日記

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福徳・功徳の資糧集積のあり方について

2024年03月15日 | ブログ
功徳行、報恩行、助正業として、ボランティアや奉仕活動、慈善事業、寄附事業を勧めるのは、浄土真宗的にも、また、仏教的にも、誰もが平等にできるような実践ではないということもあるのだが、あまり良い功徳行、報恩行、助正業というわけでもないのである。

もちろん、社会、国、世界では奨励されていることではあるため、個人の意思で行う分には当然に構わないことではあるが、結局は、人間ご都合主義、人間第一主義のいわゆる優生思想、差別思想を内包してあることがあるため、仏教の全ての衆生を助ける、救うというための平等の慈悲によっての行いにはなりにくく、それどころか、自己満足や欺瞞に陥り、自分では良いことをしたつもりではあるものの、それが功徳にもならずに、逆に業を汚す行いとなり得ることにも注意が必要になるのであります。(例えば、(人間社会の)公共のためにと、国に寄附しても、その僅か0.001%でも、世界公共のため、秩序維持、安定のため、国のためとして、ウクライナやイスラエルへの武器弾薬の支援へと使われてしまい、人殺しへと繋がったならば、間接的にもその業は共業として報いを必ず受けることになるのであります。それは納めた税金でもしかりとなります。)

前にも少し触れたことですが、チベット仏教においての福徳、功徳の資糧の集積に、まず何よりもラマや高僧のお世話やお手伝いをすることが挙げられてあることに、長年、不思議で理解ができなかったのでありました。

しかし、ダライ・ラマ法王猊下やリンポチェ高僧方のお世話をすることの意味を考えた際に、仏や菩薩を供養する意味と同じくに、真なる慈悲の事業を行える者を助けることや、その者たちを礼拝、讃嘆、勧請、供養することは、その慈悲の事業を手伝うことに繋がるため、境地も低く、愚鈍未熟な自分ではとてもできないような仏教における真の福徳となる事業を、ラマやリンポチェ方を通じて間接的ながらにも積むことができるということになるわけであります。

七支供養やタントラ成就法が、福徳資糧の修養となるのも、仏や菩薩が行う事業の推進へと繋がり、一切衆生へと平等に役立つことに繋がるからであります。読経や真言を唱えるのが功徳となるのも、仏や菩薩の事業をお手伝いする、役に立てるという面が少なからずあるからでもあります。

もしも、悟りへと至るための膨大な資糧集積を「信心」一つに集約させるということであるならば、阿弥陀如来への供養にその集積を集約させることは十分にあり得ると考えており、それを浄土真宗、親鸞聖人の思想から、拙生は考究しているのであります。

その「信心」一つへの集約の方向性とは全くの逆になっているのが、つまり、一連の「新しい領解文」へと至る流れでもあるわけです。


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