イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

≪あきらめること≫には積極的な意味がある!(メメントモリ 10/10)

2011-03-01 | 第七章「光と復活体」

 今日は朝、車の免許の更新に警察署に行った。

 5年前は、免許の更新の時は、余り周りのことが気にならなかったが、今回は、お年寄りが2-3人そばにいて、眼の検査などを苦労をされていたのが、とても印象的だった。日本も高齢社会に突入しているんだと、つくづく思った(自分も、今月から前期高齢者なのだが)。

 さて、2種免許(タクシーなどで必要)を持たれている方は、視力の検査の中に、動体視力の検査が加わる。私も、5年前に更新時に受けたのだが、急に検査がはじまり何をすれば良いのか一瞬戸惑ったが、何とかパスした。私だけかなと思っていたら、もっと先輩の高齢者も、悪戦苦闘されているようだった。

 この年だから、もう二種免許を放棄して一種免許にしても・・・そんなことを呟いている方もいらした。私も、今は二種免許の必要性がぐっと低下しているので、もし、同じような立場であれば、きっと同じように諦めただろう。

 諦めることは敗北のようで、生きる上で最適なバランスをとりながら、こころの健康を維持しつつ、さらに豊かに生きる上でとても大事なことだと思う。悩みとは理想と現実のギャップである。悩みは、生きる上での糧となることもあるが、不適切な処理に会えば凶器になる。バランスをとるために、時には理想をあきらめる必要があるのだ。

 私も、考えてみれば、幼いころから沢山の理想を持った(人から刷り込まれたものも含め)。しかし、若いころも大学受験とか、いくつか理想をあきらめる貴重な体験もあった。一見ダメなようであるが、今熟考すると、その時の諦めの体験が人生にとても役立っている。

 老いて、やがて死ぬ運命の人間にとって、着地点が近づく気配を感じたら、今までできたことを、一つずつそぎ落として行くことが大事である。

 ただ、そぎ落とす中で、残った今やるべきことは同じではない。あきらめる中で、知覚が変わり今やるべきことが深まるのである。あきらめることは単なる引き算ではなく、豊かに生きることに繋がるのではないか?

メメントモリ 10/10

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