WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

発達障害に関する覚書(3)

2019年06月29日 | 発達障害について
自閉症スペクトラム障害(3)
 ~社会性の障害について~

 自閉症スペクトラム障害は、「社会性の障害」「コミュニケーションの障害」「想像力の障害(こだわり)」が中心的症状であるとされ、これらは「三つ組」などといわれている。「社会性の障害」「コミュニケーションの障害」を1つにまとめて考えてもよかろう。実際、DSM-5(アメリカ精神医学会の「精神疾患の診断・統計マニュアル第5版」)では1つにまとめて考えられているようだ。ここでは、参考文献を参照しつつ、「三つ組」について、それぞれの具体的様相をまとめておきたい。まずは、対人関係の特異性を特徴とする「社会性の障害」である。

相手の気持ちや状況を考えない言動
太っている友だちに対して「太っているね」といってしまうなど。
●マイペースで、一方的な言動
周りの友だちが皆で遊んでいても仲間に入らず、一人で遊び続けることが多く、一緒に遊んだ場合でも、その場を仕切って自分のペースに引き込もうとする。思い通りにいかないと癇癪をおこす。
●場の雰囲気が読めない
相手が困惑し、迷惑がっているのに気づかない。静かにすべき場所か、騒いでいい場所か判断できない。
●人に対する共感性が弱い(他者への関心が薄い)
初対面の人に次々と不躾な質問をしたり、自分が関心のある話題を一方的に話し続けたりする。自分が関心あることは、相手も関心があると思ってしまう。
●人と関わることが苦手
視線を合わせたり、手をつなぐなどの身体的接触が苦手

[参考文献]
田淵俊彦ほか『発達障害と少年犯罪』新潮新書2018
平岩幹男『自閉症スペクトラム障害』岩波新書2012
岩波明『発達障害』文春新書2017
杉山登志郎『発達障害の子どもたち』講談社現代新書2007



カフェ・コロポックル

2019年06月29日 | ジャズ喫茶


 2016年にオープンしたという宮城・栗原市若柳の「カフェ・コロポックル」である。ラムサール条約指定の白鳥の飛来地、伊豆沼のほとりにあるジャズ喫茶だ。半年ほど前、知人に紹介されて行ってみた。最初の訪問ですっかり気に入ってしまった。自宅からは三陸道を車でとばしても1時間20分程度かかるが、3,4度は足を運んだだろうか。

 スピーカーはJBLのDD67000、その他の機材はマスターの自作だそうだ。14時以降は大音量タイムで、結構な音量だが不思議なことに聴き疲れしない。全体的に柔らかく繊細な音で、曲の終わりの余韻がたまらなくいい。

 アナログレコードだけでなく、CDやハイレゾ音源をいい音で聴くのがコンセプトとのことで、実際、かけられる音楽もほとんどがデジタル音源だ。しかし、そんなことなど全く知らなかった私は、初めて訪問した時、生意気にもアナログ盤をかけるようリクエストしてしまった。以来、マスターがそのことを覚えているのか、あるいはたまたまなのかわからないが、私が訪問すると必ずアナログ盤がかけられる。うれしいやら、恥ずかしいやら、アンビバレントな気持ちだ。

 昔のジャズ喫茶と違ってコーヒーがすごくおいしい。また、高台にあるため、テラス席から見る伊豆沼の景色は本当に素晴らしい。気分よく、ゆったりとした穏やかな時間を過ごせる空間である。自宅からは遠いが、時間があれば何度も行ってみたいジャズ喫茶だ。




堤防に思う ~命が一番大切なのか~

2019年06月29日 | 大津波の現場から


 私の住む街の堤防の上からの写真である。大津波のあと,海岸線には何キロにもわたってこのような堤防が築かれた。先日、私はジョギングコースに使ってみた。空は曇っており,私以外に人は見当たらなかったが、海を見ながらのジョギングはなかなか快適だった。
 
 
ところで、私の住む街には、いまでも堤防建設そのものに反対する人々が多数いる。堤防建設を渋々容認しつつも、できるだけ低いものにするよう訴えている人たちも多数いる。

 堤防は、「人の命が一番大切」という国や県の主張のもと次々建設され、既成事実が積み重ねられていった。説明や話し合いを十分に行ったということになってはいるが、結論ありきの国や県のやり方は、反対派の人たちの立場から見れば、暴力的ともいえるものだったろう。
 
 それにしても、本当に「人の命が一番大切」なのだろうか。「人の命が一番大切」という言い方は、一見もっともで批判できない言葉のように思える。けれど、そもそも「人の命が一番大切」というからには、「命」とは何かが問われなければならない。震災直後には、そのことが問われる可能性があった。社会の中で議論が深められる可能性があった。震災の後、復興を論じるテレビ番組の中で「人の命が一番大切なのではない」と喝破した評論家がいた。勇気ある発言だった。私は共感を禁じ得なかった。しかし、多くの犠牲者を出した震災後の風潮とテレビ局の自粛(自己防衛)のためか、その主張はかき消され、その評論家がテレビに出ることはなくなった。「命」についての思考は停止し、「命」の語は奥行きのない漠然とした記号として流布するようになった。

 「生命」とはあるいは「生きる」とは何なのだろう。生きるとは、どのように生きるかという問題と表裏である。脳死の問題ともリンクすることだが、心臓が動いて、食べて排せつして寝るだけで生きているといえるだろうか。生命あるいは生きるということは、人間が何かを感じ、考え、そして生活するということと大きく関係しているように思える。人間の尊厳の問題といってもいいだろう。堤防は生活の場と海とを遮断し、視界から海を消し去ってしまう。漁師や海辺に生活する人々にとって、海の見えない生活は、彼らの生きる意味や人間としての尊厳と大きく関係しているのだ。

 縄文時代以来、海辺に住む人たちは津波と戦ってきた。家を流されるたびに街を再建し、生活してきた。もちろん命を守ることは必要である。けれども、彼らが長い歴史の中で海を離れることはなかった。それが自然とともに生きるということなのであり、自然に敬意を払うということだろう。堤防は、海と人々の生活を隔ててしまったが、自然と我々をもべててしまったように思う。