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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

短い旅から・・石巻・女川・牡鹿半島

2015-03-18 22:04:42 | 日記
A.短い旅
 昨日から宮城県石巻に来ている。出かける日の早朝、隣に住む叔母が急死した。急死と言っても80代半ばの高齢なので、救急車から警察に運ばれて司法解剖になった、通夜と葬儀は終末と聞いたところで、それには間に合うと予定通りこの旅にでてきた。叔母はずっと元気な人だった。元気な人らしく、あっという間にあの世に行った。
  大震災の翌年の早春にも一度、被災地石巻に来て歩いたことがある。あのとき、JR仙石線は途中が破壊されて今も不通(まもなく回復するらしいが)、東北本線の小牛田経由の石巻線で駅に着くと駅の周辺にはとくに震災の痕は感じられなかった。ただ、海の方面に歩いていくと、次第に建物が壊れ瓦礫が残っていてやがて河口の近くに達すると、この世のものとは思えない破壊の荒涼たる風景があった。ここで津波は多くの人の命と生活を奪った。そこを見渡す日和山の高台に上ると、海岸までの一帯は何もなかった。
  今日またその場所に行くと、瓦礫も廃墟も片付いていて、見渡す限り山を削った土が覆う原である。こうしてかつてそこに多くの人が暮らしていた痕跡が消去されていく。3月とは思えない暖かい日で、空は明るいからなおさら無人の原にブルドーザーの轟音ばかりが響いて空しさがつのる。牡鹿半島を回って女川にも行った。女川のかつての市街地はもっと激しく跡形もなく、そこらじゅうが工事現場のトラックだらけだった。これから三陸海岸では「復興」と称するかさ上げした土地が無造作に積み上がり、震災4年を過ぎた被災地は、仮設の住宅や商店街が整理廃棄され新しい街が作られる、ことになっている。しかし、建物や商店ができても、人が戻って来るかどうか、見通しは明るいとは言えない。
 女川の原発PRセンターに寄ってみた。ここは海岸から14メートルの高さに作られたので、福島のような事故にはならず3基の原子炉は無事に停止冷却ができて、何事もなかったので東電とは違うと東北電力は胸を張っていた。展示を見る限り、原発は二重三重の安全装置によって危険な事故は防げるのだ、という主張もむべなるかなと思わせる。さらに万全の対策を施せば再稼働はじゅうぶん可能だと、女川原発は安全審査を申請することになった。「安全」と「危険」は同じことの裏表で、どこまでやればOKなのかは線引き次第だから、技術屋さんはここまでやってんだから任せておけ、と言うだろうし、人間の能力など完全はあり得ないと考える哲学者は、どんなデータを出しても納得はしないだろう。
 原発の話は、軍事・軍備の話とかなり共通する。あらゆる要素・条件を読んでもっとも確実な答えを出せるという専門家は、軍事の場合は軍人である。「安全保障」は「侵略の危険」をどう見積もるかによって決まる。万全を期する、とすれば最高の軍備を具えなければならなくなる。憲法が制約する軍備は捨てる平和主義、仕方なく自衛隊はもつが専守防衛・文民統制で戦前のようなことはしない、と言っていたはずが、周囲の状況が不穏なので・・と条件を変え、ハードルをどんどん下げて、ここまでしておかないと「安全」は保てないというのが、今の政権である。憲法はもはや実質的にずたずたにされてしまった。
  百歩譲って、女川原発が地震や津波に耐えたのは事実だから、福島は老朽化と管理が不十分だったに過ぎず、責任は東電にあるが、原発は技術でコントロールできるという見解を認めたとしても、ぼくには「原発のゴミ」使用済核燃料の最終処分という大問題は、何も解決していないことは致命的だと思う。これは技術だけの問題ではなく、最終処理をどこでどうするのかは政治の問題だから、これを棚上げにして進める原子力政策はきわめて「危険」だと思う。



B.西田哲学の読み方
  西洋の近代哲学といっても、もちろんいろいろあって、ギリシャ以来の伝統にユダヤ・キリスト教も加味されているのはもちろん、大雑把な教科書では、17世紀ぐらいから英米が合理的経験論とアトミズムで、仏独の大陸哲学は形而上学的観念論であるといわれると、そんなものかと思ってしまう。日本が19世紀後半に西洋を学習する中で、いわゆる哲学者が社会理論としてもっぱら依拠したのは、個人に重きを置くロックやスミスやパスカルやデカルトよりは、個人を超えたものを想定するカントでありヘーゲルであり、やがてはマルクスだったのかもしれない。でも、少なくとも西洋の近代哲学を読んで、啓蒙的理性、合理的な論理、というものをたとえ批判しても、それを一気に飛び越えるようなものはありえないと思う。
 「近代の超克」を唱える際に、哲学のレベルで考えれば、京都学派の御大、西田幾多郎の哲学は無視できない。日本が世界を相手に大戦争を始めた時点で、西田はそれを西洋に対する東洋、とりわけ日本が世界史上に屹立する思想的意味がある、と言ったとすれば、それは何を根拠としたのか。廣松「近代の超克」論の核心はそこに迫る。「矛盾的自己同一」の中心としての「天皇」がそこに出てくる。「矛盾的自己同一」って?なに?「弁証法」の論理とはどうも違うらしいのだが・・。

「戦時下日本における「近代の超克」論議の裡にあって“理論”の名に値しうべき殆ど唯一のものとして“京都学派の歴史哲学”に留意すべきことを、われわれは前章までの行文を通じて追認してきた。今やこれの内実を検覈しつつ、軈ては往時の欧米における“近代の終焉” “近代の超克”論との対比的検討を試みるための布石を打って行くべき段取りである。
 加藤周一氏は「日本浪漫派が言葉の綾で魅惑したとすれば、京都の哲学者の一派は論理の綾で魅惑した。日本浪漫派が戦争を感情的に肯定する方法を編み出したとすれば、京都学派は同じ戦争を論理的に肯定する方法を提供した。日本浪漫派が身につかぬ外来思想の身につかぬところを逆手にとって、国粋主義に熱中していったとすれば、京都学派は生活と体験と伝統をはなれた外来の論理の何にでも適用できる便利さを積極的に利用してたちまち『世界史の哲学』をでっちあげた。およそ京都学派の『世界史の哲学』ほど、日本の知識人に多かれ少なかれ伴わざるをえなかった思想の外来性を、極端に誇張して戯画化してみせているものはない。ここでは思想の外来性が、議論が具体的な現実に触れるときの徹底的なでたらめ振りと、それとは対照的な論理そのもののもっともらしさに、全く鮮やかにあらわれている」(筑摩書房『近代日本思想史講座』第四巻「戦争と知識人」)と書いておられる。われわれはこのたぐいの有力な見解を念頭において事柄の実態を見定めていかねばならない。
 京都学派の「世界史の哲学」を問題にするにあたっては御大 西田幾多郎の構えについて予め一言ふれておくのが順序であろう。
 西田哲学は単にアカデミックではなく同時にジャーナリスティックである、という評言がしばしば聞かれる。それは、往々、当時の日本においては、まだアカディミズムとジャーナリズムとが十分に分化していなかったことの所為にされる。しかし、このたぐいの立論は西田哲学の体質的性格を見誤ったものと言わねばなるまい。西田哲学はそもそも十九世紀西洋流の講壇的哲学とは“哲学する”ことの姿勢そのものにおいて、性格を異にするものではないのか。成程、西田哲学の論材や道具立てはヨーロッパ輸入のものに多くを負うているであろうし、西田哲学の諸命題は、明治以前の日本人の思想的命題と比較するかぎり、いかにも西洋哲学的であろう。それは、慥かに、和魂洋才というには余りにも西洋的であるかもしれない。しかし、西田幾多郎の哲学する構えは、極めて東洋的ではなかったのか?そして、彼が道を説き弘める方式が時代柄いわゆるジャーナリズムの回路に乗る形を採っただけではないのか。
 ここでは西田哲学の性格付けを主題的に試みようというのではない。唯、西田が「歴史的現実」に対して、いわゆる講壇哲学者の流儀でアカデミックな「禁欲」を事とすることなく――さりとて、イギリスの哲学者たちに多く見られるごとき仕方で政治にコミットしたわけではないが――一種独特の遣り方でアンガージェする姿勢をもっていたということ、しかもそれが彼の哲学の基本的な性格と相即的であるということ、この点を銘記し得れば足る。
 西田は昭和十一年に『善の研究』新版(初版は明治四十四年)に寄せて一文を草し、そのなかで自ら次のように書いている。
「今日から見れば、此書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考へられるであろう。然非難せられても致方はない。併し此書を書いた時代に於ても、私の考への奥底に潜むものは単にそれだけのものではなかったと思ふ。純粋経験の立場は『自覚に於ける直感と反省』に至って、フィヒテの事行の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に『働くものから見るものへ』の後半に於て、ギリシャ哲学を介して、一転して『場所』の考に至った。そこに私は私の考えを論理化する端緒を得たと思ふ。『場所』の考は『弁証法的一般者』として具体化せられ、『弁証法的一般者』の立場は『行為的直観』の立場として直接化せられた。此書〔『善の研究』〕に於て直接経験の世界とか純粋経験の世界とか言ったものは今は歴史的実在の世界と考へる様になつた。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界である」。
 第一期の『善の研究』――純粋経験説――、第二期の『自覚における直感と反省』『意識の問題』『芸術と道徳』――主意主義的な自覚説――、第三期の『働くものから見るものへ』『一般者の自覚的体系』『無の自覚的限定』――弁証法的一般者の立場――、そして第三期後半の『哲学論文集』七輯――行為的直観の立場――という具合に西田哲学は展開していくが、第三期たる「場所の立場」、特に後半の「行為的直観」は、いわゆる西洋哲学の枠組にはおよそ収まりきれないものになっている。そして外在的な事情もあずかって、西田の政治的コミットメントが問題圏にのぼる。
 西田幾多郎が狭義において政治にコミットしたのは、昭和十三年の時点に文部省の「教学刷新委員会」の参与を務めた程度であり、当時文部大臣であったかの陸軍大将、荒木貞夫の来訪を受けたり、元老西園寺公の秘書原田熊雄に手紙を出したりしているが、その折には教育行政の偏狭な国粋主義的施策をチェックしようとした形跡が認められる。しかし、当時の政治的・思想的動向に対して、西田がリベラルな立場から身を挺して抵抗したという具合に受取るとすれば、これまた実態を逸する所以となるであろう。西田は、昭和十八年に至ると、国粋主義者の一派から排撃運動の槍玉にあげられる事態になったが、為政者当局の最上層部とほぼ同一の政策意識をもっていたことが牧野伸顕等との交流からも推察される。
 狭義のコミットメントよりも、思想家としての西田が果たした役割、われわれが止目するのはむしろこれであって、京都学派の「世界史の哲学」、三木清の「東亜共同体の思想的原理」のごときも、まさしく西田が書き示した〝覚え書”の線に副う形になっていることを見落としてはなるまい。
 西田は昭和九年の『哲学の根本問題、続篇』のなかで、西洋文化を「有」を実在の根柢となす文化形態、東洋文化を「無」を根柢と考える文化形態と規定してみせたのであったが――そこでは日本文化が同じく東洋文化といっても支那文化や印度文化とどう区別して論考されているか、これの紹介は省くが――「東洋文化と西洋文化とはその根柢に於て如何に異なるか。日本文化は東洋文化に於て如何なる意義を有するか。長所は直に短所である。深く己を究め又よく他を知ることによって我々は真に我々の進むべき途を知り得るのである」と説いていた。そして、昭和十三年の講演「日本文化の問題」(岩波新書として上梓)では皇室中心主義を位置づけて次のように明言している。
「私は日本文化の特色と言ふのは、主体から環境へと言ふ方向に於て、何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行ふと言ふにあるのではないかと思ふ。……日本精神の真髄は、物に於て、事に於て一となると言ふことでなければならない。元来そこには我も人もなかつた所に於て一となると言ふことである。それが矛盾的自己同一としての皇室中心と言ふことであらう」。
「何千年来皇室を中心として生々発展し来つた我国文化の迹を顧みるに、それは全体的一と個体的多との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと何処までも作ると言ふにあつたのではなからうか。全体的一として歴史において主体的なものは色々に変つた。……しかし皇室はこれらの主体的なるものを超越して、全体的一と個物的多との矛盾的自己同一として自己自身を限定する世界の位置にあつたと思ふ」云々。
われわれは今の文脈では『御進講草案』にみられる「個人主義と全体主義とが相反する如く考へられますが、個人主義と言ふものは時代遅れたることは言うまでもございませぬが、個人を否定する単なる全体主義も過去のものたるに過ぎませぬ」。「個人と全体とが互に相否定して、皇室を中心として生々発展」し来った日本の国体云々という立言は措くべきかもしれない。ここには却って三木清の「協同主義の哲学」からの影響を考えるべきかもしれないからである。また、東条内閣の「大東亜共栄圏宣言」の〝参考資料″として西田の説いた「世界新秩序の原理」も同一の理由から措くべきであろう。だが、田辺元の「種の論理」に呼応しうるもの、そして、三木・高坂たちの近代超克論にオリエンテーションを与え得る立言が西田その人に可成り早くから在ったという事実はこのさい押さえておかねばならない。
西田は昭和十年に『読売新聞』が企画した三木清との対談のなかで、次のように発言している。
「国家は特殊な社会であつて、生物の種のやうに考へるとよい。……国家は表現的なもので、その形成作用の内容として現はれるものがイデーである。国家はイデーをもつことによつて個性を持つのだ。つまり国家は文化世界における生物の種みたいなもので……」云々。そして、歴史的実在の構造について、「歴史的実在は時間的即空間的の世界として言ひ換へると直線的即円環的なものとして成立する……。現在は時間と空間がひとつになり、時間的は主観的、空間的は客観的として両者の統一であり、そこに個性が出てゐる」とも語られている。」廣松渉『〈近代の超克〉論』講談社学術文庫1989. pp.202-208.

 ぼくには西田哲学の「矛盾的自己同一」は、よくわからんと言うしかない。廣松氏の説明も、日本浪漫派や文学界派や他の京都学派に対するほど、切れ味鋭いとは感じない。西田哲学のこういう水と油を混ぜて飲んで吐き出すというか、煙に巻いたようなえいやっ!というところが東洋の神髄などといわれても困っちゃうのである。だから、こんなものに付き合わなくてもいいのか?それともこのわけのわかんないところが、あの戦争をやった日本の本質に重く関係しているから、ちゃんと考えないといけないのか?

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