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格闘技とミサイルでは勝負にならないが・・

2014-01-08 19:10:08 | 日記
A.武力の行使について
 ぼくは格闘技に類するものは、高校時代に体育の選択で剣道を3年間やったのと、これも高校時代友人に誘われてちょっとだけ少林寺拳法をやったことがあるだけである。剣道は瞬発力の勝負で、相手に打撃を与えるといっても、木刀や真剣でやらない限り、身体のダメージはなくゲームのようなものだと思った。少林寺拳法は、相手の動きを読んで筋肉の逆を押さえる技術で、合気道ほど「気」を重視しないが、決め手は急所を突く制御された暴力の組織化だと思った。生きている人間の身体を、自分の力でどこまで制御できるか、もちろん相手を抹殺するという動機はない。
 ぼくたちが今生きている日本、東京の日常生活で、個人の腕力・暴力がものをいうことはまずない。柔道とか空手とか、格闘技はあくまでスポーツの一種として楽しまれることはあっても、理由はともあれ人を殴ったり蹴ったりして怪我をさせたら傷害罪に問われる。教育や愛情を理由にした体罰も、今は許されないものとして禁止されている。まして棍棒とか刀剣とか銃砲とか、人を殺傷する武器をもっているだけで警察が飛んでくる。現代の社会では暴力はタブーである。しかし、歴史を遡るまでもなく、人間が生きている場所では暴力が発動する可能性は常に潜在している。
 人が自分の力で振るえる暴力など所詮肉体の限界以上のものではないから、武器を持たなければ大したことはないといえばないのだが、それでも人を殺すぐらいの能力はある。しかし、人類が二足歩行を始めたと同時に棍棒を持ち、刀や弓を発明したように、武器の発達は歴史を変えるほどの影響を与えた。現代の戦争は、もう生身の人間が銃をもってはい回るようなものだけではなく、無人機飛行艇やロボットが大活躍するハイテク戦争になっているとともに、肉体の実感をともなわずにいくらでも人を殺せる機械の暴力がものすごい勢いですすんでいる。
 格闘技がたんにゲームとして戦われるのなら、平和で無害な娯楽に過ぎない。でも、実際に武器をもって敵と戦うのは、まったく質の違った活動で、それは面白いとか、勇ましいとかといった次元とはまったく違うことだろう。しかも、機械の前でボタンを押したり、ハイテク兵器でミサイルを飛ばしたりするのは、肉体的な汗と泥の筋肉活動ではないから、人を殺しているという実感はたぶんない。司令部にいて作戦を遂行し、実働部隊に命令するだけの軍幹部は、ロボットを動かしているのと変わらない。戦争とか、軍隊といっても、日本人の大多数は銃をもったこともないから、昔の戦争のイメージで考えてしまうが、おそらく現代の戦争は、戦国時代とも日露戦争とも第2次世界大戦とも、朝鮮戦争やヴェトナム戦争とも、かなり違った戦争なのだろう。
 相互確証破壊の技術が高度化しているとすれば、見えない敵をゲームのように殺せると思っているかもしれないが、それはお互いさまで、こちらもやられるときは一瞬で消えてしまうのか、それともまだ、敵の肉体と見える範囲で格闘するのか、いずれにしても人間的とはいえない。



B.自衛と防衛と日本軍
 とても邪悪で危険な敵が自分を狙っていて、隙を見せれば武器をもって襲ってくる、と思い込んでいる人が、戸締りを厳重にして耳をそばだて、体を鍛え、敵を上回る武器を用意して備えを強化する。そんなことをすればするほど緊張して、これでも不十分だと窓を閉じてノイローゼになっている姿を見て、通り過ぎる第三者はどう感じるだろうか。被害妄想に囚われた可哀想な人だと思うだろう。でも、軍事や戦争にかんする議論は、考えていくとどんどん不安になって、もっと強力な武器をもち、もっと強い兵隊を鍛え、いつでも死んでくれる若者を用意しておかないと、安心できないという論理に占領されてしまう。

「そして、今日安倍政権の誕生である。確かに安倍は保守政権に違いないが、これまでの右翼的保守政権の定義づけだけでは不十分である。私には、安倍政権は、二つの「押しつけ」に同時的に異議申し立てを目論んでいるのではないか、と思われてならない。
 すなわち、短期的には日米同盟路線の強化延長を前提にしながら、その先には憲法改正草案で示したように「国防軍」の創設を意図するのは、対米従属路線の再検討が射程に据えられているのではないか、ということである。戦後日本政治総体の根本的見直しが、いわゆる保守総体の課題となって浮上し、その課題に正面から向き合おうとしているのが安倍政権ではないかと思われる。
 そこで目されているのは、戦後日本が歩んできた従属的保守政治ではなく、自律的保守政治であり、それが帰結するところは名実共に自立国家なのではないか。そうした志向性は、実は既に先の民主党政権下でも表出していた。小沢一郎や鳩山由紀夫らが盛んに主張した在日アメリカ軍の部分撤退や有事駐留論などは、その象徴事例である。そうした言動にアメリカが強いリアクションを起こしたことは、既に周知のとおりである。
 手法こそ異なるとはいえ、安倍政治と小沢・鳩山政治は、「脱米自立」の点で実は結びついているのではないか、とさえ受けとめられよう。現在、そうした安倍政権にアメリカが歴史認識問題などを盾に嫌悪感を隠さないのは、小沢や鳩山と同質のものを確実に感じ取っているからに他ならない。
 私の言う“安倍的状況”とは、一人安倍晋三という政治家を言うだけでなく、戦後長きにわたる保守政治のなかで、本格的な「脱米自立」に向けて舵切りを大胆に推し進めようとする政治状況を示す。
 「国防軍」構想の背景には何が
 昨年(二〇一二年)四月二十七日、自民党は「自民党憲法改正草案」(以下、『草案』と略す)を公表した。「国防軍」創設意図の深層には、既に触れてきた安倍首相に象徴される国家主権の徹底した自立性を確保したいとする国家主義の思想や観念が存在する。確かに、短期的中期的には、日米安保体制の強化を前提とする日米軍事同盟路線を踏襲することは間違いない。しかし、当面はアメリカと強調しつつ、同時に独自の軍事力を構成し、独立国家としての体裁を整えたいとする欲求が存在している。
 自民党が結党以来、一貫して追求してきた自主憲法制定の動きには、要するに現行憲法がアメリカに一方的に「押しつけられた憲法」であり、日本の歴史には必ずしも相応しくない、とする観念が透けて見える。アメリカと強調しつつも、そのアメリカに「押しつけられた憲法」を放棄し、自らの手で自主憲法を制定することが真の独立国家へと脱皮するものとする思い込みがある。
 かつては自衛隊を「自衛軍」に、そして今回はさらに踏み込んで事実上の“日本軍”創設を打ち出してきた背景には、そうした観念に囚われた、私の言う〈新アジア・モンロー派〉が自民党の内外で勢いを増しているということがあると言える。
 こうした政府及び自民党の動きに、当のアメリカは特に国務省を中心にして警戒感を隠していない。自衛隊が文字通り、アメリカ軍を補完する役割を、引き続き「国防軍」が担うのかについて、その創設意図からして疑問視しているのである。その点を憂慮する一群も自民党内外に存在する。これら党内外の鬩ぎ合いは水面下では続いていると考えられる。従って、安倍政権が参議院で圧勝したからといって、一気呵成に憲法改正による「国防軍」創設とまでは行きづらい。
 そこで、当面は外堀を埋めていく方向を辿ることになろう。先ず、その従来から議論されてきた集団的自衛権の踏み込みであり、もうひとつは現在臨時国会で審議され、成立が迫っている「特定秘密保護法」の制定である。」纐纈厚「強面の国家で日本は生き残れるのか」(『現代思想』2013.12月号、青土社、pp.178-179.

 この議論には、ちょっとぼくにはよくわからないものがある。
前提はたぶん、こんなことなのだろうか。まず、戦後の東アジア情勢は、東西冷戦構造の上にあった。ソ連や中国は隙あらば日本に攻めかかろうと考えており、西側の盟主であるアメリカがこれと対峙していたから、「日本」が生き残るためには、アメリカの軍事力の笠の中で日米安保の同盟関係を頼りにして、みずからは軽武装で商人国家を追求する。これで成功したから、ま、こんな感じで大丈夫だろうと思っていた。なまじ日本が自前の軍事力をもてば、かえって戦争の危険が強まるし、保守も革新もそれで経済大国でうまくやっていたし、国民の大多数は軍備増強を望んでいなかった。しかし、東側が崩壊して冷戦が終わった。共産主義の脅威が復活する可能性は消えた。
  それならさらに日本が武装化する必要はない、という方向には行かず、かえって「日本」の保守派はとても不安になった。もしかするとアメリカが日本との同盟を必要だとは思わなくなり、むしろ中国と手を組むかもしれない。このままでは、米軍は東アジアの駐留を負担と感じ、徐々に手を引くかもしれない。そうなれば、野蛮な軍事国家北朝鮮は勢いづき、躍進する中国は軍事力を増強してじわじわと日本の領土をうかがってくる。もうのんびりアメリカがいつでも助けてくれるなんてあてにできない。そこで、自民党も民主党も「脱米自立」を考える必要があると考えはじめた。というわけか。
その先には、当然のように自衛隊の増強、そしてこれまでの専守防衛という「自衛」概念をやめて、積極的にどこでも軍事行動ができる「日本軍」に衣替えしなければならない、というアイデアにとりつかれる。そのために、当面面倒な憲法改正をやっている暇はないから、てっとり早く支持率の高い安倍政権のうちに、実質的な軍事国家にしてしまおう。 このところの安倍政権をみていると、どうもそういうことを考えているとしか思えない。そして、武器輸出の解禁、非核三原則の空洞化、文民統制のなしくずしの破壊、特定秘密保護法、集団的自衛権への跳躍と着々と手をうってくる。それは、まるでアメリカという恋人にいつ袖にされるかわからない神経症的なストーカーみたいな事態。 
 でもぼくが、ちょっとわからないのは、安倍晋三ってそんなに事態をよくわかって、彼らにとっての最善の手を打っているんだろうか?小沢一郎や鳩山由紀夫はもう失敗してしまったが、かれらもそこまでの明確な世界戦略を展望していたんだろうか?あんまりよくわかってなかったんじゃないか。たとえばアメリカが何を考えているのか、中国が何を考えているのか、読み間違えていたんじゃないか?だって、いくらじたばたしても日本の首相が「対米従属」以外の選択肢をもったことなんかないわけで、だから日本軍をもてば・・というのは本末転倒じゃないだろうか。
  国内向けの政策はヴェテラン政治家であればよく知恵を絞ったかもしれないが、軍事・外交についてはよくわかってないから、妄想的な軍事専門家や、冷戦時代の思考を引きずったアナクロ右翼の言説を真に受けてしまったのではないか、という疑問を払しょくできない。ただそこはぼくにも今のところよくわからない。ただもし、安倍政権がそういうあやしい前提で、「新しい自民党」路線を突っ走ったら、アメリカにも中国にも「なにを馬鹿なことやってんだ」と捨てられないとはいえない。

「私は日本が侵略される可能衛は、限りなく零だと判断する。だが、集団的自衛権を発揮する前提で構築される軍事力が、北岡学長(北岡伸一国際大学長:引用者註)の言うように巨大な軍備が不要となるかもはなはだ疑問である。場合によっては、アメリカの肩代わりをして一定の軍事作戦を担うとなれば、むしろ軍備拡大は回避不可能となろう。
 逆に言えば、これまで個別的自衛権を前提に専守防衛の立場を貫いてきた最大の理由としての軍備拡大の可能性の排除という点をリセットすることに、集団的自衛権容認論の本当の理由があろう。北岡学長は、その専守防衛自体についても、その定義づけの見直しを口にしており、「専守防衛は、殴られるまでは絶対に反撃しない、ということではない」と言う。事実上、従来の定義を大きく逸脱し、真逆の方向性を示す。
 これらを整理すると、明らかに、構想されている集団的自衛権は日本の国外において集団的自衛を口実にして軍事発動を可能とさせるものだ。言うまでもなく、憲法九条で明確にされている「戦争放棄」の原則を正面から否定するものであり、事実上の改憲である。
 それで安倍首相は集団的自衛権の具体的事例として公海上で攻撃を受けた米艦船の防衛、米国に向かうかもしれない弾道ミサイルの迎撃、国連平和維持活動などでの他国部隊に対する「駆けつけ警備」、戦闘地域での輸送、医療後方支援の拡大など四類型を挙げているが、実際上、アメリカとの軍事共同作戦となれば軍事常識からして、この四類型に限られないはずである。つまり集団的自衛という名の共同軍事行動となれば、歯止めは日本側の都合だけでかけられないということである。
 そうした危うさがあるからこそ、歴代の内閣は、「わが国の防衛のための必要最小限の範囲を越える」とする見解を保持してきたのである。しかし、安倍首相は、そうした見解を明快に語ってきた内閣法制局長官に集団的自衛権容認の小松一郎フランス大使を抜擢するという、余りにも露骨な人事を周囲の反対を押し切る形で強行した。
なぜ、かくも安倍首相は急いでいるのだろうか。アメリカが既に日米同盟よりも、“米中同盟”により強いシンパシーを抱いていることは取りあえず横に置くとしても、今回の動きの背後にはもうひとつ、近年益々力を得ている自衛隊制服組の動きも看過できない。」纐纈厚「同書」pp.179-180.

 政治というのは、賢明な指導者が、複雑な情勢を見極めて適切な選択をしている、などと思った途端、愚かな方向に進んでしまうものだ、ということは20世紀の歴史を見れば明らかで、ただの人間である政治家がそんな超能力をもっているはずがないと考えた方がイイ。「保守」というのは、愚かな人間が愚かなままでも、伝統や歴史を深く学んで、無暗な冒険ではなく冷静な選択を足元を固めながら進んでいく、ことが望ましいという思想だと思う。しかし、今の日本をみると、どうも「保守」は死んでいる。
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