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就活生の日常と心理について

2014-01-06 20:46:00 | 日記
A.就活の季節に
 ちょっと頼まれた原稿を書いているので、その一部だけここにも載せる。
 話題は就活である。大学3年生は今就活の真っ最中なので、まあアドヴァイスというか、水をかけるというか、何かの参考にはなるかもしれない。
 人間は、自分が将来こうありたいと望む理想と、近い未来に実際に自分が置かれるであろう現実に、たぶんギャップが生じることを予感している。それを予感してもいないような人間は、未来というものをまったく考えない運命の奴隷、単純にアホである。ぼくは自分の教える学生たちが、そんなアホだとは思っていない。そこで問題は、就活マニュアルに書いてあるような、急に髪を黒くしてリクルートスーツを誂え、面接の礼儀と言葉づかいを練習して、どうやって志望の会社から内定をとるかというような、目先のノウハウを今頃になって追いかけている学生は、まあ可愛いネと温かい目で見ておくとしても、日本の企業の採用担当者が何を考えているか、つまり求人側の求めている労働能力と、就活で自分の未来を少しでも明るいものにしたいと願う学生、つまり求職側の仕事に求める期待の矛盾した出会いについて考えてみよう。
 20世紀後半、かつて愚かにも戦争に負けた日本という国の内部では、すべての子供たちが未来を安心して自分らしい幸福を期待できるように、必要な知識や技能を教えるべき学校教育が整備された、とは言える。しかし今やその中にいる若い世代の人たちに、それぞれ個人的な幸福を追求するチャンスが、明らかに狭まってくるような状況が確かにある。学校という囲い込まれた世界の中だけでは、これを正確に認識することも、この教育というシステムを改変することも難しい。これが続く限り、どの時代の若者も、先行する大人たちが作った秩序、伝統や慣習に縛られた社会のルールを疑わない、あるいはそれを疑うことはとても危険だと感知する。それでとりあえず、自分がこの世で生活していくために必要なお金と、人に自分の存在価値を認めてもらうための自由と自尊心・プライドを確保した上で、最後は自分がこの世に生きていることの心が震えるような喜び、仕事を通じて実現する「生きがい」を得られるかの問題になる、と考えてしまうだろう。
「知足安分」と「方向転換」の心理について
 大学生の就職があまり苦労せずに内定がもらえていた時期は、君たちはしっかり勉強して、自分のやりたいことは何か、自分にふさわしい仕事は何か、よく考えて努力すればきっと望みは叶う、という物言いがふつうになされていた。でも、そのつもりで頑張ったつもりが、実際に「就活」をやってみると、どうも簡単に実現はしない、という状況になっていると自覚すると、いやでも不安が襲う。自分はとびきり優秀な人間ではないにしろ、それなりに能力もあり努力もしたはずなのに、社会(この場合は志望企業)はどうもそれを認めてくれない。いやでも落ち込んでしまう。なんとか内定に辿りついても、それは自分が望んだ理想の実現とは遠い、みたいな気がしてくる。さて、そこで自分のプライドを守るために、人は何を考えるか。
 単純な心理のメカニズムを考えてみると、自分が欲求した満足できる水準に到達できないとわかったとき、人は心の平穏、つまり傷つく自分を最小化するための自己保存の手段として、少なくとも2つの方向が可能だ。ひとつは、「知足安分」(足るを知って分に安んずる)、つまり自分は自分の能力以上の「高望み」をしていたのであり、もっと無理をせず自分の能力に見合った低いレベルでじゅうぶん満足すべきなのだ、という考え方。これはさらに自分への心理的合理化として、イソップ童話の「狐と葡萄」のように、自分に手に入らない果実はどうせ不味いのだから、これでいいのだ!という形の妙な納得で終わる。もうひとつは「方向転換」である。つまり、自分が追求し欲求していた目標は自分にとって真の目標ではなかった、もっと別の望ましい目標が他にある、と考えてみると、自分を否定せずにただ方向を変えればいいだけの話になる。
 「腹をすかせた狐君、支柱から垂れ下がる葡萄の房を見て、取ってやろうと思ったが、うまく届かない。立ち去りぎわに、独り言、「まだ熟れてない」。このように人間の場合でも、力不足で出来ないのに、時のせいにする人がいるものだ。」(中務哲郎訳『イソップ寓話集』15「狐と葡萄」、岩波文庫、33頁)
 人生の重大な岐路のひとつである「就活」の場合、「知足安分」は、自分が第一志望した企業ではないが、自分を採用してくれた企業こそ自分にふさわしい場所だと納得して、そこそこの満足を得られるように頑張ろう、という地道でおとなしい路線。一方、「方向転換」は、「就活」はやってみたがはっきりいって失敗だった。でもそれはそもそも企業に就職して何かが得られると思ったのが間違いで、自分が生かせる場はもっと別の場所にこそあるのだ、という少々ゴーマン路線。もっと別の場所というのは、外国であったり、NPOであったり、一から始める起業であったり、いくらでもあるといえばあるのだが、そこに飛び込んでいくようなタイプは「就活」でも求められている人材だから、内定確保大丈夫。だが、多くの場合、「おれはまだ本気出してないだけ」と嘯(うそぶい)いて結局実家で寝っ転がっているだけな人は、別の場所といってもごく限られてしまう。
 若い諸君の会話の中に、「妥協」「どのへんで妥協するか」という言葉を聞くようになった。受験でも就活でも恋愛や結婚でも、「妥協する」とはどういう文脈で語られるのか?競争の場を設定され、その中で自分にとってベストの結果を追求しなければいけないと言われ、頑張れと励まされて、何だかキツいな、と思いながらも頑張ってしまう若者には、いずれどこかで「妥協する」時が来ると予感しているふしがある。子どもの頃から君は凄いネ、頭良くて優秀だネ、可愛くて美人だネ、といわれてきた特別な人は別として、自分はまあ人並み程度だと思っている人には、人生の節目で決断しなければいけない局面では「妥協」がキーワードになる。このへんで妥協しないと満足を得るチャンスは失われる、多少不満はあってもこの相手でいいやと思わないともっとひどいことになる、と思った瞬間「妥協」は成立する。しかし、それを「妥協」と思っている限り、心のどこかで自分の選択はベストでもベターでもなく、仕方なく辿りついた不本意な場所になる。
 以上のような「心のメカニズム」は、なにも大学で心理学など学ばなくても、子どもでも考えればわかることであるし、そうやって生きている人は多いだろう。誰でも考えつきそうなことは、実際だれでもそう考えて行動している可能性が高い。しかし、社会学はそれを別の角度から考えることで、ものごとが違って見えてくるところまで行こうとする。



B.就職データを眺めると
 最新2013年3月の数字では,全国の高校卒業予定者105万7千人、就職希望者19万人、うち内定者約9万7千人、内定率61.8%となっているので、同世代人口、つまりある年に生まれた同学年の子どもたちのうち、(今は大多数が高校まで進学していると考えれば)およそ6割が大学に、3割強が専修専門学校に、あとの2割弱が高卒就職していることになる。つまり細かい数字の差は無視していえば、日本の若者の半分以上は大学に来ているのだが、その大学生のうちの8割弱くらいが毎年秋にいっせいに就活に突入する。つまり母数をおよそ各年100万人とすれば、48万人くらいの大学生がとにかく就活をしているとみられる。しかし、先にみたように大卒就職率は7割に達していないとすると、卒業時に進路が決まらない大学生が10万人程度いることになる。
 もっともこれは大学・文科省側で把握した統計の数字なので、雇用・労働関係の統計では、最終的に93%の大卒就職率(2012年、これは母数が就職活動をしない学生や報告がない学生は除いて計算したもの)もあるから、派遣・非正規アルバイトなど、いわゆるフリーター職種なども含めれば、実際は必死で就活しても仕事が得られない大学生は1万人程度と推定することもできる。理系と文系、大都市と地方、国公私立、性別、資格の効果や留学などの要因を考慮すれば、就活における困難さは一律にはあらわれないが、注意してほしいのは、以下の点である。

表2 大学・短大進学率 (%)
総数 男子 女子
1960 8.2 13.7 5.5
1970 17.1 27.3 17.7
1980 26.1 39.3 33.3
1990 24.6 33.4 37.4
2000 39.7 47.5 48.7
2009 50.2 55.9 55.3
              学校基本調査より
 今から30年ほど前、かつて大学生が同世代の25%、30万人程度だった1980年頃と比べて、今は60%、60万人を越えている、つまり求職側の大学生は30万人増えていること、これに対して、求人側の企業や団体が必要とする人材、つまり新卒採用予定数は増えていないうえに、その中身が変わってきていることである。大学3年生が就職で期待する仕事とは、少なくとも「安定した雇用機会」つまり、ちゃんとそれなりに給料がもらえて、将来に期待が持てて、先輩や同僚と仲よく楽しくやりがいのある職場、といったものだろう。いわゆる日本的「終身雇用制」が崩壊したといわれる今、「安定した雇用機会」がどのようなものかを、きちんと定義するのは難しいが、今の大学生の親の世代を30年ほど前に大学生だった世代と仮定すると、1980年代半ば、いわゆるバブル世代周辺にあたる。
 その時代に、大学生であった人たちは、日本の経済がおおむね好調であったこともあり、大学で適当に遊んでいてもそれなりに大きな会社に正社員として採用されると期待していたし、実際かなりの程度それは実現した。そこで頑張って働けば、だんだんと給料は上がり、地位も上がって住宅ローンも借りて家をもつ生活が当然のように待っている、と思えたであろう。それは結局、学生本人に能力があったからでも、個人として運がよかったのでもなく、大学生自体が今より少なかったからであり、日本の企業の多くが伸びている時代だったからである。そういう時代に大学生活が送れたことは確かに運はよかった。だが、その感覚で現在を眺めてはいけない。
 求人側、つまり新卒者を採用する企業の欲しい人材とは、どのような人間か?昔は、大卒者には将来会社の中核を担う幹部社員、仕事の全体を把握し、職場でリーダーとして信頼され、顧客や取引先ともそつなく交渉できるような社員になれる人材であり、採用ではその可能性・素質を見抜いて時間をかけて育てようという方針があった。そこまでの能力を求めない職種には高卒から採用すれば十分だった。しかし、現在では企業の多くが大卒採用についてそのような考え方をしているとはいえないと思われる。それは採用選考の技術と、企業側の人事事情の両面があると考えるとよい。
 第一の点は、大学生はただ昔より数が増えたのではなく、質の分散、つまりバラつきが大きすぎて、企業側は就活の面接程度では選り分けが難しいと感じ、第一段階の書類(ES)選考でばっさり切って狭い池を作っておいてそこから選ぶ、という手法は以前からもあった。問題はその選考基準に何を使うかである。大学名、学部や専攻の違い、資格などが考えられるが、これは実はあまり決め手にならない。有名大学といってもその学生数が昔よりずっと増えていて、当たり外れも大きい。理系は比較的大学で何を学んだかが問われるが、学部程度ではエンジニアとして使い物にはならない。資格の多くは特定の職種に限定されたものか、英会話みたいな汎用性のあるものに分かれるが、それがその企業に不可欠な資格というのは、研究開発部門の研究職とか医師や弁護士などの独占的資格以外は、入社後に取ればいいので、ほとんどないといってもいい。
 第二の点は、企業側に人を育てる余裕がもうないということである。大学新卒者はほとんど何も知らない素人の上に、社会人・労働者としての自覚も怪しい若者である。それを指導教育し、一人前の企業人にするのは大変である。学校みたいに座学でやっていては間に合わないから、OJTで現場に放り込んで体験学習になる。そんな手間暇かけるより、業界内で経験のある有望な人材を引っこ抜いた方が効率がいい、という方向に傾く。しかし、それができるのは大手の一流企業といわれる会社で、引き抜かれる方はたまらない。せっかく使えそうになった人材を取られるのだから。
 ということで、欲しい人材が来てくれない企業というものがある。というより半分以上の企業は一番欲しがっている将来期待できる有能な学生が取れない。内定がもらえない学生もきついが、内定を出しても逃げられる企業もつらいのである。そこで、昔はあまりやらなかった手法が広まってくる。それは人を育てるのではなく淘汰主義、つまり、辞める人数をあらかじめ組み込んで採用し、仕事に放り込んでびしびし働かせ、いやなら辞めろ、使い物になる人間だけ残すという考えである。ときどき話題になる「ブラック企業」は、違法すれすれの使い捨てで体を壊すほどの労働を強いる場合だが、そこまでいかなくても、新入社員の3割は数年で辞めていくという状況が現在である。昔の大学生なら、就職が決まれば「やった!これで未来は明るい」と思ったかもしれないが、もうそんな時代ではないのである(たぶん)。
 自分が仕事に求めているものと、会社(それも一つの社会だが)が自分に求めているものは、すでに一致していない。だから就活では、自分を殺したり偽ったり「妥協」したりするのは仕方ないだろうか?労働市場という考え方からすれば、求人側と求職側は基本的に対等であって、雇用契約を結ぶかどうかは自分が決めることである。しかし、学生は「ここでダメだったら、もう人生あとがない」と思った瞬間、「御社のために何でもやります!」みたいなせりふを吐いてしまう。

 続きがあるのだが、今日はこのくらいで。
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