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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

昔「冷戦時代」というのがあって・・いまは

2014-11-12 20:14:49 | 日記
A.「新冷戦」は幻か
  ベルリンの壁が壊れたのは、1989年11月9日。ちょうど25年前のその日、ぼくは当時の西ドイツ、ノルトライン・ヴェストファーレン州のドルトムントという町に住んでいた。その年の春から、東ドイツからチェコやウィーンなどを経由して脱出してきた人々が増え、テレビや新聞は、「Ostbürger東独市民」の「Flüuchtlinge逃亡者」の話題を連日報じていた。しかし、ベルリンの壁崩壊の日はドルトムント市民の日常生活は何も変わらず、ぼくの通っていた研究所の人たちもとくにこれといった反応はしていなかった。もちろん分断国家ドイツの東側で起こっていることに関心がなかったわけでも、逃げてきた人たちに冷たいわけでもなかった。しかし、それは直ちに軍事的緊張には至らないだろうし、ソ連崩壊や東西統一が具体的にどうなるかはまだ予測がつかなかった。
  西ドイツ市民の関心は、EU統合、ユーロの導入など自分たちの生活のほうにあって、東から逃げてきた人たちへの同情は感じても、それがどういう意味をもつか真剣に考えていたとは思えなかった。やがて、ベルリンを取り巻いていた壁を人々が壊す映像がテレビで流れ、東西冷戦がほんとうに終わったのだという感慨はじわじわと浸透していった。日本では逆に、東の崩壊を大々的に報道しているらしいというので、西側のドイツのあまりに日常的な風景が奇妙にも見えたことだろう。年が明けてから、ぼくはアウトバーンを走ってベルリンに行った。壁が壊れたといっても、東西の検問所は兵士がパスポートをチェックしていたし、東ベルリンの街も人もくすんだ社会主義の風景のままだった。
  あれからもう25年。たしかに世界は大きく変わった。社会主義を捨てたロシアは再び大国としての自己主張を強め、ウクライナで強引な領土併合を仕掛け、強大化した中国は経済的・軍事的な膨張を企んで欧米との対立姿勢を強めている。それを「新冷戦」と呼ぶ人も出始めた。昨日の朝日新聞には、ブダペスト生まれの英国の作家ビクター・セベスチェン氏のインタビュー記事を載せていた。氏は、「冷戦への逆戻り」という見方を否定する。

「冷戦と今とではまったく状況が異なります。冷戦時代、私たちは常に、見かけにとどまらない真の驚異を、ソ連から直接受けていた。それは軍事力でも核戦力でもありません。私たちの人生観を変えかねない『共産主義』というイデオロギーでした。
 いかに残忍な結果を生んだとはいえ、共産主義は宗教に匹敵する壮大な思想であり、資本主義とは全く異なる生活感覚、歴史観、世界観を提示しました。実際に、多くの人びとの暮らす世の中をつかさどり、経済を運営していたのです。
 一方、プーチン大統領が持ち込んだロシア・ナショナリズムには、何のイデオロギーもありません。ロシア人を多少満足させられても、ロシアの枠を超えることはないでしょう。共産主義はかつて、第三世界に解放の希望を与えた。プーチン主義は、それが主義といえるかどうかはともかく、途上国にいかなる希望も与えません。
 ロシアの軍事力は確かにウクライナやグルジアを悩ませています。しかし、その影響は近隣諸国に限られます。日本や欧米にとっては脅威でも何でもありません。
――イデオロギーななぜそれほど重要なのですか。軍事的脅威に比べると、取るに足らないように思えますが。
 イデオロギーは単なる机上の空論ではない。そこには人類を突き動かすすべてがある。私たちの行動は意識に縛られているからです。
 共産主義は、良いか悪いかは別にして、私たちが築いてきた社会に取って代わる対抗軸を指し示した理念でした。だからこそ、欧米や日本でもあれほど多くのインテリを魅了したのです。特に1930年代は、ファシズムに対抗する概念として、共産主義が大きな力を持っていました。人々が共産主義を信じなくなったとき、ソ連も崩壊したのです。
 『ベルリンの壁』崩壊を、自由民主主義の勝利宣言だと受け取った人は少なくありません。しかし、実際にはそれほど単純ではなかった。旧東欧のいくつかの国は目覚ましい民主化を成し遂げましたが、順調にいかなかった国もあります。
 たとえば、我が祖国ハンガリーも途中までうまくいきそうに思えました。しかし、現在はオルバン政権による事実上の一党支配状態となり、リベラルな左派がいなくなってしまった。権威主義とナショナリズムに絡め取られたのです。
 ロシアに至っては、ゴルバチョフ時代のソ連の方がまだましです。ソ連崩壊前後、ロシアは自由と民主化の時代を迎えました。彼らにもチャンスはあったのです。でも、それを逃した。ヘマをして、逆戻りを続けたあげく、プーチン政権の登場を許してしまいました。
 確かに今、モスクワやサンクトペテルブルクの生活はきらびやかですが、郊外や工業都市で人々は貧困のうちに暮らしている。20年前に比べると、中間層やインテリ層、教養ある人々がむしろ減ったほどです。数少ないこれらの人々は、国家財政をくすねたオリガルヒ(新興財閥)に仕えて生計を立てる始末です。」朝日新聞11月11日朝刊、15面オピニオン欄。インタビュー「ベルリンの壁崩壊25年」

 「共産主義」というイデオロギーは、ロシア革命以来半世紀以上、現実に地球上に国家を形成し何億人の生活を、資本主義とは別の原理のもとに遂行したのは事実だ。それはたんなる強権的な政治運営システムだけにすぎなかったのではない、とハンガリーに生まれ、1956年のソ連が民衆を弾圧したハンガリー動乱によって、5歳で家族と英国に亡命したセベスチェン氏は言う。民主主義が人々の生活と自由を機能させるには、共産主義の失敗をあざ笑っているだけでは何も変わらず、一歩間違えばナショナリズムを煽る退行的な独裁者を生んでしまう、という言葉は意味深い。まともな政治権力を持続させるには「リベラルな左派」が、countervailingな力を持つ必要がある。しかし、これがいま危うくなっている状況は、ロシア東欧だけの問題ではない。

「――私たちには何ができるでしょうか。
 ロシアに対しては、しばらく状況を観察するしかないでしょう。ソ連崩壊の遠因を作ったのは、アフガニスタンでの紛争の泥沼化と80年代の原油価格の暴落だった。ここ数ヶ月、原油価格がやはり下がっている。これがどこまで続くか次第で対応も変わります。
 クリミア半島併合に対して欧米が科している経済制裁は、プーチン政権と結びつきの強いオルガリヒに標的を絞るべきです。彼らとその妻や愛人のクレジットカードを使えなくするなど、効果のある現実的な措置を取る必要があります。
――ロシア国内の世論に期待はできませんか。
 問題は、今のプーチン政権がナショナリズムを振りかざし、高い大衆の人気を得ていることです。政治家が人気を得たいなら、ナショナリズムのカードを切ればいい。経済がうまくいかない時、人々は『すべて移民が悪い』など単純化された訴えに耳を傾けるからです。ロシアに限らず、世界のどこでもこの手法は通用するでしょう。
 考えてみれば(91年に)ソ連が崩壊してまだ20余年しか経っていません。大英帝国が崩壊した時は、混乱がもっと長く続きました。今回ロシアがウクライナの一部を併合したのも、ソ連時代の意識が抜けていないから。もちろんその行為は正当化できませんが。
――ウクライナとはどう接するべきですか。
 国内の民主化運動をもっと支援し、励まさなければなりません。特に選挙の実施に関して協力を求めるべきです。ただ、旧東欧諸国が民主化を達成したのは、自らの力によってだった。ウクライナも結局、欧米に頼らず、自らの力で民主化を進めなければいけない。ウクライナ自身そう認識すべきです。
 現在の紛争に欧米が介入するのはばかげた発想です。軍事面で私たちが取るべき手段はほとんどありません」同記事。

 もし、紛争に軍事力で対抗すれば、第1次世界大戦のような破壊と混乱の世界に逆戻りする可能性さえある。それぞれの国で、賢明な中間層を代表するリベラルな左派が、もっと力をもたなければならない、という意味で、今の日本にもまったくあてはまると思う。一部の富裕層の利権を守るために、ナショナリズムを鼓舞して権力維持を図る愚かな政治家は、駆逐されるべきだ。



B.蜷川幸雄の櫻社時代
 「世界のNINAGAWA」というキャッチフレーズが流布しだしたのは、1980年に初演されたシェークスピアを日本の安土桃山時代の衣装で演出した『NINAGAWA・マクベス』の海外公演あたりからだった。前衛的な小劇場演劇の世界を捨てて、金をかけた商業演劇の劇場でシェークスピアをジャパン・スタイルで派手に演じて見せた蜷川演出は、確かに新しかった。せりふやストーリーは、昔のスコットランドに設定されていても、サムライの衣装で日本の城郭を舞台に観客の目を瞠らせる芝居に仕立てるのは、役者の演技ではなく演出の独創性だということを蜷川幸雄は示してみせた。だが、それは高度経済成長を遂げ、豊かなバブルに向かう経済大国の80年代という時代を読んで、彼がそれ以前の演劇がもっていたものと縁を切ったからできたことなのだろう。それ以前、つまり彼が演出家としてデビューした現代人劇場・櫻社時代の芝居は、ずいぶん違ったものだった。

「黒テントとは違う形で、一九六〇年代から七〇年代にかけて日本の情況に密接にかかわる急進的な劇を上演し、大きな反響を呼んだのは、演出家・蜷川幸雄(一九三五年~)を中心とする劇団現代人劇場と、その後身の「櫻社」だった。蜷川とコンビを組んだのは同世代の劇作家・清水邦夫(一九三六年~)である。
 ブレヒト的なさめた批評精神を特色とする黒テントの舞台とは違い、蜷川・清水組が作る闘争劇は、直情的で熱く、叙情的だった。彼らの舞台には躍動的な疾走感と歌いあげる甘美な旋律があり、蜷川の視覚性の強い演出は観客にカタルシス(浄化作用)をもたらした。
 蜷川幸雄が、俳優の岡田英次、石橋蓮司、蟹江敬三、真山知子(蜷川と結婚していた)らとともに劇団青俳を脱退し、劇団現代人劇場を結成したのは一九六八年だった。彼らが脱退したのは、蜷川の依頼で清水邦夫が書いた戯曲『心情あふるる軽薄さ』が青俳では上演できなかったためだった。
 青俳は一九五四年、木村功、岡田英次、西村晃、織本順吉らが結成した新劇の劇団だった。黒澤明監督の『七人の侍』など映画出演が多い木村功、アラン・レネ監督のフランス映画『二十四時間の情事』(五九年)に主演した岡田英次など、映画で活躍する俳優が多く、新劇界では異色の劇団だった。制作は本田延三郎(のちに五月社を主宰)が担当していた。リアリズム路線をとる劇団だったが、倉橋健演出で安倍公房の『制服』(五五年)、『快速船』(同)や、清水邦夫の『署名人』(六〇年)をいち早く上演するなど、演目には新鮮さも見られた。
 蜷川幸雄は一九五五年に青俳の研究生となり、俳優として清水邦夫の『明日そこに花を挿そうよ』(六〇年)、『逆光線ゲーム』(六三年)などに出演していたが、演技者としてはあまり成功しなかった。蜷川が初めて演出を手がけて才能を見せたのは、六七年、青俳のけいこ場で若い研究生を集めて上演した『ボルヒェルトの作品からの十二章』だった。その舞台成果に自信をもった蜷川は、共感をもっていた清水邦夫に新作を依頼した。ふだんは遅筆の清水だが、乗り気になった彼は『真情あふるる軽薄さ』を約五十時間、二日間飲まず食わずで一気に書き上げた。「あれは夢のように早かった」と蜷川は振り返る。
 戯曲はできあがり、青俳に提出されたが、これを蜷川演出で上演できる状態ではなかった。それ以前から清水の戯曲に対しては、社会主義リアリズム支持者の多い劇団内から「未来への展望がない」といった批判が出ていた。蜷川によれば、「へたな役者が演出することに対する抵抗感」もあったという。
 青俳を見切った蜷川は、彼を支持する石橋蓮司、蟹江敬三ら十数人とともに劇団をやめた。年長の岡田英次も同調して退団し、新しい劇団のけいこ場を渋谷に借りる資金を出してくれた。劇団名は岡田英次の提案だった。岡田は演出家・俳優オレグ・エフレーモフが率いるモスクワの「現代人劇場」(ソブレメンニク劇場)を見て刺激を受けていた。それにちなんでの命名だった。
 一九六九年九月、現代人劇場がアートシアター新宿文化で上演した清水作、蜷川演出の『真情あふるる軽薄さ』は斬新で衝撃的な舞台だった。
 当時のアートシアター新宿文化の演劇公演は、映画上映が終わったあと、夜九時半に開演した。観客は劇場の前に長い行列を作って会場を待った。『真情あふるる軽薄さ』の初日も、私は行列に並んで入場したが、そこで始まったのは何と「行列」の芝居だった。
 開演とともに客席の通路から数人の男女がさりげなく現れて、舞台の幕に向かって小さな行列を作った。そこに一人の「青年」(蟹江敬三)が登場し、「早く幕をあけろ!」と叫ぶ。その声とともに幕が上がると、舞台の階段の上にも長い四十人ほどの市民たちの蛇行する行列ができているのだった。私たち観客がついさっきまで並んでいたのとそっくりの「行列」がまるで鏡像のように舞台の上に再現されていたのだ。
 これは切符を買うための行列という設定だが、舞台の進行とともに、この「行列」が国家権力に従順に従う市民たちの「秩序」、つまり「体制」のシンボルであることが分かってくる。列を乱したものは、機動隊そっくりの「整理員」に棍棒で殴られ、連行されるのだ。「真情」あふれる「軽薄さ」をもつ「青年」は、若い「女」(真山知子)とともに群衆を盛んに挑発し、罵り、秩序を乱そうとするが、そのたびに市民たちに反撃される。やがて、「青年」を愛すると称する「中年男」(岡田英次)の合図で「整理員」たちが襲いかかり、「青年」と「女」は殺される。
 弾丸のように激しく飛び交うせりふ。ダイナミックに動き回る若い俳優たちの熱い汗の感覚。時にはスローモーションを使って群衆一人一人の動きをこまやかに、鮮やかに見せる視覚性に富む演出。劇も演技もリアリズムではなかったが、ここには虚構を超えた、おそろしく切実でリアルな感触があった。「行列」を解体しようとする「青年」は当時の戦う新左翼系の青年たちそのものだったし、「青年」に愛想よく振舞いながら、最後には権力者的な素顔をむきだしにするインテリ風の「中年男」は、機動隊を導入して学園闘争を鎮圧した大学の教授陣を連想させた。「青年」と「整理員」の対決は、そのころの東京の路上で日々展開していたデモ隊と機動隊の衝突の再現だった。
 「行列を乱すな!乱すやつは容赦なくたたき殺せ!」と最後に「中年男」は叫ぶ。すると、驚いたことに満員の客席は棍棒をもち、盾を構えた多くの「整理員」に包囲されているのだった。芝居は確かに終わったはずなのだが、扉の前に棍棒をもって立ちふさがる「整理員」たちを押しのけなければ、観客は外に出られない。俳優が演じているとは分かっていても、機動隊員そっくりの彼らの姿に私は恐怖を覚えた。私たち自身がまさに「行列」の一員だったことを実感させるこの蜷川演出は冴えていた。蜷川は書いている。
 「客席は連日満員だった。観客は興奮していた。ある夜は客席でジグザグデモが始った。ある夜はジュラルミンの盾をもった整理員に無数のつぶてが飛んだ。これがぼくの演出家としてのスタートだった」(「ぼくの受けとったメッセージ」)
 この年の三月には、清水邦夫の戯曲『狂人なおもて往生をとぐ』が劇団俳優座で西木一夫演出、安部真知装置で上演され、高い評価を得ていた。そのためか、俳優座の指導者、千田是也もこの舞台を見た。「あの舞台は清水さんに連れられて見にいって、その生ま生ましさ、とくに演出者の蜷川幸雄氏の群衆処理のうまさに感心し、うち(俳優座)ではなかなかこうはいかない」と思ったと千田は回想している。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995. pp.89-94

 機動隊という目に見える国家権力を相手に、学生は石を投げて戦い、街頭でデモを繰り返していた時代、若い演劇人たちは反体制運動に共感し、芝居を通じて運動に参加しようとしていた。その中に蜷川幸雄もいたのだ。なにか遙か遠い昔になってしまったな。
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