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 水墨の美 2 「臥遊」の境地   大学の学費は誰が負担すべきか?

2024-08-26 15:41:45 | 日記
A.水墨山水のはじまりと最盛期
 巨大な岩山、流れ落ちる滝や渓流、急峻な山道を辿ると山荘のような庵。このような深山幽谷の景色は現実にあるだろうか?中国のような大陸の山岳地帯の奥地にはあるのだろうが、日本ではまずないし、あったとしても普通の人間には簡単には辿り着けないだろう。つまり山水画が描き出す霊妙な絶景は、現実にそこに行って写生したものではない。水墨は色を消した世界だから、その意味でも一種の技巧的架空世界であって、現実にはありえない景色だからこそ精神的な霊気のようなものを、見る者に与え、さらにそこには漢字の詩や文章が書き込まれて、完成した世界を現出する。
 これが中国の唐代に始まって、北宋から南宋で完成され次の元代までにすぐれた作品が生み出され、日本にまで伝わってくる。しかし、日本で水墨山水が本格的に描かれるようになるには、さらに時間がかかった。モンゴルから出て世界帝国になった元王朝は中国では短く終わり、1363年に朱元璋によって明が樹ち立てられる。日本は南北朝の時代である。15世紀に入るころ、室町幕府も安定期に入り、日明貿易が行われ人とモノの交流が盛んになる。宋元時代の水墨画も伝わって京都鎌倉の禅宗寺院を五山文学のセンターとして、禅僧たちが中国文明の学習研究をすすめて、上級武士階層の知的リテラシーが高まる。水墨画の流行ということも、15世紀日本のこうした背景に結びついたことだと考えられる。雪舟も禅僧として備中から京都に行き、東福寺と相国寺で中国から伝わった宋元画や周文や如拙の作品からこの水墨を教わった。水墨とは、つまるところ「臥遊」であると…。

「唐代に生まれた水墨のなかで、次第にメインストリームとなってゆくのが「山水画」である。理由のひとつは、「山水」が画の主題として重視されるようになったから。もうひとつは、「筆墨」でできることが人や花を描くのに比べて格段に豊かだからである。第二章の最後で触れた唐末五代の荊浩も、「水墨山水」を大きく進めた一人。続く北宋の時代(960~1127)には、アリアリティのある大画面のものが発展し、真ん中にドーンと置かれた大きな山を中心に、細かに景観をえがき込むものが主流となった。
  郭煕の「早春図」
 その到達点といわれているのが、郭煕(?~1090頃)のえがいた「早春図」。縦が160センチほどの大きな画だ。郭煕は、北宋時代の宮廷画家。神宗(しんそう)(在位1067~1085)に取り立てられ、翰林学士院待詔(かんりんがくしいんたいしょう)となった人である。
 さてこれが「水墨山水の大傑作」に見えるだろうか。私も美術史を学び始めた頃に、はじめて小さな図版で見た時には、中央にえがかれたものは山にすら見えなかった。まず思い浮かんだのはヘビ花火、黒い固まりがもこもこと盛り上がってくる…‥。
 ところが細部を見るとまったく印象が変わる。山の左側では、広々とした平野が山の向こうに明るく開け、手前へと川が流れてくる。右では、深い谷の暗さが濃い墨で表され、きっちりとえがかれた建物は素直に納得できるのだ。しかしこの自然さと、中央の山の表現とは、どう関係するのだろうか。全体を見ても、山の右と左の風景が、いちどきに見えるところなどあるはずはない‥‥‥。
 郭煕には『林泉高致集』(以下「林泉高致」と呼ぶ)という画論がある。息子の郭思が、父のことばを纏めたもので、水墨山水の具体的なえがき方から、高邁な理想までのさまざまが詰まっている。これを参照しながら「水墨山水」の世界を見てゆくが、「山水画」には着色のものもある。そのため「水墨山水」と「山水画」の双方を使い分けることになるのだが、いちいち注記するのは煩雑なので、ときに曖昧な記述となることをお許し頂きたい。
  「臥遊」
 山水画の目的の基本は「臥遊(がゆう)」である。文字通りには寝転がったままで山水のなかに遊ぶこと。六朝時代の宗炳(375~443)は、自室の壁にかつて遊んだ山々をえがいて楽しんだ(『画山水序』)。「水墨」の生まれるずいぶん前のこと。そのさまは「噫(ああ)、老と病と倶(とも)に至る。名山、恐らくは遍(あまね)く遊び難し。唯だ当(まさ)に懐(こころ)を澄まし道を観じ、臥(が)して以てこれに遊ぶべきのみ」と記されている。年をとり病気にもなって、名山に遊ぶことはもうできない。しかたがないので、寝たままでそこに遊ぼうというのである。
 玄宗が「蜀の嘉陵江の風景を見たい」と呉道玄にえがかせたのも、都に居ながらにして、遥かかなたの風景を見るためだった。『林泉高致』にも、山水画が貴ばれるのは「堂筵(どうえん)を下らず、座して泉壑(せんがく)を窮(きわ)める」、館を出ずして山水を見尽くすことができるから、とある。
 この「臥遊」は、画の表題にも大きく関わってくる。画を見る者の目的は、山水のなかに遊ぶこと。ただ見るだけでなく、えがかれた風景のなかに入り込もうとするわけだ。もちろん想像の世界でのことではあるが、そんな気分にさせねばならない。郭煕は、名手がえがいた山水からは「猿声鳥啼、依約として耳に在り」、猿や鳥の声も聞こえてくるという。「臥遊」は、リビングルームの壁に掛けた、アルプスを遠望する写真のように「見る」だけのものではなかった。
 これを実現しようと思うと、えがかれるのが「ここの高台から見たあそこの山」ではだめである。こちらの方向へ行ったのが西洋の絵画で、ルネサンス期には「特定の場所から、特定の時に、特定の方向を見ている」という現実の視覚を画布の上に再現しようとし、その方法としてとられたのが「正遠近法(パースペクティヴ)」だった。
 しかし山を歩けば、さまざまな風景が見える。遠望するところから次第に近づいて、松林を抜けて水辺の村を過ぎ、高台から眼下に広がる平野を見ることもあれば、奥深い谷を通ることもある。「臥遊」を実現するためには、これらをすべて盛り込む必要がある。「山で見るもの」のさまざまを、画面に詰め込み組み合わせながら、全体としてまとまるように構成せねばならないのである。これによって画の空間の構造が異なってくる。
 「早春図」の場合には、これを十字の構図に配置した。中央に大きな「山そのもの」を置き、右に奥深く、左に開けた風景を、下には水辺の船と漁夫の家、画を見る人々も、画中を巡りながら、それぞれの風景を楽しんでゆく。よくみると山を登る人も小さくえがかれていて、ここにも感情移入ができるようになっている。よく「複数の視点がある」といわれるが、それは目的からして当たり前。それをいかに、一幅の画にまとめ上げるかが大きなテーマなのである。
 たとえば郭煕より500年ほど後の文人画家・文徴明(1470~1559)がえがいた山水では、縦長の画面の下から上まで山が続いている。明代以降の文人画によくあるタイプで、「倣王蒙山水図」というタイトルからも分かるように、元末の王蒙が作ったスタイルにならったもの。近代になると、山がだらだらと続くところから「つくね芋山水」と揶揄されたりもしたが、これも「臥遊」の気分を縦長の画面に実現しようとした結果で、画面の下から上へと道が続き、これを辿りながら画中の景を楽しんでゆく。このような風景を組み上げるのが画家の腕なのだが、それは「見たまま」をえがく「写生」の能力とは別のものである。しかしその基礎には、細かな山水の観察があった。
 郭煕は「座して泉壑を窮める」のが山水画だといっていた。観る者が「窮められる」ように山も水もえがくためには、画家自身がそれらを窮めていなければならない。これが大変で、山は遠くからと近くから、またどちらの向きから見るかで形が違う。郭煕はこれを「一山にして数十百山の形状を兼ねる」といっている。さらに四季によっても、朝と夕また晴れた日と曇りでも、その表情は違ってくる。「一山にして数十百山の意態を兼ねる」である。
 葛飾北斎の「富嶽三十六景」を思い起こせばいいだろうか、ひとつの山も数々の顔を持っている。それは「見え」には留まらない。たとえば「春山は烟雲連綿として人は欣欣たり」、春の山は霞や雲が長くたなびいて、人々はいかにもうれしそう、「夏山は嘉木繁陰して人は坦坦なり」、夏の山は木々が立派に茂って濃い陰をつくり、人々はのんびりと過ごしているという。まさしく「臥遊」の気分である。ちなみに、「早春図」には「早春、壬子季(1072年)郭煕画」との款記(サイン)がある。「早春」は旧暦の一月だから、まだ「欣欣たる春山」ではないけれど、それを予感させる光が射している。
 「ともかく山のさまざまを窮めろ」というわけで、歩き回り観察して山水のすべてを知ったうえで、自分のイメージを作らねばならない。こうしてできあげるのは「あちらから見たこの山」ではなく、ある意味で一般化・普遍化された風景である。画家のなかに作りあげられたこのイメージを呼ぶ「胸中の丘壑」というキーワードは、時代を超えて山水画の理念となった。
勿論夏の山と冬の山をひとつの画面にはえがけない。「早春図」がそうであるように。しかし「ここから見ると素晴らしいから」と「写生」に向かうのではなかった。山水画には、実景をえがいたものもあるけれど、多くが何らかの意味で典型化された風景なのは、ここからくるのである。そして北宋の時代には、そこに強いリアリティが求められた。
イリュージョニズム
 「イリュージョニズム」という美術史用語がある。平たくいえば「いかにも実際に見ているようにえがこうとする」ことで、エルンスト・ゴンブリッチという美術史家がいい出した(『芸術と幻影(Art and Illusionsm)』)。絵画は基本的に二次元だから、「写実」とか「視覚の再現」とか言っても、立体物や空間をそのまま「写し取る」ことも再現することもできない。正遠近法(透視図法)で見事な奥行きの付けられたフィレンツェの街並みも、陰影法(キアロスクーロ)を用い、微妙なひかりとかげで立体感をつけられたモナ・リザの顔も、「そう見えるだけ」のイリュージョン(幻影)である。
 しかし「リアリティ」がないかというと、もちろんそんなことはない。人の視線は、網膜という球面で感知された光のエネルギーで、、それ自体が三次元ではないから、よく似た刺激がくれば騙される。
 これを利用したのが「トロンプルイユ(trompe-l‛oeil)」と呼ばれるだまし絵で、たとえば、壁に貼り付けてあるように見えるが、よく見るとその壁も絵だったというようなもの。たいした技ではあるが、考えてみれば感動するのは「絵だったんだ」とばれたときで、「絵を見ているとき」ではないから、なぜ絵にせねばならないのか分からなくなるというのも面白さ。一方で、子供が額に足をかけて絵の中から出てくるものは、「ありえないこと」を「いかにも見ているように」えがいたもの。「写実」ではないけれどリアリティはある。ともかく「リアリズム」=あるがままにえがこうという態度と、「リアリティ」があるのとは別のことである。
 このあたりもコンピュータによる「ヴァーチャル・リアリティ」を知ってしまった私たちには分かりやすい話になった。ファミコンのあの素朴なマリオから始まって、いまやリンクやガンダムとともに画中に入れる「臥遊」可能なゲームとなり、CGも雪や光はクリアーして、さまざまなもののテクスチャーへと進んでいる。ほとんど西洋絵画史の「ルネサンス」までなぞってしまい、次の「バロック」がどうなるか楽しみ、というところ。
 話を戻せば、北宋の水墨山水が目指したのも、この時代に独特のイリュージョニズムだった。
 范寛(生没年不詳)の「谿山行旅図」は「早春図」より少し前、北宋初期を代表する水墨山水である。画面一杯に巨大な岩山があり、手前には岩や樹木そして家などが細かにえがき込まれている。縦二メートルという大きな絵で、前に立てば実際にも山を見上げることになる。
 切り立った岩山の上の真っ黒に見えるのは樹木の表現で、濃墨の点で樹葉のかたまりを表している。岩山に立体感をつけているのは「皴」と呼ばれるもの。線とも面ともつかぬ「墨」である。これを繰り返し置きながら、立体感を出してゆくのだが、「筆」の勢いが完全に消えてしまっているわけではない。離れてみると分からなくなるが、その力はたしかに岩の迫力に繋がっている。西洋の絵でいえば、丁寧に油絵具を塗ってゆく「ペインティング」では筆勢は消えるが、一方に線でえがく「ドローイング」がある。この両者を兼ねたもの――たとえばゴッホのように――に通じるといえばいいだろうか。荊浩がことっていた「筆と墨の統合」のひとつの例ともいえるだろう。
 右の方ではぐっと奥まったところに滝が落ちている。日の当たらない真っ黒なシャドーの中に、滝の白がくっきりと目立つ。さらに――図版では見づらくて恐縮だが――右下の道には荷を運ぶ商人の馬の列が小さくえがかれて、大自然と人の営為とのスケールの対比を見せながら、「臥遊」の気分を起こさせる。
 画の前に立てば、黒々とした頭でっかちの山が手前にせり出し、山頂の黒々とした木々が重みを添えて、覆い被さってくるような感覚におそわれる。「こんな風景、あるわけがない」と思われるかも知れないが、険峻な岩山の上に森のある景観は、中国の深山には見られるもので、現実の視覚から完全に離れているわけではない。もちろん「写生」ではないけれど、水墨の得意技が駆使されて、高さや奥行きが印象的に表現され、山の迫力は実際の感覚よりむしろ強調されて、華北の山の見事なイリュージョンとなっている。
 この迫力から范寛の画風は、「遠望すれども座外を離れず」(『聖朝名画評』)、遠くから見ても、すぐそばにあるようだと評された。なんといっても大きさが大切な画だから、台北の国立故宮博物院でその前に立ってみて頂ければ。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.68-79 .


B.大学の学費は誰が負担すべきか?
 1960年代まで日本の高等教育進学率は30%台で、4年制大学に進学できるのは男子が多かった。大学生はエリートとはいえなくても、高卒で就職する人の方が全体では多かった。それが、今では高卒就職者は地方ではまだ多いけれど、大都市圏では大学に行くのは当たり前になって久しい。だが、その費用、大学等の学費は昔よりかなり高くなっている。奨学金制度はあるけれど、なかなかもらえなかったり、返済の負担は重くなっている。この国で、高等教育を受ける費用はばかにならない。それは誰が負担すべきだろうか。学生本人はアルバイトなどで全額を負担するのは厳しいし、学業の時間も圧迫する。では親が負担すべきか。これも裕福な親ばかりではないから、かなりきつい。税金を何に使うかは、政治の問題だが、政府や公共財政は、少子化もあって教育に支出することをしぶっている。だが、軍事費に膨大な予算を投じるより、若い国民の、あるいは学習意欲のある人が、お金の心配をせずに良い学校で学べる費用を出すのは、税金を受けとる政府の役割ではないか。この点で、欧州はたしかに大学学費はきわめて安い。もっとも私立大学というものがほとんどないし、大学進学率は日本より低いんだけどね。

「日欧の大学被事情 高等教育をどう捉えている? 大阪大教授 園山大祐さん
 東京大学が学費の約2割の値上げを検討するなど、大学の学費に注目が集まっている。日本の大学の授業料は高いのか、安いのか。世界の学費事情に詳しい大阪大学の園山大祐教授に聞いた。
 日本51%「個人の努力」 学生側負担 欧州4%「社会の責任」
 ――日本の大学の学費は、先進国ではどう位置づけられますか。
 米国や英国の高い授業料が知られているせいか、日本の国公立大は「安い」と捉えられがちです。しかし、国立大学が多い欧州では無料に近い国がほとんどです。
 経済協力開発機構(OECD)の資料によると、欧州では学費の7~9割が政府負担、私費負担は1
~4%程度が大半です。
 日本の私費負担は51%で政府負担の38%を大きく上回っています。私費負担のOECD平均は22%で、データのある38カ国中、日本はワースト4位です。
 ――米国や英国ではどの大学も学費が高いのですか。
米国でも州立大学の地元学生向けの学費は日本と大差ありませんが、ハーバード、プリンストンなど「アイビーリーグ」と言われる私立名門校の学費が際立って高く、年間数百万円から1千万円以上もかかります。
 ただ、米国には寄付文化があり、大学は民間団体や企業などから多額の寄付を得て、様々な奨学金制度を設けています。オバマ政権時代には卒業後の所得に応じて返済額が決まる「所得連動型ローン制度」ができました。高所得層でないと名門校に進学できないということではありません。
 英国は、地元学生には事実上無償のスコットランドのような地域もありますが、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学があるイングランドでは私費負担が重く、学生たちはローンや奨学金でまかなっています。
 ――欧州で学費の政府負担率が高い国が多いのはなぜですか。
 「教育は社会で責任をもつものだ」という考え方が根付いているためでしょう。過去の戦争への反省があるとも言われます。つまり、国家は政府の政策を科学的に判断できる市民を育てなければならず、そのためには、意欲と学力がある者が経済的理由から教育を受けられないということがあってはならない、という理念です。
 欧州の場合、若者の失業対策としても教育に力を入れる方向で政策が進んでいます。高等教育を受け、より多くの知識や技術を身に付けて仕事に就き、税金を払って社会に還元することが重視されて いるので、コストはかかっても、この方向に変化はないでしょう。
 デンマークでは、すべての国民に15年間の無償教育期間が保証されていて、高卒者が学び直してより給料の高い職にリスクなくチャレンジすることができます。
 ――日本の状況とはかなり違います。
 日本の場合、公教育の平等主義が徹底していて、それ以上を求める場合は家庭の負担で塾や家庭教師をつけることが当たり前だと考えられています。このため、教育とは自分や親の努力によって獲得する「個人のもの」という意識が強く、社会の将来を担う力を育てる公共性の高い営みであるという認識が弱いと思います。
 日本では大学、短大、高専4年生、専門学校を合わせると進学率は約84%に達し、高等教育はもはや一部のエリートのものではありません。
 欧州では学部卒者の半分が大学院に進学しますが、これも経済的負担が少ないことが影響していると考えます。欧州連合の報告書によると、欧州の学生1人当りにかかる年間教育費は平均約1万ユーロ(約175万円)といいます。高等教育は、国家の将来のために重大な課題。工夫すれば日本でも公財政でまかなえる額ではないでしょうか。 (聞き手・星井麻紀)」朝日新聞2024年8月26日朝刊4面、国際欄。
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