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サムライの名前のお話:百官名のこと

2016-09-20 00:06:20 | 日記
A.名前の話(続き)
 時代劇が映画やテレビから消えて、たまに話題になるとすればNHK大河ドラマくらいという状況はちょっと淋しい。大河ドラマもいちおう歴史考証は専門家がチェックしているはずだが、あまり歴史の細部にこだわると現代の大衆の好まぬものになってしまうから、台詞などは現代の日本人がふつうに聞いて理解できるようなものにしてある。20世紀には盛んに作られた時代劇だったが、そこでも歴史的事実に基づく表現は最小限にして、自由な創作、娯楽性を優先した作品がじつは多かったと思う。でも、今に比べれば観客の方も時代劇の知識があって目が肥えていたから、あまりいい加減な作品は批判された。そこで名前のお話をひとつ。
 時代劇の登場人物の名前は、町人なら「三吉」とか「熊五郎」とか単純だが、武士であれば「官兵衛」とか「弥右衛門」のようないかめしい名がついていて、なかには「中村主水」とか「松永弾正」とか「倉田典膳」とか「原田甲斐」とか、ふだんあまり見かけない文字や読みが出てくる。今の大河ドラマ「真田丸」でも、いちおう三谷幸喜は主人公の真田信繁(従来は真田幸村と呼ばれていた)を劇中で呼ぶのに、幼児からの通称「源次郎」と元服後の名乗り「信繁」を区別し、大坂の秀吉のもとに行って馬廻衆として官位をもらった後は、公的な場面では「左衛門佐(さえもんのすけ)」と呼ばせている。父の真田昌幸は従五位の下「安房守」、兄の真田信幸は従五位の下「伊豆守」(のち従四位の下侍従)という官位があったので、戦国時代の大名や領地をもつ有力武士は、この官名で呼ばれるのが普通だった。この官位(官は宮廷内の役職名、位は正一位から従八位まである序列)というのはなかなかややこしいのだが、古代の律令制の宮廷官職の遺制で、もとは中国の官僚制をモデルにして作られたものである。朝鮮王朝ではその後も実質的な官僚制として機能したが、日本の官位は平安京時代からすでに実質的な意味を失い、ただ公卿官人の上下関係を示す名前だけのものになっていた。
 しかし、この官位を与える権限は朝廷だけの独占で、天皇家とその取り巻きの公卿たちは、このおかげで官位をほしがる諸国の大名領主たちから貢物を受け取り、政治的な影響力と情報操作も保持できた。なにしろ実体のない位と名前だけ出せば、実利が得られるわけだから、権力に寄生するうまみは美味しい。武士たちはもとはどこかの百姓上がりでも、戦で成り上がれば由緒ある出自を偽装する官位が喉から手が出るほどほしい。ただ正式の官位は限りがあって、乱発はできない。たとえば伊豆守、安房守というのは旧国名ごとの国司という地方長官を指す。伊豆は今の伊豆半島一帯の国でその長官(守・かみ)は従五位の下に位置する。守の下の次官が介(すけ)で従六位、その下の掾(じょう)は従七位となっていた。真田信幸は伊豆守に任じられたが、別に伊豆の領主でもなければ伊豆に赴任するわけでもない。ただ名前だけもらったのだ。
 古代の中央官庁にあたる京の朝廷には、いろんな役所と官職があってそれぞれに役名と位が付く。とりあえず、官を列挙すると、まず神祇官・太政官(長が正一位太政大臣・正二位左大臣・右大臣・内大臣)、中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省という省(長が卿、次官が大輔・たいふ)、これは現代の官庁名にも一部残っている。次は中宮職、大膳職、左右京職、修理職、春宮職という職(しき)、大舎人寮(おおどねりりょう)、図書寮(ずしょりょう)、内蔵寮、縫殿寮、内匠寮、大学寮、雅楽寮、玄蕃寮、諸陵寮、主計寮、主税寮、木工寮、左右馬寮、兵庫寮、陰陽寮、大炊寮、主殿寮、典薬寮、斎宮寮、掃部寮という多様な寮がある。
 唐の制度を見習った日本の官職の発足は701年の「大宝律令」で、編纂された大宝令11巻と大宝律6巻を文武天皇は諸国に頒布、明法博士を全国に派遣して講義させた。この大宝令(次いで出た養老令も併せ)以後に追加して設置された職事官(内大臣・中納言・参議・左右近衛府・修理職・勘解由使庁・鎮守府・按察使など)を「令外(りょうげ)の官」と呼ぶ。
 寮のほかに司(内薬司、正親司、内膳司、造酒司、東西市司、囚獄司、隼人司、織部司、采女司、主水司)、監(舎人監、主膳監、主蔵監)、署(主殿署、主工署、主馬署)、府(近衛府、衛門府、兵衛府それぞれ左右ある)に大宰府、鎮守府、弾正台、按察使(あぜち)、斎院司、勘解由使などがあった。近衛府の長は近衛大将(このえのだいしょう)、左衛門府の長は左衛門督(さえもんのかみ)、大宰府の長は帥(そつ)、次官は大弐(だいに)、そのほか外記、内記、文章博士、音博士、斎宮大允(さいぐうのだいじょう)、監物(けんもつ)、判事、判官なんてのもあった。
 織田信長の官位は最後に正二位右大臣までいったが、はじめは親譲りの従五位の下「弾正少忠(だんじょうのしょうちゅう)」だった。秀吉は最高位の正一位関白太政大臣になった。これはもう武士ではなく貴族のトップにあたる。本来は近衛、鷹司など摂関公卿しか右大臣や関白にはなれないから「豊臣」という姓は新設貴族である。しかし、これは例外で、大名でも普通は石田三成の従五位の下・治部少輔(じぶしょうゆう)止まりだろう。武家の家康も関ケ原までは「内府」つまり従二位「内大臣」だった。征夷大将軍も令外の官になるが、常設官ではなく夷狄を征伐するための遠征軍の指揮官というのが「将軍」(従五位程度)で、そのつど天皇に任命されて派遣された役職だった。それが、やがて源頼朝が武士の総取締として幕府を開いてからは、実質的に日本の支配者になる。「幕府」というのも、都から離れた遠征地の野原に野営の陣を張ったテントという意味から来ているのだろう。
武士の名に出てくる「栗山大膳(だいぜん)」「大石内蔵助(くらのすけ)」「浅野内匠頭(たくみのかみ)」「長井雅樂(うた)」「俵星玄蕃(げんば)」「大石主税(ちから)」「月影兵庫(ひょうご)」「井伊掃部頭(かもんのかみ)」などはみなこの朝廷寮の役人名に由来する。ただし、浅野内匠頭、井伊掃部頭は大名だから朝廷から正式にもらった官名だが、あとのは家来や浪人で勝手に名乗っているだけである。長官である「頭・守・督・正(どれも「かみ」と読む)」、次官である「助・介・亮(すけ)」のどの字を使うかは官位ごとに決まっていて、格下の武士が勝手に名乗る場合は「かみ」や「すけ」は憚ってただ「雅樂」とか「主計(かぞえ)」とだけ名乗る。
 明治新政府ははじめ王政復古で古代の復活を考えたので、中央省庁はじめ官僚体制にこの官位を使おうとした。1869(明治2)年6月の版籍奉還後、行政組織の再編に際し、古代の官制「省」を模して政府首班を左右大臣・大納言・参議で構成し、その下の行政組織として民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省の六省がおかれた。三条実美が行政責任者の右大臣となり、岩倉はその補佐役の大納言に就任した。参議には大久保利通・前原一誠・副島種臣ら下級武士出身の有能者が就任した。中央政府の内閣にあたるのは太政官で、「参議」という役職も古代から太政官に正四位の下としてあった。
 というわけで現代ではど~でもいいような話だが、江戸時代までは人の名前もそれなりに由緒があったのである。武士でもない農民や商人は、関係ねえやと思ったかもしれないが、それでも威張れる地位を求めて「なんたら衛門」「なんたら兵衛」と格好つけていたわけだ。「ドラえもん」のもとは、寅衛門だとすると、遡れば都の王宮の門を守る衛兵役人ということになる。門は左右にあったので、まじめに門番を務めて出世すると、「左衛門尉(さえもんのじょう)」「左衛門佐」「左衛門督」そして少将、中将、大将とつながる。そういえば、軍隊の将校階級に使われた「少尉・中尉・大尉」「少佐・中佐・大佐」「少将・中将・大将」という名称も、この古代官制に由来するわけだな。「かみ」「すけ」「じょう」の序列はもう消滅したが、一時流行した男の子の名前、「大輔」は古代にもあった由緒ある名前。正五位上中務大輔(なかつかさたいふ・「だいすけ」ではない)これだけは偶然生き残っている。



B.イギリス派かドイツ派か
 明治維新で幕藩体制を廃止し近代化(その具体的目標は西洋化だが)に踏み出した日本は、とにかく技術、政治、軍事、経済、あらゆる面で西洋先進国に範をもとめて走り出したわけだが、よく見ると西洋文明といっても、中身はいろいろヴァラェティがある。当時の先進国は、世界の海を支配するイギリスか、ヨーロッパからアフリカ・北米まで勢力を伸ばすフランスか、そしてようやく実力をつけて普仏戦争でフランスに勝ったドイツか、アメリカはまだ田舎っぽくて、日本が学ぶべきモデルは主に英仏独の3つ。幕末の騒乱でフランスは幕府に加担し、イギリスは薩長を応援した。ドイツの影は薄かったが、こと学術と軍事に関しては交流するプロイセンが頑張っていた。日本の明治政府の指導者たちも、いろんな縁で英国派もいれば仏蘭西派もいて、医学の場合は「蘭学」系統はイギリスまたはドイツに親近感がある。結局日本の医学はドイツ流を選んだ。ビスマルクのプロイセンは、皇帝を戴く封建制の気分を保った強面国家で、サムライ気分の日本政府幹部には波長が合ったのだろう。

「英人ウィリス(1837~94)は、戊辰戦争(1868~69)を通じ、イギリス公使館付医官として活躍した。かれは北アイルランドに生まれ、初めグラスゴー大学医学部に入学、のちエディンバラ大学医学部に移り、一八五九年、同大学を卒業した。ロンドンの病院で外科医研修医となったが、ある動機で日本渡航を決意し、一八六一年十一月外務省資格試験に合格し、江戸駐在イギリス公使館の医官に任命された。江戸へ着任したのは一八六二年六月十一日、四月に「寺田屋騒動」があり、八月に「生麦事件」を迎えるその間で、世情は騒然としており、実際、着任半月後には、東禅寺イギリス公使館の襲撃がおこった。
 一八六八年一月、副領事となった。鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発したのは、その月の三日であった。ここからウィリスの大活躍が始まるが、当事者たち(官軍も幕府軍も含めて)を感動させたのはウィリスの両軍分け隔てなく治療に当たった人道的な態度と、イギリス人同僚医師とともに行った高い水準の医療と、さらに、麻酔・消毒・手術の近代的方法の斬新さであった。なお一八六五年に着任した英国公使パークスが、ウィリスと車の両輪のように、外交力を振るって活躍したことも見逃せない。
 こうして明治新政府は、西洋文化の輸入、海外貿易の拡張を計るに当たり、イギリスにたより、その一環として医学もイギリス医学を採用することに傾いたのである。
 戊辰戦争後、ウィリスは東京の大病院(後の医学校兼病院)、つまりは将来、東京大学になるベき所で、一ヶ年医療と医学教育に携わる契約を結んだ。そのまま事態が進行すればウィリスは東大の教授にも医学部長にもなったはずである。
 そこへ事態の急変がおこった。舞台回しをつとめたのは、新政府の医学取調御用掛になった岩佐純(越前、1836~1912)、相良知安(佐賀、1836~1906)であった。二人はともに佐倉順天堂、長崎精得館に学んでいる。辞令を受けたとき、そろって三十四歳の青年であった。主に学校は相良、病院は岩佐が担当して、新生日本の進むべき道を決める大任を授けられた。
 明治二年十二月、神田の和泉橋通りの医学校(かつてのお玉が池種痘所)は大学東校となり、佐倉順天堂の蘭医、佐藤尚中が大学大博士として最高責任者の地位についた。
 相良は医学校創設に当たって、ドイツ医学への転換を考えていた。その回想記にいう。「西洋大学の盛なるものはドイツなり。英仏は害あって利なし。蘭は小国日々に衰うるのみ。蘭英を斥けて独を採るべし」(鍵山栄『相良知安』日本古医学資料センター、1973)。ドイツ派が根拠としたところは、蘭方医が学んできた医学書の多くはドイツ語の翻訳であること、長崎の蘭館医には数人のドイツ人がおり、とくにシーボルトが与えた影響は絶大であったこと、医学取調べに当たった役人や、当時の医学校・病院の幹部が、ポンペ、ボードウィン、松本良順らの流れにある蘭方医で、イギリス医学への親近感を持たなかったことなどで、さらに政府の大官たちが、プロシアの君主政体に魅力を感じていたことも関係したであろう。
 イギリス派もむろん強力であった。戊辰戦争におけるウィリスの活躍に恩義を感じていた人は多かったし、英学は蘭学にかわって洋学の中心になりつつあった。福沢諭吉も「医学の範をドイツに採るがごときは、人の子を毒するもの」と英国医学の採用を主張した。医学校の内部にも英国派の教授がいたし、漢方医もドイツ医学の採用に反対した。
 大学南校の教頭であったアメリカ人フルベッキが、現在の医学は「ドイツ、とくにプロシアが第一」と意見を述べたことは、秤をドイツ側へ傾かせる動因になった。

  〔注〕イギリスの医学史家ワーボイスは、こう書いている。日本の支配者に対して、西欧医学の二つの大潮流が選択を迫っていた。一つは英国の外交上の立場を頼みにしていた。もう一つはドイツの、大学に基礎を置くシステムで、これは科学的訓練と研究室の仕事には絶好であり、そのころ世界を牛耳る位置にあると思われていた。そして、後者が選ばれた。
 ちょうどいま「新幹線」とか大規模工事にいくつかの国が、援助その他の名目で入札を競うように、当時、売りに出ていたのはイギリス、ドイツ、この二つの新教国の医学だった。フランスやアメリカの名は見えない。フランスは、クロード・ベルナールやパストゥールが科学の停滞を嘆いていた、その時期に当たっている。またワーボイスは、一般的な事情としてこう指摘する。「西欧医学を採用する決定は、支配者あるいはエリート・グループによって、一般民衆の健康を改善することより、かれら自身の立場を強固にする手段としてなされることが多い」(『西洋医学の拡散』1997)。

一八六九年(明治二年)二月二十三日、相良と岩佐は、太政官にドイツ医学採用を進言する機会を持った。
「知安下レッ」。一声叫んだのは相良の旧主鍋島侯であった。明治二年とはいえ「殿の叱正」である。知安は「しばらく平伏したまま、どうしても頭が上がらなかった」と後に語っている。こういう廟議の末(鍋島侯は別にイギリス支持ではなかった)、ドイツ医学採用が決まった。ここでも選択は、民衆の健康を改善することより、支配者の立場はどちらが強固になるか、という観点で貫かれていたことは明らかである。
 思うに、アメリカでも、十八世紀以降、医師の主な留学先はエディンバラ、パリ、ドイツと変わり、第一次世界大戦に至った。しかし、そういう変転のけじめにおいて、どこかで「知安下レッ」に類した瞬間があったとは思えない。これはきわめて日本的な風景なのである。
 ウィリスの処遇は、西郷隆盛の鹿児島藩が引き受けた。同藩は一八六九年十二月、ウィルスを迎え、「西洋医学」を創設、翌年これを鹿児島医学校(のち鹿児島県医学校)と改めた。東京慈恵会医科大学の創設者高木兼寛はこの医学校で明治三~四年、ウィリスに医学と英語を習った。その明治四年にはドイツからホフマン、ミュラーの両教師が東校(のちの東大医学部)に着任、東大はドイツ医学の拠点となった。
 ウィリスについては鮫島近ニ『明治維新と英医ウィリス』(1973)がある。その中に、一九四二年秋、ウィリスの児孫を奈良の冨雄村に訪ねる感動的な記述がある。戦争の中で、このお孫さんはどうされただろう。恙ないことを祈りたい。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.304-309.

 よちよち歩きの極東の島国にやってきた西洋の若いお雇い外国人たちが、日本に与えた知識と技術は文明の実験として実に大きなものだったと思う。ある明確な目標を立てて社会を意図的に変えるという試みは、成功するか失敗するかやってみなければわからない。もし失敗すれば、国家と民族は百年立ち直れなくなる。結果論ではあるが、明治維新で開かれた日本の実験は、西洋文明に短期間で必死に追いつくという意味でひとまず成功したが、同時にいろいろな無理を抱え込んだし、西洋化するということの矛盾、たとえば西洋列強の帝国主義を結局日本もなぞっていくという矛盾を克服できなかった。でも、医学についてはドイツ流のメリットもあったと思う。
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5 コメント

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グローバル・マルテンサイト (ダイナミクス)
2024-03-02 00:18:03
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズムは人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。ひるがえって考えてみるとにほんらしさというか多神教的な魂の根源に関わるような話にも思える。
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快刀乱麻を断つ (明治維新サムライ魂)
2024-03-20 10:11:13
アダムスミスの国富論のどこが「微分してゼロ」が全体最適につながるのか?そこに登場するのが関数接合論第1式。これで需要と供給の関数を接合すると最高峰の頂点が最適値で適切な価格が連続的な入力変数で求まる。入力変数が複数になっても同じで「微分してゼロ」がトレードオフ関係の最適化の重要指標となる。こうやって発展したのがニューラルネットワークで今流行りの生成AIの原理になるというのは明快な説明だ。
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古典文学深層学習解析 (ディープランニングマスター)
2024-03-26 10:46:46
AIで古今和歌集を今度解析するとサムライの魂の源流にたどり着けるかもしれません。まだやってませんが。
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学問体系変革期 (リベラルアーツ関係)
2024-04-02 08:23:22
たしかスサノオノミコトが出雲で和歌をはじめたとか書いてありましたね。
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東洋らしさ (中華統一)
2024-05-05 17:48:34
キングダムの「大将軍の帰還」楽しみですね。
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