gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

男優列伝1 山崎努さん

2017-02-09 23:23:18 | 日記
A.男優列伝その1 
 これを書くにあたって、方針を立てたい。芸能・エンタメに関する日本の大衆の関心は広く高く、さまざまな情報がネット上に硬軟虚実とりまぜて溢れている。ブログでも有名芸能人のゴシップ・噂の類や、下世話の興味に合わせた気ままなコメントが踊っている。それは業界関係から宣伝や話題作りを狙って意図的に出されているものもあるだろうと思う。いわゆる従来は芸能週刊誌やTVの芸能情報がもっぱら、この分野の大衆メディアだったが、いまは紙媒体が衰弱しているから、ネットの方が量も多いだろうが、ばらつきも大きい。
 ぼくは基本的に芸能タレントの話題にはまったく興味が無いので、ジャニーズ系がどうなるとがAKBがどうしたとか、お笑い芸人が何を言ったかなどということに触れる気はないし、そんな時間もない。ただ、ここでとりあげようとする俳優は、いちおう日本で長く演劇・映画・テレビ等で活躍し、世間に知られている人だから、ひととおりの経歴などは確認する。しかし、私的な裏話や些末な事実をあげつらう芸能評論的なことをやるつもりは全然ない。ここで意図しているのは、その俳優が演じたいくつかの作品の中の人間像をどう見るか、ということから作品のなかでは一人の素材であり部分要素にすぎない俳優という存在が、監督や脚本の意図を噛み砕きそれを身体で実現するだけでなく、ほかの誰にもできないようなやり方で、特異な表現にして見せたことを確かめてみたいだけだ。うまくいくかどうか、やってみないとわからないが、まずは第1回である。

第一回前編:*山崎努 映画における「怪しさ」の権化・・「天国と地獄」「マルサの女」
 日本で演技者・俳優の専門養成機関として知られるのは、西洋の近代演劇をモデルに始まった「新劇」の老舗劇団「文学座」「俳優座」「民芸」(いわゆる新劇御三家)に属する養成所が有名である。伝統演劇である歌舞伎と能狂言の役者は、江戸時代から世襲的に継承されてきたもので、いわゆる現代劇の演技とは距離がある。20世紀はじめに映画が作られるようになって、はじめは歌舞伎出身の役者を使っていたが、やがて昭和の初めに映画会社が独自に男優や女優を養成しようとしたが、現代劇の演技はやはり新劇出身の俳優に長があり、映画は彼らの活躍場所になった。しかし、新劇俳優たちは、あくまで舞台を本拠と考えていた。
 第二次世界大戦後の1950~60年代の日本映画全盛期に、映画で活躍した俳優たちの多くは、現代劇は新劇俳優と映画会社が売り出す新人スター俳優。そして時代劇はおもに歌舞伎や新派や新国劇のような中間的商業演劇出身者で占められるようになった。そのような事情で、この男優列伝でも、どうしても新劇出身者の割合は多くなる。もちろん舞台での演技と、映画での演技の質と方法はずいぶん違う。なにより舞台での演劇は、観客を前にして始まったら終わりまで台本の流れに沿って演技を続けなければならない。しかし、映画はシーンごとにバラバラに撮影し、ツギハギの場面をあとで映像で編集してしまう。俳優の能力と技術は、それを前提に組み立てられる。
 山崎努さんの経歴は、以下のようなものだが、出典はおもにWikipediaなので、あるいは細部で誤りがあるかもしれない。しかしそれを確認する暇はない。
山﨑 努(やまざき つとむ、1936年(昭和11年)12月2日 - )は、日本の俳優・ナレーター。千葉県東葛飾郡松戸町(現:松戸市)出身。東京都立上野高等学校卒業。妻は元宝塚歌劇団星組出身の黛ひかる。娘は山崎直子。
  俳優座養成所を経て、1959年に文学座に入団。1963年、劇団雲結成に参加し、1975年の劇団雲分裂を機にフリーになる。1960年、岡本喜八監督作品の『大学の山賊たち』で映画デビュー。1963年、黒澤明監督作品の『天国と地獄』で誘拐犯・竹内銀次郎役を演じ、一躍注目を浴びる。この年、前年のNHKドラマ『アラスカ物語』での共演がきっかけで交際していた元・宝塚歌劇団星組の黛ひかると結婚。結婚の際、仲人を務めたのは交際のきっかけとなった『アラスカ物語』の脚本を担当した石原慎太郎だった。
1965年、『赤ひげ』で佐八役を演じて以降、活躍の場を広げる。1973年、『必殺仕置人』の念仏の鉄役に起用される。本役は中村主水(演:藤田まこと)・棺桶の錠(演:沖雅也)と並び、シリーズ屈指の人気キャラクターとなり、続編である『新・必殺仕置人』にも出演した(「同じ役は二度と演じない」という本人のポリシーに対し、スタッフが必死に説得しての再登板となった)。1977年、『八つ墓村』では、青白く無表情で日本刀と猟銃を手に次々と村人を殺害していく殺人鬼・多治見要蔵役を演じ、強烈な印象を残し、作品も大ヒットとなった(繰り返し宣伝された「祟りじゃ〜っ」のセリフは流行語となった)。
1984年の『お葬式』以降、伊丹十三監督作品には連続起用された。2000年、紫綬褒章受章。同年に緒形拳も受章している。2007年、秋の叙勲で旭日小綬章を受章。
CM出演では、豊川悦司と共演した「サッポロ黒ラベル」、日本長期信用銀行(現・新生銀行、特別広報部長として出演)や、約12年に渡ってイメージキャラクターを務めたトヨタ・クレスタが有名である。ちなみにクレスタは、実際に山﨑が愛車として使用していた。
1985年7月、自身でプロデュースした舞台『ピサロ』(PARCO劇場)に渡辺謙を起用。渡辺とはこの年、映画『タンポポ』でも共演しており、渡辺は以来、山崎を師と仰いでいる。
 著書としては以下のものがある。
*俳優のノート(メディアファクトリー、2000年3月)
* 俳優のノート 凄烈な役作りの記録(文春文庫、2003年8月)
* 俳優のノート〈新装版〉(文春文庫、2013年10月)
* 柔らかな犀の角 flabby rhinoceros horn 山崎努の読書日記(文藝春秋、2012)
* 柔らかな犀の角(文春文庫、2014年11月)

 後編でとりあげたいのは以下の映画作品である。天国と地獄(1963年)、赤ひげ (1965年)、お葬式(1984年)、タンポポ(1985年)、マルサの女(1987年)、おくりびと Departures(2008年、松竹)。



B.アートと社会〔美術編〕第2回 「かたち」について  Form: 線と図形

1.「分析」ということ ・・視覚アートの構成要素
 まず目で見てあじわう視覚アート(絵画・彫刻など)を「分析」する、とはどうすればいいか、を考えてみましょう。額縁の中の絵を眺めたとき、ぼくたちは何を見ているのか?「分析」という作業は、対象を「要素に分解する」、そしてその要素に注目して「色がきれいだ」とか「これはイヌの絵だ」とか「これは水彩画だ」「タッチが荒い」とか言うわけです。同じ絵を見ても、どこに注目するかは人によって違います。画像について基本的な要素は、ここではとりあえず「かたち」と「色」と「光」、そしてそれが示している内容という4つだと考えておきます。この順番に考えていきましょう。まず、「かたち」です。

2.白い紙の上に一本の線を引けば「かたち」が現れます。
 たとえば、○を描けばこれは「まる」、三角や台形は直線で描けます。曲線を使うと変化が出ます。
    
これは一次元の平面図形ですね。では四角を描いてみます。四角だと正方形とか長方形になります。まだこれは平面図形ですね。でもちょっと線を足してみると別の形にもなります。

 「美しい形」があるとすればどんなものでしょうか。ひとつはギリシャの数学者ユークリッドが「外中比」と呼んだもので、19世紀以降にはgolden ratio「黄金比」とか「黄金律」と呼ばれるもので、幾何の命題のひとつです。外中比は正五角形の「辺長と対角線の比」となることを示しています。数式で書くと  となります。近似値は1 : 1.618、約5 : 8です。
 またそれは、線分を a, b の長さで 2 つに分割するときに、a : b = b : (a + b) が成り立つように分割したときの比 a : b のことであり、これが最も美しい比とされます。なぜこれが美しいのか?1:1とか1:1.5とか切りのよい比率ではなく、ルート5とか1.618とかいうビミョウな数になるのはどうしてでしょう。これはたぶん、正五角形の対角線が示す「かたち」が完璧に秩序立っていて、しかも展開可能な変化を含んでいるからです。世界にあるさまざまな「かたち」を縮約していくと、円と三角と四角、それを立体化すると球と三角錐と円柱になるわけですが、これでできている世界に変化を与えて「美的秩序」にするのはこの黄金比のような数学的・幾何学的バランスだと考えたのです。

黄金長方形 
もともと古代ギリシャでは正五角形は自己再生の象徴として知られていました。それが中世になると正五角形の中の星型は神秘化されて、魔術の「守護神の象徴」になり、その五角星を36°傾けると「悪魔の印=デビルスター」になります。また、日本でも陰陽師 安倍晴明の紋(晴明紋)となっています。
その正五角形の辺長と対角線の比もやはり、神秘的なものでした。そして、研究が進んでくると「フィボナッチ数列」などが「外中比」と深い関係にあり、さらに、自然界の中に「外中比」をルールとする規則が多く存在することがわかって来ました。(レオナルド・ダ・ビンチが最初に「黄金なる比」と言ったことからgolden ratioという言い方ができたといいます)
 黄金比において は、二次方程式 x2 - x - 1 = 0 の正の解であり、これを黄金数(golden number)といいます。これはよくギリシア文字のφ(ファイ)で表わされます。
また黄金長方形(辺の長さの比が黄金比になる四角形)も黄金分割です。黄金長方形から短辺を一辺とする正方形を取り除くと、残る部分はまた黄金長方形となります。これを繰り返すと、黄金長方形は無限個の正方形で埋め尽くされるはずです。
ジャック=ルイ・ダヴィッドの描いた『レカミエ像』(1800年)は典型です。構図が安定して見えるのは、夫人の横たわる姿が黄金比の長方形に収まるように構成されているからだといえます。

3.「かたち」の描くもの:人体を描く
 ぼくたちの一番注意を惹く図形は何でしょう?それは人間の顔や身体です。でも顔や身体の「かたち」は直線的なものはほとんどありません。ほとんど曲線ですね。そこでまず人の顔を考えてみましょう。丸を描いてそこに2つの点を描くと人の目が連想されます。下に一本線を引くとこれは口だろうと思います。つまり人の顔の一番原初的な「かたち」は目と口だということです。そこに線を足していくとどんどん顔らしくなってきます。これは「黄金比」のような抽象的図形とは違います。人の顔は、幾何学的な関係よりはもっと感情を呼び起こします。絵の中で具体的な人間が現われて、見る者に視線を送ってくる。その視線に見つめられていると思うと、無視できないでしょう。

ダ・ヴィンチの「モナリザ」がなぜ「永遠の美」なのか?たんに綺麗な女子の絵というなら、もっといろいろ美女の絵はありえます。しかし、「モナリザ」はただ綺麗な女子を描いた絵ではないのです。ビミョウに彼女は微笑んでいる。そのお話は後にして、次に人の身体について考えてみましょう。

 西洋近代の美術教育では、人体デッサンというのが基本だとされます。人間の身体というものは神様が自分に似せて作った、というキリスト教的観念が文化になっていたからです。日本人は、全裸の肉体がそのまま美しいという観念は持っていませんでした。だから西洋の絵画に触れた時、どうして西洋人はこんな恥ずかしい裸ばかり描いているのか、と思ったはずです。そこに「近代」へのヒントがある。

4.「かたち」の歴史
  裸体画について英国のケネス・クラークという美術理論家は「ザ・ヌード 理想的形態の研究」(ちくま学芸文庫)という書物を書いています。その中で、人の裸体というものは古代ギリシャで理想化された美のアートになっていたのに、中世キリスト教世界では淫らで賤しいものとして封印されてしまった。それが再び美しいものとして蘇ってきたのが16世紀のルネサンス以後だといいます。ルネサンスという言葉は「帰って来た・復興」という意味ですが、古代に賛美されたすばらしい美が中世に抑圧され、もう一度帰って来た、ということです。ルネサンスの美術は、キリスト教の主題、たとえば聖書の物語、イエスの誕生、数々の奇跡、十字架処刑や復活などを描いていますが、それは宗教的な意味を含みながら、それ以前の宗教美術とは決定的に異なって、裸体の人間の精神の躍動をリアルに表現した作品を生み出していました。人の肉体というものを正確に描くには人体のバランスや筋肉の解剖学的知識が必要です。そこで裸体のデッサンが画家・美術家の訓練・必須要件になりました。
  ただし、ルネサンスの段階ではまだ教会や封建諸侯のご注文で作品が作られていたので、あからさまな裸体表現は抑制されていました。とくに女性の裸は、風俗秩序に対して危険なので、それはあくまで聖書や神話の世界の物語の一場面で、現実の世界とは切り離されていたのです。しかし、ルネサンスの達成した美術作品は、人びとの感性に衝撃を与えました。人間の肉体的「かたち」には、崇高な美がある。たとえばミケランジェロの彫刻「ダヴィデ」を見れば、理想的形態が目に見える「かたち」で現存することを誰もが理解できる。そこで、ヒューマンで自由な精神が解放される。
 白い紙の上に鉛筆で線を描けば、もうそれは絵でありアートです。そこに現われる画像は、私の心に浮かんだイメージであり、世界を眺めている個人の具象化です。でも、多くの人はそこに何を描いていいか分からない。たとえば、人の顔を描くとしても、目の前の誰かの顔を描こうとすれば、集中した観察力とそれを画面に描く技術がなければ絵にはならない。だから、類型的な既存の画像、たとえばよく知られたマンガやイラストの絵を真似ることで、それなりの画像を作る。
  ここで学生諸君に考えて欲しいのは、こういうことです。目に見える人やものの姿かたちは、自然に自動的に感知し記憶されるということはまずなくて、ほとんどは注意をむけなければ無視され忘れられていく。それを記憶しようと写メしても、その画像の意味をじっくり考えるなんてことは普通しない。アート、視覚ヴィジュアル・アート、絵画や彫刻がやりたいことは、世界の一瞬の姿をアートの力で永遠のモニュメントに留めてしまいたい、ということです。人間の肉体は実際にはそんなに美しいわけではない。それを理想的な「かたち」にモデル化したのが「近代」ともいえるでしょう。しかし、一方で「近代」の精神はルネサンスの作品が達成した人間の賛歌、善悪を超えた足がすくむような美がこの世にはあるのだ、という確信を確かに目に見えるかたちで実現したのです。
 人間の裸体も必ずしも美しいとはいえません。「近代」がやったことは、それを理想的な「かたち」としてモデル化し、絶対の規範に格上げしようとしました。その規範を標準にしてしまうと、逆に自分の肉体が一種の歪み、恥ずかしい美の逸脱として人に隠したくなる。必死のダイエット、エステに励むことになる。それは人間の精神の解放とは無縁な愚かな努力です。何が美しいのか、それは確かに黄金律とは違って主観的で相対的なのだけれども、アーティストは作品を通じて「これが美だ!」という主張を行なっていると考えられます。それは黄金律のような絶対の美を否定するわけではないけれど、「かたち」だけにこだわらず、もっと別の美もあることを示そうとしました。それは次のロマン派の思想を見ることで解けてきます。

 参考までに古代ギリシャのウィトルウィウス「建築論」にあるプロポーションの法則とは、以下のようなものです。
• 掌は指4本の幅と等しい
• 足の長さは掌の幅の4倍と等しい
• 肘から指先の長さは掌の幅の6倍と等しい
• 2歩は肘から指先の長さの4倍と等しい
• 身長は肘から指先の長さの4倍と等しい(掌の幅の24倍)
• 腕を横に広げた長さは身長と等しい
• 髪の生え際から顎の先までの長さは身長の1/10と等しい
• 頭頂から顎の先までの長さは身長の1/8と等しい
• 首の付け根から髪の生え際までの長さは身長の1/6と等しい
• 肩幅は身長の1/4と等しい
• 胸の中心から頭頂までの長さは身長の1/4と等しい
• 肘から指先までの長さは身長の1/4と等しい
• 肘から脇までの長さは身長の1/8と等しい
• 手の長さは身長の1/8と等しい
• 顎から鼻までの長さは頭部の1/3と等しい
• 髪の生え際から眉までの長さは頭部の1/3と等しい
• 耳の長さは顔の1/3と等しい
• 足の長さは身長の1/6と等しい

 レオナルドはウィトルウィウスの著作『建築論』の第3巻1章2節から3節の内容を視覚化しました。
 「近代」の美術は、これを崩していき、バラバラにしていくことになります。
顔にしても身体にしても、目や口や鼻、手と足と腹というような部分要素が集まってできていて、そのつながり方には一定の統一的秩序があります。それが幾何学的・数学的な均整のとれた美である、と考えるのが「近代」のひとつの特徴だといえます。それはひとつは、すべてのものは神様が作ったというユダヤ‐キリスト教的観念に由来すると思われますが、近代では宗教的な意味を離れてバランスや均衡といった合理的な「かたち」を追及していくようになりました。
  そしてそれをさらに突き詰めていくなかで、これも「近代」の思考の特徴である「分析的」方法、つまり全体を構成する要素をこまかく分けて、それぞれを明細化したり拡大したり分解したりする。たとえば人間の顔を、少女マンガみたいに目だけぐっと大きくしたり、筋肉や胸を極端に強調したりすれば、全体の秩序やバランスは崩れますが、それを見る者に強く印象づけることができます。そうした表現が人々に受け入れられ広まっていくと、ひとつの様式、流行のスタイルみたいに定着することもあります。今度は人々がその様式を通してものを見たり表現したりするようになる。
 それは「かたち」の問題だけにとどまりません。そこで今度は「いろ」について考えます。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 少しやりかたを変えます・・... | トップ | 男優列伝 山崎努2、 そし... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事