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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

 読書と人生・清水幾太郎 1  磯崎新追悼文

2023-01-05 14:49:31 | 日記
A.掘り出し本
 学生の頃に買った本で、そのまま書棚に置いてあって、たぶんちゃんと読んでいなくて、買ったことすら忘れていた小さな文庫本が、先月目に留まった。清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977(昭和52)年刊、定価280年である。77年以後これを買ったのなら、ぼくは社会学の大学院生だった時だろう。すでに清水の『社会学講義』や『倫理学ノート』などは読んでいたはずだ。この『私の読書と人生』は清水幾太郎の私的エッセイのかたちで、若い学生向けに、彼が子どもの頃からどんな本を読んで来たかを語っている。
 1970年代ごろまで、清水幾太郎の名は学者というより、ジャーナリズムを通じて大学生高校生にはよく知られていて、ぼくが社会学科の学生になったのも、清水の影響があったことは確かだ。でも、今はすっかり忘れられている人でもあるので、略歴をあげておくと以下のような人である。
 清水幾太郎(1907年7月9日 - 1988年8月10日)は、日本の社会学者・評論家。学習院大学教授などを歴任。東京市日本橋区(現在の東京都中央区)の竹屋の息子として生まれる。祖父は江戸幕府旗本であった。獨協中学、旧制東京高校を経て、東京帝国大学文学部社会学科で戸田貞三などに学び卒業。在学中からオーギュスト・コントの研究にいそしむ。中学時代にドイツ語を学んで堪能であったが、フランス語は大学時代に習得。 大学卒業後、1931年東京帝国大学社会学研究室副手。しかし東大で学者の道には進まず、ジャーナリストとなり1932年「唯物論研究会」幹事、1938年「昭和研究会」文化委員、1939年東京朝日新聞社学藝部専属、1941年讀賣新聞社論説委員、終戦時は海軍技術研究所嘱託。戦後は1946年二十世紀研究所設立、1949年平和問題談話会設立。戦後の平和運動(=反米運動)において大きな役割を果たしたが、60年安保闘争の総括をおこなって以後は、運動面からは手を引き専ら著述に専念した。富永健一は、清水の『社会学講義』こそが戦後日本の最初の体系的社会学書と評している。学習院大学教授を辞めてからは、個人で清水研究室を主宰した。
『私の読書と人生』は、清水が40歳の時に書いた読書をめぐる「自伝風の記録」であり、戦争末期、米軍の空襲で蔵書が焼かれ自分の死も想定して、書物を処分するところで終わっている。まずは冒頭の序と幼時の記憶から。

 「講談社学術文庫」版序から
 本書は、最初、昭和二十四年に要書房から出版され、その後、幾つかの出版社から出版されて、多くの読者を得て来たものである。今度、「講談社学術文庫」に収められ、決定版として出版されるに当り、若干の校訂を施し、また、上智大学の高根正昭教授の「解説」を戴くことになった。同教授に心から感謝を表する。
 本書を昭和二十四年に書いたのは、勿論、編集者の強い勧めがあったためであるが、その反面、この年に学習院大学の教授になり、平和運動に参加し、ようやく私の戦後の生活が始まろうとし、過去を回顧するような地点に立ったのかとも思う。しかし、ご覧の通り、本書は、その夏に戦争が敗北をもって終わる昭和二十年の春、間もなくアメリカ軍の空襲によって死ぬものと覚悟して、私が沢山の書物を売り払い、大切な原稿を焼いてしまうところで慌ただしく終わっている。生き残ったとはいえ、昭和二十四年になっても、それ以外の終わり方が私にはなかった。始まったばかりの戦後の生活に、まだ自信がなかったためであろう。
 早いもので、それから三十年に近い歳月が過ぎてしまった。この後の私の読書と人生とについては――それ以前についても――『わが人生の断片』(上下二巻文藝春秋社、昭和五十年)に稍々詳しく記しておいた。
                                    昭和五十二年六月  著者 
  序 
 本書は私の読書に関する自伝風の記録である。小学生の頃から最近までに私が呼んだ書物、そのうちから主要なものを選び、これを読んだ私の動機、これが私の内部に残した痕跡、これに対する私の反応などについて叙述した。
 書物は特殊な意味において人間を形成するものである。固より、人間が接触する一切の事物は、それそれの仕方で人間の形成に参加するが、書物はその中で自ら特別の地位を占めている。即ち、一方から見れば、他の多くの事物は書物という通路を経て人間に影響を及ぼすことが多いと同時に、他方から見れば、書物に対するとき、人間は進んで形成されようとする態度を示すものである。書物の人間形成力は誠に注目すべきものと言わねばならぬ。現在の私がいかなるものであろうとも、私というものの或る部分は、明らかに、私が呼んだ書物によって形作られている。それ故に、私は自己の読書の記録を書きながら、実は或る側面から自分の生涯を語っているのである。
 今までに何を読んだか、という屡々繰返される質問、初め、私はこれに答えるために事務的なリストを作製しようとした。しかし、リストを作り始めると、書物に結びついた様々な記憶が次第に蘇って来て、どうしても無視することが出来なくなった。そこでリストだけでなく、若干の記憶を書くことにした。ところがある本を読んだ次に他の本を読んだという場合、前者が直接に私を後者へ導くというのは稀で、むしろ両者の間にある私の生活が私を或る本から他の本へと進ませていることが多い。これは当然のことである。書物の底には、従って私の生活がある。本書で、私も或る程度まで自分の生活に触れた。実を言えば、私の生活を徹底的に書かねば、私の読書の記録は中途半端なものになる。だが、これを徹底的に書くことは、今の私にとって余りにも辛い。それは私を苦しめ、また多くの人々を苦しめるかも知れぬ。中途半端を承知の上で、私は敢えてこれを避け、詳細を他の機会に譲らねばならなかった。
 読者は三木清の「読書遍歴」という文章を知っているであろう。私は本書を書き綴る時、何時もこの文章が念頭にあった。あの文章は、三木清が、正に読むべき書物を、選ばれた時期に、しかも正しい方法を以て読んだことを告げている。だが、私の場合は、手あたり次第の書物を、時を選ばずに、しかも専ら焦燥を方法として読んで来たに過ぎぬ。私は若い人々の質問に答えるつもりで本書を作ったのだが、この答が誰にとって、また如何に役立つか、それは私にも明らかでない。ただ読者が私の過誤を知ることによって多少とも過誤を免れ得るのではないか、というのが、私に許された小さな願いである。   昭和二十四年九月       清水幾太郎 」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977。pp.3-6.

 「一 隅田川のほとり  猿飛佐助 
 私は東京日本橋の領国に生まれ、大正三年に小学校に入学した。学校は千代田小学校といい、私の家の前にあった。入学して間もなく、私の生活に現われた偉大な人物は猿飛佐助であった。
 思いのままに鼠に化けたり樹木に身を変じたりする。この忍術の名人について最初友達から話を聴いた時、私は非常なショックを受けた。これは愈々大変なことになった、と考えた。この偉大な人物に対する憧憬と、自分も何とかして忍術を学びたいという願望とが私の内部に動き始めた。猿飛佐助に関する若干の知識は、縁日で買った大きな活字の絵本が与えてくれたが、勿論これで満足は出来なかった。色々と探し求めた末、私は「立川文庫」の一冊によって自分の欲求を稍々満たすことが出来た。そして同時にこの一冊によって私と立川文庫との間の決定的な関係が生れることになった。
 立川文庫は所謂袖珍美本、一冊十銭位、大阪で出版されていたと思う。何れも、英雄、豪傑、侠客、軍人などを主人公とする立志、出世、仇討の物語である。一冊二冊と読む進むうちに、私は忽ち立川文庫の虜になってしまった。一冊は一晩で読める。昨日も一冊、今日も一冊と買い貯めて、やがて数十冊、大きな木箱に一杯になった。私はこの数十冊を朝夕飽かず眺めて喜んでいた。
 言うまでもなく、猿飛佐助は真田幸村の家臣、遠い昔の人である。しかし当時の私にしてみれば、彼は半ば現存の人物であった。街角でバッタリ出会って、私を助けてくれるかも知れない人物であった。私は火遁や水遁について色々と考え、印を結び、呪文を唱えるということを秘かにやってみた。私は私は或る程度まで忍術というものを信じていたに相違ないが、しかし、心の何処かで、それが全くの嘘であることを知っていた。高い屋根の上に立って、印を結び、呪文を唱えはするが、さて、飛び下りはしない。自由自在の飛行など実際には出来るものでなく、本当に飛び下りたら死んでしまうと思っていた。ただ半分ばかり信じていた方が、万事が面白くなり、一日の生活に味をつけることが出来ると考えていたのであろう。
 もし私が山の手の家庭に生まれていたら、そして子供の教育に特別な注意を払う家族の間にいたら、忍術に凝ったり立川文庫に夢中になったりすることは到底許されなかったに違いない。しかし下町の私の家庭では幸いにして誰も私に向かって文句を言いはしなかった。荒唐無稽な物語を耽読したために、私が少し堕落したということもあろうが、もし反対に叱られて、立川文庫の代わりに有益な科学的な、しかし余り面白くない書物を与えられたとしたら、私はおそらく書物というものが嫌いになったであろう。私は立川文庫のために書物一般というものが好きになったと言うことが出来る。黙って見ていてくれた家族に向かって私は深く感謝すべきである。
 けれども、今にして思えば、私の立川文庫時代は案外早く過ぎ去ってしまったようだ。何冊か読んでいくうちに、結局はどれもこれも同じものだと気がつき、惰性のように毎日一冊ずつ買い求めはするが、次第に情けない気持ちになった。父親が非業の最期を遂げ、その仇を討とうと思って、武者修行に出る、山道に差しかかると、絹を裂くような女の叫びが聞こえて来る、それを助けて、身の上を尋ねると、云々、というような筋のものが実に多い。もうソロソロ山賊が現れる頃だと思いながら読んでいると、きっと現れるのである。会話の言葉なども全く型に嵌っている。木箱に入れた数十冊の立川文庫を愛撫する私の心の底には、日を逐って沢山の不満が折り重なって行ったらしい。この不満が一定量に達した或る日、私は数十冊の立川文庫を友達にやってしまった。三年生の頃であろうか。その友達が誰であったかも今はすっかり忘れている。それ以来、忍術も仇討も私の世界から全く消えてしまった。
(中略)
 両国図書館
 私の通っている小学校に領国図書館というものが設けられたのは、私が一年生か二年生かの頃であろう。解説とともに私はここへ通い始め、これは大学に入るころまで続いた。あの貧弱な図書館は私の成長の過程においてある重要な役割を果たしているのであろう。
 三時に開館、九時に閉館という規定であった。建物は、私が毎日通っている、もうすっかり飽きている学校の校舎であるが、夜になると、この校舎が新しい生命を帯びて来る。薄暗い廊下、伝統に照らされた教室、冷たく湿った三和土の階段、これ等のものは昼間とは全く別の秘密めいた空気に包まれて来る。夜になると、子供の姿は何処にも見えず、横山町や馬喰町辺りの商家の番頭、それから受験生など、要するに、当時の私からすれば、大人たちばかりであり、コッソリとその間に入っていること自身が、私にとっては既に何者かであった。
 私はそこで様々の本を読んだのであろう。しかし今日でもハッキリと覚えているのは、ただ「演芸画報」だけである。他のものはすっかり忘れてしまった。図書館のことを持い出すたびに、「演芸画報」のページを繰って美しい奇怪な口絵に眺め入っている自分の姿が浮んで来る。歌舞伎というものはまだ数回しか見ていなかったが、その経験が私の気持を補っていたことはあろう。また家には沢山の錦絵があって、幼い頃から毎日のようにこれに親しんでいたことも関係あろうし、例の立川文庫と「演芸画報」との間にも何かの連絡はあったと言える。しかし、私を古い世界に結びつける上で決定的なものは、思うに、私の家庭の事情にあったと言わねばならぬ。私の家は、祖父が始めた「士族の商法」によって漸く生活していた。維新以来次々に手放した末に売れ残った、図その他の古いものがまだ家にはあったし、親戚の老人は、私の顔を見るたびに、「世が世なら」と言って涙をこぼした。父の代になってから、私の家は十数回の葬式を出したが、その多くは家族ではなく、若干の親戚と、他は何かの関係で私の家へ転がり込んで死んだ人達である。こう言っても十分に理解されないかも知れぬ。つまり、かつて旗本御家人であった親戚知人が次第に生活難に陥り、一家離散の挙句、当時まだ何とかその日を凌いでいた私の家の食客になり、私の家で死んで、結局私の父がその葬式を出すということになったのである。こういう事情のため、私の家には否応なしに古い時代を憧れる空気が充満するようになっていた。錦絵、立川文庫、「演芸画報」などは、この空気と結びついて私の環境の構成要素であったと言うことが出来る。
 図書館の主任は八木という人で、弁護士試験を受けるために勉強しているという噂であった。金縁の眼鏡と大島の着物とが私の眼に残っている。大望を抱いている人、と私は感じた。閲覧表を渡す受附には小倉という人がいた。土州橋の山内家の邸内に住んでいて、専門学校の受験準備をしているらしかった。私にとっては、この人もまた大望を抱いている人間であった。大望を抱く人間というものは、私の家に出入りする人たちの間に見いだすことの出来ぬもの、私にとっては新しい人間のタイプであった。
 小倉という人からは、閲覧表を受取る以外に、色々のことを教えられた。イギリス、アメリカ、フランスの国歌をそれぞれ原語で教えてくれた。片手では持ち上げられぬような大型の旧新約聖書を貰った。しかし大正五年の或る日のことが一番重要である。私は三年生であった。その日、彼は私の顔を見るなり、夏目漱石が死んだ、と言って、深刻な顔をした。私はその時までに漱石の作品を読んでいたかどうか覚えていない。きっと何も読んでいなかったであろう。しかしこれは非常な衝撃であった。大変なことだ、と感じ、こうしてはおられぬ、と思った。どういう理由かは明らかでないが、それが、私と直接に関係のある事件であり、私に向かって特別の決意と行動とを要求しているものとして理解した。決意とか行動とかいっても、何処へ向かってのものか明瞭でなかったが、私が現在の地点にとどっていてはならぬこと、何処へ向かってでもよいから脱出せねばならぬこと、いや、とにかく逃走する必要があることは、疑いようがなかった。
 主任の八木という人は、小学校の二宮という先生の友人であった。この先生は、私が五年生に進んだ時、担任になった。西洋人のような顔をしていたので、私は以前から、この先生は毎日葡萄酒を飲んでいる、と決めていた。師範学校を卒業して間もない若い先生であって、正義派であった。後年私たちの、担任になってから、授業は熱心であったが生徒に催眠術をかけたり、柔道の手で生徒を投げ飛ばしたりした。優等生も撲られた。撲られもせず、投げられもしなかったのは、私一人くらいのものであったろう。かなり無茶な先生であった。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という、吉田松陰が下田から江戸に護送される途中高輪泉岳寺の前で赤穂浪士に手向けた歌は、幾度となく先生の口から出た。担任になる以前から、この先生は大望を抱いている人だあ、と私は信じていた。或る夜、この先生が図書室に八木さんを訪れて話し合っている様子を見た時、私は自分の予想が的中していることを知って喜んだ。図書館は私に「演芸画報」を見せて、私を古い世界に一層堅く結びつけてくれると同時に、これ等の人びとを通して、世に大望を抱いている人間のいることを教えてくれた。
 六年生になると間もなく、二宮先生は学校をやめた。朝礼の時に挨拶をして、先生は、「かくすればかくなるものと知りながら……」という松陰の歌を唱えた。やめたのには深い事情があったらしいが、私には判らなかった。私はポロポロと涙をこぼした。しかし、先生はきっと大望のために学校をやめるのだ、と深く信じていた。先生が学校を去る頃は、丁度私の家が士族の商法の最後の破綻に遭遇して、父が生れ私が生れた日本橋の両国を去って、本所の片隅へ移らねばならぬ時であった。
 その頃の私は何を読んでいたか。徳富蘆花の『自然と人生』や『寄生木』などが記憶に残っているだけで、他は凡て忘れてしまった。二宮先生は学校の横にある福井楼という大きな料理屋の婿となり、野波と改姓した。松陰の歌を唱えて、富貴権門に近づくことを軽蔑していた先生が婿になったことは、私にとってこの上ない打撃であった。私はそれを自分の恥辱と感じた。そして、この打撃と恥辱に堪えるために、私は当所のない大望をもう一度抱きしめ、目的地のない遁走のことを考えて昂奮していた。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977年、pp.13-23. 

 清水が生れた日本橋区は、江戸以来の繫華な町で、彼の家は元旗本であり維新後の「士族の商法」で食いつないでいたが、いわば維新の没落者であり、生粋江戸っ子として、進駐者である山の手族への反感と、江戸的文化と西洋への葛藤を幼い頃に刻印されている。「立川文庫」や「歌舞伎」のような庶民生活のなかで育ちながら、他方で外国への憧れもやがてドイツ語を第一外国語とする独協中学進学へとつながる。その辺は次章。


B.ポストモダンから琉球人まで・磯崎新
 現代建築家として多彩な活躍をした磯崎新氏が亡くなり、その追悼文をかつてポストモダン論で注目を集めた浅田彰が書いていた。相変わらず、浅田彰はスマートに要領よく、磯崎新像を描く。
 「文化としての建築像を確立した建築家の磯崎新さんが、12月28日に91歳で亡くなった。数々の対話や著述、プロジェクトをともにするなど親交の深かった批評家で京都芸術大教授の浅田彰さんが、その存在の大きさを悼んだ。
磯崎新さんを悼む 寄稿 浅田彰 
 磯崎新の生涯はそのまま日本近代建築史であると言ってよい。1931年大分に生まれ東京大学に進んだ彼は、7途中下車した広島で廃墟の中から丹下健三設計の平和会館原爆記念陳列館(現・平和記念資料館本館)が建ち上がりつつあるのを目にし、丹下に建築を学ぼうと決意する。
 やがて丹下研究室の有力メンバーとなり、独立後も70年大阪万博お祭り広場にいたるまで丹下の様々なプロジェクトに貢献する。丹下門下の黒川紀章らのメタボリズム・グループとは距離を置きつつも(磯崎は新陳代謝による成長のみならず解体と死をも見つめていた)、66年の大分県立大分図書館(現・アートプラザ)のようなメタボリズム建築を設計する。
 だが、磯崎は昼はモダニズム建築の最先端を担うと同時に、夜は大分時代からの仲間である赤瀬川源平らネオ・ダダの芸術家とも交流を重ねた。万博ではモダニズムの粋である丹下の大屋根を、岡本太郎がプレモダンな土偶のポストモダンな巨大化とも言うべき「太陽の塔」でぶち抜くというドラマが起こるのだが、丹下の弟子である磯崎は岡本とも親しかった―ーというか彼は自らのうちに丹下と岡本の双方を抱え込んだヤヌス(双面神)だったのだ。
 そして、この建築家=芸術家は83年には世界的にポストモダン建築のパラダイムとされるつくばセンタービルを生み出すに至る。その後の世界を股にかけての活躍は誰もが知る通りだ。80年代以後の磯崎は日本建築史を超え、世界文化史を体現する巨人の一人となったのである。
 そこで注目すべきは、磯崎のキュレーター的な活動だろう。無名だった安藤忠雄や伊藤豊雄をいちはやく欧米に紹介する。コミッショナーを務める熊本や、福岡や岐阜のプロジェクトで、山本理顕や妹島和世、レム・コールハースやスティ―ヴン・ホールらに大作を設計する機会を与える。プリツカー賞の創設と審査にもかかわり、そのため晩年になるまで自ら受賞することはなかった。
 建築だけではない。彼が78年にパリで開催した「間」展は様々なクリエーターの作品によって日本の伝統的な時空間に展示する試みで、ロラン・バルトをはじめとするフランスの知識人を魅了した。
 磯崎がピーター・アイゼンマンらと組織したAny会議もその延長線上にある。20世紀最後の10年間に毎年世界各地で開催されたこの会議では、建築家のみならず、ジャック・デリダや柄谷行人のような思想家、また荒川修作のようなアーティストも建築や都市を語った。建築家としての本業に忙殺されながらも、そのような活動に力を入れたのは、磯崎にとって建築とは同時に思想であり社会運動であったからなのだ。
 晩年まで多面的な活動を続けた磯崎が2017年に「補陀落渡海」と称して沖縄に移住したとき驚かなかったと言えば噓になる。心臓血管外科の手術のあと温暖な南島を晩年の住処に選んだと言えばそれまでだが、新国立競技場建設をめぐって国際設計競技で選ばれたザハ・ハディド案が安倍晋三首相の一声でキャンセルされ、(それが直接の原因ではないが)ハディドが心臓病で急逝するという事件も影響したのではないか。ハディドは香港の設計競技で審査員の磯崎が第一次落選案の中から拾い上げてスターにした建築家だったのだから。
 しかし、「琉球人」となった磯崎は「東京より中国に近い」と言って旺盛な活動を続けた。「欧米の建築家よりも深く西洋建築を知りながら、実は東アジア、とくに南宋の文人への憧れを隠さなかった磯崎は、最晩年、日本を捨て、琉球の文人として世界を歩いたのだ。
 そして、モダニストが主体的に謎と立ち向かうオイディプスであり、ポストモダニスト磯崎が様々な謎を、またその様々な解釈さえ振りまいてみせるスフィンクスであったとすれば、最晩年の磯崎はソフォクレスの「コロノスのオイディプス」のように自身ひとつの謎として、91歳で岩戸の向こうに去った。残されたわれわれは、その巨大な影を呆然と見送るばかりである。」朝日新聞2023年1月5日朝刊、25面文化欄。

 なお、文中のメタボリズム建築というのは、1959年に黒川紀章や菊竹清訓ら日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動。新陳代謝からグループの名をとり、建築の永遠性を否定し、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案したもの。
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