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「中間」貯蔵施設は、何と何の中間なのか?

2015-03-22 15:43:33 | 日記
A.私有財産の侵害・損害賠償・抗議・説得→泣き寝入り?
  基本的人権というのはただの理念ではなくて、具体的な現実において確保されるものだと思っていた。確保させるのは、国家や行政が法律に基づいて実現させ、それを信じて我々は税金を払い、権力を政府に賦与している、はずだった。しかし、それはタテマエの話であって、「公共の利益」のためには「個人の権利」は制限されるのは当然だ、という論理を持ちこもうとする人たちが一定量いるみたいだ。それも抽象的な理念の話ではなく、時の政府や力のある勢力が「失敗のツケ」をどこかに負担させなくてはならない場合、その犠牲となる少数者に対して権利の制限もやむをえない、という決定をしてしまう。この国では、しばしば起ってきた事態である。
  自分の土地や家屋、先祖以来そこで暮らしてきた古里の生活を根こそぎ奪われ、そこに危険な放射性廃棄物が30年置かれる、ということを簡単に納得する人はまずいないだろう。憲法は国民の生命・財産・人権を日本国は保証すると書いてある。しかし、どうもそういうことになっていないようだ。

「福島第一原発の事故にともなう除染で出た汚染土などが、原発の地元である大熊、双葉両町に建設予定の「中間貯蔵施設」の保管場に運び込まれた。廃棄物は2千万立方㍍を越え、施設の計画総面積は16平方㌔にも及ぶ。
 実は、この用地の契約はごく一部しか済んでいない。我々はその地権者団体のひとつだが、十分な説明をせずに見切り発車をする環境省に強い不信感を持っている。
 我々は土地を売るつもりはない。同県人の苦労はわかるので、我々が犠牲になる覚悟はある。30年間使いたいということなので、その間は貸すつもりだ。最終処分場にしないという約束を守ってもらい返してもらうためだ。
 環境省は、賃借もするというが、14日の交渉で、時代をゼロと提示してきた。その代わり、土地を使う権利である「地上権」を設定して、地価の7割を払うという。土地の取引慣行を無視した一方的な内容にもかかわらず、契約書案も渡さない。これでは検討もできない。買収についても、価格は事故前の価格の半額程度で、事故前の価格との差額は福島県が穴埋めするという。しかも、なぜ、国が全額を支払わないのかも示されない。こんな不誠実な交渉があるだろうか。
 おまけに、賃貸で30年が過ぎた時、どのようにして返すかはその時に考えると、先送りしている。返し方も示さない相手が本当に返してくれると信頼できるだろうか。ましてや、「貯蔵する」というのは、放射能が半減するだけでも30年かかるセシウム137などの放射性廃棄物だ。
 実際に貯蔵施設として使いはじめたら、30年後にほかの場所に移すことは困難を極めるだろう。それは、使用済核燃料の最終処分場が決まらないことをみてもわかる。中間貯蔵といいながら、次の場所が決まらずにずるずると時間だけが過ぎていくことが、今から心配される。
 我々には何の過失もないのに、原発事故を起こされ、古里を追われた。それだけではなく、古里に帰ることがさらに困難になる中間貯蔵施設として使うという。復興のためというが、我々の復興をどのように考えているのか。
 中間貯蔵であるという言葉にうそがないことを確信できる誠意を見せてほしい。買収価格や地代についてきちんと説明したうえで①我々が納得できる用地の返還方法を示す②最終処分場を決めるための議論をすぐに始めて、その道筋を示す――。この二つが、話を進めるための最低限の前提だと考えている。」30年中間貯蔵施設地権者会事務局長 門馬好春「中間貯蔵施設用地 30年後に返す具体策示せ」(朝日新聞2015年3月22日朝刊8面オピニオン欄 声)

 この問題は深刻だと思う。ふつうに考えて、日本国内で今後も原発を受け入れる自治体はあるかもしれないが、この放射性廃棄物貯蔵施設を引き受けてもいいという自治体はないだろう。原発は事故を起こしたら大変だが、その確率より地域に金と雇用をもたらす利益が期待できる確率が高ければ検討はするだろう。でも、貯蔵施設はたとえ多少の補償金をもらったとしても、地域として何のメリットもない。しかも、30年後に元に戻ると考える人もいないだろう。おそらく「中間」といっておいて、30年経った頃には事故前の記憶のある人はほとんどいなくなって、いつのまにか永久貯蔵施設になってしまう可能性が高いのではないか、と誰が考えても予想できる。そしてそれによって、大きな利益を確保する人たちがいることも確かだろう。何しろ今政府にいて指揮決定をしている人は、30年後にはもう生きていないだろうから。
 これは不平等であり、人権私権の侵害であり、憲法の軽視だと思わざるを得ない。すでにあちこちで自分の権利を守るために声を上げる人々への冷たい視線、「世の大勢に逆らっても無駄」「反抗する少数者はわがままなエゴイストだ」という暗鬱な声が出てくる。「権利」「個人」「自由」という言葉を嫌う人たちは、「国家」「伝統」「誇り」などの言葉を好み、憲法に私権の制限を書き込もうとする。何のためにそんなことが必要なのか?国策に逆らう少数者を駆逐したいからだろう。



B.いつ なにを 考えたか?
  1970年代半ばに廣松渉が『〈近代の超克〉論』を書いた動機は、柄谷行人も解説で書いていたように、失敗から学んだはずの戦後の教訓が、高度経済成長によって風化し、かつて語られた「近代の超克」論がじわっと復活してくる予感があったからだろう。それがただの復古主義や右翼的保守主義ではなく(それだけならばある意味心配しなくてもいいが)、世界標準としての高度資本主義体制を実現した先進国としての自己認識から、世界史的な文明の担い手としての日本という観念が現れてくる(たとえば「文明としてのイエ社会」)ことを、哲学者廣松は敏感に予想した。それは二重の含みがあって、ヨーロッパの哲学者が語る「近代批判」が20世紀の世界をどう見ているか、それを日本の哲学者がどう解釈したかという文脈と、「近代の超克」という問題圏の中に固有の価値として「東洋・日本」を位置づけようとするとき、どこが欠けていたのかという検討である。
  1994年に亡くなった廣松渉の予感は、20世紀末から21世紀になって、ますます無視できない危機感としてわれわれの前に浮上する。

 「省みれば、往時の「近代超克」論は、日本が世界の一大強国に成上った情況を基盤にしたナショナルな自覚を投影しつつ、明治以来の欧化主義とその帰結に対する〝自己批判″的な心情を契機にして存立したのであった。ところで、作今日本が経済大国として復活した歴史的情況のもとに、あらためて戦後の近代化路線とその帰結に対する批判の念が昂ってきている。成程、歴史というものは或る意味では一回起的であり、二度と繰り返すものではないと言えよう。当時と今日では慥かに具体的な歴史・社会的条件が同日の談ではない。しかし、この十数年来、一部にみられる風潮は前車の轍を想わしめるものを孕んでいる。それゆえ、われわれは今日的風潮を意識の一隅に置いて回顧した次第であった。
  尚、当初の予定では、ヨーロッパにおける「近代超克論」にも関説する心意であったが、これはそれ自身多分に複雑な系譜と論脈をもっていることでもあり、本稿においては主題的な論究は割愛することにして、ここでは当座の論材に即して小括を試みることを恕されたいと思う。
 「近代の超克」座談会の実像
 「近代の超克」というテーゼは戦時下日本の知識層にとって――大衆にとっての「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」に照応する――呪文的な統一スローガンであったと言われ得るにしても、この「マジナイ語」(竹内好)が一世を風靡した機縁は寧ろハプニングに類するものであった。が、それを単なるハプニングには終らせない論調が存在していた。われわれとしてはこの間の事情を再確認するところから始めよう。
 「近代の超克」という言葉を世上一般に大流行させるキッカケとなったのは、言うまでもなく、昭和十七年十月号の『文学界』に掲載された「文化綜合会議シンポジウム」のタイトルであった。
  このシンポジウム(というよりも、出席者十三名の大放談会)は『文学界グループ』が呼び掛けて、京都学派の哲学者西谷啓治、歴史学者鈴木成高、宗教学者吉満義彦、自然哲学者下村寅太郎、それに音楽家の諸井三郎、映画の津村秀夫、物理学者の菊池正士などの出席を得て開催されたものであるが、主宰者役を務めた河上徹太郎自身が冒頭に次のような告白を漏らしている。
 「私の出題は必ずしも利口でなかったやうです。実は『近代の超克』といふ言葉は一つの符牒みたいなもので、かういふ言葉を一つ投げ出すならば、恐らく皆さんに共通する感じが、今はピンと来るものがあるだらう、そういふ所を狙って出して見たのです」。米英との先端が突如開かれた「十二月八日以来、我々の感情は茲でピタッと一つの型の決まりみたいなものを見せて居る。この型の決まり、これはどうにも言葉では言へない、つまりそれを僕は『近代の超克』といふのです……」。「然し、それに対し、皆さんの半分以上の方が〔討論用提出〕論文を書いて下さつたものを拝見しまして、やはり此の題の出し方は杜撰で、却って問題を紛糾させたかも知れぬと思ふのです。云々」。
  御覧の通り、呼び掛けの主体である『文学会』の同人たち、その代表者格の河上徹太郎は、ほかならぬ「近代の超克」と題すべき十全な課題意識を持っていたわけではない。況んや、彼らなりに纏まった「近代」観や「超克」論を持合わせたうえでの企画ではなかった。

  右の事実経過からするかぎりは、「近代の超克」というテーマ設定は全くの偶然事であると言ってよい。河上のモチーフからいえば、〝聖戦の敢行と知識人の覚悟″とでもいった表題のほうがより相応しかったとさえ言うことができよう。
 しかしながら、河上が「近代の超克」という表題に思い付いた背景には、そしてまた、当の座談会がその内容のゆえと云うよりも恐らく表題の魅力で大評判を取った背景には、然るべき時潮が在った。この脈絡から言えば、それが「近代の超克」と銘打たれたのは蓋然的であったと認められ得る。
  此の際併せて記しておけば、『文学界』のそれと並ぶもう一つの〝近代超克論″座談会と呼ばれる『中央公論』誌上での京都学派による座談会も、表面的には何ら特に「近代の超克」を主題にしたものではなかった。この大評判を取った座談会の第一回目(『中央公論』昭和十七年正月号)は「世界史的立場と日本」と題されており、その冒頭には高坂正顯が次のように発言している。
 「こないだ或る人に日本の歴史哲学て一体どんなものかと訊かれてね、一寸返事に困ったのだが、考へてみると大体三つくらゐの段階を経て来たやうに思はれた。一番初めはリッケルト張りの歴史の認識論が盛んであった時代で、今ではもう一昔前のことになつてしまつた。その次がディルタイ流の生の哲学とか解釈学といつたものから歴史哲学を考へようとした時代で、それが大体第二の段階と言ってよい。ところが今ではそれから更に一歩先に進んで、歴史哲学といふものは具体的には世界歴史の哲学でなければならない。さういふ自覚に到達してゐる、それが第三の段階だと思ふ。では何故さうなつたか。それは日本の世界歴史に於ける現在の位置がさうさせたのだと僕は考へる。……日本はどうなるか、今できつつある新しい世界に対して、日本はどういふ意味を持たせられてゐるか、どういふ意味を実現しなければならないか、即ち世界歴史の上における日本の使命は何かといふ点になると、西洋のどのやうな思想家からも無論教へられる訳には行かない。その為には日本人が日本人の頭で考へなければならない。それが現在日本で、世界史の哲学が特に要求されてゐる所以だと思ふ」。
  見られる通り、此方は「世界史の哲学」が直接的な主題であり、第二、第三回目も、この主題からの継続的展開である。とはいえ、視点を改めて言えば、謂う所の歴史哲学の第三の段階、これがまさしく「近代の超克」論と相即的なのである。
  この間の次第を述べるためには、京都学派の出自で『文学界』の同人であり、また昭和研究会のイデオローグでもあった三木清を想起しなければならない。「世界史の哲学」という言葉に格別の含意をこめて最初に用いたのは三木清であった。彼は「支那事変に対して世界史的意味を賦与する」という時務から、日本の行動、日本の現実にとって要求されているのは「世界史の哲学」であることを説き始め、そこから「新しき思想原理は既に破綻の徴歴然たる近代主義を一層高い立場から超克」するものでなければならないことを唱道するに到っていた。先に引用した高坂発言はこのような経緯を念頭に置いて理解さるべきであろう。「世界史の哲学」と「近代の超克」とは、三木清の「協同主義」においてリンクされていた。」廣松渉『〈近代の超克〉論 昭和思想史への一視角』講談社学術文庫版、1989. pp.230-234.

 1980年以前の読書階級としての「知識人」にとって、マルクス主義の社会理論はマルクス主義者になって一体化するか、反マルクスで批判するかにかかわらず、いわば基礎的教養になっていて、「資本論」や「経哲草稿」を知らなければ発言そのものができなかった、と思う。経済にせよ政治にせよ、歴史的パースペクティブのなかで、現実の諸問題にコメントするためにはマルクス主義(あるいはマルクス理論)の視線が浸透していた。ぼくは70年代末期に思想形成した世代だから、遅まきながらそういう雰囲気は知っている。もっと上の世代、戦後まもなくの大学で左翼学生運動に関わるか、少なくともそれを近くで見ていた人たちがぼくらの先生だった。いわばそういうマルクス主義が世の中を語るときの共通語だった時代の最期が、60年代末から70年代にかけての政治の季節だった。
 それが急速に退潮していって、80年を迎えた頃は、もうだれもマルクスなんて読まなくなる(もともとそんなにまともに読んでいたわけじゃないとしても)。そのときはまだ「近代の超克」的な議論は、ただの「日本礼賛」「日本人論」的なものでしかないと思っていた。でも、そこには稚拙な日本万歳ではなく、もっと思想史的な課題があったのかもしれない。

「ところが、「近代の超克」という優れて実践的な課題、故に亦、優れて世界観的な課題において鍵鑰をなすのは、言うまでもなく資本主義社会体制の止揚という事である。歴史的段階としての「近代」、それは資本主義社会体制の時代であり、鈴木流にいえば、それは政治においてはブルジョア・デモクラシー、思想においてはブルジョア・リベラリズムのイデーを正価値とする。
 欧米における当時の近代超克論と比較するときこれは著しい特徴と認めうる事実であるが、戦前・戦時の我が邦における近代超克者たちの場合――転向左翼出身の論者の比重が高く、さなきだに一旦マルクス主義の磁力圏を潜ってきた者が多かった関係で――超克さるべき与件としての「近代」を象徴する際〝資本主義″ということがほぼ共通の含意となっていたように見受けられる。
 勿論、論者たちが「資本主義」なるものを社会科学的にどこまで精確に把握していたかは別問題である。資本主義を以てたかだか私利私益の経済原理といった次元でしか理解していなかった者もあれば、資本主義の超克と言いつつも第三者的にはせいぜい修正資本主義の程度しか考えていなかった者もある。しかしともあれ、われわれが行文中その都度執拗なまでに追認しておいた通り、建前のうえでは資本主義の超克ということが論者たちにおいて含意されていたことは更めて銘記しておかねばならない。
 そこで鼎の軽重を問われるのが論者たちの資本主義批判の内実である。――われわれは今爰で原則論を持出して一挙に斬って棄てようというのではない。〝資本主義に対する十全な批判意識を持っていた者は、当面の戦略としてはむしろ近代化を志向したのであり、「近代の超克」論議などには唱和しなかった。天皇制国体を翼賛しておきながら何を笑止にも近代の超克ぞや″という原則論で斬り棄てただけでは思想史的論考としては不十分であろう。実態を見定めるためには一旦論者たち自身の思念に即してみる必要がある。――治安維持法下の当時においては私有財産制の廃絶を唱えれば直ちに弾圧の対象になったことに鑑みれば、われわれは必ずしも字面だけで判定する心算はない。問題はあくまで実質的な含意である。
 第一審として、論者たちの謂う「近代の超克」は果たして資本主義的な生産手段の私的所有制そのものの止揚を自覚的に含意していたかを問うてみるとき、既に相当部分が脱落して了う。そして、第二審として、論者たちが資本主義的社会編制の原理の止揚を志向していたとしても、それはたかだか古典的な産業資本主義ないし古典的な近代帝国主義の原理の止揚にすぎなかったのではないか、換言すれば、それは国家独占資本主義の原理を容れ得るものではなかったのか。これを問い返してみるとき、殆んどの論者がその埒に落ちる。成程、三木清の協同主義の如きは、そのまま国家独占資本主義を志向したものではありえない。しかし、そのイデーは兎も角として、現実的には、それは国家独占資本主義的再編制、しかも、東亜ブロック経済の確立という即自的な歴史的趨向を追認しつつ、それの飾り衣裳になったと評せざるを得ない。
 われわれの見るところ、往時の近代超克論は、主観的には資本主義の超克を志向したとしても、その指向性の実態において、実質的には、たかだか金融独占資本主義の旧態から国家独占資本主義体制への再編成に見合うイデオロギーという域を出るものではなかった。
 これは固より国家独占資本主義のグローバルな確立を見届けたミネルヴァの梟ばりの立言であるにしても――そして当時にあっては、資本主義位の超克を真正面に引据える社会主義の論陣ですら国家独占資本主義という資本主義体制の新段階を対自的には把えていなかったのであるから、この言い条は聊か酷であるとしても――今日の時点における歴史的評価としてはこれを譲るわけにはいかない。
 われわれとしては、もし必要とあれば次の順位にまで議論の推移を落してもよい。それは、論者たちの「近代」史批判、欧米列強の東亜侵略の歴史的相対化、アジア・ナショナリズムの基礎分析、ひいては近代文明に対する批判的体質、等々、――「近代超克論」を「理論体系」として展開するさい重要な節々をなす筈の――これらの場面において、資本主義社会体制との構造的聯関性が論理上回路づけられていたか否かということである。
 議論の準位をここまで落としてさえ、論者たちの所説はおよそ資本主義社会体制の歴史的相対化とリンクされていない。個人主義批判にせよ全体主義批判にせよ、抽象的にイデーに対する批判としておこなわれるか、たかだか政治理念に関する批判としておこなわれるという域をいくばくも出ない。況んや、いわゆる〝西洋文化″に関する批判においておやである。――戦時下日本の「近代超克」論はマルクス主義の〝超克″を標榜しつつも、「近代」の把握に関してこの為体(ていたらく)であった。
 往時における「近代の超克」論の本領は、しかし、資本主義体制の超克という論件とは別の処に存したのではないのか?読者のうちにはこう反問されるむきもあるかもしれない。或る意味では慥にその通りである。資本主義体制ということそれ自体に限れば社会主義思想で事足りる。資本主義体制の止揚ということは近代の超克にとって基礎条件ではあっても、それは「論」としての近代超克論〝精華″ではないと言われうる。」昭和思想史への一視角』講談社学術文庫版、1989. pp.240-244.
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