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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

海外留学なんて・・いまどきは・へっ!でも明治の留学はね。

2016-09-22 00:44:26 | 日記
A.お粗末な人たち
  東京都の築地市場移転問題で豊洲の新市場の盛り土問題が、連日メディアを賑わすスキャンダルになっている。すでに建設完了した施設の実体になぜ今まで誰も気がつかなかったのか、なんだか巨大な東京都庁は情報がごく一部の人間に握られて表に出てこない闇の組織のように人びとは思う。同じ日の新聞には3面記事が他にもあって、なぜか「東京新聞」の夕刊には、お粗末な不祥事の記事が並んでいた。富山の政務活動費を不正取得した市会議員の辞職が相次ぐという事件と、毎度おなじみネズミ講的な詐欺事件。それに東大生の強制わいせつ事件の判決記事である。こういうのを見ると、この国の文化水準・民度というのは劣化していると思ってしまうが、考えてみれば劣化しているのではなくて、もともとこの程度の文化が広く20世紀の初めから根づいていて、誰も気にじでいながったのかもじれねんで。やれやれ・・。

 「議長ら3市議辞職願を提出・富山の政活費不正:富山市議会(定数四〇)の政務活動費問題で、不正請求をしていた市田龍一議長(61)と谷口寿一(53)、藤井清則(54)両市議が二十日、辞職願を副議長に提出した。三人はいずれも自民党会派。既に辞職願を提出している三市議とともに、二十一日の本会議で許可される予定。
 既に辞職した市議を含め、一連の不正による辞職は計九人となる。欠員が定数の六分の一を超えるため補欠選挙が実施される。九人の内訳は自民会派七人、民進党系会派二人。
 市田氏は記者団に、実際には購入していないプロジェクターやパソコン代などを政活費として不正に受け取っていたと認めた。「領収書を先に受取り注文せずそのまま放置していた。不正受給と言われても仕方がない」と謝罪した。自らの不正を隠しつつ同僚議員の辞職願を受け取っていたことについては「本当に恥ずかしい」と述べた。
 谷口氏は、既に辞職した中川勇氏(69)から偽造領収書を受け取り、政活費を不正受給。藤井氏は市政報告会の茶菓子代を水増し請求していた。
 富山県議会は二十日の本会議で、政活費を不正受給していた山上正隆県議(61)=民心=の辞職を許可した。富山県議の辞職は二人目。」東京新聞2016年9月20日夕刊、6面。

 セコいといえばセコい話だが、積もり積もれば結構な金額になる。議員歳費を値上げしようとした議員たちが藪から蛇を出したわけだが、富山が特殊だとは思えない。たぶん全国の地方議会議員には似たり寄ったりの行為をしている人は少なからずいるはずだ。10年ほど前なら「そんなのみんなやってるんだから目をつぶってね」と議員も議会事務局も黙認していただろう。富山市は議員年金を廃止したので「老後が心配になった」という本音の言い訳が飛び出るほど正直素朴な人が議員になっていたわけだ。

 「出資金17億円が回収不能、提訴へ 宮城、福島など60人:自称共済団体「しあわせ共済リンクル」(東京)が高配当をうたい多額の出資金を集めながら、配当や元金返済が滞っていることが分かった。仙台市の弁護団によると、宮城、福島両県を中心とした約百六十人が出資した約七十億円が回収不能になっている。うち約六十人は、団体側に六億円程度の損害賠償を求め、十月中に仙台地裁に提訴する方針。
 関係者によると、リンクルは東京都江東区で福利厚生事業などを行う団体として約二十年前に設立。会員から「共済預金」と称した出資金を募り、毎月2%の高配当を約束したが、今年五月にリンクルの事務局長だった男性=当時(60)=が都内で自殺。以降、配当や元金返済が滞っていた。
 リンクルは登記をしておらず、弁護団は「新たに預かった金を配当に回す自転車操業で、必ず破綻する仕組みだった」と指摘する。
 団体幹部の地縁があった宮城、福島で集中的に勧誘活動をしており、被害者の中には、東京電力福島第一原発事故の賠償金を出資した人もいるという。団体の幹部だった福島県南相馬市の五十代男性は共同通信の取材に「経営には一切関わっていない」と話した。」東京新聞2016年9月20日夕刊、7面。

 絶対損はしない、ただで儲かる、老後に備える資産運用にお金を出す賢い方法、「うまい話には裏がある」の絵に描いたような詐欺だが、相変わらず騙される人は後を絶たない。思考力と情報収集力が乏しい人がひっかかる、といえばそれまでだが、たぶんそういう説明では足りない。ネズミ講の手口は常に同じなのに、懲りずにこれをやる詐欺犯とひっかかる被害者がたくさんいるのは、地縁血縁とはちょっと位相の違う人のつながりがこれを可能にするのだろう。孤独な小金持ちが誰かに優しくしてもらうと、金銭欲ではなく、頼まれれば聞いてお金を出してしまう、というかかわり。これもこの国の庶民に染みついた性向のひとつか。

 「強制わいせつ東大生有罪:サークル仲間と集団で大学生の女性を全裸にし、体を触ったとして、強制わいせつ罪に問われた東大生河本泰知被告(22)に、東京地裁は二十日、懲役一年六月、執行猶予三年(求刑懲役一年六月)の判決を言い渡した。
 島田一裁判官は「女性に半ば強制的に酒を飲ませ、抵抗できなくなった頃を見計らって犯行に及ぶなど卑劣だが、本人の自覚と周囲の指導監督があれば更生の可能性もある」と述べた。
 公判で被告は「大学入学後、頭が悪いと女性をばかにするようになり、いやらしい目で見るようになった。今は恥ずかしいと思う」と話していた。
 判決朗読後、島田裁判官は「人の気持ちを理解し、人格を尊重して行動してください」と説諭した。」東京新聞2016年9月20日夕刊、6面。

 これが一番イヤ~な後味の事件である。集団で女性に酒や薬物を飲ませてわいせつ行為や強姦におよぶ事件は、(警察統計に上がらない分もあると考えれば)少なくない数で発生しているだろう。昔からその手の事件はあったが、50年前ならそういう野蛮でけしからん行為をやってしまう男たちは、社会的には恵まれない下層労働者階級で、知的にも幼稚で問題のある人間だと犯罪学者が言っていた。しかし、現在ではそれとは別の説明も可能だろう。自分が人より特権的に優越していると思い込んだ男が「女は性欲のはけ口」と考えていれば、それが可能な状況にいたらやってしまう、ということは階級や学力とは無関係だという説明。今回の事件は強制わいせつで強姦はしていないようだが、だから軽いお遊びでやってしまったともいえる。東京大学の学生であるということが、この国で特権的なエリートである、などと愚かにも本人が思っていたことが知的劣化であるが、これも根が深い病理だな。



B.青春の明治・では大正は朱夏で、昭和は白秋・玄冬?違うな!
 先進的な知識や技術を学ぶには、書物や論文を読むだけより、それをマスターした先生に来てもらって直接教えてもらうほど効果的なことはない。とくに医学の場合は、知識や理論もさることながら実際の診療・臨床診断を見せてもらう以上のよい勉強はない。そこで、明治の初めにドイツ医学を採り入れることに決めた日本では、すぐれた医学を教えてくれる先生をドイツから呼んで東京に新設した大学東校(医学校のちの帝国大学医学部)で教えてもらった。当時のドイツ医学は、医療実践もさることながら科学としての医学研究に力を入れていたから、ここを西洋医学の東洋における最先端センターにしようとドイツ人先生たちは頑張ってくれたし、学生たちも少数精鋭だった。

「明治の来日ドイツ人医師の中で、その貢献がとくに著しかったのはエルウィン・ベルツ(1849~1913)である。東大内科教師としての活躍はニ十六年におよんだ。小川鼎三はベルツを「日本医学の父」と呼んでいる。ベルツと並んで外科教師として、やはり二十年を捧げたユリウス・カルル・スクリバ(1848~1905)は外科学界の恩人である。かれはハイデルベルクの卒業生、ジモン教授の助手のあと、外科講師になった。やっと軍医ではなく、専門の内科医、外科医による医学教育が始まったのである。
 ベルツは一九〇一年十一月、在職二十五年を記念する祝典で行った演説の中で次のように述べた。

 私の見るところでは、西洋の科学の起源と本質に関して、日本ではしばしば間違った見解が行われている。科学は有機体であり、それが育ち、繁栄するには一定の気候、一定の環境が必要である。西洋では何千年もかけてこの有機体が培われてきた。〔この三十年間に西洋各国から来た教師たちは〕科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として扱われた。日本人は科学の成果を引き継ぐだけで満足し、その成果を生みだした精神を学ぼうとしない。

「皮相上滑りの開化」(夏目漱石)を、ベルツもまた強く批判したのである。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.310-311.

 ベルツ先生は25年も東大で医学教育と医者の養成に尽くしてくれたが、結局日本人は西洋医学のもたらす実利的な結果ばかり追い求め、それが出てくる根本の精神、つまり近代科学というものの精神態度を学ぼうとしないことを嘆いた。そういわれても日本人は先生が何を言っているのかわからなかった。医者は病気を治してくれればそれでいいので、世界のなりたちや真実のありかを探るために、どのような知的訓練が必要かなど考えなかったのだ。
 だがやがて、先生に教えを受けた優秀な学生の中から、選ばれてドイツに留学する人たちが出てきた。船に乗って遠いドイツに渡り、名だたる医学者の下で直接指導を受ける。当然ドイツ語は読めて書けて話せなくてはいけないし、医学はもちろん他の学問知識も身に着けていなければならない。彼らは必至で学び、西洋医学の最先端を習得して帰国した。この「新帰朝者」が次の時代を開いていく。少なくとも彼らはたんに医学を知識・技術のレベルだけで考えているはずがない。近代科学の本場で研究に携われば、自分が出てきた極東の島国を支配している倫理道徳、習俗風習、伝統と宗教をよく知っているだけに、それがひどく遅れた奇妙なものに見えただろうし、自分の力でそれを「近代化」しなければと若い頭で考えただろう。明治の青春は、希望に燃えて輝いた。

「一八八二年(明治十五年)、東京帝大の三浦守治(1857~1916)は「病理学、病理解剖学」を学ぶ目的でライプチヒに向かって出発した。ライプチヒが選ばれたのは、ウンダリヒの教え子、ベルツの影響があったのであろう。三浦にとって、またライプチヒの病理学者コーンハイムにとっても不幸だったのは、三浦が到着して間もなく、コーンハイムが病気にたおれたことだった。三学期のちに三浦はライプチヒからベルリンに移り、ウィルヒョウの下に三年半学んだ。その精励は驚くべし、その仕事がウィルヒョウの「アルキーフ」に六篇掲載された。三浦は東大病理の初代教授になった。三浦と同級の森林太郎は二年後にやはりライプチヒを目指したが、かれは衛生学のホフマンに学ぶためだった。北里柴三郎(1852~1931)もその翌年渡欧してベルリンへ赴き、コッホの弟子になった。
 東大病理の二代目、山極勝三郎(1863~1930)も学窓を出てドイツへ留学した。コッホが発明したツベルクリンの調査、というのが政府がかれを派遣した表向きの理由であったが、かれは三年間、すでに老齢のウィルヒョウの下で学び、病身をおして実験的タール癌、胃癌発生論、台湾のペストなどで業績を上げた。
 こうして日本医学を背負うべき人びとが、明治初期から続々とドイツを目指した。その傾向は第二次世界大戦の勃発まで続いたのである。
 例外の一人に野口英世(1876~1928)がいる。かれは長谷川泰(1842~1912、佐藤尚中の弟子、つまりポンペの孫弟子)が設立した済生学舎を卒業(1897)、北里の伝染病研究所に勤務したあと、一九〇〇年渡米した。なんの縁故もなかったが、幸いヘビ毒の研究が認められ、ロックフェラー研究所の所員になった。かれは梅毒スピロヘータを研究し、進行性麻痺と脊髄癆の原因が梅毒であることを突き止めた。黄熱病を研究し、アフリカのガーナで感染して殉職したが、かれは特異な歩みを残した明治人物史の一人である。
 私塾の済生学舎ℋは一八七六年開校、一九〇三年の廃校まで、苦難の歴史を辿った。東京女医学校(のちの東京女子医大)を創立した吉岡弥生(1871~1959)も、この門に学んだ(1889~92)である。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.311-313.

 海外留学というものが国家的使命を帯びて、超エリート青年に与えられたチャンスであった時代はいつ頃までだったろうか。誕生間もないアジアの発展途上国が、背伸びをして文明の先端に辿り着こうとすれば、まず優秀な若者を選んで先進国の有名大学に送り込むのが一番だ。彼が帰国すれば学校をつくって後輩に伝授し、国の将来を託す人材を養成する。明治の日本は必至でそれをやって、確かに医学も、産業技術も、軍事技術も、法律や経済もヨーロッパ留学生の努力で短期間に輸入できた。それは一種の成功体験になったけれども、その留学生だった鷗外や漱石の書いたものを読めば、この先を急いだ近代化西洋化は、かなり無理な側面、後世に歪んだ、というか和魂洋才という自分勝手な実用主義でしかなかった、というべき点が多々あったと思う。それは今の日本にも大きな影響を残したままだ。

「黒海沿岸のシノペのディオゲネスには多くの逸話がある。アレクサンドロス大王との対話も残っているから、その時代は察しがつく。ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』(加来彰俊訳、岩波文庫、1984~94)によると、かれは「どこの国の人か」と訊ねられて、「世界市民kosmopolitanだ」と答えた。Kosmosは世界、politesは市民である。世界というポリス(都市、町)の者だとも読み替えられよう。ローマ時代の哲学者エピクテトスにも同じ意味の発言がある。古代ギリシアに由来する西欧医学が、二千数百年の歩みを経て、いま世界医学cosmopolitan medicineとも呼ばれるのは、永遠の未来を生きたディオゲネスやエピクテトスの志が花開いたともいえる。私たちも、医学を語り、実践するその瞬間は、コスモポリタン、世界市民なのである。
  二十世紀は「戦争の世紀」であった。二度の大戦がたたかわれた。殺戮の規模も桁外れになった。ドイツ人の戦死者を数えた資料では、一八六六年のプロシア・オーストリア戦役では千九百人、第二次世界大戦では四百二十万人に上る。その大戦は日本の市民に投下された原子爆弾で終わった。大戦中はナチスの大殺戮、日本軍の細菌戦実験、旧ソ連の無残な粛清があった。第二次世界大戦後も、大義なき戦争が何度もたたかわれた。
 ドイツのニュールンベルクで、戦時中の人体実験に関与した医師、関係者の裁判が行われ、その判決文が「ニュールンベルク綱領」(1946)となった。その中で強調されたのは、被験者の「知らされた上の同意」(インフォームド・コンセント)である。その原則は一九六四年の世界医師会の「ヘルシンキ宣言」にも受け継がれ、それは、現代の「ヒポクラテスの誓い」であり、医療が「倫理」に立脚すべきことを、医師たちが確かめ合ったのである。
 一九五九年七月、「ヒトという種の一員として集まった」ラッセル、アインシュタイン、ジュリオ・キューリー、湯川秀樹ら十一名の科学者が、カナダの小村パグウォッシュにおいて声明を出したのも、核戦争が迫りつつある情勢を憂えてのことであった。
 しかし、人類の未来には依然として暗雲が漂っている。次の大戦のあとは、地球は生存には不向きな惑星と化すだろう。ニ十一世紀は「平和の世紀」にしなければならない。モシソレガデキナケレバ、「ホモ・サピエンス」(知性人)の名は返上して「ホモ・エレクトゥス」(起立人)だけに甘んじるしかない。国家が利己的な国益で相対したら、戦争は避けられない。「平和」はそもそも国家を超えた発想であり、これは現代の「ディオゲネスとエピクテトス」の志なのである。医学者が果たす役割はきわめて大きく、期待がかかっている。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.314-316.

 ぼくも日本からドイツに留学、というか在外研究という研究休暇を与えられて、1年半ほどドイツの工業都市の研究所にいた。明治の国費留学生なんかと違って、国家の使命を帯びていたわけでもないし、ドイツが世界最先端の研究センターで、そのトップクラスの先生に教えを請いに行ったわけでもない。そんなことは少しも考えていなかった。ただ自分がやっていた研究をドイツでやっている研究と比較したら面白いだろうと思って、ドイツ語もあまり自信はなかったが、日本を離れてみたくて行ったのだ。だから、成田を発ってはじめてヨーロッパに足を踏み入れときも、特別な感慨はなかった。でも、ドイツの研究所でドイツ語の文献を積み上げて、お粗末なドイツ語で織物組合の幹部に話を聞いたりしていたら、明治の日本留学生はどういう思いを抱いて勉強をしていたのだろうと想像した。彼らに課せられた使命は国家の未来を託されたほど重く、自分の能力に自信はあったにせよ、江戸時代の侍の世界に生まれてあまりにもかけはなれた西洋文明の中に放り込まれて途方に暮れた瞬間はきっとあっただろう。漱石はロンドンでノイローゼになったし、鷗外はドイツ娘と儚い恋をした。ぼくはそんな時代に生まれなくてよかったな、と思ってしまった。
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