城郭 長谷川博美 基本記録

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福井の人 滋賀の人 浅井朝倉の起源 

2019-11-15 12:34:02 | 古典
この記事のおおすめ度
五段階で★★★★星4

福井の人 滋賀の人 浅井朝倉の起源 

福井の人
何故?歴史書を読んでいると浅井朝倉
と表現されますか?越前の朝倉義景は
越前国の太守であり、北近江の浅井は
小領主です。その辺の正しい歴史認識
を訂正して今後は是非とも朝倉浅井と
今後はテレビで読んで欲しいものです。

長谷川

文献『信長公記』には元亀元年の志賀
の陣に浅井、朝倉の文言が登場します。

「九月十九日、浅井・朝倉両手に備へ」

と記されています。

また
天正3年の『信長公記』には信長が越前
北庄城の縄張りに関わる記録あります。

また『信長公記』の天正3年の記録の
★印にも浅井、朝倉と表現されてます。

九月二日、豊原より北庄へ、信長御越し
なされ、城取りの御縄張させられ、御
要害仰せ付けらる。北庄御普請場にて
高島打下、林与次左衛門、生害させ
られ侯。子細は、先年、志賀御陣の時、
★浅井・朝倉引き出だし、早舟にて渋矢
を射懸け申し、緩怠の条々、御遺恨に
侯ひしか。越前国、柴田修理に八郡
くださる。とあります。

長谷川
後世の歴史研究家
が議論したり論文を作成するおりには
この『信長公記』の浅井、朝倉と言う
言い回しが流布したと、私は思います。
また『信長公記』を記録した太田牛一
永禄元亀天正と織田信長と同じ時代を
生きた太田牛一の言い回しは、当時の
織田軍が浅井、朝倉を呼ぶ当時の場合
慣用句であった可能性があると思います。
また長浜市の北部にある賎ケ岳城址も
『信長公記』には天正元年の記録には
登場しております。



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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-11-16 06:52:54
良いねの一名様
気付いて
らっしやいます!
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