gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

アルセーヌ・ルパンのパリ おフランスざます

2018-02-24 14:57:05 | 日記
A.フランスの戦間期 アルセーヌ・ルパンの時代
 昔の赤塚不二夫のマンガ「おそ松くん」に出てくるキャラクタに、イヤミという人物があって、「シェー!」というポーズと、「おフランスでは・・」という台詞でなぜかフランスかぶれという設定だった。昭和の終わるころまで、フランスに憧れる「妙な人」があちこちにいたような気がする。戦後の日本では、映画も小説も音楽も圧倒的にアメリカの文化に染まり、戦前から細々続いた古きヨーロッパの香りを愛する人はごく特殊な世界、たとえばシャンソンの「銀巴里」とか池袋モンパルナスとかで固まっていたとみられる。でも、「おフランス」を語る人には、こっちのほうが格調高い文化だという誇りがあって、フランス語なんかを勉強したわけだ。
 でもフランスの近現代史をちゃんと知っている人はどのくらいいたのだろう?フランス大革命以後の世界は、ある意味フランス、それもパリを中心に回っていたといってもいい。ぼくがその世界に最初に興味をもったのは、中学に入った頃、少年少女世界文学全集のなかの「怪盗ルパン」の挿絵だった。シャーロック・ホームズもの「緋色の研究」を先に読んで、例の二重廻しのコートと帽子は印象的だったが、ホームズが頭脳の推理だけで謎を解くのに対して、ルパンは謎解きよりタキシードに身を包んだスマートなファッションと、必ず美女を誘惑するおしゃれなフランス人のエスプリに溢れていた。ルパンの世界は、19世紀末のアール・ヌーボー的パリの爛熟の世界を匂わせた。こういう世界があるのかあ、とひとしきり夢中になったが、それはちょっと大人っぽく色っぽい世界にみえて、やっぱりホームズの頭の体操にしておこうとも思ったものだ。 

 「怪盗アルセーヌ・ルパン」が登場したのは、1905年。作者モーリス・ルブラン(1864~1941)はノルマンディの都市ルーアンで生まれ、パリに出て純文学作家になるが、その作品は多少の評価を得たものの40歳を過ぎるまで、うだつの上がらない貧乏作家生活だった。しかし友人の編集者ラフィットに、大衆小説(冒険推理小説)の執筆を依頼され、当時大人気を博した名探偵シャーロック・ホームズものにヒントを得て、名探偵の逆を行く大怪盗ルパンを誕生させた。第一作「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が評判になり好売上だったため、ルブランは以後の作家人生のほとんどをルパンに注ぎ込んだという。ちなみにエディンバラ生まれの医師、アーサー・コナン・ドイル(1859~1930年71歳没)がホームズものの傑作『バスカヴィㇽ家の犬』を書いたのが1901年。20世紀のはじまったばかりの年だった。猥雑なロンドンではなく、瀟洒なパリの町に立つシルクハット、マントの下はフロックコートでステッキをもつ紳士、足にはスパッツ、懐中時計に片目パッド、という定番イメージ。

「アメリカ人と中央ヨーロッパからの亡命者(エミグレ)たちにとって、二十世紀社会思想の巨匠はジークムント・フロイトとマックス・ヴェーバーであった。この両者のいずれも、フランスでは、1933年以前のドイツおよびその後にアメリカでえたようには尊崇を受けていなかった。フランス人は、フロイトとヴェ-バーの教えたことを知らなかったわけでは決してない。だが、かれらのフロイト理論の適用は、ほとんど文学かあるいは半ば知的な会話に限られており――精神分析の治療活動は、フランスでは中央ヨーロッパやアメリカよりもはるかに普及していなかった――そしてまた社会科学の方法論に関するヴェーバーの基準をじゅうぶんに咀嚼していたのは、若きレーモン・アロンのようなきわめて少数の学者でしかなかった。
 フロイトに対するフランス人の抵抗の理由を求めるのは難しくない。精神分析は、つねにカトリックの支配的な環境でよりもプロテスタントやユダヤ人の間で栄えた。この点でいえば、戦間期のイタリアではフランスよりも一層強い抵抗があった。しかし、フランス人の間には、フロイト主義をとりあげるのをきらい、また内観の科学をつくったと称する理論の出現にひっかかる特別の理由があった。フランスはなんといっても意識の精査考察の本家であった。モンテーニュ以来三世紀半の間、相次ぐ一連のフランス・モラリストたちは、人間の動機づけに、正確で迷蒙を正す綿密な検索を試みてきたのであった。この伝統的な国民的保護地域にあえて入りこもうとする外国人は、まずもってわが身の危険を覚悟していなければなるまい。フロイトでさえ、フランス人のシャルコの病院でその洞察の最初の閃きを経験したというわけである。スタンダールを生んだ国民が、人間の心の言いのがれやごまかしについて、それ以上なにをまなばねぬというのか。フランス文学の古典がアフォリズムや直観的洞察のレヴェルに残しておいたものを体系にまでもたらしえたなどという、ヴィーンでの一介の医師の主張は、僭越きわまるものなのであった。
 戦間期には、フランスのフロイト理論研究は直ちに役立ちうるものとなっていた。すでに1923年のころには、レーモン・ド・ソシュールが精神分析的方法の解説をつくっており、それはフロイトの側近の研究者たちを満足させた(それとともに一方フランスの官憲とは衝突した)。しかし、フランスでは、専門的な精神分析理解ですら、なにか別のものに変わってしまう傾向をもっていた。フランス人は、フロイトの図式に不信の念を抱いていた。かれらは自分たちの心理学にもっと詩を求め、創始者が腹を立てたであろうような主意主義的注釈をいつも密輸入していたのだった。かくして、1930年代後期になると、代表的な科学哲学者ガストン・バシュラールは、「精神分析」という言葉を、火や水のような自然的諸要素の省察を含む新しい意味で用い、古典的精神分析理論を、変転常ないシンボルやイメージを厳密な概念に換位するものと批判していた。バシュラールは、自然や「もの」との直接的接触に立戻らせる治療、物質世界のなかでの作業を通じて情緒を回復させる治療をもくろんだのである。
 以上のこととは別に、フランス人は、一人のフロイトと同時代人、1914年以前にはフロイトよりもはるかによく知られ、もっと優雅で快い形で多く同様のことを語っていた同時代人を産み出していた。無意識の探検家としては、アンリ・ベルグソンは決してフロイトと同等の人ではなかった。たしかに、精神分析理論の精通者たちは、かれを先駆者とは認めなかった。しかし、人間行動の研究を合理主義的な既成の説明から解放するという点では、かれはまったく同じような機能を果たしたのであった。
 このようにして、フランス人は、自分のホームグラウンドに、フロイト主義のまぎらわしい模造である世界(ヴェルト)観(アンシャウウンク)をもっていた。だが、それとてもじゅうぶんというにはほど遠かった。ベルグソンの最後のしゅちょうが最終的に刊行された1932年には、その影響力は、この出版がのびのびになったことと、この著者がそれまでの十年間実質的に沈黙していたことのために、弱められてしまった。フランスの外では、『道徳と宗教の二源泉』はほとんど反響を呼ばなかった。ベルグソンの思考法は時代おくれとなっていたのである。フランス内部では、この本の限られた受容は、哲学と社会思想における「ベルグソン革命」がもうとっくに力を使い果たしていたことを明らかにした。
 1930年代には、ベルグソンはなおフランスの桂冠哲学者としての栄誉を保ってはいたが、もうこの国の知的エリートのなかに完全なベルグソン哲学の信奉者を多数見出すことは困難になっていた。むしろ、趨勢は選択的ベルグソニスムに向かっていた。つまり、それぞれの著作家は、その理論のうち自分の必要と性向にあった特定の側面を選択したのである。またベルグソン自身、選択的折衷的な取扱いを勧めているようにみえた、かれは、「魂のなかに永遠に種子を播くがゆえにつねに子孫はあるだろうが、直接の弟子はほとんどなく、自分の体系がそのまま伝えられることのないような哲学者のひとり」なのであった。こういうのが文筆世界の状況であった。リセや大学では、公式の講義は、ほとんどたいていありきたりの新カント派的なものに後退していた。
 ベルグソン革命の挫折は、複雑な問題である。これを完全に解明するには、無数の個々人の伝記の探索を必要とするだろう。ただ最小限いえることは、1914年から1918年の大量虐殺がエラン・ヴィタールの哲学の花盛りを摘み去ったということである。戦争直前の時期にベルグソンの頭をしびれさせる文章に酔っていた何万というフランスの教育ある青年たちは、苦難に堪え抜かせる精神的情熱を信じて、戦場へと出征していったのであった。凄じい現実は、かれらが想像していたことと似たところはほとんどまったくなかった。もちろん、ベルグソンは、かれの躍動という概念を、もっぱらあるいは主として軍事的な意味にとられるようにいったのではなかった。だが、それが、かれの若い信奉者たちの大部分がその言葉を解釈した仕方であった。この点からいえば、ベルグソン的理想は、まさに第一次世界大戦の他面の原因であった。
 さらに、この理想をもっとも深く共感をもって理解したものたちは、ほとんどすべてずっとカトリック信者であったものかカトリックへの改宗者であった。かれらの手によって、ベルグソンの告知が遺したもの――またそれがげんだいにおけるもっともめいはくなあらわれであったところのパスカルに発する暗々の底流――は、戦間期の特色をなす、とくにカトリック的な思考の復活へとつなげられたのである。早くも1913年には、もう若いマリタンはベルグソン哲学の批判を公刊していたが、それはかれ自身の聖トマス・アクィナスへの忠誠への転換を示していた。二十年後には、カトリックの知的サークルにおいて、トミスムの形成は頂点に達した。ネオ・スコラ哲学の精密さは、ベルグソンの反主知主義哲学の威信を影薄いものにしてしまった。そして――ベルグソン哲学自体の一面であったが――アメリカのプラグマティズムの伝統から養分を摂取したものたちにとっては、導き手として若いカトリックの教師ガブリエル・マルセルがあった。
 しかしながら、ベルグソン流の思考様式の多くは、フランスの社会研究者、とくに歴史家の間にかなり尾を引いており、依然としてかれらに現実の流動のなかに身を浸すことを熱望させた。この社会的・歴史的経験と密着したという欲求は、爾余のほとんどすべてが棄て去られたときにも、ベルグソン哲学の遺産の核心としてそのまま残されたものである。それは、社会のいかなる図式的理解をも拒否することを含んでいた。社会思想の概念に関する限り、それはヴェーバーの理念型の方法とは両立しえないものであった。
 これが、ヴェーバーが方法論的指標として、ドイツや、のちにはアメリカ合衆国でのようにはフランスに受け入れられなかった一つの理由であった。さらにもっと重要な理由は、この分野ではフランス人もすでに自国の巨匠――ベルグソンよりはるかに長く影響力を保った彼の同時代人――をもっていたことにある。
 エミール・デュルケームは1917年に没し、そのもっともすぐれた若い後継者たちの多くも戦場に消えていた。しかし、たとえかれが1930年代まで生きていたとしても、すでにかれの学生や知的継承者が得ていた以上の大きな威信をもつことはほとんどできなかったであろう。戦間期には、フランスにおける体系的な社会研究――とくに社会学と人類学の関連諸学科――は、デュルケームの教えに支配されていた。その方法論的諸原理は必ずしも相互に整合的ではなかった。クロード・レヴィ=ストロースは、それらが「鈍重な経験主義と先見主義的熱狂との間」で揺れ動いているのに不満をもったし、他の幾人かのものは、デュルケームの生涯の間にそれらの諸原理が単純な実証主義的出発点からいかに遠く離れてきてしまったかを指摘していた。デュルケームの関心の広がりが、この強調点の多様化にいくらか責任があるといえよう。ほとんど走り書きのようなところから出発して、自分の思想の最終的な――そしてより観念論的な――段階まで書き上げる以前に死んだということも、それの説明の一助となろう。しかし、デュルケームの仕事のまことに厄介な側面――それはかれの後継者にとっての最大の難問となっているが――は、二つのはっきり異なった十九世紀の伝統から引き出されたかれの哲学的立場と道徳的な人間社会観とであった。」スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想 1930-1960』生松敬三・荒川幾男訳、みすず書房、1970.pp.6-9.

フランス第三共和政Troisième Républiqueは、普仏戦争さなかの1870年に樹立され、1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー政権成立まで70年間存続した。初期は君主制の復権を掲げる勢力が多数だったが、ボナパルティスト・王党派など内部対立があり、最終的に90年代には共和政容認が大勢となり、国会でも共和派が多数を占め、「第三共和制」のフランスが確立した。1875年憲法はその基礎となる二院制(上院(元老院)と下院(代議院))の議院内閣制を規定し、任期7年の共和国大統領が名目的元首となり両院による多数決で選出されることが定められた。
第三共和制の時代は新たな仏領植民地、インドシナ、マダガスカル、ポリネシア、大規模な領土西アフリカを含む海外植民地を20世紀までに獲得した。議会はおもに中道右派の民主共和同盟 (ADF) によって進められた。当初は民主共和同盟は中道左派勢力だったが、共和制が定着するにつれて保守勢力となった。第一次世界大戦以降、特に30年代後半に急進党を中心にした左派との政治的対立が激化し、混沌とするうちにナチスドイツによる占領、フィリップ・ペタンを主席とする対独協力のヴィシー政権が誕生したことでフランス第三共和政は終焉を迎えた。
 いろんな意味でフランスが栄光の大国であったベル・エポックといえば、この第三共和政時代となるが、大きな区分けとしては、パリ・コミューンのあった初期(1870~1879)、ドレフュス事件などのあった全盛期(1879~1914)、第1次世界大戦とその後の戦間期(1914~1939)、第2次世界大戦からドイツの占領・ヴィシー政権からパリ解放、第四共和政成立まで(1939~1946)の4つくらいに分けられる。ルパンの活躍する時代は、まさに第三共和政全盛期になる。植民地帝国として世界の冨を集めた裕福なブルジョアから、高級品を頂戴するルパンのパリである。

「デュルケームはコントとともに、道徳哲学が「実証科学」から生じうると信じた。かれ自身、およびかれが基礎をおいた知的伝統は、このような確信の生きた表現であった。そこにみられる諸価値は世俗的な、「啓蒙された」ものであり、十八世紀の信仰の現代版であった。デュルケームとその一統は、フランス第三共和政に深い忠誠心を抱いていた。そして第三共和政は、かれらの心のなかでは、自由、デモクラシー、寛容および人間行動の偉大な理念を体現しているものであった。
 ここからして、デュルケーム学派は、公的価値と私的モラルとの間に安心できる一致点を見出した。かれらが奉仕している教育組織をもつ国家は、かれらが倫理的支持を与えうるものでもあった。このような第三共和政の諸価値との密接な結合は、第一次世界大戦前の興隆する国民的自覚の年々には、なんの特別な問題も生じさせなかった――もっともソレルやペギーのような批判者たちを無力な憤激に駆りたてはしたが。けれども、大戦の余波のなかで、第三共和政の美徳は薄れ、ここでもまた花の盛りは消え去ってしまった。そして、1930年代ともなると――つまり、左右を問わずほとんどすべての直覚力のある著作家が第三共和政になんらか重大な欠陥を見出すにいたったとき――この共和制にかくも密着していた社会思想の学派は、同じく脅威にさらされざるをえなかった。最小限にいっても、デュルケームとその継承者たちの価値体系は、今では道徳的に浅薄なものにみえた、たしかに、それは時としてはふつうの俗物どもの「ブルジョワ道徳」と区別がつかぬように思われたのである。ソルボンヌの大家たちが外部のものの眼にどんなに気取りやの愚物にみえたかが分らなければ、第二次世界単線の前夜にフランスの知的既成勢力に対してジャン=ポール=サルトルのような若い哲学者たちの抱いた憤怒――嘔吐――を理解することはあるまい。」スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想 1930-1960』生松敬三・荒川幾男訳、みすず書房、1970.pp.9-10.

 ベルグソンの哲学、デュルケームの社会学は、飽食のパリの俗物を批判していたかもしれないが、大きな歴史の流れのなかでは、20世紀の第1次世界大戦の段階ですでにカビの生えた保守的思潮になっていた。それはナチスに占領された屈辱のなかで、もう一度リニューアルされなければならなかったが、それを担ったのは、フランス人としては誰だったのか。が次のお話・・。



B.「国力」の根拠は、経済か軍事か
 世界史を広い視野で眺める、というのは昔たしか学校で教わったことはあるが、そのときはまだ若過ぎて、ただの知識としてさらっと記憶にとどめたに過ぎない。自分の国なら、教科書以外にもいろいろ話としては聞いているし、古い建物や地名が残っていたりするからある程度想像はできる。しかし、海の向こうの遠い国のことなど見たことも聞いたこともないから、よほど興味関心をもたないかぎり何も知らない。それは世界中似たようなものだろう。だが、かつて世界帝国になった国、イギリス、オランダ、フランスなどは世界のあちこちに植民地をもって統治したから、世界の情報について蓄積が圧倒的に多い。アメリカは大きな国なので、アメリカ人がみな広汎な知識や情報に通じているとは思えないし、世界中アメリカと同じだと勘違いしている人も多い。でも、日本はかつて世界に出ていくために海外情報にとても敏感だった。パリやロンドンやニューヨークに行って余計な情報も含めどん欲に知ろうとしていたと思う。しかし、最近はどうも世界に出ていく気が失せているのかもしれない。そして今は世界のあちこちに出て行っているのは中国らしい。

「経済気象台:最近、欧州と米国を回ってきた。中国の存在感が更に増していた。高級百貨店ハロッズのVAT(付加価値税)還付の人だかりでも、米国の投資ファンドやIT企業でも、目立つのは中華系の若者の姿だった。世界の上場企業の時価総額ベスト10には、アップルやアマゾンなどに並び、テンセント、アリババ、中国工商銀行の中国3社が名を連ねている。
 日本の存在感は稀薄だ。日本トップのトヨタ自動車すら時価総額ベスト30に入らない。日銀が異次元の金融緩和で経済を支えているが、持続可能な政策ではない。国内総生産(GDP)比で日銀の国債保有は第2次世界大戦時よりも多い。
 日本人はどんな未来を描けるのだろう?
 今回、米国の日系人コミュニティーを訪ね、民族や国家の枠組みを超えて社会に貢献している姿にヒントを見つけた。
 日系人センター内には、収容所のバラックが復元されているが、それは怒りや悲しみを伝えるためではない。当時の「ジャップ(日系人の蔑称)お断り」のポスターの隣に最近の反イスラム記事が展示され、“異質なもの”を排除する人間の心を問うている。友人家族に同道して収容所で生活した白人青年が「良心に従って行動した」と語った展示もある。社会科学習で訪れた米国の小学生たちがそれらを見つめていた。
 戦後、日系人はゼロから再出発し、多民族の中で地歩を築いた。毎年夏に開かれるOBON(お盆)フェスティバルは収容中に地域に移り住んできたアフリカ系移民と混然一体となったお祭りで、盆踊りとアフリカンリズムのダンスが混在する。
 勤勉でフェアで異文化に寛容――世界からそう敬愛される民族でありたい。 (慶)」朝日新聞2018年2月23日朝刊14面金融情報欄。

 「国力」を強くすることが必要だという人がいるが、「国力」ってなんなのか、よくわからない。たぶんそれは国家としての経済力、軍事力によって大きく左右されるのだろう。でも、「国力」が高まるとぼくたち個々人の生活も高まるのだろうか?必ずしもそうともいえない気がするし、「国力」を強くするために今まで国が何をやってきたかを考えれば、人の幸福と「国力」はときに相矛盾し、せめぎ合うことがある。

「文芸時評 純文学:小説家 磯﨑憲一郎 現実を超える小節的現実
 プロの小説家のなかにも勘違いしている人は少なからずいるのだが、現実の一部を切り取って、人々が共感できるように描いてみせるのが小節ではない。語りの力によって読む者を圧倒しつつ魅了する、現実とは異なる、いわば小説的現実を立ち上げてみせるのが、小説という芸術的表現なのだ。
 おそらくその最良の証明となるであろう、金井美恵子『『スタア誕生』』は、一九五〇年代の地方都市の商店街を舞台に、地元の映画館で開催されるニューフェース審査会に臨む、映画女優に憧れる若い美容師と、彼女を応援する商店街で働く女性たちを、当時十歳の少女だった語り手の目を通して描いている。とはいえ、特段ストーリーらしいストーリーがある訳ではない。脈絡なく繰り出される、ときには数ページにもわたり、映画館の内装の司祭な描写や、そこで見たはずの洋画や邦画の一場面、親しかった人たちの服装や髪形の説明、もはや発話者が誰だったのかも判然としないほど延々と続く会話に身をゆだねていると、唐突に「……を思い出す」「……を覚えている」という結語に出会い、その度毎に我に返り、この作品全体が語り手の階層であることに思い至る、そんな宛転たる語り口によって読者にもたらされるのは、単なる現実の過去への憧憬、ノスタルジーである筈がない。紛れもなくそれは、自転車を漕ぐ「短いスカートからむき出しになった太もも」に感じる風や、「ぼうっとしたオレンジ色がかった桃色」に光る「スズラン灯」、「水色の半袖のセーター」の胸の谷間から漂う「キャラとかビャクダンとはまるで違う甘い匂い」によって作り出される、至福の小説的現実なのだ。
 奥泉光の長編『雪の階』は対照的に、精緻に構築されたストーリーの随所に、二重三重の仕掛けが凝らされた作品だ。二・二六事件勃発前年の昭和十年、富士青木ヶ原の樹海で情死した親友の謎を解くため、主人公の華族令嬢は、子供時代の遊び相手だった女性写真家に調査を依頼するのだが、その矢先、来日中のドイツ人ピアニストが不審な死を遂げる。天皇機関説を巡る構想まで絡めた、秀逸なミステリーとして読まれるのであろうこの作品だが、しかし実際にこの作品を夢中になって読み進めている最中の読者が体感するはやはり、「松林の幽暗に溶け込む弧樹の佇まい」「仄白い若女の能面が月夜の桜花のごとく影に沈んでいる」といった、熟語を多用した三人称多元の語りによって立ち現れる、史実を上回って濃密な小説的現実に他ならない。そしてそのような作品に相応しくラストでは、積み上げていた一切の論理を超越する、鮮やかな小説的反転が待ち受けている。」朝日新聞2018年2月23日朝刊34面文化・文芸欄。

 磯﨑憲一郎という小説家の作品をぼくは読んだことはないが、この切れ目のない長い長い文章と、その粘着する文体の突出をみて、なるほど小説とか純文学とかいった作品が、なにを価値としているかがよくわかった気がした。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« デュルケームの世紀末 fin d... | トップ | 過ぎ去った若い私・・「チボ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事