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健康で長寿、が可能になった時代を、ぼくたちは生きているのか?

2013-11-27 20:29:20 | 日記
A.人の健康長寿ということ、について
 人間はいつまでこの世に生きられるか?誰もがいずれは死の時を迎える、ことは間違いない。日本は戦後、医療と衛生の整備が進んで、世界でもトップクラスの長寿国になった。今の日本では、80歳という年齢はさほど珍しいことでもなく、100歳を過ぎても元気に活動している人たちがしばしばメディアで紹介されている。自分も少々健康に不安があるにしても、医療や保健制度に守られて、そうすぐには不治の病や死に襲われることはないだろうと考えて生きている人が多い。しかし、誰もが健康で長生きできるわけではないことは、身近な周囲を見渡してもわかる。幼くして亡くなる人や、不幸にして事故や災害で突然の死を迎える人がいることも知っている。自分があとどのくらい生きられるかは、正直言って誰にもわからない。
 がんや心臓病、難病に襲われた人はきわめて不幸なことに、家族の必死の思いにもかかわらず、無念の死を迎えなければならない。医療は近代科学がもたらした人類の開発した技術のうちでも、もっとも成功した分野である。19世紀までの世界では、多くの人がいったん重い病気に罹れば手の施しようもなく、苦しみ悲しみながら親しい人と永遠の別れをしなければならなかった。宗教というものが、人の心をとらえてきたのも、富や権力や欲望というこの世の価値を、結局は無意味なものにする病や死の厳然とした威力に、どうしたら穏やかで澄み切った心で向き合うことができるかについて、深く考えてきたからだったと思う。
 ところが、20世紀になって医療技術は近代科学の成果をとりこんで、さまざまな治療法と薬物や医療機器を開発し、それまで直せなかった病気の多くを治療可能なものとしてきた。その結果、たいていの病気は医療が手を尽くせばかなり克服できるのだ、という思い込みが普及した。いずれは死ぬとしても、健康は誰もが手にできる可能性として信じられるようになった。医療者自身が直せない病気などないのだ、患者を救えない医者は技能が劣っており、死なせてしまった患者に十分な治療ができなかった自分を責めるような気持ちすら抱かせる。でも、親しい人が不幸にも病に倒れ、死を迎えてしまうことにぼくたちは、ある意味で鈍感になってしまっているのではないだろうか。あるいは医療というものを過信しているのではないか。
 それは同時に、健康や長寿というものにわけもなく拘っているのかもしれない。



B.知ること・解ることへの歓び
 『蘭学事始』の続きを読んでみる。これも有名な江戸小塚原刑場での腑分け見学の場面。これが行われた明和八(1771)年は、沖縄八重山に大地震と大津波があった(明和の大地震)。ヨーロッパはフランス革命前の啓蒙主義の時代。カントやルソー、ヴォルテールなどの著作が出てきた頃である。自然科学もニュートン、ライプニッツはじめ近代科学の方法が確立して、18世紀後半にはさまざまな分野の発見が相次ぐ。医学でも、イタリアのG・B・モルガーニが科学としての病理学をうち立て、スイスのA・v・ハレルによって神経と筋肉の動きが探求された。外科手術も実験の成果を取り入れて、陸海軍での実践的な技法が発達し、イギリスのJ・リンドは壊血病がビタミンCの欠乏からくることをつきとめ、18世紀の末にはジェンナーの種痘法が開発され、免疫や血液に関する知識が広がっていくことになる。 
 日本の当時の医学は、中国伝来の漢方医学を基本として、おもに薬物治療と養生という生活指導ぐらいで病気に対処していた。人体の構造や機能については正確な知識がなく、外科手術は対症療法的なものしかない。出産自体が難事で、生まれた子どもも成人することができるのは、幸運に恵まれた者であって、人生五十年に達する長命をとげる人は少なく、病や死は人為では克服できないものだった。杉田玄白は幸いにも健康で85歳まで生きたが、これはきわめて稀な人生だった。
 『蘭学事始』を読むと、オランダの医学が飛躍的に進んだ知識をもっていて、江戸の医者たちが人体に関する基本的な知識すら欠けていたことに愕然とするさまが感動的なほどに描かれている。問題はそこから猛然とターフェル・アナトミアを、ろくに語学も知らない彼らが翻訳してみたいと熱望した事実の背景である。彼らはまず自分を、病から患者を救うべき仕事を業とする者であり、その職業的使命とともに、自分は何も知っていなかったという痛覚から、とにかく知りたい、という欲望が沸き起こってくる。いったんは諦めたオランダ語の学習を、いわゆる語学学習としてではなく、人体の不思議を解明する出発点として実践的に自覚する。

「其翌朝とく仕度整ひ、彼所に至りしに、良沢参り合、其余の朋友も皆々参会し、出迎たり。時に良沢一ツの蘭書を懐中より出して披き示して曰、これは是ターヘル・アナトミアといふ和蘭解剖の書なり、先年長崎へ行きたりし時求得て帰り、家蔵せしものなりといふ。これを見れば、即翁が此手に入りし蘭書と同書同版なり。是誠に奇遇なりと、互いに手を打ちて感ぜり。扨、良沢長崎遊学の中、彼地にて習得、聞置しとて其書を開き、これはロングとて肺なり、これはハルトとて心なり、マーグといふは胃なり、ミルトといふは脾なりと指し教へたり。しかれとも漢説の図には似るへきもあらざれば、誰も直に見さル内は心中にいかにやと思ひしことにてありけり。
 これより各打連て骨ヶ原の設け置きし観臓の場へ至れり。扨、腑分けの事は、の市松といへるもの、此の事に巧者の由にて、兼ねて約し置しよし。此日も其者に刀を下さすへしと定めたるに、其日、其者俄に病気のよしにて、其祖父なりといふ老屠、齢九十歳なりといへる者、代わりとして出たり。健かなる老者なりき。彼奴は、若きより腑分けは度々手にかけ、数人を解たりと語りぬ。其日より前迄の腑分けといへるは、に任せ、彼が某所をさして肺なりと教へ、これは肝なり、腎なりと切りわけ示せりとなり。それを行き視し人々看過して帰り、我々は直に内景を見究しなといひしまての事にて有りしとなり。元より臓府〔臓腑〕に其名の書き記しあるものならねは、屠者の指示すを視て落着せしことにて、其頃まてのならひなるよしなり。其日も彼老屠が彼レの此レのと指示し、心、肝、胆、胃の外に其名の無きものを指して、名は知らねども、己れ若きより数人を手に懸解き分けしに、何れの腹内を見ても此所にかよふの物あり、かしこに此物ありと示し見せたり。図によりて考れば、後に分明を得し動血脈の二幹又小腎なとにてありたり。老屠又曰、只今まで腑分けの度二其医師かたに品々を指示したれとも、誰壱人某は何、此何々なりと疑候方もなかりしといへり。良沢と相倶に携行(せ)し和蘭図に照し合見しに、一として其図にいささか違ふことなき品々なり。古来医経に説きたる所の肺の六葉両耳、肝の左三葉右四葉なといへる分ちもなく、腸胃の位置形状も大古説と異なり。官医岡田養仙老、藤本立泉老なとは其まで七八度も腑分けし給へし由なれ共、皆千古の説と違ひし故、毎度毎度疑惑して不審開けす。其度々に異状と見へしものを写し置れ、つらつら思へば華人物ありや抔著述せられし書を見たるもありしは、これが為なるへし。扨、其日の解剖事終り、迚(と)てもの事に骨骸の形をも見るへしと、刑場に野さらしになりし骨共を拾い取りて、かずかず見しに、是亦旧説とは相違にして、ただ和蘭図に差へる所なきに、皆人驚嘆せるのミなり。
 其日の刑屍は、五十歳許りの老婦にて、大罪を犯せし者のよし。もと京都生まれにて、あだ名を青茶婆々と呼れし者とそ。 
 帰路は、良沢、淳庵と、翁と、三人同行なり。途中にて語り合しは、扨々今日の実験、一々驚入。且これまて心付ざるは恥へき事なり。苟もいの業を以て互に主君主君に仕る身にして、其術の基本とすへき吾人の形体の真形を知らず、今まて一日一日と此業を勤め来たりしは面目もなき次第なり。何とぞ、此実験に本ヅき、大凡にも身体の真理を弁えて医を為さば、此業を以て天地間に身を立るの申訳もあるへしと、共々に嘆息せり。良沢もげに尤も千万、同情の事なりと感じぬ。其時、翁申せしは、何とや此ターフル・アナトミアの一部、新に翻訳せば、身体内外の事分明を得、今日治療の上の大益あるへし。いかにもして、通詞等の手をからす読分ケたきものなりと語りしに、良沢曰、予は年来蘭書読出し度宿願あれと、これに志を同ふするの良友なし。常にこれを慨き思ふのミにて日を送れり。各かた弥(いよいよ)これを欲し給ハは、我前の年長崎へも行き、蘭語も少々は記憶し居れり。それを種として共々よみかかるへしやといひけるを聞、それは先ッ喜しき事なり、同志にて力を戮せ給らば、憤然として志を立一ト精出し見申さんと答へたり。良沢これを聞、悦喜斜ならず。しからハ善はいそけといへる俗諺も有り、直に明日私宅へ会し給へ(か)し、如何様にも工夫あるへしと、深く契約して、其日は各々宿所宿所へ分れ帰りたり。」杉田玄白『蘭学事始』片桐一男 全訳注(長崎本よりの現代語訳付き)講談社学術文庫、2000年、 pp.106-109. 
  
 知らなかったことを知り、解らなかったことがはじめて解る、ということの素朴な喜びが彼らを捉える。これは幸福なことである。腑分けという人体解剖は、それまでも行われていた。死体を切り裂くという仕事は、動物の死体を扱うことを業としたと呼ばれた被差別民が行う。今はこの言葉自体、差別用語としてタブーになっているが、それはある意味で崇高な本質に関わる行為である。しかし、多くの医師は腑分けをこの目で見ながら、古い説や観念に囚われて目の前にある臓器を指示されても、忌まわしいもの汚れたものとして直視することができなかった。杉田玄白や前野良沢が腑分けを見て、これを医学の最良の知識の検証だと思えたのは、彼らがターフェル・アナトミアを手にして、その図と同じものがそこにあったからだろう。
 これを近代科学の実証主義への第一歩だと思うのは、それを知っているわれわれの知識によるからで、彼らはまだそれを知らない。彼らが知っていたのは、中国から伝えられた書物による儒教的あるいは道教的世界観であって、そこを乗り越えたとすれば、人間の肉体・内蔵各部の実物をある特別な視点から腑分け実見した結果である。人は、自分の知っている枠の中で世界の事物、出来事を見ている。かりにそれを裏切るような事実が起き、それを自分の目で見たとしても、信じようとしない人の方が多い。これは何かの間違いなのだ、教わったこと、本に書いてあることと違う、ありえない事はまやかしであり、悪い企みをもった連中がいんちきをやっている、と自分の方が間違っていると考えない。近代自然科学が18世紀からじわじわと今までありえないと思われた世界観を変えていったのは、事実そのものによってではなく、事実の見方そのものを革命的に転換したからなのだと思う。
 そして自然科学は日本においてもそうだったように、確実な知識とはどういうものかを偏狭な人々の抵抗にもかかわらず、実践的な努力によって示すことに成功したからなのだ。では、社会科学という営みも、その後を追って明らかな知識、間違いのない事実を示すことによって人々の生活を変えることに成功したのか?残念ながら、今の日本を見ていると、200年以上後世のわれわれは杉田玄白の感動した事実ほどの明晰さをもって、己の過ちと偏見を自覚することができずに、事実をありのままに見ることを避けて、呪術的な世界を保守する道を歩んでいるのかも知れないと思う。国家を危うくする特定秘密保護(事実を隠匿する)がどうしても必要だ、と主張する心情の底に、世界には悪の帝国とその手先になるスパイが暗躍しており、その邪悪なたくらみから自分たちを守るために、国民が真実を知る機会すら奪っておこうと考える退嬰的な政権がある。
 それは万能の医療によって誰もが100歳まで生きるのが当然だという非科学的な思い込みと対になって、富と権力を手にした自分だけは長生きし、敵対するアホどもは殺しても平気だという前近代的前提を信じたがっている、のだとしたら、自分が病に倒れ死の床に伏せたとき、彼らは何を思うのであろうか?
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