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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「戦争と平和」を冷静に考えるのは「平和」の中でしか可能でない?

2013-11-29 23:16:05 | 日記
A.年の暮れが近づいているのだが・・・。
 そろそろ今年も年末になってきて、毎度気になるのは学生が卒論をちゃんと書けるか、という懸念である。今年はぼくのゼミの4年生が15名くらい卒論をとっていて、就活内定が決まっていなかった学生もいた夏場を過ぎて、秋も深まればようやく追いつめられて書いているはずだ、が?ちゃんと下書きを持ってきて相談する学生は半分もいない。ぼくはびしばし学生の尻を叩いて、おい!どうなってるんだ、やることをやらない奴は見捨てて落とすぞ!と脅かすことをしない。叱られたり脅かされないと何もやらないというのは、依存的な子どもである。大学生も4年になれば立派な大人なのだから、そんな愚かな指導をしてもしょうがない、という気がするのと、そもそもぼくは上から目線で人を脅迫するのが嫌いなのだ。でも、学校の教室という場ではぼくは教師で相手は学生という役割で向き合っていて、彼らは卒論を書いて提出することを求められ、ぼくはその卒論に一方的に評価を下す権限を持っている。なんだか、ぼくはこういう構図が嫌なんである。
  明日の予定が決まっていて、明後日も来月も来年もだいたい予定が決まっていたら、安心して日々を送れるからいい、と思う人と、そんなの面白くないじゃん、と思う人がいる、として・・・。未来を自分の思った通りに計画管理できるという事は原理的にありえないのだから、問題はその人の態度姿勢の問題と、もうひとつはその予定執行の場を保証する環境、つまり平和な秩序が維持されている時代か、変動激しく何が起こるかわからない乱世か、ということだろう。

  スケジュールを綿密に決めて順番に着々と進めたい人は予定が未定だと不安だろう。教師が細かく指示して〆切を口を酸っぱくして追い立てられるのは好む所である。でも、スケジュールなど守る気がなくぎりぎりまで遊んでいて、ドタンバで一気に徹夜して駆け込むタイプは、教師が何を言ってもムダだろう。ぼく自身は明らかに後者に属するので、いちおうスケジュールのようなものは示してみるのだが、人にも自分にもど~せ守らんだろうな、と思っている。卒論は厳格に締め切りを1分でも過ぎたら落第なので、出せない人は残念というしかないが、出てきた卒論の出来は、きっちりスケジュール的に書いたものが必ず優れているかというとそうでもないから、困っちゃうのである。
 未来まで計画し予定通りいきたい人は、不測の事態など起きない平和な時代をなんとしても守るべきであるし、スケジュールなんて無視して楽しくいこうという人は、どうも想定外の乱世を期待しているところがある。でも、安倍晋三内閣が考えやっていることを見ていると、着々とスケジュール通り計画的にすすめているように一見みえながら、内実はどうなのだろう?
 がっちり計画主義者のアキレス腱は、途中で思わぬ不測の事態が起きてしまうとスケジュールなどガタガタになってメロメロになってしまうことだ。一方、ずるずるドタンバ無計画主義者の病理は、想定外の事態に思わず喜んでしまってやるべきことをやらずにハイになって騒ぐだけ、ということだろう。卒論程度のことなら自己責任でもいいが、国家の選択においてはどっちも間違った時にはあまりに国民や他国民への犠牲が多すぎるから、よ~く考えなくてはいけない。「特定秘密保護法案」は、国家安全保障に関する重大な機密に関してのみ取り締まるのだと与党は説明するが、これが実現しようとしているのは外交・防衛の必要性ではなく、政府に都合の悪い勢力や一般市民に対する治安維持、公安警察の権限を好き放題に拡大することではないのか。




B.平和とはどういう状態か
 岩波文庫版の『蘭学事始』に付された解説によれば、杉田玄白の祖父玄伯は、武州稲毛に生まれ、少年時芝天徳寺に寄食していたところ、松平山城守という殿様が彼を気に入って引き取られ外科を学ばせられ、玄伯と名付けられて家臣となった。ところが藩の人減らし政策で、新規採用の彼は「暇出(いとまいだされ)」つまり解雇されてしまった。そこで浪人となったが、のち推挙されて新発田の溝口侯(越後新発田藩)に仕官する。ところが登城して並んで平伏していたら殿様の刀の尻が彼の頭にぶつかり、それでも殿様は一言も発せず無視して行ってしまったので、頭に来て病気だと言って一切ひきこもってしまい、結局ここも辞めて、若州侯(若狭小浜藩酒井家)に仕えたという。譜代大名にお抱えになれば、生活費は保証され住宅も藩邸内などにただでもらえる。硬骨の医師は、殿様を蹴って浪人しても自分の実力によってちゃんと生き延びたのである。
 その地位を継承した息子である杉田玄白の父は、息子に医者になれと強制はしなかった。杉田玄白が生まれた時、母は難産で彼を生んで死んでしまった。そのときそこにいた人は、母体の方を気にかけていたので、生まれた赤ん坊はもう死んでいると思って脇に置き、彼女を救うことに気を取られていたが亡くなってしまった。ふと見ると、赤ん坊は生きていた。このような形で生まれた人間は、自分が生まれた事態が不測の事態なのだから、計画的な人間であるはずがない。
  そこで若き玄白は自分の将来を計画的に歩むようなタイプではなく、15歳くらいまではお気楽にぶらぶら遊んでいたのだが、やっぱり医者になりたいと言って、勉強を始める。父はこれを嬉しいと思う。江戸時代も人間の親子の心情は微笑ましく、250年経ったわれわれもよく理解できる。でも、杉田家の孫が後世の歴史に名を残すことができたのは、世俗のあれこれ、目先の利益や栄達やお金などは考えず、ピュアな知への情熱だけで猛然とオランダ語に魅了され、医者としての使命に目覚めたためである。考えてみれば、奇跡的と言ってもいい。

『蘭学事始』下の巻「一、一滴の油これを広き池水の内に点ずれば散って満池に及ぶとや。さあるが如く、その初め、前野良沢、中川淳庵、翁と三人申し合はせ、かりそめに思ひつきしこと、五十年に近き年月を経て、この学海内に及び、そこかしこと四方に流布し、年毎に訳説の書も出づるやうに聞けり。これは一犬実を吠ゆれば万犬虚を吠ゆるの類にて、その中にはよきもあしきもあるべけれども、それはしばらく申すに及ばず。かくも長命すれば、今の如くに開くることを聞くなりと、一たびは喜び、一たびは驚きぬ。今この業を主張する人、これまでのことを種々の聞き伝へ語り伝へを誤り唱ふるも多しと見ゆれば、あとさきながら覚え居たりし昔語をかくは書き捨てぬ。
 かへすがへすも翁は殊に喜ぶ。この道開けなば千百年の後々の医家真術を得て、生民救済の洪益あるべしと、手足舞踏雀躍に堪えざるところなり。翁、幸ひに天寿を長うしてこの学の開けかかりし初めより自ら知りて今の如くかく隆盛に至りしを見るは、これわが身に備はりし幸なりとのみいふべからず。伏して考ふるに、その実は忝(かたじけな)く太平の余化より出でしところなり。世に篤好厚志の人ありとも、いづくんぞ戦乱干戈の間にしてこれを創建し、この盛挙に及ぶの暇あらんや。恐れ多くも、ことし文化十二年乙亥(きのとい)は、二荒の山の大御神、二百(ふたもも)とせの御神忌にあたらせ給ふ。この大御神の天下泰平に一統し給ひし御恩沢数ならぬ翁が輩(ともがら)まで加はり被むり奉り、くまぐますみずみまで神徳の日の光照りそへ給ひしおん徳なりと、おそれみかしこみ仰ぎても猶あまりある御事なり。
〔その卯月これを手録して玄沢大槻氏へ贈りぬ。翁次第に老い疲れぬれば、この後かかる長事記すべしとも覚えず。未だ世に在るの絶筆なりと知りて書きつづけしなり。あとさきなることはよきに訂正し、繕写しなば、わが孫子らにも見せよかし。〕 八十三齢、九幸翁、漫書す。
         (杉田玄白『蘭学事始』緒方富雄校註、岩波文庫、1959、pp.68-70.

 この部分は『蘭学事始』の末尾である。若い時の『解体新書』完成までの苦労や、その後の蘭学者たちの消息、そして長命を得て晩年を迎え予想もしなかった蘭学隆盛の時勢を見て、おそらくしみじみ自分は幸運で幸福であったと語っている。確かに幸せな一生だったであろう。そして、そんな人生を送れたのも「二荒の山の大御神、二百(ふたもも)とせの御神忌」のお蔭であるという。二荒山の大御神とは、日光東照宮に祀られる大権現、徳川家康のことである。玄白の生きた時代より200年も昔、この国は戦乱相次ぎ、武将たちが争い殺し合った時代があった。そんな時代に生まれていたら、とても西洋の書物を翻訳して知の歓びに浸っていることなどありえなかっただろう。東照神君家康のお蔭て戦乱は収まり、秩序がもたらされ平和な日々を皆が送れるような世界になった。まことに有難い、有難い、と言っているわけであろう。幕藩体制礼賛の言葉だが、玄白は別に蘭学保護の政治的意図があってこんなことを言ったわけでもないだろう。素朴に江戸の平和を感謝している。
 しかし、そのとき既に次の時代の蘭学者たちには、少々危険な状況が迫っていたのだ。
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