A.女優列伝Ⅳ 原泉2
あれはいつ頃だったか?1960年代の半ば。たぶんぼくは中学生になった頃で、家で毎週購読していた『歴史画報』という写真と解説入りの図版雑誌が好きで、江戸時代を扱った「近世歴史画報」からはじまって、明治維新から日露戦争に至る「近代歴史画報」になると錦絵に加えて当時の新聞雑誌などの画像や写真が増えてくる。その後、新聞社などの総合企画として刊行されるビジュアル画報シリーズは、カラー写真やイラスト満載で紙質も上質なものになるが、60年代はまだ印刷技術も向上しておらず、紙も悪く不鮮明なモノクロ写真ばかりだった。それでも、中学生には難しそうな歴史書を読むより、歴史上の出来事をビジュアルに見ていくのが楽しかった。
そして次に出たのが「昭和現代画報」シリーズで、昭和の初めから年を追って様々な事件やニュース、とくに戦争に至る昭和戦前期の出来事を丁寧に追いかけていた。前のシリーズより圧倒的に写真が増え、新聞等に載った報道写真も充実してくる。60年代半ばという時点で、昭和戦前の日本への一般の視線は、軍国主義と破滅的戦争になだれ込んだ「暗黒の時代」という捉え方は広く浸透していた。つまり「戦後」から「戦前」を見て、その愚かな過ちを確認するという形で編集されていたと思う。ぼくはある日の午後、それをぺらぺら眺めていたのだが、ある写真を見て思わずぞくっとした。
昭和8年、プロレタリア文学の旗手と言われた作家の小林多喜二が、警察の拷問で殺されたときの写真だった。当時の日本では、非合法の共産党を弾圧する「特高」警察が、次々と活動家を逮捕し組織を壊滅させようと拷問をしていた、とある。多喜二の死体写真には腫れあがった下半身や無残な死に顔が写っていた。警察が「拷問」の果てに政治犯を殺してしまう、ということの意味を考える前に、ぼくは自分がもし今の政治権力に反抗するような行動をしたら、このように無残な拷問や死を覚悟できるか、と考えて恐ろしくなったのだ。肉体の苦痛に負けて、簡単に自白してしまうのではないか。思想とか信念とか言っても、拷問の恐怖に耐えられる自信があるか、耐えられてもそれは殺されてしまうのでは、結局負けではないのか?いろんな疑問が一気に湧いてきて、そのページを前にぼくは30分ぐらい考えていた。
同じページに、自宅に戻った多喜二の死体のまわりに集まって嘆き悲しむ人々の写真があった。文学・出版関係の友人知人に混じって千田是也など新劇の人もいると説明がある。その枕元にひとりの若い女性がうつむいている。それが女優原泉、当時は左翼劇場という劇団にいた原泉子さんだということは、もっと後になって知った。
「昭和八年(1933)二月二十一日、火曜日。きのうまでの公演、プロレタリア演劇の国際的十日間『砲艦コクチェフェル』(『吼えろ支那』改題)と『全線』もおわったし、きょう朝九時から午後三時までの東京地方裁判所に対する〈コップの犠牲者たちの予審促進、統一審理要求、ひどくなった通信の制限への抗議〉行動をすませた泉子は、ニ十五日からの関西公演のための稽古や準備があるとはいうものの、いくらかほっとした夕べのひとときをすごしていた。だから、築地小劇場へ配達されてきた『朝日新聞』の夕刊を、泉子は誰よりも早く開いてみることになった。どれどれ、と、たばこをくゆらせながら、一面の大見出しなどを斜めにみたあと、新聞を開いて二面に目を通そうとしたとたん、
『小林多喜二氏
築地署で急逝
街頭連絡中捕はる』
という三段見出しの文字が、むこうから目に飛び込んで来た。
「えっ」
いきなり肌が粟だち、全身の知が頭へかけのぼったと思ったら、さーっと引いて、冷たくなる。気を確かにもって!と、自分を励ましながら、え、どうして、どうしたの、いつ、どこでつかまったの――と、記事を読もうとするけれど、目は宙をはしってしまって文字が読めない、読んでも、頭が受けつけてくれない。
やっとのことで、絶命した小林多喜二が、築地病院の前田博士のところに運び込まれたことがわかる。〈「心臓まひ」で絶命〉と書いてあるのも確かめる。「心臓まひなんて!ウソ、ウソ」、岩田義道の時だってそうだった、奴ら、殺す気で拷問したんだ。
とにかく、多喜二の屍体をみればすぐわかることだ。そいつをまず確かめなくては。屍体なんて考えたくないけれど、奴らにゴマ化されないように、ちゃんとした手を打たなきゃ。こう考える時には、もう泉子のからだは動いている。
泉子は夕刊を摑んで、劇場のまん前にある内科の丹羽病院へとびこむ。「ここに書いてある築地病院ってどこですかッ」。病院はちょうど築地署の裏手にあることがわかって、泉子は走っていく。百メートルあるかなしかの近いところで、今までそこに築地病院があることを知らなかったのが不思議なくらいだ。
この時、泉子がやっとのことで飛ばし読みした朝日新聞の記事は、次のように書かれている。
2月21日夕刊(日付は22日夕刊)
「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は二十日正午頃党員一名と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林特高課員に追跡され約二十分にわたって街から街へ白昼逃げ回ったが遂に溜池の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された。最初は小林多喜二といふことを頑強に否認してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後五時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手当を加へた上午後七時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた。ニ十一日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された当時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られてゐる。
息を切らしながら築地病院へ行ってみると、仲間の者はまだだれも来ていない。泉子が一番早かったらしい。
とにかく、ほんとうに小林多喜二なのかどうか確かめたい。ほんとうに心臓まひなのかも確かめたい。屍体は、一体どんな状況なのか、この目で見なくてはいけない。泉子は、多喜二の屍体に逢わせろ、見せろと強く要求する。見張っているのは顔見知りの特高だけれども、ガードは固い。見せられないんだろ、と食ってかかるが、泉子は、押しのけられる。泉子はほとんど逆上して泣きわめく。幾度食ってかかっても効き目がないことを知って、とりあえず劇場に戻ることにする。
ひどく興奮している様子だが、こうしてはおられない、打つべき手を打たなくちゃと、劇場へ戻る道々、自分なりの考えをまとめてみる。泉子は、左翼劇場員として赤色救援会の組織に加わっているので、指示を待たなくても、一刻も早く手を打たなければならぬことについての心得がある。たとえだれかがすでに手を打っていてもそれならば、それはそれでいい。とにかく、今自分にできることをすぐにやろう。三ヶ月ほど前の、去年の十一月、拷問視させられた岩田義道の時と同じになってはいけない。あの時は、屍体を受けとるのとひかかえに〈死因――肺結核・脚気衝心〉と記された書類に家族が判コを押してしまわないようにしなければ――。そうだ、藤川夏子たち左翼劇場の若い人の力をかりて手を打とう。この場合二通りに考えてみる。おっかさんの小林セキが、まだ馬橋の家にいる場合と、すでに家を出てしまっている場合。家を出てしまっていた時はおっかさんが築地署にはいる前になんとしてもつかまえて、〈死因――心臓まひ〉と書かれた書類には絶対判を押さないように念を押さなくちゃいけない。築地署の前でピケを張る人たちには、おっかさんの歳かっこう、背かっこう、顔の感じなどを言いふくめて出かけてもらう。これで一つよし。
次は弁護士。青柳盛男弁護士へ電話をする。これは幸いにすぐに連絡がつく。
もう一つ、死亡状況確認のために、医師の安田徳太郎博士に来てもらいたい。この人にはいろいろなことで世話になっているけれど、安田は岩田義道の病理解剖にも立ち会っている。岩田の時は、口腔内から小さなひしゃくで一リットルもの血をくみだしたことなど、医師の立場から状況報告をしてくれた。安田にも連絡はつく。
そうした手配をしている間にも、とにかく築地小劇場に行けば様子がわかるのではないかと人が来る。貴司山治、大宅壮一、時事新報社の笹本寅記者に前川カメラマンらも、築地署へ行ったが真暗だった、と劇場へやってくる。泉子は、彼らを案内する形でまた築地病院へ行く。特高は、「遺族じゃないと渡さない。会わせることはできない」という。その上、しらじらしくも、「遺族をさがしている」「今、北海道の本籍へ照会している」というので、泉子はカッとする。前の年の文化関係の大がかりな検挙をうまく逃れた多喜二は姿をくらまして地下活動にはいっていたから、警察は、おっかさんに目をつけて小林宅を見張っていたじゃないか。「本籍とは何だ。東京に出てきてから何年もたって、現に、あんたたちの方が小林の家をよく知っているくせに、そんなバカなこと言うんじゃないよッ」と泉子は食ってかかる。涙でぐしゃぐしゃになりながら叫ぶ泉子の腕を特高がつかまえて検束するといってひっぱる。この時、もう片方の腕をひっぱって「きょうは、ま、かんべんしてくださいよ」と助けてくれたのは笹本だ。相手は、笹本が新聞社の人間ということもあってか、ちょっとひるんで腕をはなした。
警察が小林宅に連絡を取った時、小林宅が留守だったのは事実だ。おっかさんは出かけていたし、弟の小林三吾の方は、全く知らないまま夜までヴェイオリンの稽古に出かけていた。だから小林宅が留守だということに関してだけいえば事実だった。だが、だからといって北海道の本籍に問いあわせるとは、ほんと「バカ言うんじゃないよ」。警察としても、あわてていたのだろう。
ところでおっかさんは、夕方出先から帰ったところを隣の人に呼びとめられ、いまラジオが息子さんの多喜二の死を伝えた、築地病院だ、と知らされて直接病院の方へ行った。もちろん見張りの特高は書類に判コを押すまでは、親といえども対面させない。まず築地署へ行けと言う。ここでおっかさんは築地署へ行き、本来ならばピケの網にひっかかるところだったのだが、この日、おっかさんは、多喜二の姉の幼子を預かっていて、その児をねんねこ半纏でしょっていた。これを多喜二のおっかさんとは気がつかず通してしまった。こうして、何も知らないおっかさんは、言われるままに〈心臓まひで死亡〉と書かれた書類に判コを押してしまう。この手続きをしてはじめて、息子と対面させ息子の屍体を引き渡すということなのだから、おっかさんとしてもこうするよりほかなかった事情もある。
おっかさんは、ちょうどかけつけてくれた親類の小林一二と共に、築地署の水谷特高主任に案内されて病院へ行く。そこには、弁護士の青柳、三浦、土屋も、医師の安田も顔を揃えて待っていた。コップ(日本プロレタリア文化連盟)関係では、佐々木孝丸、染谷格(当時『都新聞』、後に『テアトロ』編集長)も来ていて、この二人は屍体が警察の車で運び出されるとき、もしや、おかしな、手の届かないような所へ持ち去られるのでは、と警戒して、タクシーでこの車を尾行する。これは幸いにも杞憂に終わる。
多喜二の屍体が杉並区馬橋の小林宅に着いたのは夜も十時ごろである。」藤森節子『女優原泉子 中野重治と共に生きて』新潮社、1994. pp.122-128.
小林多喜二の死を、そのとき現場で体験した人の生々しい記録だが、中学生のぼくが感覚的に感じた「暗い時代」の救いのない悲惨さとは、現実は少し違ったものだったのかもしれない、と思った。昭和8年に共産党あるいはそのシンパとして運動に関わることは、確かに相当に覚悟の要ることではあったが、この時点ではまだ労働者農民の共感や支援も期待でき、原さんが生きていた演劇の世界では、当局の規制をしのぎながら舞台を成功させ、仲間と結構楽しく過ごしていたようにも思える。だから逆に、多喜二や岩田義道の警察による虐殺は、ありえない出来事で、政府権力に逆らうとどうなるかを恐怖を伴って日本の社会に知らしめた事件だったのだろう。
当時の日本は専制的無法国家ではなく、警察といえど法律に従って職務を執行し、裁判官や弁護士が公正な判断を求め、新聞などマスコミもある程度政府を監視する機能を果たしていたといえないことはない。野党的な指導者に導かれた労働運動や農民運動も部分的には力をもっていた。それがこのあたりから弾圧され退潮していったのは、ロシア革命の波及を恐れた日本の支配層が、日本にもできた共産党を天皇制転覆を狙う反体制革命組織として取り締まる「治安維持法」に頼ったのと、その威力が、地下に潜った共産党だけでなく、表の社会にもどんどん波及していった結果だろう。やがて、政府の政策批判どころか、左翼の本を持っているだけで警察に呼ばれるようになっていった。松江から上京して貧困の中でも、つっぱりモガをやって女優になった原泉子さんの青春が、どのようなものか、想像もできないが想像してみたい。
B.「格差社会」から「階級社会」へ
いわゆる「アメリカン・ドリーム」は、どんな家族、どんな境遇に生まれても、本人にやる気とチャンスさえあれば、自力でもっと上の成功に辿り着ける自由な社会、という意味だろう。ヨーロッパやアジアのような古い伝統や歴史のある国では、生まれがものをいい、生まれた時から身分や人種や宗教などの属性によって、チャンスが制約され、下の者ほど不利益や差別を受ける。それに比べて新大陸アメリカでは、王様や貴族のような古い体制に乗っかった支配者がおらず、誰もが自由に自分の力を発揮できる、と少なくとも信じられる場所だった。しかし、それはもう遠い昔の幻のようなもので、現代のアメリカはupper middleとそれ以下の階層の間の経済的社会的格差が広がるばかりだ、という論説である。
「格差固定化の企て:高学歴層が築く 見えない壁 デイビッド・ブルックス
過去一世代の間に、大卒以上の学歴を持つ層は、驚くほどうまく、その恵まれた地位を我が子に引き継いできた。さらに、その他の階層の子どもが自分たちの仲間入りをする機会を狭めることにも、怖ろしいほどたけてきている。
彼らがいかに巧みに第一のタスク――わが子の後押し――をこなしているかは明白だ。重要なのは、子にひたすら尽くす「ペディアクラシー」だ。この数十年間、米国の上位中間層は、できのいい子どもを育てることを人生の中心に置いてきた。
上位中間層の母親には様々な手段も育児休暇もあるから、高卒の母親よりも母乳育児をする割合がずっと高く、その期間もはるかに長い。
上位中間層の親は、それより下の所得階層の親に比べて、2倍から3倍の時間を就学前の子どもと過ごすことができる。1996年以来、裕福な層の教育費は300%近く増加したが、その他の層ではほぼ横ばいだ。
中間層の暮らしが厳しくなるにつれ、上位中間層の親はわが子が決して階層を滑り落ちないよう、ますます必死になっている。もちろん、自分の子孫に尽くすことは何も悪くない。
◎ ◎ ◎
倫理的に問題となるのは、第二のタスク――違う階層の子どもを同じ機会から排除すること――だ。米ブルッキングス研究所のリチャード・リーブスは、近著で、高学歴層が社会制度を操作する構造的な方法について詳述している。
その最たるものが地域ごとの住宅の建築規制だ。高学歴層は、ポートランドやニューヨーク、サンフランシスコといった地域に住む傾向にある。これらの地域では、良い学校や良い就職機会のある場所から、貧しくて教育レベルの低い人々を遠ざけるような住宅や建築の規制が敷かれている。
これらの規制は、米国全体の経済成長に破壊的な影響を及ぼしている。ある経済学者たちが行った研究によれば、米国の上位220の都市圏における住宅建築規制は、1964年から2009年にかけて、米国の経済成長の総計を50%以上押し上げている。さらに、格差拡大の深刻な要因にもなっている。ジョナサアン・ロスウェルの分析では、最も規制の強い都市が最も規制の弱い都市と同等になれば、地域間の格差は半分になるという。
リーブスが指摘する二つ目の構造的障壁は、大学入試だ。高学歴の親は、優秀な教師がいる地域に住む。さらに、親類縁者が卒業生であれば優遇される制度や、学びのある旅を多く経験して育ったことが評価される入学基準、就職につながる無給のインターンシップといった恩恵を子に与えることができる。
だから、米国の競争率の高い上位200の大学に通う学生の70%が所得分布の上位25%の出身でも、不思議はない。米国のエリート大学群は、その入学基準を掲げて特権の巨大な山々の頂きに座り、奨学金制度でその他の人びとにはちっぽけなはじごを用意して両親を満足させているのだ。
◎ ◎ ◎
リーブスの本に感銘を受けた私だが、著者と何度か話すうち、彼が強調する構造的障壁よりも、その下の8割との間を隔てるインフォーマルな社会的障壁の方がより重要だと考えるようになった。
先日、私は高卒の女友達と昼食に行った。無神経なことに、そこはグルメなサンドイッチ店だった。「パドリーノ」や「ポモドーロ」といったサンドイッチの名前、ソップレッサータ、カポコッロ、ストリアータ・バゲットといったサンドイッチの名前を前にして、彼女の表情がすぐさま凍りつくのを目撃した。他の店に移ろう、かと尋ねると彼女は不安げにうなずき、私たちはメキシコ料理店で食事をした。
米国上位中間層のさまざまな機会に恵まれた文化は今、その階層でたまたま育っていなければ判読できないような文化的記号で彩られている。それらは、人が誰しも持つ、屈辱や排斥への恐れに訴えかける。「お前はここで歓迎されていないぞ」というのが主たるメッセージだ。
エリザベス・カリッドハルケットは、徹底した分析による著書で、高学歴層は消費や富の誇示によって障壁を築いているのではないと主張する。むしろ、希少な情報を持つ者しかアクセスできない慣習を確立させることによるのだという。
機会に恵まれた地域で居心地よく暮らすには、正しいバレエ・エクササイズをし、正しい抱っこひもを使い、ポッドキャスト、屋台、お茶、ワイン、ピラティスにいたるまで、正しい好みを持つ必要がある。当然、(現代作家)デイビッド・フォスター・ウォレスや、子育て、ジェンダーなどについても、正しい態度が求められる。
高学歴層がはりめぐらす複雑な網は、自分たちを残してその他の人びとをゆすり落とす揺りかごのようだ。(高級食品スーパー)ホールフーズ・マーケットであなたと共に心地よく買い物をする客の80%が大卒である理由は、値段ではなく、文化的規範のせいなのだ。
社会的地位に関するルールには、結束を促す機能がある。高学歴の人々を引き寄せ、相互の絆を強め、その他の人々を遮る。高学歴層が築いてきた流動性に対する障壁は、目に見えないだけに一層強力になっている。それ以外の人には、その障壁が何かを言い当てることも、理解することもできない。ただそこに壁があることだけは分かっているのだ。(©2017 THE NEW YORK TIMES)(NYタイムズ、7月11日付 抄訳)」朝日新聞2017年7月22日朝刊、11面オピニオン欄「コラムニストの眼」。
いわゆる文化資本の階層格差について、社会学はずっと注目はしてきたが、現代アメリカでこういう形で現れているのは、そうなのか、という気がする。それで思い出したのだが、大学生の時、ちょっとおしゃれなジャズ・サロンのような店があって、そこにたまたま後輩の女子学生とお茶に入ったことがあった。グランド・ピアノがあって時間が来ると客からリクエストをとって、ピアニストが一曲弾いてくれる。その日もリクエストでジャズのスタンダード名曲が次々流れたのだが、ウェイターがぼくたちの席にも来て「何かリクエストは?」と聞いた。彼女はジャズなど聞くような環境に育っていなくて、戸惑って「じゃ、リチャード・クレイダーマンの曲を」と精一杯カッコつけて言った。それは場違いなリクエストだから、ぼくはあわてて「いや、サテン・ドールをお願いします」と言ってフォローした。何か気まずい雰囲気が流れた。
何かを知っていること、何かを知らないこと、些細なことなのだが、文化というものの階層的残酷さのようなものが図らずも露呈する。アメリカがそうなっているのなら、今の日本でもたぶんそれと似たようなことが起っていても不思議でない。
あれはいつ頃だったか?1960年代の半ば。たぶんぼくは中学生になった頃で、家で毎週購読していた『歴史画報』という写真と解説入りの図版雑誌が好きで、江戸時代を扱った「近世歴史画報」からはじまって、明治維新から日露戦争に至る「近代歴史画報」になると錦絵に加えて当時の新聞雑誌などの画像や写真が増えてくる。その後、新聞社などの総合企画として刊行されるビジュアル画報シリーズは、カラー写真やイラスト満載で紙質も上質なものになるが、60年代はまだ印刷技術も向上しておらず、紙も悪く不鮮明なモノクロ写真ばかりだった。それでも、中学生には難しそうな歴史書を読むより、歴史上の出来事をビジュアルに見ていくのが楽しかった。
そして次に出たのが「昭和現代画報」シリーズで、昭和の初めから年を追って様々な事件やニュース、とくに戦争に至る昭和戦前期の出来事を丁寧に追いかけていた。前のシリーズより圧倒的に写真が増え、新聞等に載った報道写真も充実してくる。60年代半ばという時点で、昭和戦前の日本への一般の視線は、軍国主義と破滅的戦争になだれ込んだ「暗黒の時代」という捉え方は広く浸透していた。つまり「戦後」から「戦前」を見て、その愚かな過ちを確認するという形で編集されていたと思う。ぼくはある日の午後、それをぺらぺら眺めていたのだが、ある写真を見て思わずぞくっとした。
昭和8年、プロレタリア文学の旗手と言われた作家の小林多喜二が、警察の拷問で殺されたときの写真だった。当時の日本では、非合法の共産党を弾圧する「特高」警察が、次々と活動家を逮捕し組織を壊滅させようと拷問をしていた、とある。多喜二の死体写真には腫れあがった下半身や無残な死に顔が写っていた。警察が「拷問」の果てに政治犯を殺してしまう、ということの意味を考える前に、ぼくは自分がもし今の政治権力に反抗するような行動をしたら、このように無残な拷問や死を覚悟できるか、と考えて恐ろしくなったのだ。肉体の苦痛に負けて、簡単に自白してしまうのではないか。思想とか信念とか言っても、拷問の恐怖に耐えられる自信があるか、耐えられてもそれは殺されてしまうのでは、結局負けではないのか?いろんな疑問が一気に湧いてきて、そのページを前にぼくは30分ぐらい考えていた。
同じページに、自宅に戻った多喜二の死体のまわりに集まって嘆き悲しむ人々の写真があった。文学・出版関係の友人知人に混じって千田是也など新劇の人もいると説明がある。その枕元にひとりの若い女性がうつむいている。それが女優原泉、当時は左翼劇場という劇団にいた原泉子さんだということは、もっと後になって知った。
「昭和八年(1933)二月二十一日、火曜日。きのうまでの公演、プロレタリア演劇の国際的十日間『砲艦コクチェフェル』(『吼えろ支那』改題)と『全線』もおわったし、きょう朝九時から午後三時までの東京地方裁判所に対する〈コップの犠牲者たちの予審促進、統一審理要求、ひどくなった通信の制限への抗議〉行動をすませた泉子は、ニ十五日からの関西公演のための稽古や準備があるとはいうものの、いくらかほっとした夕べのひとときをすごしていた。だから、築地小劇場へ配達されてきた『朝日新聞』の夕刊を、泉子は誰よりも早く開いてみることになった。どれどれ、と、たばこをくゆらせながら、一面の大見出しなどを斜めにみたあと、新聞を開いて二面に目を通そうとしたとたん、
『小林多喜二氏
築地署で急逝
街頭連絡中捕はる』
という三段見出しの文字が、むこうから目に飛び込んで来た。
「えっ」
いきなり肌が粟だち、全身の知が頭へかけのぼったと思ったら、さーっと引いて、冷たくなる。気を確かにもって!と、自分を励ましながら、え、どうして、どうしたの、いつ、どこでつかまったの――と、記事を読もうとするけれど、目は宙をはしってしまって文字が読めない、読んでも、頭が受けつけてくれない。
やっとのことで、絶命した小林多喜二が、築地病院の前田博士のところに運び込まれたことがわかる。〈「心臓まひ」で絶命〉と書いてあるのも確かめる。「心臓まひなんて!ウソ、ウソ」、岩田義道の時だってそうだった、奴ら、殺す気で拷問したんだ。
とにかく、多喜二の屍体をみればすぐわかることだ。そいつをまず確かめなくては。屍体なんて考えたくないけれど、奴らにゴマ化されないように、ちゃんとした手を打たなきゃ。こう考える時には、もう泉子のからだは動いている。
泉子は夕刊を摑んで、劇場のまん前にある内科の丹羽病院へとびこむ。「ここに書いてある築地病院ってどこですかッ」。病院はちょうど築地署の裏手にあることがわかって、泉子は走っていく。百メートルあるかなしかの近いところで、今までそこに築地病院があることを知らなかったのが不思議なくらいだ。
この時、泉子がやっとのことで飛ばし読みした朝日新聞の記事は、次のように書かれている。
2月21日夕刊(日付は22日夕刊)
「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二氏(31)は二十日正午頃党員一名と共に赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林特高課員に追跡され約二十分にわたって街から街へ白昼逃げ回ったが遂に溜池の電車通りで格闘の上取押へられそのまま築地署に連行された。最初は小林多喜二といふことを頑強に否認してゐたが同署水谷特高主任が取調べの結果自白、更に取調続行中午後五時頃突如さう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手当を加へた上午後七時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命してゐた。ニ十一日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取調べを進めてゐるが、捕縛された当時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られてゐる。
息を切らしながら築地病院へ行ってみると、仲間の者はまだだれも来ていない。泉子が一番早かったらしい。
とにかく、ほんとうに小林多喜二なのかどうか確かめたい。ほんとうに心臓まひなのかも確かめたい。屍体は、一体どんな状況なのか、この目で見なくてはいけない。泉子は、多喜二の屍体に逢わせろ、見せろと強く要求する。見張っているのは顔見知りの特高だけれども、ガードは固い。見せられないんだろ、と食ってかかるが、泉子は、押しのけられる。泉子はほとんど逆上して泣きわめく。幾度食ってかかっても効き目がないことを知って、とりあえず劇場に戻ることにする。
ひどく興奮している様子だが、こうしてはおられない、打つべき手を打たなくちゃと、劇場へ戻る道々、自分なりの考えをまとめてみる。泉子は、左翼劇場員として赤色救援会の組織に加わっているので、指示を待たなくても、一刻も早く手を打たなければならぬことについての心得がある。たとえだれかがすでに手を打っていてもそれならば、それはそれでいい。とにかく、今自分にできることをすぐにやろう。三ヶ月ほど前の、去年の十一月、拷問視させられた岩田義道の時と同じになってはいけない。あの時は、屍体を受けとるのとひかかえに〈死因――肺結核・脚気衝心〉と記された書類に家族が判コを押してしまわないようにしなければ――。そうだ、藤川夏子たち左翼劇場の若い人の力をかりて手を打とう。この場合二通りに考えてみる。おっかさんの小林セキが、まだ馬橋の家にいる場合と、すでに家を出てしまっている場合。家を出てしまっていた時はおっかさんが築地署にはいる前になんとしてもつかまえて、〈死因――心臓まひ〉と書かれた書類には絶対判を押さないように念を押さなくちゃいけない。築地署の前でピケを張る人たちには、おっかさんの歳かっこう、背かっこう、顔の感じなどを言いふくめて出かけてもらう。これで一つよし。
次は弁護士。青柳盛男弁護士へ電話をする。これは幸いにすぐに連絡がつく。
もう一つ、死亡状況確認のために、医師の安田徳太郎博士に来てもらいたい。この人にはいろいろなことで世話になっているけれど、安田は岩田義道の病理解剖にも立ち会っている。岩田の時は、口腔内から小さなひしゃくで一リットルもの血をくみだしたことなど、医師の立場から状況報告をしてくれた。安田にも連絡はつく。
そうした手配をしている間にも、とにかく築地小劇場に行けば様子がわかるのではないかと人が来る。貴司山治、大宅壮一、時事新報社の笹本寅記者に前川カメラマンらも、築地署へ行ったが真暗だった、と劇場へやってくる。泉子は、彼らを案内する形でまた築地病院へ行く。特高は、「遺族じゃないと渡さない。会わせることはできない」という。その上、しらじらしくも、「遺族をさがしている」「今、北海道の本籍へ照会している」というので、泉子はカッとする。前の年の文化関係の大がかりな検挙をうまく逃れた多喜二は姿をくらまして地下活動にはいっていたから、警察は、おっかさんに目をつけて小林宅を見張っていたじゃないか。「本籍とは何だ。東京に出てきてから何年もたって、現に、あんたたちの方が小林の家をよく知っているくせに、そんなバカなこと言うんじゃないよッ」と泉子は食ってかかる。涙でぐしゃぐしゃになりながら叫ぶ泉子の腕を特高がつかまえて検束するといってひっぱる。この時、もう片方の腕をひっぱって「きょうは、ま、かんべんしてくださいよ」と助けてくれたのは笹本だ。相手は、笹本が新聞社の人間ということもあってか、ちょっとひるんで腕をはなした。
警察が小林宅に連絡を取った時、小林宅が留守だったのは事実だ。おっかさんは出かけていたし、弟の小林三吾の方は、全く知らないまま夜までヴェイオリンの稽古に出かけていた。だから小林宅が留守だということに関してだけいえば事実だった。だが、だからといって北海道の本籍に問いあわせるとは、ほんと「バカ言うんじゃないよ」。警察としても、あわてていたのだろう。
ところでおっかさんは、夕方出先から帰ったところを隣の人に呼びとめられ、いまラジオが息子さんの多喜二の死を伝えた、築地病院だ、と知らされて直接病院の方へ行った。もちろん見張りの特高は書類に判コを押すまでは、親といえども対面させない。まず築地署へ行けと言う。ここでおっかさんは築地署へ行き、本来ならばピケの網にひっかかるところだったのだが、この日、おっかさんは、多喜二の姉の幼子を預かっていて、その児をねんねこ半纏でしょっていた。これを多喜二のおっかさんとは気がつかず通してしまった。こうして、何も知らないおっかさんは、言われるままに〈心臓まひで死亡〉と書かれた書類に判コを押してしまう。この手続きをしてはじめて、息子と対面させ息子の屍体を引き渡すということなのだから、おっかさんとしてもこうするよりほかなかった事情もある。
おっかさんは、ちょうどかけつけてくれた親類の小林一二と共に、築地署の水谷特高主任に案内されて病院へ行く。そこには、弁護士の青柳、三浦、土屋も、医師の安田も顔を揃えて待っていた。コップ(日本プロレタリア文化連盟)関係では、佐々木孝丸、染谷格(当時『都新聞』、後に『テアトロ』編集長)も来ていて、この二人は屍体が警察の車で運び出されるとき、もしや、おかしな、手の届かないような所へ持ち去られるのでは、と警戒して、タクシーでこの車を尾行する。これは幸いにも杞憂に終わる。
多喜二の屍体が杉並区馬橋の小林宅に着いたのは夜も十時ごろである。」藤森節子『女優原泉子 中野重治と共に生きて』新潮社、1994. pp.122-128.
小林多喜二の死を、そのとき現場で体験した人の生々しい記録だが、中学生のぼくが感覚的に感じた「暗い時代」の救いのない悲惨さとは、現実は少し違ったものだったのかもしれない、と思った。昭和8年に共産党あるいはそのシンパとして運動に関わることは、確かに相当に覚悟の要ることではあったが、この時点ではまだ労働者農民の共感や支援も期待でき、原さんが生きていた演劇の世界では、当局の規制をしのぎながら舞台を成功させ、仲間と結構楽しく過ごしていたようにも思える。だから逆に、多喜二や岩田義道の警察による虐殺は、ありえない出来事で、政府権力に逆らうとどうなるかを恐怖を伴って日本の社会に知らしめた事件だったのだろう。
当時の日本は専制的無法国家ではなく、警察といえど法律に従って職務を執行し、裁判官や弁護士が公正な判断を求め、新聞などマスコミもある程度政府を監視する機能を果たしていたといえないことはない。野党的な指導者に導かれた労働運動や農民運動も部分的には力をもっていた。それがこのあたりから弾圧され退潮していったのは、ロシア革命の波及を恐れた日本の支配層が、日本にもできた共産党を天皇制転覆を狙う反体制革命組織として取り締まる「治安維持法」に頼ったのと、その威力が、地下に潜った共産党だけでなく、表の社会にもどんどん波及していった結果だろう。やがて、政府の政策批判どころか、左翼の本を持っているだけで警察に呼ばれるようになっていった。松江から上京して貧困の中でも、つっぱりモガをやって女優になった原泉子さんの青春が、どのようなものか、想像もできないが想像してみたい。
B.「格差社会」から「階級社会」へ
いわゆる「アメリカン・ドリーム」は、どんな家族、どんな境遇に生まれても、本人にやる気とチャンスさえあれば、自力でもっと上の成功に辿り着ける自由な社会、という意味だろう。ヨーロッパやアジアのような古い伝統や歴史のある国では、生まれがものをいい、生まれた時から身分や人種や宗教などの属性によって、チャンスが制約され、下の者ほど不利益や差別を受ける。それに比べて新大陸アメリカでは、王様や貴族のような古い体制に乗っかった支配者がおらず、誰もが自由に自分の力を発揮できる、と少なくとも信じられる場所だった。しかし、それはもう遠い昔の幻のようなもので、現代のアメリカはupper middleとそれ以下の階層の間の経済的社会的格差が広がるばかりだ、という論説である。
「格差固定化の企て:高学歴層が築く 見えない壁 デイビッド・ブルックス
過去一世代の間に、大卒以上の学歴を持つ層は、驚くほどうまく、その恵まれた地位を我が子に引き継いできた。さらに、その他の階層の子どもが自分たちの仲間入りをする機会を狭めることにも、怖ろしいほどたけてきている。
彼らがいかに巧みに第一のタスク――わが子の後押し――をこなしているかは明白だ。重要なのは、子にひたすら尽くす「ペディアクラシー」だ。この数十年間、米国の上位中間層は、できのいい子どもを育てることを人生の中心に置いてきた。
上位中間層の母親には様々な手段も育児休暇もあるから、高卒の母親よりも母乳育児をする割合がずっと高く、その期間もはるかに長い。
上位中間層の親は、それより下の所得階層の親に比べて、2倍から3倍の時間を就学前の子どもと過ごすことができる。1996年以来、裕福な層の教育費は300%近く増加したが、その他の層ではほぼ横ばいだ。
中間層の暮らしが厳しくなるにつれ、上位中間層の親はわが子が決して階層を滑り落ちないよう、ますます必死になっている。もちろん、自分の子孫に尽くすことは何も悪くない。
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倫理的に問題となるのは、第二のタスク――違う階層の子どもを同じ機会から排除すること――だ。米ブルッキングス研究所のリチャード・リーブスは、近著で、高学歴層が社会制度を操作する構造的な方法について詳述している。
その最たるものが地域ごとの住宅の建築規制だ。高学歴層は、ポートランドやニューヨーク、サンフランシスコといった地域に住む傾向にある。これらの地域では、良い学校や良い就職機会のある場所から、貧しくて教育レベルの低い人々を遠ざけるような住宅や建築の規制が敷かれている。
これらの規制は、米国全体の経済成長に破壊的な影響を及ぼしている。ある経済学者たちが行った研究によれば、米国の上位220の都市圏における住宅建築規制は、1964年から2009年にかけて、米国の経済成長の総計を50%以上押し上げている。さらに、格差拡大の深刻な要因にもなっている。ジョナサアン・ロスウェルの分析では、最も規制の強い都市が最も規制の弱い都市と同等になれば、地域間の格差は半分になるという。
リーブスが指摘する二つ目の構造的障壁は、大学入試だ。高学歴の親は、優秀な教師がいる地域に住む。さらに、親類縁者が卒業生であれば優遇される制度や、学びのある旅を多く経験して育ったことが評価される入学基準、就職につながる無給のインターンシップといった恩恵を子に与えることができる。
だから、米国の競争率の高い上位200の大学に通う学生の70%が所得分布の上位25%の出身でも、不思議はない。米国のエリート大学群は、その入学基準を掲げて特権の巨大な山々の頂きに座り、奨学金制度でその他の人びとにはちっぽけなはじごを用意して両親を満足させているのだ。
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リーブスの本に感銘を受けた私だが、著者と何度か話すうち、彼が強調する構造的障壁よりも、その下の8割との間を隔てるインフォーマルな社会的障壁の方がより重要だと考えるようになった。
先日、私は高卒の女友達と昼食に行った。無神経なことに、そこはグルメなサンドイッチ店だった。「パドリーノ」や「ポモドーロ」といったサンドイッチの名前、ソップレッサータ、カポコッロ、ストリアータ・バゲットといったサンドイッチの名前を前にして、彼女の表情がすぐさま凍りつくのを目撃した。他の店に移ろう、かと尋ねると彼女は不安げにうなずき、私たちはメキシコ料理店で食事をした。
米国上位中間層のさまざまな機会に恵まれた文化は今、その階層でたまたま育っていなければ判読できないような文化的記号で彩られている。それらは、人が誰しも持つ、屈辱や排斥への恐れに訴えかける。「お前はここで歓迎されていないぞ」というのが主たるメッセージだ。
エリザベス・カリッドハルケットは、徹底した分析による著書で、高学歴層は消費や富の誇示によって障壁を築いているのではないと主張する。むしろ、希少な情報を持つ者しかアクセスできない慣習を確立させることによるのだという。
機会に恵まれた地域で居心地よく暮らすには、正しいバレエ・エクササイズをし、正しい抱っこひもを使い、ポッドキャスト、屋台、お茶、ワイン、ピラティスにいたるまで、正しい好みを持つ必要がある。当然、(現代作家)デイビッド・フォスター・ウォレスや、子育て、ジェンダーなどについても、正しい態度が求められる。
高学歴層がはりめぐらす複雑な網は、自分たちを残してその他の人びとをゆすり落とす揺りかごのようだ。(高級食品スーパー)ホールフーズ・マーケットであなたと共に心地よく買い物をする客の80%が大卒である理由は、値段ではなく、文化的規範のせいなのだ。
社会的地位に関するルールには、結束を促す機能がある。高学歴の人々を引き寄せ、相互の絆を強め、その他の人々を遮る。高学歴層が築いてきた流動性に対する障壁は、目に見えないだけに一層強力になっている。それ以外の人には、その障壁が何かを言い当てることも、理解することもできない。ただそこに壁があることだけは分かっているのだ。(©2017 THE NEW YORK TIMES)(NYタイムズ、7月11日付 抄訳)」朝日新聞2017年7月22日朝刊、11面オピニオン欄「コラムニストの眼」。
いわゆる文化資本の階層格差について、社会学はずっと注目はしてきたが、現代アメリカでこういう形で現れているのは、そうなのか、という気がする。それで思い出したのだが、大学生の時、ちょっとおしゃれなジャズ・サロンのような店があって、そこにたまたま後輩の女子学生とお茶に入ったことがあった。グランド・ピアノがあって時間が来ると客からリクエストをとって、ピアニストが一曲弾いてくれる。その日もリクエストでジャズのスタンダード名曲が次々流れたのだが、ウェイターがぼくたちの席にも来て「何かリクエストは?」と聞いた。彼女はジャズなど聞くような環境に育っていなくて、戸惑って「じゃ、リチャード・クレイダーマンの曲を」と精一杯カッコつけて言った。それは場違いなリクエストだから、ぼくはあわてて「いや、サテン・ドールをお願いします」と言ってフォローした。何か気まずい雰囲気が流れた。
何かを知っていること、何かを知らないこと、些細なことなのだが、文化というものの階層的残酷さのようなものが図らずも露呈する。アメリカがそうなっているのなら、今の日本でもたぶんそれと似たようなことが起っていても不思議でない。
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