コロナ感染に係る人権問題について。

2021-05-07 18:33:18 | 日記
 
 ここ最近、新型コロナウイルス感染症に罹患した経験のある和歌山県民として、行政による唯一の実名公表者である私は、マスコミからの取材依頼が数多く寄せられる。自分なりの物差しで取捨選択をしているので、お受けする場合もあるがお断りする場合もある。
 昨年12月に退院して間もない頃の取材では、コロナ検査に始まり、陽性判定確定から入院、そして自宅療養期間を経て社会復帰するまでの、所謂、コロナ体験記の様なコメント内容を求められた。しかし、第4波以降は打って変わって、コロナ感染に係る誹謗中傷及び、人権問題についての意見コメントを求められるようになった。変異株の到来による爆発的な新型コロナウイルスの蔓延。コロナ感染そのものが珍しくなくなった。つまり、コロナ罹患体験をした人が多くなりすぎて、体験記のコメント需要がなくなってきたのだろう。多くの人が経験した体験記なんていらない。よくよく考えてみれば当たり前の事だ。

 話を誹謗中傷及び人権問題に戻す。実名公表された私は、幾つか誹謗中傷及び人権侵害を受けた。具体的に例を挙げてみる。私の入院中、自宅に電話があり、私からコロナ感染し入院を翌日に控え、心身共に衰弱している状態の妻が電話を取った。和歌山市民を名乗る匿名の男性から、「市議会議員が感染するとは何事だ!けしからん!」と言った主旨で怒り心頭の電話があった。また、ネット掲示板でも、私がコロナに感染したことにふれ、「どうせ大阪に遊びに行って、お姉ちゃんにでもうつされたんやろ!」との主旨の書き込みがあった。これも匿名である。私の感染経路は県がクラスター認定している。そのなかで日中の会議による感染であると公表されている。つまり事実と異なる。どちらも法律に長けている立場の有識者(あえてそう明記する)並びに、コロナ人権相談センターに相談している。進捗状況までは言えないし言わない。

 私はこう見えていろんな意味で、「抜かりなくしたたか」である。過去には多くの人々が恐れる相手であっても、毅然とした態度で立ち向かい訴えも起こした経験がある。あの人相手にそんなことしたら殺されるかもよ?とまで言われた。私は利口ではないが馬鹿でもない。一時の感情で訴えたりしない。時間をかけて準備を整えた上での行動に移した。案件にもよるが、仮に十数年かかろうとしても、私はその苦労を厭わない。そして、その後、相手方は逮捕された人もいれば、起訴され有罪になった人もいた。古くから私をよく知る人なら説明するまでもないが、このような私の過去の行動履歴から分かる人は分かると思う。私なりの堪忍袋の限界があるので、いつまでも黙ってはいない。これは普通自分で言うようなことではないし、本当は自分では言いたくないが、手前味噌ながら、私は子供のころから優しい人ですね。とか、良い人ですね。と言われることがある。自分では無意識なだけにその言葉そのものはとても嬉しい。しかし、「良い人」と「お人好し」とは違う。似て非なるものだ。私は度が過ぎて人が良すぎるのは馬鹿の内だと考える。

 今ここで紹介した二例はほんの一部である。また、マスコミ取材については、直近では東京から共同通信の取材も受けた。取材内容は勿論、コロナ感染に係る誹謗中傷及び人権問題についてである。私は快く電話取材を受けた。原則コロナ関連の取材を快く応じるのには理由がある。コロナ体験記にしても、コロナ感染に係る人権侵害の経験にしても、公人として尚且つ実名公表している私だからこそ、重みのあるコメント発信が出来ると思うからである。匿名での発信では信憑性や説得力は劣るだろう。人生に無駄な経験なし、怪我の功名、雨降って地固まるが如く、私に課せられた使命だと思っています。 これからも和歌山市議会での言動を中心に、感染症対策の充実と並行して感染症に係る、誹謗中傷及び人権問題に取り組んでいくと腹に決めている。コロナ感染による肺炎の悪化から生還を果たした自分である。つまり今の私は儲けものの命である。そう思えば何も怖くはない。死んでいて当たり前だったかも知れないのだから。

 感染症との戦いは人類の起源にまで遡る。意外にも人類の長い歴史のなかで、感染症に人類が完全勝利したのは天然痘だけである。後々、現在のコロナ禍を振り返ってみたとしよう、その時期は、数年後でも数十年後でも、数千年後でもいい。今流行りの新型コロナウイルス感染症とはいえ、それは数ある人類と感染症との長い戦いの歴史のなかで、一種の感染症の流行りのたった一ページに過ぎないだろう。いつの時代であれ、感染症なのだから人から人へうつったりうつされたりするのは当たり前である。感染症とはそういうものだ。だから、誰からうつされたとか、誰にうつしたとかの恨み辛みの話はどうでもよい。どんなに感染予防策を講じていても、うつす時はうつすしうつる時はうつるのだから。 行政施策の一環として、保健所が行っている過去二週間の行動履歴調査の作業は、犯人捜しのためではない。更なる感染拡大を最小限にするための作業である。感染源を突き詰めて罵声を浴びせたり問い詰めたりしても仕方がない。対話は感情的ではなく、常に冷静かつ建設的な議論が必要だ。

 コロナ感染に係る人権問題について、少し強引だが交通事故に例えてみよう。勿論、交通法規を遵守したうえでの安全運転が前提であるが、事故にならないようどんなに注意して安全運転を心がけていても、交通事故が起きるときは起きる。問題は事故が起きてしまった後の対処だと思う。結果的に交通事故の加害者になった時、逃げる行為なんて最低だ。しかし、安全運転のうえで不運にも加害者になってしまったとしても、救急車を呼んだり、警察に連絡したり、その場の状況に応じて適切な処置をしたのであれば、起きてしまった事故そのものを過剰に非難するべきではない。少なくとも私はそう思う。

 話をコロナ禍に係る誹謗中傷及び人権問題に戻す。人権侵害にはいろんなケースがあると思う。ひとつの仮説事例として、自分が感染源であるにも関わらず、そこから感染させた人やその回りの人に対して、「私はあなた(あいつ)に感染させたのではない。寧ろ私はあなた(あいつ)に感染させられたのだ!私は被害者なのだ!」と吹聴するような人がいたとしたら、それは最低な行為であり、看過できない最低の人権問題である。前述の交通事故に例えると、轢き逃げ相当に値する程の酷い行為だと思う。あくまでも仮説とする。もし、永野さんが絶対に喧嘩したくない相手を1人だけあげるとしたら、それは誰ですか?と誰かに問われれば、それは間違いなく自分自身だと答えるだろう。何度でも言う、私はこう見えて「抜かりなくしたたか」である。 永野裕久