WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

庭球する心・JAZZする心

2010年05月22日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 270●

Bud powell

Bouncing With Bud

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 ソフトテニスをやっている中学3年生の長男の中学総体地区予選が来週にせまっている。今日も午前中は練習、午後からはO中との練習試合を行ったようだ。新人大会地区第3位の実績をもち今回も第3シードのO中最強ペアに2戦2勝だったということで、長男も気をよくしているようだ。めずらしく意欲を燃やしている長男のためにも、テニス素人にもかかわらず一生懸命指導してくれている顧問の先生のためにも、何とか県大会ぐらいには進出してほしいと思っている。

 親バカの私は、数日前、意識向上を期して、長男に早稲田大学庭球部OBの福田雅之助氏の有名な言葉を贈ったのだが、ちょっと反抗期の長男は意に介さなかったようだ。この言葉は、テニス関係者なら誰でも知っている有名なもので、松岡修造氏がウインブルドンでベスト8を決めるマッチポイントの時、大きな声で叫んだことでも知られている。たしか、マンガ『エースをねらえ!』にも登場したような気がする。この言葉を改めて読んでみると、単純な私などは涙がでできたりする。

     *     *     *

   この一球は絶対無二の一球なり
   されば身心を挙げて一打すべし
   この一球一打に技を磨き体力を鍛へ
   精神力を養ふべきなり
   この一打に今の自己を発揮すべし
   これを庭球する心といふ

     *     *     *

 有名な「この一球は絶対無二の一球なり」というフレーズもさることながら、最後の「これを庭球する心といふ」というところが何ともいえずいい。私はここに涙してしまう。

     *     *     *     *     *

 今日の一枚は、バド・パウエルの晩年1962年にコペンハーゲンで録音された『バウンシング・ウィズ・バド』である。バド・パウエル渡欧後の作品である。当時若干16歳のベーシスト、ニールス・ペデルセンが参加していることからも注目されるアルバムである。

 評価は分かれるだろうが、晩年のバドの作品を基本的に好きだ。多くの批評家はこの作品をバド晩年の名盤のひとつに挙げているようだ。私のもっているCDの帯にも「1962年4月26日にコペンハーゲンで録音された名盤中の名盤」と記されてある。たまたま手元にある『ジャズ喫茶マスター、こだわりの名盤』(講談社+α文庫)も「晩年の彼は決して絶頂期の閃きを取り戻すことはなかったが、体調のいいときはかなりいい録音を残した。アップテンポで録音される③などまさに驚くほどの出来で、指は一度ももつれることなく、安定したソロを展開する。」としている。もちろん、このアルバムを評価しての文である。ただ間違っているわけではないが、考えようによってはちょっと失礼な言い方ではある。

 しかしである。ときどき考えてしまうのだ。ジャズ史的にあるいはジャズピアノ史的に聴くのでなければ、バド・パウエルのような「古い」ピアニストを聴く意味とは何だろうかと……。指のもつれない、スムーズで安定した演奏ならば、カクテルピアニストやきれい系ジャズピアニストの得意とするところである。そもそも演奏技術の発達した現代のピアニストの演奏は基本的にスムーズである。それでは、われわれが「古い」演奏に求めるのは何なのだろう。私は、楽曲の中心にある芯のようなものがより素朴な形で表現されているということだと考えている。それはいわば、《JAZZする心》だ。「古い」演奏には、《JAZZする心》が素朴な形で現れているのだ。それが、現代を生きる我々の心をとらえて話さないのではなかろうか。その意味でも、この作品を含めて、私が晩年のバド・パウエルを基本的に好きな理由は、指がもつれないとか、演奏がスムーズで安定しているとかのためではない。バドが多少不調でも、そこにはまぎれもなく《JAZZする心》が宿っており、たとえたどたどしい語り口であっても、楽曲の芯を弾きあてているような気がするのである。

 演奏が安定している本アルバムは、そのことがよりベターな形で現れているというべきなのだろう。

 

 

 

 


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