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 水墨の美 11 道釈画って何?  アメリカ人の孤独で無縁な現在?

2024-09-22 23:30:29 | 日記
A.黙庵「四睡図」
 日本の画僧、雪舟等楊が念願の中国に渡ったのは1467(応仁元)年、47歳だった。足利義政が第1回の遣明船を送ったのは1451(宝徳3)年、雪舟はまだ京都の相国寺にいて32歳の修業中だった。守護大名大内氏に誘われて山口に行って、水墨画家として名が出始めた頃、第二回遣明船が出るものの遭難して失敗。やっと第3回遣明船に乗れて、明の寧波に着いた。北京まで行って二年あまり滞在し帰国した。ずっと後年の回想に、水墨の本場中国へ行ったけれど、すごい画家はもういなかった、日本で学んだ先生の周文や如拙先生の方がすごかった、のようなことを書いている。
 中国の水墨画が次々傑作を生み出した時代は、宋から元までの11世紀から14世紀半ばまでで、雪舟が行った明では水墨画は衰弱していた。明菴栄西が天台宗を去り、南宋に渡ったのは1168(仁安3)年でまだ清盛の平家が栄えていた頃で、27歳。道元が南宋に渡ったのは1223(承応2)年、北条泰時が執権になる承久の乱の後で23歳。4年いて曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いで帰国。鎌倉時代初期のことである。京都と鎌倉に五山ができて、日本の禅僧が、中国に憧れて南宋や元に次々留学した時代があった。それは足利幕府ができた南北朝時代から、金閣の義満北山文化の時代に重なる。雪舟はさらに50年以上遅れて中国に行くことになった。ただ、日本の水墨画がいわゆる山水画の極致に達するには、そのくらいの時間が必要だった。
 水墨で描く絵には、道釈(どうしゃく)画、頂相(ちんそう)画、そして風景画としての山水画があって、本場中国から渡ってきた牧谿などをお手本に、学習していった画僧には山水画こそ禅の境地を示す神業の腕をふるうジャンルになった。ただ、雪舟よりずっと前に元に渡った黙庵という天才もいたのである。かれは日本にいつかは帰るつもりだったかもしれないが、ついに彼の地で亡くなったという。

「雪舟の《破墨山水図》に続くこの章は、時代順の流れを無視して、雪舟が生まれる百年ほど前に中国へ渡った禅僧・黙庵の《四睡図》である。
 黙庵は、鎌倉幕府が滅亡する十年ほど前に、元の時代の中国に渡った。禅の修行のためである。日本に帰る気はあったらしいが、結局日本には帰って来ないで、1345年頃中国で死んだそうだ。明の時代の中国へ行って、「中国にはロクな先生がいなかった」と言った雪舟は“日本的な水墨画の大成者”だが、果たして雪舟に否定された当時の中国人達がその雪舟をどう見ていたかということになったら、きっと、「雪舟?誰(フー)?」だろう。しかし雪舟以前に中国へ渡って中国で死んだ黙庵は、その地で大変高い評価を得ていた。中国では、有名な水墨画家でもある牧谿の「再来」とまで言われて、ある時期までの日本人は、黙庵を中国人だと思っていたのだという。
 その黙庵の絵である
 とんでもなくうまい。水墨画にありがちな“臭み”というものが、この人の絵の中には、まったくない。あきれるのは、この人の絵が“可愛い”ということである。この《四睡図》の中には虎がいる。真ん中の坊主頭のジーさんは、この虎の頭に肘をついている。そのジーさんの後ろにもう一人、オカッパ頭の人間がいる。こいつも虎にもたれかかっていて、しかしこの虎は、そういう人間達の存在を意に介さず、知らん顔をして寝ている。このマツゲの生えた虎が、なんとも可愛い。そのまんまぬいぐるみにしてもいいようなキュートさである。日本の美術史で、「可愛い」だの「キューt」だのという言葉に出合うことなんかまずないだろうが、この虎は可愛いのである。
 水墨画と言えば「禅宗美術」という言葉も帰ってくるように“難解なもの”である。“とっつきにくいもの”でもある。その中で“可愛くキュート”なのである。とんでもない絵を描くとんでもない画家が、この黙庵と言う禅宗の坊主なのである。
 水墨画を描く人たちを大きく分けると、「職業的画人」と「文人」と「禅余画人」の三つになる。室町時代の日本の話というよりも、それ以前の本場中国の話だと思ってもらいたい。
 職業的画人というのは、現代のいわゆる「画家」で、「絵を描く職人」である。「画僧」もこの中に入る。文人とは、官僚のことである。水墨画の全盛時代だった中国の宋は、官僚制の発達した「官僚貴族の時代」でもあった。中国の官僚は、伝統的な官吏登用試験であるムズカシイ「科挙」をパスしなければならないが、科挙の試験科目は、いい漢詩を作れるかどうかぐらいなのだから、官僚貴族は「文の人」なのである。「文の人」というのは、もちろん「武の人」に対応するもので、日本では、鎌倉・室町以来、政治の実権を握る官僚貴族は、「武の人=武士」である。ということはつまり、日本には「文人」であるような官僚がいないということで、日本の「文人」は、江戸時代の町人がなるようなものであり、刀を捨てて趣味に生きる武士のことになる。江戸時代の文人画の正体不明さは、この文人の曖昧さから来ているのだろうが、宋・元・明のの中国には、ちゃんと文人であるような官僚貴族がいた。こういう人達が、精神性を高める“趣味”として描いたのが水墨画なのである。
 職業的画人は、「絵に生活のかかっているプロ」で、文人は「生活の心配をしないでアマチュア画家」であり、もう一つの「禅余画人」は、文字通り「禅僧が余技で画人になっている」のである。
 禅余画人は禅僧なんだから、もちろんアマチュアである。官僚である文人は「在俗の人」だが、禅僧である禅余画人は、「出家者」だ。職業的画人と文人・禅余画人の間には、「プロとアマ」の境があって、同じアマチュアである禅余画人と文人との間には、「宗教と非宗教」の境があるのだが、しかし、「水墨画における“宗教と非宗教の差”ってなに?」ということだってあるだろう。禅余画人と文人という、水墨画における「宗教・非宗教の差」は、“描く題材の差”にあるのである。
 非宗教の文人は自由で、何を描いてもいい。風景を描く山水画を描いてもいいし、花や鳥の絵を描く花鳥画を描いてもいいし、花や鳥の絵を描く花鳥画を描いてもいい。色を使わない水墨画を描いてもいいし、色のある着彩画を描いてもいい。ところが、禅という宗教世界の中にいる禅余画人の方は違う。絵だって「禅の修行の一環」として位置づけられるから、この人達にとって、直接的な禅の修行から離れた山水画や花鳥画を描くことは、“享楽的なこと”になる。つまり、この人達には、「直接的な禅の修行に結びつく描くべき題材」がちゃんとあったということなのだ。「道釈画」といわれる絵のジャンルがそれで、禅僧である禅余画人は、同じ水墨画でも、山水画や花鳥画は描かずに、もっぱら「道釈の人物画」を描く――それが本来だったのである。 
 「道釈画」というのは、「道を釈(と)く画」ではない。「道釈画」あるいは「道釈人物画」の“道”は道教、“釈”は“釈迦”で「禅の思想に関わってくる道教系の仙人と仏教系の人物」を描くのが、禅余画人の本道だった。だから、ここに登場した禅余画人・黙庵の描いた《四睡図》も、れっきとした道釈画なのである。
 禅余画人と文人の間には「宗教・非宗教」の境があって、文人はまず道釈画を描かなかった。別に禅のお勉強をする必要がない文人に、そういうものを描く必要はないのである。しかし、道釈画だけを描いていればいいはずの禅余画人の多くは、山水画も描く。やっぱり“お勉強”だけじゃつまらないからだろう――中国にはそういう区別があった。
 画僧であった雪舟は、僧籍にあるのだから“文人”ではない。頼まれれば道釈画も描くけれども、やっぱり山水画に本領を発揮した雪舟は、プロの“職業的画人”だった。だからどうなのかと言えば、雪舟は「すぐれた風景画家」なのである。たまたま「水墨画」というジャンルの中にいたから、あまり“色”というものを使わなかったけれども、雪舟は「すぐれた風景画家」というジャンルの中にいたから、あまり“色”というものを使わなかったけれども、雪舟は「すぐれた風景画家」でいいのである。ところがこの雪舟が、「禅宗文化の室町時代を代表する水墨画家」になると、、話が突然ムズカシクなる。「難解な禅の思想を発見しなくちゃいけないのではないか」とか。ところが山水画というものは、“お勉強”の道釈画と比べてしまえば、エンターテインメントなのである。すぐれた風景画の中に深い精神性が発見できるのは当然だが、しかし「水墨画」というジャンルの中に“哲学”を発見して、「きっとここにはなんかある……」と考え込むのはへんじゃないかというのである。
 日本では、あまり道釈画を分けて考えない。だからどうなのかというと、へんに俗っぽい“お勉強”ばかりが氾濫して、「いい絵を見てただ“いいなァ”と言う」の、一番の根本がどっかに行ってしまうのだ。それじゃ困るというので、この章は「道釈画のお勉強をしましょう」になるのである――。
 なぜ禅宗で「道釈画」は大切か?禅宗で一番大切なのは、自分を悟りに導いてくれる“先生”で、だから禅宗では、「頂相」という師僧の肖像画が重視された。その先生の教えること、その先生の存在が暗示するようなことを学ぶ、我が物とする、それが禅の中心にあるようなことを学ぶ、我が物とする、それが禅の中心にあるようなことだから、禅宗では「尊敬すべき人の肖像画」が発達して、それ以前の仏教では「尊敬すべき人の肖像画」が発達して、それ以前の仏教で大きな位置を占めていた仏の絵――「仏画」の比重が少なくなる。「仏画」が少なくなるかわりに登場してくるのが、「仏教系の仙人」や「仏教系の人物(僧侶)」を描く道釈画なのだ。道釈画に描かれる人物達も、修行する禅僧達になにかを暗示してくれる重要な“師”なのだから、頂相が重い比重を占める禅宗の中で、この道釈画も重い比重を占める。そしてそうなってくると、当然のことながら、「道釈画に描かれる、“禅の思想にかかわってくる道教系の仙人と仏教系の人物”というのはなんなんだ?」という疑問も生まれるのである。
 一体それは“どんな人物か”「仏教系の人物」なら「僧侶」と決まっているのに、どうしてこの私は「仏様ではない仏教系の人物」などというややこしい言い方をするのか?もちろんそれには理由がある。そして、中国の土俗的な民間信仰に由来する道教と仏教が、どうして禅宗の中では、平然と一つになっているのか?--―そういう疑問だってあるのである。
 道釈画の「仏教系の人物」として最も有名で代表的な人物は、「ダルマさん」である。もう一人は、七福神の一人としても有名な、お腹の出た「ホテイさん」である。この“さん”づけで呼ばれてしまう二人は、なんだか人間離れがしている。かと言って、神様仏様の類ともちょっと違う。この二人が実在した仏教の僧侶だったということになると、「へー」と言ってしまう人間はいくらでもいるだろうが、この二人は実在の仏教僧なのである。実在の仏教僧が“不思議に人間離れのしたもの”になってしまったのは、彼らが道釈画の対象になったことが大きくて、道釈画というのは、実は、そういうものなのである。
 達磨は、インドから中国に渡って来た僧侶で、中国の禅宗の祖とされる。布袋は、その後の中国に実在した禅僧である。雪舟の描いた道釈画である《慧可断臂図》は、座禅をする達磨のところへ弟子入りをしに行った慧可が、達磨に断られ、「私も先生と同じになる覚悟はあります」とばかり、座禅を続けて手足と同じになる覚悟はあります」とばかり、座禅を続けて手足をなくしてしまった達磨のように、進んで自分の腕を切るところである。そこまで突っ込まれてしまえば“宗教画”だが、「ダルマさん」とか「ホテイさん」とか呼ばれてしまうこの仏教系の人物達は、田舎の古道具屋でおなじみの、古ぼけたジジー趣味の必須アイテムでもある。《四睡図》を描いた黙庵も、今から650年以上も前に《布袋図》を描いているのだが、この段階で、すでに布袋は、「愛嬌のある腹の出たジーさん」なのである。
 中国の禅宗の道釈画から出た達磨や布袋は、やがて「ダルマさん」や「ホテイさん」になって、こういうものは、今でも日本各地の古道具屋にゴロゴロしているのかと言えば、「昔の日本人はそのようにお勉強好きで、ホテイさんやダルマさんは、そのように身近な“人生の師”だった」ということなのである。布袋や達磨の絵や置物は、田舎のジーさんの“人生の師”だったから、素直に可愛くなくて、へんな臭みがあるのである。信楽焼のタヌキにへんな臭みがあるのである。信楽焼のタヌキにへんな臭みがあるのも、きっとホテイさんやダルマさんの影響だろうと、私は思う。
 道釈画のもう一面である「道教の仙人」は、今の日本ではちょっとなじみが薄くなってしまったけれども、ここには蝦蟇仙人というのがいる。「ガマの妖術」を使うのである。「禅の修行とガマの妖術はなんの関係があるんだ?」と言われても、ちゃんと道釈画の対象になっているんだからしょうがない。鎌倉時代の終りから室町時代にかけて、蝦蟇仙人の絵も中国から日本にやって来て、お勉強が好きだった昔の日本人は、やっぱり“超能力”の類も好きだったんだろう。やがてこの蝦蟇仙人は、江戸の歌舞伎や物語の名kで、日本の忍術使いの元祖である天竺徳兵衛や児雷也達に「ガマの妖術」を教えることになる。児雷也の方は、「目玉の松ちゃん」と呼ばれた初期のチャンバラ映画のスター尾上松之助によって、子どもたちの憧れのヒーローになってしまった。つまり道釈画というのは、そういうものにもなってしまうものなのである。要約してしまえば、道釈画とは、ホテイとダルマとガマ仙人なのである。なんともへんな取り合わせだが、しかしそう並べてしまうと、そこに見えてくるなにかはある。それはつまり、「禅宗のお勉強である道釈画は“へんなもの”で、そういうものが“お勉強”になる禅の修行だって、もしかしたら、かなりへんなものかもしれない」ということである。
《四睡図》が道釈画であるというのは、ここに描かれる人物達が道釈画の対象で、彼らが眠る「四睡」というのもまた、道釈画の画題となるものだからである。「四睡」―-則ち「四つの眠り」である。ここでは、三人の仏教系人物と虎が寝ているから、「四睡」である。ここでは、三人の仏教系人物と虎が寝ているから、「四睡」である。三人とは「寒山&拾得」という二人のコンビに「豊干禅師(ぶかんぜんじ)」という禅僧で、それと豊干禅師がいつも連れている「虎」が加わって、「四つの眠り」になる。「寒山&拾得」は、この絵の左右の端にいるオカッパ頭の二人、「豊干禅師」は、真ん中にいるホテイさんみたいに腹の出た坊主である。
 寒山と拾得は、唐の終り頃にいたという隠者である。「山の奥で二人の子どもが遊んでいるのを見て、“へんだな”と思ってよく見たらジジーだった」という話を、私はなんかの本で読んだ気もするのだが、寒山と拾得は、そういう“子供ジジー”なのである。寒山は天台山の近くの岩屋に住んでいて、拾得は天台山の国清寺という寺の行者だったという。なんだか仙人ぽいところもあるのだが、この二人は“道教系”ではない。」橋本治『ひらがな日本美術史2』新潮社、1997年。pp.174-180.

 布袋も達磨も寒山拾得も、仏教に何となく関係がある人物だとしても、仏や聖性とは正反対の子どものように笑って寝ているジジーであって、それを水墨で絵にすると虎まで可愛く笑っているのである。


B.アメリカの孤独と分断
 アメリカ大統領選挙が、トランプ対ハリスという正反対のイメージが、国民と世論の分断を鮮明にさせ、銃撃事件まで出てどっちにころぶか、日本でも注目の選挙だが、これに比べると、自民党と立憲民主党の党首を選ぶ選挙の、ぶざまなほど空虚な言葉だけが飛び交う虚しさは、効果的な民主主義を意味のある対立と選択にするなんの選択肢にもならない。選挙権すらない党首選で決まった候補が、ほぼ間違いなく、この国の総理大臣になるのだから。そして誰がなっても、日本をここまでダメにした張本人が、ただおのれの権力を維持したいだけで騒いでいるのだから・・・。このような永田町の世界と、関わりたくないけど、アメリカ人はそんなに孤独で淋しいのか。ニューヨークタイムスからのコラム抜粋。

「蔓延する孤独と分断 友をつくる、という治療法  デイビッド・フレンチ 
 米国内の分断を解消し、苦境にあえぐ隣人が社会的にも経済的にも活性化できるようにするために、あなたができる最も重要なことは何だろうか。
 それは、正しい候補者に投票することでも、価値ある大義のために注目を集めようと何か積極的な活動に関わることでもない。むしろ、もっと単純でありながら、同時に遥かに難しいことである。
 新しい友人をつくることだ。
 現代の米国の物語は、特に大学に行かなかった労働者階級の米国人にとっては、つながりの希薄化、友人関係の減少、そして帰属意識の喪失の物語である。孤立感は人を惨めな気持ちにさせ、惨めさが蔓延すると私たちの経済や文化にも影響を及ぼす。
 先月、アメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)は2024年の米国ソーシャル・キャピタル調査を発表した。明らかになったのは、厳しい社会の分断である。高卒以下の人たちは、大学以上の学位をもつ人たちよりも、公共の場や趣味のグループで過ごす時間、地域のグループやスポーツリーグで過ごす時間が少ないのだ。また、高卒者は友人や家族、近所の人を自宅に招くことが少ない傾向にある。共有する場や共通の体験がないということは、孤立状態が際限なく続く可能性があることを意味する。
 友人関係の数字もまた深刻だ。あらゆる層の米国人が、友人の数が減っていると答えているが、高卒者の間で最も減少が顕著である。親しい友人が一人もいないと答えた割合は、1990年から2024年の間に3%から24%へと、悲痛なまでに上昇していた。
 友人関係の消失は深刻な結果をもたらす。AEIの報告書によると、医者に行く際に車で送ってくれたり、泊る場所を提供してくれたりする頼れる人がいる米国人の割合には、階級による格差がある。友人や親戚といった非公式な社会のセーフティネットをもっとも失いやすい米国人は、それを最も必要としてる人たちなのかもしれない。
 私たちはこのことを深く気にかけるべきだ。何百万人もの米国市民が、まるで自分の居場所がないかのように、誰にも助けを求められないかのように感じ、あるいは親しい友人と交流する純粋な喜びを知らないのだと考えると、私たちの誰もが悲しく思うはずだ。その思いは私たちの行動を変えるはずだ。より意図的に人々に手を差し伸べ、自分たちの住む地域やコミュニティーで行動を起こそうという気持ちを呼び起こすはずだ。
 孤立の先には、米国の思想家ヘンリー・ソローがその時代に観察したような静かな絶望があると考える人もいるかもしれないが、多くの人にとって孤立は、権威主義に引き寄せられるといった攻撃的な反応を引き起こす。マイケル・ベンダー氏は21年のワシントン・ポスト紙のエッセーで、「最前列のジョーたち」と呼ばれるドナルド・トランプ氏の最も忠実な熱狂支持者たちに同行した経験を書いている。彼らは最愛の政治家を応援するために、全米で開かれる集会を渡り歩いていた。
 トランプ氏を追いかけることで「彼らの人生はより豊かになった」とベンダー氏は書いている。彼らが来たのはトランプ氏のためであったが、そこにとどまったのは人間関係のためだった。「(トランプ氏の集会は)『ジョー』たちにお互いの家に泊まったり、ホテルの部屋をシェアしたり、車に同乗したりしながら国中を旅する理由を与えた。トランプ氏の在職2年目までに2人が結婚した(後に離婚した)」と。
 トランプ熱がなぜ冷めないのかを不思議に思うなら、この運動が政治をどの程度まで超越しているかを考えてみるといい。「彼らはトランプ氏のなかに、闘争への限りない渇望を持つ人物を見出したことで、政治だけでなく人間関係や職場においても、自分のために声を上げる勇気を得た」とベンダー氏は指摘する。
 私は米国の不安や二極化、恐れについて書くようになって以来、国の現状を憂慮する人や、個人的な知り合いを心配する人たちから、膨大な量の連絡をもらうようになった。
 彼らはよく私に手助けを求めてくる。選挙に関する陰謀論に対処するため、私が読んだ最高のフェクト・チェックを尋ねてくることもあれば、友人の考えを変えるために本人に渡せる良い本はないかと聞かれることもある。私は彼らの質問に、私から質問する形で答えるようになった。「あなたはどのくらいの時間をその人たちと一緒に過ごしていますか」と。
 何百万人もの米国人が孤独の中にいる。悲しみや怒り、行き詰まりを感じている。地域社会から疎外され、苦境に憤り、自分たちの生活を改善する選択肢はあまりないと感じている。しかし、友人との交流はそうした問題の一つ一つを解決する助けとなり得る。仲間がいれば喜びが生まれる。つながりは機会をもたらす。人と絆を結び、居場所を提供することほど、崇高で素晴らしい使命はないのではないか。 (NYタイムズ、9月1日電子版 抄訳)」朝日新聞2024年9月18日朝刊、13面オピニオン欄「コラムニストの眼」
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