいて献上した詩と画の後に「鄭虔三絶」と大書したという(『新唐書』)。蘇軾も、文同の詩・楚辞・草書・画を「四絶」と呼んでいる(『書文與可墨竹幷序』)。
 本書の冒頭でも触れたが、いまもっとも縁遠くなってしまったのがこの世界。それぞれにプロの作家も趣味にする人もいるが、すべてをよくする人はまずいない。このようなことを書きながら、私も書をほんの少々という程度、画は素人以下で、漢詩は平仄(ひょうそく)も頭にはない。しかし「水墨」を語るとき触れずにすまないことも先述のとおり。「書画同源」「書画同体」といい、また「画は無声の詩」「詩は無声の画」といって張彦遠の『歴代名画記』から見ておこう。
「書画同体」
 「書画同体」の説明としてよく知られるのは、「象形文字」を根拠とするものだろう。「山」も「目」も「鳥」もそれらを象ったものだから、おおもとでは字も画も同じ、という論理である。「象形」は、いうまでもなく後漢の許慎(きょしん)が『説文解字』で漢字を分類した「六書(りくしょ)」(象形(しょうけい)・指事(しじ)・会意(かいい)・形声(けいせい)・転注(てんちゅう)・仮借(かしゃ))のひとつ。『歴代名画記』もこれを引いて「是の故に知る、書画は異名にして同体なることを」と主張する。
 しかしその前にはより根本的なイメージが記されていて、張彦遠は「古の聖王がその位につくと、神秘的な字をもつ亀と、めずらしい図をもつ龍が現れる」というところから話を始めている。中国の王は天命を受けて位につくが、そのときに天から秘書を授かるといい、『易教(えききょう)(周易)』には「河(か)は図(と)を出し、洛(らく)は書(しょ)を出す、聖人これに則(のっと)る」(「繋辞(けいじ)」)とある。いわゆる「河図洛書」で、「河図」は黄河から出現した龍馬の背に、「洛書」は洛水から出現した神亀の背にかかれていたという。前漢末の劉歆(りゅうきん)が、伏羲(ふくぎ)は「河図」をもとに八卦(はっけ)を作り、禹(う)は「洛書」から『書経(しょきょう)』の「洪範(こうはん)」を作ったという説をとなえ(『漢書』「五行志(ごぎょうし)」)、これを受けて唐の孔潁達(くようだつ)が「河図洛書を論じるものはみな「龍が図を負い亀が書を負う」といっている」と記すなど、聖王が天から授かるのが「図」と「書」のセットであるというイメージは定着していった。
もちろんこの「図」のイメージは、易の卦へと整理され得るような不思議な図形で絵画ではなく、「書」も文字とそれによって書かれたもので、「筆墨」による書のことではない。しかし、ヴィジュアルとリテラルのセットという点でみれば、「書画同体」のもととなるイメージは、ほとんど「歴史の始まり」とともにあったと信じられていたことになる。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.148-150.

 唐、宋、元と500年ほどの時間のなかで、漢詩と水墨とが練り上げた世界は熟したが、日本ではどうだったかというと、さらに100年ほど遅れて「詩書画の文化」は花開く。

「隠逸の山水画の詩画の分かりやすい例を、時代も地域も飛ぶが、日本の室町時代に見ておこう。大きな岩の陰に、松に抱かれた粗末な庵が建ち、裏には竹の一叢。水辺に小舟が繋がれて、遥かに山が望まれる。清らかな隠逸の理想郷である。その上には十二人の京都の禅僧が詩を寄せて、それぞれに、画中の景を愛で、都の喧騒を離れてこのようなところに隠棲したいと詠んでいる。
 このような「詩書画」の文化を日本へ運んできたのも、「水墨」と同じく禅僧だった。前章に見たように、鎌倉から南北朝時代にかけては多くの僧が中国へ渡って、漢詩文はもとより「唐物」と呼ばれる美術工芸品から茶まで、さまざまな文化を持ち帰り、禅宗は禅という宗教のみならず、中国文化全体の受け皿となってゆく。室町時代に入るとこの性格はより明確になって、禅僧は「漢」を体現する社会的な階層となる。漢詩文を作り、水墨をえがき、あちらの歴史に精通するなど、中国通の文化人ともなるのである。僧侶でかつ文人・詩人と思えばいいだろう。
 それにしても、すでに俗世を捨てたはずの禅僧が、さらに隠逸願望をもつというのもおかしな話なのだが、この時代のはじめ頃、京都に住む禅僧たちは、矛盾する二つの気分を抱いていた。南北朝の合一を成し遂げ権力を握った足利義満は、禅宗を自らの宗教的・文化的バックボーンとして社会の前面へと押し出した。有能な僧を京都へ呼び集め。相国寺のような直轄の大寺を建て、五山のシステムを整える。自派の躍進は禅僧たちにとって喜ばしいことである。
 しかしパトロネージの充実は、当然にも世俗への密着に繋がる。相国寺は、義満の住む「花の御所」のすぐ隣にあって、高位の僧は、政治のブレーン・外交のスタッフともなり、寺院の格付けや僧侶の昇進のシステムの整備されるなか、宮仕えの気分も増してくる。「本来のところへ帰りたい」と思うのだけれど、脱サラ志向のようなもので、なかなか脱出は叶わない。実は心からその実現を望んでいるとも言い難いところがあって、「せめても」と心を遊ばせたひとつが、このような水墨の世界だった。幅が30センチ余りの小さな世界。マンションの居間に掛けられたレマン湖畔の別荘のようなものである。
 ただし「どこの風景?」と聞かれても答えようはない。詩を題したひとり、惟肖得厳は「五年曽て住めり海崎の寺、数点の青螺、淡山に対す」と、尼崎の栖賢寺から海を隔てて望んだ淡路島を思い出しているが、基本的なイメージは中国の風景である。そして、この画のもとになったのは中国の山水画。具体的には南宋時代のそれで、えがいた者は彼の地の風景など見たこともない。要するに「画からつくった画」なのである。
 その中国の山水画も「胸中の丘壑」だった。実景をそのままに写しはせず、とくに南宋のものには象徴的な表現が多い。「江天遠意図」は、えがかれた土地のリアリティの感じられない画をもとに、見たことのない地のイメージをえがく、という二重の意味での「空想の山水」なのである。逆にこのリアリティのなさが、自分たちの夢見た隠逸の地のイメージを素直にえがきださせた。
「江天遠意図」で、その気分を表現するのは明快な「対角線構図」。画面に対角線が引かれているわけではないが、右下から左上への対角線が、近景と遠景を分かち、あいだの広い「余白」が水面となっている。もう一つの対角線が表すのが近景と遠景との関係で、こちらが象徴的な機能を担う。この画の場合に両者を繋ぐのは松の梢。遠くの山へと向かって「遠」を表現していうのだが、ただ空間の広がりを示しているだけではない。庵の門は開いて人はいない。庵の主は、画を観る者なのだ。
 この感情移入の窓に誘われて、庵へと入り込むと気分は松の幹そして梢に導かれて遠くの山へと向かう。その山は禅僧たちにとって、隠逸の理想郷の一部としての近景の属性であると同時に、手に入れがたい願望の対象でもある。松の梢はそんな心の動き、精神的な「遠」をも表現している。水墨山水の遠近法は、空間の奥行きを表現するだけでなく、「精神の遠近法」であることも多い。
 ここには「禅」も関わっていて、同じような理想の風景をえがいた「溪陰小築図」(金地院蔵)を、時の高僧・太白真玄は「心画」と呼んでいる。画中の景が「蓋し是れ心に得たるにして、外に境するに非ざるなり」というのがその理由。たがかれたのは、外に見える風景ではなく、心の内に湧きあがったもの。だから「心画」と呼ぶのが相応しというのである。ここは山水を見尽くして、画家の中で再構成する「胸中の丘壑」とは異なる感覚。「心」を重視する禅ならでは、たとえば唐末の承古も、修行のすすむ心のさまを画にたとえ、「心画」が成るといっている。
「江天遠意図」は、私の大好きな絵なのだが、こういう「小さく閑かに」は「大きく強く」かつ「分かりやすく」が全盛のいまは旗色が悪い。しかも読みづらい詩が全体の三分の一を占めていて、「ヴィジュアル全盛」の風潮にも反している。もともとが住房に掛けて仲間内で楽しむ画だから、展覧会芸術とは縁がなく、大きなギャラリーでの展示にむくはずもない……。しかし「大きく強く」の後で見るとほっとする。水墨の小世界にしっとりと遊ぶのもいいものである。
 このような多数の「詩」と「画」のコンビネーションが生まれたのは、もちろん中国の文人画の影響による。元時代の後半の江南では、「雅楽」とよばれる文人たちの集いのなかで、詩書画をつくるのが流行する。
「荊溪図(けいけいず)」は元末の至栖19年(1359)、王允同が陳汝言に、水郷として知られる故郷の荊溪(江蘇省宜興)の風景をえがいたもらったもの。陳汝言は、文人仲間の故郷への思いを込めて、広大な太湖の西岸にある、柳の植えられた穏やかな街並みを、細やかな筆致でえがきだした。画上には、そんな画の成り立ちの事情を、元の四大家として知られる文人画家・倪瓉が記し、その後にやはり四大家の一人である王莽ら11人の文人が、詩を寄せている。
 あげれば、盧領陵(江西省吉安)の王禮(1314~1386)は、この地の長官だった曹氏が任地を去るにあたって「群斎の士友が相い率いて、送別の図を䌫き、惜別の句を賦した」という(「秋江送別図詩序」)。役所の人々が「やろうやろう」と盛り上がり、「秋江送別図」をえがいてその後に詩を続けた。図柄は船で去ってゆく人を、川辺で多くの人々が見送るところだろう。こちらは掛幅ではなく巻子だが、いってみれば、去る者に贈る雅な「寄せ書き」である。
 元時代の後期には文人との交友のなかで、このような場に加わる禅僧も増え、禅林でも似たようなものが作られるようになる。留学した日本の僧もそれを見聞きして、南北朝時代の終り頃に「私たちも‥…」と始まったのが、日本における新たな詩書画の世界。これが大流行して室町時代の初期には「江天遠意図」のようなものが数多く作られた。
 もちろん「あちらそのまま」ではない。「荊溪図」も詩が書かれることは予想されているけれど、「江天遠意図」ほどには画上のスペースを空けていない。あくまでも、著名な文人画家がえがいたものの余白に詩を入れる、という感覚である。一方、禅宗の絵画では、高僧が偈頌(宗教的な内容の詩)を書くために、画上にスペースを用意することがよくあるから、おそらくこの感覚が反映しているのだだろう。
 そして根本的な違いは、日本の禅僧のなかに「文人画家」がほとんどいないこと。「江天遠意図」のように、ほとんど画家の名は分からず、「工に命じて」つまり画工にえがかせたと記されたものもある。禅の高僧たちは「詩書」には熱心だったが、一人で「詩書画」を兼ねる人は、鉄舟徳済や玉畹梵芳などごく限られていた。これも禅の影響なのだろう。教団内で禅宗絵画をえがく画僧はほとんどが無名で、詩文を能くするものは稀だった。
 室町時代の「詩書画」は、「文人画」と「禅宗絵画」の性格が入り交じる「文人画家なき文人画」だったのである。江戸時代の中期には、あらたな文人画である「南画」が興るが、そこでも詩を作れることは必須ではなく、主体となる知識人のありようを含めて、「和」に独特のものとなってゆく。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.167-173.

 日本では、のちに「書」は独自の領域に発展するが、「画」と「詩」はそれぞれ分岐し絵師は絵をかき、詩人は詩を書くだけで、両方に達人であるような人は出なかった、というわけか。いずれも趣味の余技であって、職業化したわけじゃないからね。


B.「大家族犯罪」?
 日本の組織犯罪集団は、むかしから「ヤクザ」と呼ばれ、「組」という擬制家族のしきたりを持っていた。親分子分関係は、実際の血縁親子ではなく、盃を交わして疑似家族のようなものを作る。親分は子分の面倒を見、子分は親分のために骨を折って尽すのが仁義である。こういう組織は、どこの国にもあって、それが移民家族にルーツがあれば、民族集団の家父長制が結束のイデオロギーになる。マフィアが国境を越えた犯罪暴力組織になるのは、珍しいことではない。でも、このドイツの「大家族犯罪」組織の規模は、想像以上に大きいという。実際に血のつながりで成り立っているのなら、かなり強力なネットワークになる。

「移民ルーツの一族 社会統合の失策と差別の末に 「大家族犯罪」ドイツの模索
 ドイツでは近年「大家族犯罪」が問題になっています。日本語で「大家族犯罪」というと聞きなれない言葉のようですが、ドイツメディアは、和訳すると「アラブ系大家族による犯罪」や「クラン(氏族)による犯罪」といった言葉を用いて報道しています。その実態と、犯罪が多発する状態になった背景・そしてドイツが今もなおもさくちゅうのあ解決への糸口について紹介します。(サンドラ・ヘフェリン=コラムニスト)
 ドイツで近年、問題になっている「大家族犯罪」の「大家族」に厳密な定義はありません。一般的にドイツに移民してきた歴史的背景を持つ民族集団で、一族の長を中心に、大勢の子どもだけでなく、いとこや結婚で結ばれた姻族も含み、ドイツ生まれの2世、3世も含む大きな集団を指します。
 一つの家族が数百人規模、数千人規模であることも珍しくありません。「大家族」の中で犯罪に関わっているのは「一部」ではあるものの、その「一部」の数が多いため、ドイツで深刻な問題となっているのです。
 「大家族犯罪」について、ドイツの警察はほかに「マラミエ・クルド人」という言い方もします。ドイツ連邦刑事庁によるとドイツには約200万人のマラミエ・クルド人が住んでいて、その数は北部や西部に集中しています。
 ベルリンでは組織的犯罪の5分の1が「氏族による犯罪」であることが明らかになっています。
 大家族による有名な犯罪には、2017年にベルリンで起きた「ボーデ博物館の巨大金貨盗難事件」があります、この事件では375万ユーロ(現在の換算レートで約6.3億円)の100キロの純金の巨大金貨が盗まれましたが、実行犯3人はいずれも同じ氏族の人物だということが判明しています。
 氏族間の暴力沙汰も目立ちます。21年にはベルリンのホームセンターの駐車場で氏族同士が大人数でけんかをし、ナイフで刺されたり、撃たれたりする事件がありました。とレブルの下人は違法な「みかじめ料」でした。
 ドイツで問題になっている「大家族」のルーツは、シリアやイラクとも近いトルコの南東アナトリア地方にあると言われています。
多くは1975年のレバノン内戦をきっかけに70~80年代にベイルートから東ドイツを経由して当時の西ドイツにやってきました。 (以下引用略)」朝日新聞2024年9月9日夕刊3面 GLOBE+
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