highdy の気まぐれブログ

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小さな愛が大きな心豊かな人生

2024年06月02日 | 処世訓(highdy のことば)


とは
 このシリーズで何度か「愛」について取り上げていますが、「愛」という言葉はそう簡単に語れるものではなく、奥深いものがあります。以下も一つの切り口になります。

愛とは自分を大切にし、他人のために、報酬を期待せず働くことです。
 自分を大切にするということは、自分の命を大切にすることです。
自分であれ他人であれ、命を否定すること =「宇宙の真理」に逆らうことになり、男でも女でも、その人の命が現在あることは、とても尊いもので自由には変えられないものであることを忘れてはいけないことです。
従い、一旦「生」を受けたからには、どんな境遇であっても自分の命も他人の命も大切に守り通すのが「人の道」です。

 他人のために働くということは、自分の力(命)を活かし家族はもちろん愛する人や友人や知人を含め、世界の人のために尽くすことです。
 すなわち他人のために尽くすということは、報酬を求めることではなく無償の奉仕をすることを意味します。
そうは言っても、自分が溺れていては他人を救うことはできません。先ずは自分の足元、すなわち命や生活基盤をしっかり確保することです。


これと下の画像はいずれも生成AIに「愛」という
テーマを与えて描いてもらったものです。

愛だけあっても、人は生きていく上では衣・食・住も必要になります。それらを得るためには、愛とは別に労働報酬を期待して働くこともあります。
もちろん、その労働が他人を喜ばせるものであれば、この上ない幸せというものでしょう。
しかし、世の中にはすべての人類に対する欲が少なく愛のない人も存在し、自分の欲望しか考えず、他人のことなど知らぬフリをして私利私欲に走る人がいます。
そのような人に限って個人の欲望は限りを知らず、つまり満足というものを知らずにあらゆる欲望を求め続けます。正に、「人の道」に背いた「哀れな負け犬」です。



ボランティア
 一生懸命に人類のために働き、余剰分(ゆとりの力)ボランティアとして社会に還元する余裕こそ「心豊かな人生」となります。
ボランティアをして他人に感謝され喜ばれたときの嬉しさや満足感は、仕事や趣味で困難なことをやり終えてたときの征服感や達成感に等しいものです。
ボランティアは裕福でなければ、できないものではありません。金品として目には見えなくても、知識労力の無償提供であれば誰でも(その気になれば)できるものです。単に、心にゆとりがあるか、ないかだけの違いです。
小さな愛が大きな心豊かな人生になります。

専門家ではありません!
 長年いつもこんなことを書いていますが、highdy は哲学者・心理学者・医者でもありません。精神的な病やいろいろな健康的障がいを治すこともあるので、「highdy 教」と冗談を仰る方がいますが、宗教家ではないのでお金は一切集めてはいません。
パソコン教室だって約15年間以上完全無料で、やってきました。
殆どの方々には周りの人に比べて何か特技があるものです。長い人生です、それを生かして他人に尽くすことを考えてみてはいかがでしょう。





本日もご来訪いただきありがとうございました。

 
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5 コメント

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Unknown (馬鹿も一心)
2024-06-02 21:56:07
拍手喝采👏
心の琴線に沁み入る。
返信する
沢山尽くして来られましたから… (highdy)
2024-06-03 09:27:15
馬鹿も一心 さん

一心さんは、社会人になってからいろいろと他人のため、家族のために尽くして来られましたから、将来きっとその良き報いもあるでしょう。
返信する
Unknown (ZIP)
2024-06-07 00:18:27
人の命が全て尊いといえる根拠は何でしょうか?
絶対に人を殺してはいけないと、誰もが納得できる理由とは何でしょうか?
返信する
哲学思想が拠りどころに・・・ (highdy)
2024-06-08 19:00:52
ZIP さん

ZIP さん お久し振りですね。ご訪問ありがとうございます。
あなたなら、人の命が全て尊いという根拠、絶対に人を殺してはいけない理由に対して、
他人から尋ねられたらどのようにお答えでしょうか?
私をはじめ多くの方々があなたの質問に答えるためには、その方の持つ基本的な
(宗教観を含む)哲学思想が拠りどころにされると思います。
私達は人それぞれにその人の成長に応じた感情や才能、経験値やあらゆる記憶を持って
います。そしてそれらは、その人の持つ哲学・宗教観(宗教も哲学から派生したもの
なので)に影響を受け、「人の命が全て尊いといえる根拠」や、「人を殺してはいけない
理由」に関しては、答え方もまちまちだと思います。
はじめにお断りしますが、私の考えもその一つにしか過ぎないものです。

 例えば、自衛や刑罰のために人を殺すことは正当だと思いますか?
また、脳死状態や植物状態の人の命は尊くないと思いますか?
これらの判断には多くの人々の合意が必要になり、それぞれの状況にケース・バイ・
ケースで判断が異なると思います。
もし、あなたが「自分の命は虫けらのようなものだから大して尊くない、殺されても
構わない」と思われるなら、自分の存在(命)を否定されていることになります。
でも、それはあなた個人の根拠に拠る判断であって、誰もが認める理由にはならない
と思います。

 私の意見は、「命は不可逆的であり、一度失われたら取り戻すことはできない」
という理由もありますが、① 人の命は唯一無二の存在である ② 人は社会の一員として
互いに支え合って生きており、それぞれ社会にとってかけがえのない役割を果たしている
③ その人を殺すことは、社会全体の安全と安定を損なうもので、加害者にとっても
被害者にとっても社会の損失になる。④ そのためには、誰もが認める「社会の秩序を守るための法や道徳」は必要不可欠です。
 一方で人は喜び、悲しみ、苦しみなどの感情を持ち、それら感情は、私たちの人生に
豊かさをもたらしたり、他者との深い繋がりを感じさせてくれたり、痛みや苦しみが
私たちに生きることの尊さを教えてくれることさえあります。
また、動物実験や安楽死などの問題を考える際にも、苦しみから解放される権利がある
と主張する人々もいます。

 結論として、この種の哲学的な意見は、社会全体が認める中で自分の存在を確認する
ことで、人は一人で生きているわけではなく自分勝手な意見・判断を押し付けることは
できないと思います。
 ZIPさんのように、自分で疑問に思うことを他人に尋ねてみる行動も大変素晴らしい
ことだと思います。何故なら他人に尋ねること自体、自分だけが生きているのではなく、
社会の中で共存しているということを既に認めておられるからです。すなわち、尋ねる人
を自分と同じ「人」として見ており、決して意思の疎通ができない他の種の生物と思って
いないからです。
返信する
Unknown (ZIP)
2024-06-08 22:27:20
人の命が全て尊いとは思っていません。
逆に人命を賭けてでも護るべきことや、場合によっては命に優先順位を科さねばならない職業があるのも承知しています。
また、命の不可逆性は何も人間に限ったことではありません。
動物に対して無益な殺生を楽しむような人間の命が尊いと思うこともありません。
ましてや哲学や宗教によって答えが得られるとも思っていません。
法による殺人の正当化や、人命より優先される正義を価値として存続してきた国家を見れば、人命が何にもまして尊重されたことなど、有史以来一度だってありはしません。

不可逆的かつ唯一無二の命という事実から、殺人の禁止という価値判断は導き出せません。
返信する

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