イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

「坊ちゃん」を現実吟味力のテキストとして読む!(現実吟味力はあるか? 3/10)

2016-08-30 | 第一章「意識と知覚」

 最近、夏目漱石に興味を持つようになり、「坊ちゃん」を味読している。東京大学の学士様が松山の中学の先生になり、江戸っ子なんでさまざまな事件を起こす。

 昔読んだ本であるが、前期高齢者の今となって読んでみるといろいろ発見がある。生き甲斐の心理学の勉強にもなる。また、今のテーマの現実吟味力の勉強にもなる。

 新米の先生が、すぐに寄宿舎の宿直をやらされて、バッタを布団の中にいれられる事件にあう。これを職員会議で議論する場面など、現実吟味力の絶好の教材のようである。坊ちゃんは当然、現場を経験しつくしているので結構正しい判断を言う(感情的になり、自己の伝達に問題をもっているが)。山嵐も正々堂々と良い判断を言う。しかし、赤シャツを始め多くの先生はステレオタイプな意見を言う。その中には、上司にこびて思考停止をして判断をするものまでいる。

 思っていることを正直にいうかどうかも、実に現実吟味力に関係あるのだが、それを除けて考えると、どうだろうか。自分の経験していないことを、他者の経験をあたかも直接的な自分の経験のように思って判断するのは、ちょっと問題だと思う。しかし、こういう会議が世の中に多く、世の中は現実吟味力がない中で硬直していくのだろう。

 そして、現実吟味力を養っていかないと、窮地での判断も悪くなってしまうように思う。今の日本もいろいろ物騒で、現実吟味力はますます重要になっていると思う。

現実吟味力はあるか? 3/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 


経験という言葉をめぐって・・・可愛い子には旅!(現実吟味力はあるか 2/10)

2016-08-28 | 旅・雑記帳

 先日、横浜の中華街に行く途中で横浜スタジアムの前を通りました。そしたら写真のように、ゲートが開いており、スタジアムの中が私の居る道路から見ることができました。そして、思わずグラウンドに見入り写真まで撮ってしまったのです。イキイキとした感情が動いたのです。

 最近、野球もそうですが、スポーツ観戦に行ったりすることがめっきり減って、このごろは野球とかサッカーの話がでても、どちらかというと耳を閉ざしていたようです。それが、この写真でどこか開かれたみたいです。

 生き甲斐の心理学にはよく経験という言葉がでてきます。この言葉の解釈はいろいろあると思いますが、生命体である人間が五感体感を通じて直接何らかの知覚(五感+知)、感情を得ることなのでしょう。私は感情と密接なものと独断と偏見で単純に考えています。

 横浜スタジアムを見た経験。これは私なりの定義からしても、感情が動いたので立派な自分の経験です。しかし、世の中では、特に自分にとって真新しい領域では自分の経験がないので、他者の経験にたよることがあります。その他者はきちっと自ら経験していることもあれば、さらに話だけを経験していることもあると思います。質の悪い他者情報などは流言・風説の類でしょう。そして、その他者の経験に翻弄されることも実に多いのです。

 私の下の孫のはまだ離乳食を始めた段階ですが、きょろきょろと両親を始め周りを見て反応していますが、恐らく生まれてきてから自分の経験もさることながら、他者の経験(母親など)をあたかも自分の経験のようにして生き抜いているようです。

 現実吟味力を考えるときに、心理的に深い関係があるアイデンティティとか防衛機制がありますが、ここでは、経験を中心に考えています。

 さて、私も母親の祖先がれっきとした江戸っ子(3代以上江戸に住む)ですし、父親の祖先も海民系だったようで、新しもの好きの血が流れているようです。45年前からコンピュータにうつつをぬかしたり、日本ではまったく根づいていないともいえる臨床心理学の領域に興味をもったり、最近は縄文時代に興味をもつのは普通になりつつありますが縄文小説という前人未踏の世界に興味を持ったりしてます。まあ、ミーハーなのでしょう。

 従って、自分の経験のないことにいかに向き合うか、現実吟味力を正常にしていくかは意外に経験深いかもしれません。そして、運がよいことにU先生という立派な師をもち(弟子はあぶないのですが)、心理学面でも現実吟味力を学んでおります。そして、最近思うのですが、現実吟味力も鍛え方があるということです。

 まず、大事なのは自分の経験(経験の本道)をきちっと意識することなのでしょう。たまたま、娘が子育ての必要性から車の免許をとり、一昨日から新しい車を乗り回すようになりました。車を初めて運転するときに、心配なので助手席にでも・・・とも思いましたが、それはやめました。ある程度の力が付いたとき動物の親は子を谷に突き落とすまではしませんが離れていきます。その知恵は心理学的にも正しいようです。

現実吟味力はあるか? 2/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 

 

 

 


大丈夫でしょうか?(現実吟味力はあるか? 1/10)

2016-08-27 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 夏休みの恒例の大掃除で見つけた若いころの写真。この写真は学生時代最後の卒論で発表したときの竹ひごと粘土の模型を頭にしているものです。1970年代はUFOなどもはやっており、私もあだ名で宇宙人と呼ばれた時期もありました。

 

 さて、写真のように楽しくふざけているのは良いですが、自己実現の道を歩もうとして、初心者マークの時に事故?にあうことも多いようです。篠田節子さんの「女たちのジハード」の中の沙織さんも、米国でヘリコプターに乗りパイロットを目指すのは良いのですが、当初怪しげな学校に入ってしまい翻弄されます。あるいは、よく聞くのは企業退職後に、退職金等の運用を失敗したり、企業を立ち上げたのは良いが失敗するといった話です。こうした現象は私にも思い当たるところがあります。ただ、私の場合はもともと小心者であったことが幸いし、大事にはなりませんでした。しかし、昔安定した大企業生活を辞めたり、今縄文小説を書こうとするのは、ひょっとすると初心者マークの御愛嬌かもしれません(笑)。

 これから考えていきたいのは、こうした現実吟味力の問題です。怖いもので、現実吟味力の欠如からとんだことになることは多いようです。それは一体どんなもので、どう注意したらよいか、そんなことをこれから考えていきたいと思います。

 現実吟味力はあるか? 1/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 


縄文小説を書くとどうなるか?(自分は草原の中の大木か、雑草か? 10/10)

2016-08-26 | 第八章「魂と聖霊」

 自己実現の道は意外に見えないものである。その原因の一つは防衛機制にあるというのが正しいようだ。先に、資格や免許のことを書かせていただいたが、たまたま直木賞作家で八王子出身の篠田節子さんの小説(女たちのジハード)を読んでいたら、登場人物の一人沙織さんが、当初は翻訳者になると努力をしていたが、ある時米国滞在中に、その本当の目的は飛行機パイロットではなかったかと考えるようになる。なぜ、なぜと自問自答していくと思わぬ自分の本音にであう。そのあたりは面白く、摂取等の防衛機制を越えて見えるものが本当の自己実現の道なのだろう。

 私も、想像を羽ばたかすことがすきなので、簡単に投影や昇華といった防衛機制に入りやすいところがあるようだ。40歳代でパソコンゲームに一時はまったときは、自分でもちょっとした危機の時代だったと思う。そこで信長の野望などをやっていたのは、どこか弱い自分を投影していたのだと思う。それは、考えてみるとこころの平安を得る上ではよかったが(それで充分かもしれない)、問題解決への道へはちょっと遠回りだったかもしれない。最近では生き甲斐の心理学の論文の延長に縄文小説を書いているが、これも、当初は昇華がベースの作業だったように思う。しかし、つまらないとか外野席のご意見もいろいろあり、縄文推理小説の方向がでてきたりで、当初の計画と変わってきてしまった。しかし、登場人物の心理等をいろいろ考えたりすると意外にリアルな自分が見えてくる。今までの昇華ベースの小説が消えてきて、それなりに面白くなってくる。考えてみると、昇華ばっかりの小説は読む側からすると、つまらないのである。そして、小説を書くことを深めることで自分の中で今まで見えなかったことも観えてくるように思う。

 そんなことで、縄文小説を書くことで、心理的には少しかもしれないが楽しい経験をしている。

自分は草原の中の大木か、雑草か? 10/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!


資格や免許を考えてみる (自分は草原の中の大木か、雑草か? 9/10)

2016-08-24 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日は、家族が普通自動車の免許を取得する関係で、久しぶりに府中の試験場に行った。8年前に普通二種免許を取得するときに行った以来だった。

 そして、今朝は免許とか資格の取得について考えてみた。私は20歳代のときに仕事の関係で普通免許を取っていらい、ほとんど資格とか免許とは縁がなかった。しかし10年くらいまえに、30年近く務めた会社をやめて、全く違う仕事をし始めたときに7-8つ資格や免許をとった時期があった。その後、自分の方向性が変わったこともあるが、実際今役にたっている資格や免許は少ない(まあ、前期高齢者なので)。

 これは一体なんだったのだろうか?もちろん、結構努力をして資格や免許を取得したために、知識や経験が増したこともある。生き甲斐の心理学のように、有形はどうかわからないが無形の財産になったものもある。しかし、一方、なんとなく取ったものもあり、そんな努力をするなら他のことをすべきだったのではと思うものもある。

 厳しい現実の中に生きていると、資格や免許が実際はどうか分らないけど、お守り以上に見えてくる現象があるように思う。生き甲斐の心理学で考えてみると、防衛機制の逃避とか摂取、場合によると同一化といったものに関係するようだ。

 ある種のこころの平安に関係する。防衛機制は、それにより多くのメリットを生み出すバネになるが、一方、厳しい現実から目をそらせる傾向を助長するので、「あれは一体なんだったのだろう」という事態を招くことがある。

 このところ、昨年行ったしまなみ海道の伊予大島周辺の無人島の写真を掲載しているが、島自体も何とも言えぬ風格があり、そこに茂る木々にも風格がある。彼らは確実に言えるのだが、資格や免許があるのでそこにいるわけではない。そして、それは基本的に私たちにとっても同じなのだろう。

自分は草原の中の大木か、雑草か? 9/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!