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城郭 長谷川博美 基本記録

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コロナ禍!麒麟が来る信長の怪演で虎姫が話題の目に!

2020-06-12 18:07:08 | 戦国武将
コロナ禍!麒麟が来る信長の怪演で虎姫が話題の目に!

大河ドラマ「麒麟が来る」の、織田信長役の染谷
将太さんの常識を覆す怪演が、話題となっている。
信長と言う人は全国区で常に№1の人気を誇る戦国
武将である事は日本全国で鉄板となっている。長浜
市虎姫町は阪神タイガースが日本一になった時地元
虎姫駅は異常な虎党の人気スポットになった歴史が
ある。大河ドラマ「麒麟が来る」の収録がコロナで
一次停止されものの又再開されたと聞き及んでいる。
新型コロナウイルス禍は虎姫町に今また再度虎姫町
の疫神病除 元三大師 の御札が大変な話題を呼ん
でいるのだ。コロナ禍が何と思わぬ虎姫の話題に火
を付けたと聞いている!

◆元三大師=天台宗中興の僧侶=良源の事

 大河「麒麟が来る」の織田信長役の染谷
将太さんの常識を覆す怪演も話題になって
あの織田信長存命中に築城した最大の陣城
虎御前山城の測量報告書が地元虎姫で完成
してこれも信長人気と呼応して地元で話題
になっているのである。以下の著書は100
ページに及ぶ良書でありしかも未だに信長
の陣城全体は巨大過ぎて調査途上である事
に私は驚きを隠せない。たしかにあの天下
の堅城小谷城を攻める為に信長や秀吉が心血
をそそいだ、虎御前山城が脆弱な陣城であろ
うはずが常識的に考えれば小規模であろう事
は無いのである。この大著を地元の有志各位
が完成された事は虎姫いや長浜いや滋賀日本
の中の貴重な歴史遺産として認識される礎と
なる事だろう。これは貴重な滋賀の文化遺産!
これだけの大著を地元有志の方々が編纂された事は
民間事業として歴史自然顕彰活動として崇高な事で
あろう。この著書定価1000円で虎姫時遊館で販売さ
ているが大変な公表でもう既に残冊が40冊もないと
の事で如何にこの大著が話題になってるか今虎御前
山が日本全国から、再度注目されている事になろう!



▼城郭フオーラム虎御前山城見学会の過去写真
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意外!?織田信長の熱中症対策と施策

2020-06-05 01:51:17 | 戦国武将
意外!?織田信長の熱中症対策と施策
◆長谷川
 昭和には熱射病と言う言葉が存在した、やがて
時は移ろい、平成、令和と言う年号が日本で用い
られ、現代では「熱中症」と言う言葉へ変遷した。
◆長谷川
信長の苛烈で常軌を逸した戦略や殺戮は目に余る
ものがあるが、万民の幸福と泰平の世を招来実現
せんと欲する天下の政「まつりごと」を希求した
信長の公共福祉事業施策が、忘れられている事は
残念でもある。戦国時代に信長は既に「熱中症」
対策を早く講じている。信長の領国を旅する人々
が「熱中症」にならない為に街道に植樹して直射
日光による「熱中症対策」を早く講じている事に
ある。信長は現代人の言う「スピード1番の政治」
琵琶湖には湖東と湖西をつなぐ利便なフェリーは
現代に至るも存在しない。しかし信長は佐和山の
松原で湖西に一期に渡岸する大船を建造させてい
いる。老朽化した瀬田の唐橋も信長の資金で再建
させ、天下万民の公益に寄与する公共工事を断行
実施している。織田信長と言う人は極めて非情な
一面と極めて温厚な双極を具有した、極めて稀な
歴史上の人物である。信長の行動を見て後世の人
は180度、異なる評価と批判をする人が居る事は
は事実であろう。信長は聖邪を具有する双極の人。
人は彼の悪い点を見て反省し、楽市楽座などなど
ずばぬけた善行を見て見習うべき事が多い歴史上
の人物であろう。

◆長谷川
国家に戦乱、疫病、災害が発生した場合には時の
為政者が愚物か?聖者か?万民を救済できる英傑
賢者であるか?天は一目瞭然に時の為政者の資質
を白日のもとに照らし出しだす、天道照覧がある。
愚物を選んだ国家や都市は天の道理で衰退必定だ。

◆世界大百科事典内の植樹の言及【植林】より引用

一般には造林とほぼ同じ意味で使われることもある
が,専門的には,造林は人工造林と天然更新に分け
られており,植林は人工造林の意味で用いるべきで
ある。樹木を植えることを植樹というが,人工造林
のうちで最も広く行われている方法に植樹造林があ
る。これは本来は苗木を植える造林法であるが,植
林はこの植樹造林が縮められたものと考えるのが語
感に最もふさわしい

【並木】より

[日本]
 奈良時代の759年(天平宝字3)に東大寺の普照の奏状
により五畿七道の駅路の両側に果樹を植えさせ,木陰
を旅人の休息場とし,木の実を食料とさせる官符が出
ているのが街道の並木の始まりとされ,平安時代にも
引き続き果樹が植えられている。戦国時代末には織田
信長が1575年(天正3)に東海道と東山道に松や柳を植樹
させ,上杉謙信,前田利長,加藤清正らも領内の街道
に諸木を植えさせて街道の整備を行っている。江戸時代
に入って1604年(慶長9)に徳川秀忠が五街道をはじめと
する諸街道を整備するために並木を植えることを命じて
以降,江戸幕府はその検分や補植,雑木の刈払い,道の
両端の歩行の禁止を命じ,木陰になった場所の年貢免除
を行うなど保護策をとり,諸大名もそれにならったので
全国の街道に並木が見られるようになった。…

※「植樹」について言及している用語解説の一部を掲載
しています。
 出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 


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織田信長の偽装兵「忍者の記録」

2020-05-06 08:33:15 | 戦国武将
城郭ビイスタ論 上文字クリック

文献『信長公記』には若き信長が偽装兵
つまり農民になりすませた、忍者の姿を
生々しく彼の鷹狩りの場面で述べられて
いる。以下『信長公記』巻頭より

向待と云ふ事を定め、是れには鍬をもたせ、
農人の様にまなび、そら田をうたせ、御鷹
取付き侯て、くみ合ひ侯を、向待の者、鳥
をおさへ申し侯。信長は達者侯間、度々お
さへられ侯と承り及び侯。

向とは「むかい」であり監視の事である。
向城とは敵の城を監視する為の臨時城郭。
向侍とは、監視や物見、偵察要員の武士。

とあり自分の部下の武士に鋤をもたせてる
事。水田を耕作しているふりを故意にさせ
て鷹狩りの偵察要員にしている事には驚く!
前回の投稿で秀吉が草刈人夫まで戦場を通
すべかにずと言っている事は戦況や陣営や
陣城の様子を草刈に変装した武士が調査に
に潜入していたら陣の様子やまた絵心ある
忍者ならば的確に陣城の形状を上司に報告
する事が出来るのもの。『信長公記』では
鳥取城攻めをしている秀吉の様子や戦況を
高山右近が自作絵図面を用いて織田信長に
報告している。戦況をビジュアル化つまり
画像として報告した高山右近を現地が手に
取る様に解ると高山の図面を信長は賞賛し
ている高山も信長も平面図を理解する能力
が存在した事を物語るものだ後に高山右近
は前田利家の要請で金沢の都市計画を依頼
されている。高山右近!織田信長も進歩的
な現代人に近い人物である事が推察される。

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迫真!現実!賤ケ岳古戦場の現実と実情!

2020-04-25 18:38:01 | 戦国武将
迫真!現実!賤ケ岳古戦場の現実と実情!

本日も実際の現実の古戦場の調査に
田畑理事と参りました。遠く湖北の
横山岳には未だ残雪を望む事が出来
春とは言え北近江の冷気の様なもの
を感じます。横山岳さすがに神の座
す霊山と言へその神々しい山容には
おおしき威厳が真に備わっておいます。
▼田畑理事と背後の横山岳の様子!
さて前回の投稿で余呉町の某陣所の堀切図を紹介致しました。
上図の
切の所が堀切の遺構です。写真を撮り直しました。尾根の関門!
更にアップします。
迫力あります。戦国時代そのものです!
▲更に柵や木戸も復元してみます。
田畑理事!見事な戦国の番所の見張番の隊長です!
長谷川
さてここで、よくよく考えてみましよう!
賤ケ岳合戦で大岩山砦と岩崎山砦には一切堀切
が掘られておりません。今回登場する名もなき
砦の場所でさえ立派な堀切を普請しているのに?
 さてさて、永禄3年の桶狭間合戦において
松平元康は今川方の大高城に兵糧を入れて
織田の鷲津砦、丸根砦を松平元康が落させ
大高城を占領します。これにより松平軍と
今川義元本陣は2÷2=1の半分手薄になる。
是を図式化しますと。
         ●  ●        □
「本陣今川義元」「鷲津/丸根/落城」松平軍「大高城確保」
しかし織田信長は今川義元と松平が両陣に分かれた間隙を
突き義元本陣を痛撃し首級を上げた事になります。
桶狭間の「鷲津/丸根/」とは元康をおびきだす囮「おとり」
の砦の役目をしたのではないでしょうか?捨石の2砦です。

さてさて天正11年賤ケ岳の合戦では本陣の柴田勝家軍と
第1戦の指揮官の佐久間盛政軍つまり前線と本陣を二分
させる為に羽柴秀吉はなだらかな丘陵地帯に堀切の無い
  ●    ●
砦「岩崎山砦/大岩山砦」の2塁を築城させます。この2砦
堀切がありません。これは、この2塁は柴田方の前方指揮
官佐久間玄蕃盛政を余呉湖畔おびき出しこの2塁をワザと
攻め落とさせる囮の城に違いなしいでしょう。堀切も無い
陣城を攻め落とす事は容易である。この2城は堀も掘らず
「岩崎山砦/大岩山砦」は油断していると佐久間玄蕃は見
た。しかし柴田勝家は老獪な武将!羽柴秀吉が囮の城を
用意している事は充分に、彼の歴戦体験から知っている
「岩崎山砦/大岩山砦」この2城を陥落させたら渙発を入
れずに堅固な元の陣城の行市山に帰還する事を柴田勝家
は甥の佐久間玄蕃盛政に説いている!ボクシングで言う
ところのポイントパンチを得点を、自軍打たせて勝つ事
つまり老練な柴田勝家の力を日本中に喧伝するPR効果!
勝家は判定勝ちを熟慮する人。秀吉は罠を用意する武将!
秀吉は佐久間玄蕃盛政の猪突猛進型の人間性を看破した!

ところが羽柴秀吉は賤ケ岳城と言う堀切も切通しもある
決戦の為の堅固な構造の城を用意している。秀吉方は嘘
を付いて明日に賤ケ岳城を明け渡すと佐久間軍に伝えて
佐久間盛政はもう我々一線の部隊は勝った。我ら賤ケ岳城
をあす貰い受ける緒戦で大勝したと増長した。秀吉と丹羽
長秀は急ぎ賤ケ岳城を確保して佐久間軍を追撃した。賤ケ
岳城は堀切も切通しもあり佐久間軍が是を物理的に破る事
は現実には不可能だ。この時秀吉に内通していた前田利家
は突然越前に引き返してしまい佐久間軍は裏崩れと動揺し
た。背後の守備部隊は堀切を用意して待機していても前田
が退却してしまったら羽柴秀吉と丹羽長秀の強力な部隊を
防ぐ術は全くない。ここに登場する写真の砦は北国軍の背後
を越前からの補給線を確保する為の大切な生命線だったの
であろう。実際にこれらの無名砦は構築されたが合戦記に
も登場しない、現実の賤ケ岳合戦の現場の番所であろう。


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大河ドラマ麒麟が来る 信長と道三の会見の感想

2020-04-20 04:10:01 | 戦国武将
大河ドラマ麒麟が来る 信長と道三の会見の感想

やはり斉藤道三を演じる、本木氏の演技が冴えた。
道三は娘婿信長を経営者として戦略家として大い
に高く評価する描かれ方がされた。信長が村木砦
で鉄砲を効率よく射撃する新しい時代の武将とし
て描かれてていたが大切にしていた直属の家臣
達の死骸を見て涙する青年期信長の多感な感情や
現実がよく『信長公記』を参考に描写されていた。

信長の一代期『信長公記』に以下には村木砦で
信長の鉄砲使用も含めて斉藤道三は娘婿の信長
の鉄砲を使った奮戦を以下の如く絶賛している。

『信長公記』
村木の取出攻められしの事より

「山城が申す様に、すさまじき
男、隣には、はや成人にて侯よと、
申したる由なり。」

現代的に解釈するならば
「娘婿の織田信長とは、凄い男だ!
美濃の隣国の尾張の織田信長とは、
はやくも一人前の優れた武将とし
て成人している!」
と娘婿信長を絶賛する舅斉藤道三の声!

道三が信長の電光の様にスパークする
激しい新しい時代の信長の戦闘様式を
伝え聞き驚嘆している様子が解るのだ。

斉藤道三が織田信長絶賛した
場面しは
『信長公記』の村木城の条に以下如く
描写されている。すさまじき男、信長
とは1554年(天文23年)、合戦で初めて
鉄砲を使い「今川(義元)軍」に勝利した
「村木砦の戦い」

「一、正月廿四日払暁に出でさせられ、
駿河衆楯籠り侯村木の城へ取り懸げ、攻
めさせられ、北は節所手あきなり。東は
大手、西は搦手なり。南は大堀霞むばか
り、かめ程にほり上げ、丈夫に構へ侯、
上総介信長、南のかた、攻めにくき所を
御請取り侯て、御人数付けられ、若武者
ども、我劣らず、のぼり、撞き落とされ
ては、叉あがり、手負死人其の数を知らず。
信長堀端に御座侯て、鉄炮にて、狭間三ツ
御請取りの由仰せられ、鉄砲取りかへ取り
飼え放させられ、上総介殿御下知なさ
るゝ間、我も貼と攻め上り、塀へ取り付き、
つき崩しつき崩ししき崩し」と若き信長の
鉄砲の連続射撃のすさまじき様を描写して
いる事にある。

対談者
この投稿少しも城郭に関して書いておられ
ませんね?

長谷川
そんな事ないですよ?城もよく見る事!
文献もよく見る習慣をつける事が大事
です。上記『信長公記』の村木砦の事
は1554年(天文23年)の事だと判明し
ています。この頃の城に挾間や鉄砲が
本当に存在したのか?疑問に思う歴史
学者がおられますが、 この資料には
狭間が3箇所、そして鉄砲の連続発射
と言う驚くべき近世の時代の幕開けの
記述が生々しく記録され織田信長なる
人の革新的な人物像が描写されている
のです。この村木砦の話を聞いた道三
が娘婿信長を「すさまじき男」と絶賛
している事でも道三の人を見る洞察力
が解ります。また道三と信長が対面す
る前に次々に信長「うつけ者」馬鹿説
が美濃に入ってきますが道三は世間が
口をそろえて「うつけ者」と言う場合
は決して「馬鹿者」ではないものよと
と家臣を諫めております。おそらくは
道三、中国の軍書『六韜三略』等を読
み「聖人行くところ、常に愚行あり」
の文言つまり、馬鹿に見せかけ大略
を密かに秘める人物と、信長を見て
いる。道三と言う最初の帰蝶の婿を
虫けらの如く毒殺したと思えば次の
婿信長を見て是は凄い武人だ経営者
として傑出していると冷徹に判断す
る人間の性や恐ろしさも感じます。
道三から見て信長を味方に付けて
美濃の安泰を計る計画なのですが
はたして信長自分の鑑定した人間
像よりも数段優れていた事に驚愕
している事になります。すかさず
道三は尾張に援軍を派遣してます。

美濃斉藤道三と織田信長盟約とは
戦国大名の縁組婚姻政策で成立っ
もの簡単に言えば隣国と縁組によ
り近交策と言えます。後に信長は
美濃を占領し近江江北の浅井長政
と婚姻政策を取り浅井氏を政略婚
の同盟者として信長が認識してい
た事は次の『信長公記』の金ケ崎
の件でも明確に判明致します。

「江北浅井備前、手の反覆の由、
追々、其の注進侯。然れども、
浅井は★歴然御縁者たるの上、
剰へ、江北一円に仰せ付けら
るるの間、不足あるべからざるの条
、虚説たるべしと、おぼしめし侯
ところ、方々より事実の注進侯。
是非に及ばざるの由にて、
金ヶ崎の城には、木下藤吉郎
残しをかせられ、」とあり
織田信長は妹婿の浅井長政を
「★歴然御縁者たるの上、
剰へ、江北一円に仰せ付けら
るる」と表現しています。
信長から見れば浅井長政は
賢い人物、北近江の安泰も
約束している、そんな長政
が裏切るハズが無いと虚説
つまり、ウソやデマだとぞ
信じない信長の人間観察の
甘さが、露呈しております。
最も信長はその人生におい
て浅井氏、足利義昭、荒木氏
別所氏、松永久秀、最後には
明智光秀に裏切られると言う
事になります。当時謀反反乱
は日常茶飯事合戦も盆正月も
関係のない乱世だったのです。

  後世に書かれた  『老人雑話』は
明智光秀の言葉を以下の如く伝える・
「仏の嘘を方便と言い、武士の嘘
を武略と言う、百姓は可愛きことなり」

意味は「仏の嘘も武士の嘘も許される
のに、年貢をごまかした百姓だけを罰
するのはおかしい。百姓の嘘など可愛
いものではないか。」と言っている事。
仏も武士も〇〇も平気ウソを言う時代
現代の令和の世相でもあり真に悲しい。

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