「宝憧寺跡地」まで戻り、西町通りを上がって行くと宮田旅館がありますが、その手前の道反対にあるのが「米屋少兵衛宅跡」です。
(実際は「小路」ではありませんが)
米屋少兵衛は八尾町の開祖といわれ、八尾開町に尽力した人です。
昭和42年発行の『八尾町史』に面白いエピソードが書かれていますので、かいつまんで紹介します。
戦国の世が終わり、太平の世を迎え暮らしが安定してきますと、聞名寺の門前町としての八尾を訪れる人も増加し、それに連れて物資の交流も多くなって来ました。
八尾村肝煎(庄屋さん)の少兵衛は八尾の地が商売に向いていると考え、ここに町を造って大いに栄えさせようと考えました。
しかし、それには土地が狭い。
現在の下新町近辺と、現在の西町の井田川沿い近辺が八尾村で、今町・西町・東町・上新町・諏訪町・西新町・東新町に当たる地域は桐山村という別の村だったのです。
少兵衛はこの桐山村に目をつけました。
おりしも寛永8(1631)年、井田川が洪水を起こし、八尾村の井田川沿いにあった田んぼが流され、村民は大損害を蒙りました。
これをチャンスに少兵衛は動きました。
農業で成り立っていた桐山村の、肝煎である佐五右衛門を訪ね、農業の大変さを説きつつ商業への転向を勧めたのでした。
しかし佐五右衛門は、農業だけで十分成り立っているので、慣れないことに手を出したくないとの理由で断りました。
それが余りにも強硬だったので、少兵衛は手を変えました。
夕方になってから自分の倅に桐山村を徘徊させる、ということを三ヶ月間させました。
その後これをやめさせ、家の中に引きこもるように命じました。
すると誰が言い出したことか、少兵衛の倅は佐五右衛門の娘に懸想して、恋煩いが昂じて寝込んでしまった、という噂が立ちました。
そこで少兵衛は、当時力のあった聞名寺の関係者を間に立てて、この縁談をまとめ、その後生まれた初孫の1歳の誕生日の祝いの席で、倅夫婦と一緒に佐五右衛門を説得して、とうとう町立ての協力を取り付けたのです。
開町後はこの地で米屋さんになりました。
今は駐車場になっています。
この駐車場奥からの景色がまたすばらしいです。
(2010年7月19日撮影)
ケヤキの木の間から見るこの景色は「西町八景」のひとつ(「木立の間の井田川」)に選ばれています。
(「西町八景」については、改めて書きたいと思います。)
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