WATERCOLORS ~非哲学的断章~

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「紅白歌合戦2014」雑感

2015年01月12日 | つまらない雑談

 大晦日に今年も紅白歌合戦をみた。全くつまらなかった。番組としての賞味期限切れだと思った。歴史的な役割を終えたのだとも思った。そうそろそろ紅白歌合戦の最終回を模索してもいいのではなかろうか。

 視聴率が下がったと騒いでいるようだが、視聴率についてもかつてとは見方を変えなければならない。一世帯に何台もテレビがある時代なのだ。ビデオ録画もある。仮に、数字の上で視聴率が高いとしても、紅白歌合戦だけを視ている家庭はそう多くはないというべきだろう。国民の心に対する紅白歌合戦の占有率は、例えば私の子供の頃に比べて、極めて低いと考えられる。もちろん、NHKも紅白存続のために必死だ。若者の紅白離れをくいとめ、みんなが一緒にみれる紅白を再建しようと努力と妥協をしているようだ。よく批判される、ジャニーズによる紅白支配や、AKBのでしゃばり過ぎ問題、ヒット曲のない昔の歌手の出場問題などは、その結果だと考えていいだろう。結果的に、紅白全体がちぐはぐとした、寄せ集め的な番組になっている印象を受ける。

 今回の紅白歌合戦についても様々な批判や問題点の指摘があるようだ。特に、中森明菜の出場はあまりに唐突で異質な印象を受けた。何かにおびえるかのような、おどおどした、病的な雰囲気だった。その出場はある種のサプライズなのかもしれないが、大晦日の家族だんらんの時間に、あのような中森明菜を登場させる意味が理解できない。サザンオールスターズや福山雅治、また「アナ雪」の外人の人が中継で出場したことは、紅白歌合戦の地位の低下を如実に物語っている。はっきりいって、やっつけ仕事だった。もはや、紅白歌合戦に出場することは特別なことなどではないのだ。

 一方、本当に問題だと思うのは、演歌に対する扱いだ。かつて演歌歌手は独自の世界を構築したものだ。歌う前に精神を集中して独特の雰囲気を漂わせ、楽曲と歌唱力と舞台演出によってひとつの世界を形作った。その世界はものすごい吸引力だった。演歌が好きではない私も、しばしばその吸引力にひきつけられ魅了されたものだ。けれどどうだろう。森進一の「ダメよ、ダメダメ」発言に象徴的なように、時代の軽薄さと手を結ぶことによってしか、もはや演歌は存立しえないのだ。哀愁の曲を歌う演歌歌手の背後で、ジャニーズやAKBがへらへらした顔でダンスし、合いの手を入れ、生意気な声援を送る。もはや、独自の世界の構築などない。演歌はおちゃらけの道具に過ぎない。

 芸能人は与えられた仕事をこなさなければならないのはよくわかる。次の仕事を得るためにテレビ局と良好な関係を築く必要のあることもよくわかる。個人的なわがままや仕事のえり好みなどすべきでないことも当然だろう。けれど、この演歌のおかれた状況を放置していては結局、ファンは離れ、演歌はますます衰退していくほかなかろう。時には、反乱を起こしてはどうだろう。番組に対して意見をいい、必要があれば出演拒否する。ひとりでやるのが大変なら、演歌歌手で対紅白の労働組合を結成し、団体交渉やストライキを行うなんていうのはどうだろう。

 近年の紅白歌合戦は、ジャニーズやAKBなど若者への譲歩・妥協と、演歌歌手ら大人への軽視・冷遇をその特徴としている。紅白存続のためにはある意味仕方のないことなのかもしれない。しかし、そういったNHKの姿勢が、結果的に紅白歌合戦を蹂躙する結果になっているように思える。かつて阿久悠は、「歌謡曲」というものを、老若男女が共感できる音楽であると規定した。けれど、近年の紅白歌合戦が映し出したのは、皮肉にもその歌謡曲の解体と不可能性である。もはや、老若男女がともに紅白歌合戦を楽しむのは不可能な時代なのだと思う。そこで提案だが、前半をジャニーズやAKB中心の構成にして若者たちに大いに盛り上がってもらい、後半は大人の歌手が真剣にそれぞれの世界観をもった歌で勝負するコーナーにするというのはどうだろう。若者たちは前半のコーナーが終わったら除夜の鐘でも聞きに行けばよい。もちろん、紅白歌合戦を存続する必要はない。解体してまったく別の番組に編成してもよい。国民的番組である紅白歌合戦にどうしてもこだわるのなら、国民の代表による「紅白歌合戦再建委員会」を組織するというのもあろうが、そこまでして延命する必要もないと思う。もうそういう時代なのだ。

 紅白歌合戦は最終回を迎えても一向にかまわないが、「ゆく年くる年」は続けてほしい。真の国民的番組だ。できれば、バージョンアップも考えてほしいぐらいだ。

 



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