平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

オウム真理教事件

2006年09月16日 | Weblog
麻原彰晃こと松本智津夫被告の死刑が確定しました。オウム真理教が行なった犯罪の全貌はいまだ解明されていませんが、松本被告が裁判を拒絶している状態なので、これ以上裁判を引きのばしても、何も出てこないでしょう。

オウム真理教の事件は、宗教の思い込みがいかに恐ろしい事態を引き起こすか、ということを示しています。麻原の出発点は、ヨガや密教を自分なりにアレンジしたオカルト的な宗教でした。麻原の教えに参加したのは、「空中浮揚」などの神秘力に惹かれた若者たちでした。麻原は「グル」として絶対的な信仰の対象になりました。そのグルが命じた殺人を、弟子たちは神の命令として実行してしまいました。地下鉄サリン事件が起こされたのは、1995年3月20日のことです。

オウム真理教事件から、人類はいくつかの教訓を学び取ることができるでしょう。

(1)超能力、神秘力、霊能
 宗教とは単なる理論や哲学や倫理や儀式や葬式ではありません。宗教は、神や仏、その他の名称もあるかもしれませんが、物質的・肉体的レベルを超えた、何らかの高次の領域や次元と自己との関係の解明であり、そのための実践です。宗教的実践によってそういう領域と関係に入ると、多かれ少なかれ霊的現象が伴います。しかし、超能力、神秘力、霊能が自己目的化すると、それは宗教の本道からの逸脱になります。なぜなら、宗教が最終的に目指すものは、自我欲望の消滅であるのに対し、超能力、神秘力、霊能――他人にはない特別な力――の獲得は、まさに自我欲望の肥大化につながりかねないからです。超能力、神秘力、霊能をうたい文句にしたオウム真理教は、その出発点において道を誤り、その道は自他破滅の結果へと至りついたのです。心すべきは、宗教に何を求めるのかという根本姿勢であります。

(2)反知性主義
 宗教には科学の常識を超えた部分があります。たとえば、人間は死ねば存在しなくなる、というのが今日の常識であるとすれば、人間は死んでも霊的次元に生きつづける、というのは非・常識です。病気は薬や手術によって治る、というのが今日の常識であれば、祈りによっても病気が治る、というのは非・常識です。

 しかし、常識というのは、その時代の一般的な通念であるにすぎず、真理であるかどうかはわかりません。たとえば、中世においては地球はたいらで宇宙の中心にある、というのが常識でしたが、今日では、地球は球体で、太陽のまわりを回っている、というのが常識です。常識は必ずしも「常」なる知識ではありません。

 宗教には常識を逸脱する部分がありますが、かといって、宗教の主張をそのまま鵜呑みにして、反知性主義におちいるとしたら危険です。オウム信者は、殺人は相手のカルマを消滅させてやることだ、という教義を信じてサリン事件を起こしました。どんな教義であれ、自分の知性や良心に照らしておかしいものは拒絶する自由を人間は持っています。そうでなければ、人間はグルや教義に縛られ、自分の頭で思考できない奴隷になってしまいます。

(3)グル主義
 宗教の世界には偉大な先達がいます。仏陀、イエス、モハメッド・・・・。今日でも世界中の多くの人々は彼らを偉大な教祖としてあがめています。彼らはすでに肉体界に存在していませんが、彼らが残した言葉(とされるもの)は、今なお聖典として人々に大きな影響を及ぼしています。聖典にはもちろん素晴らしい教えもあるのですが、逆に今日の人類の心を縛っている部分もあります。大昔の彼らの言葉を絶対化するところには、自由ではなく不自由が生まれ、その行き着く先は、聖典の一字一画でも守ろうとする原理主義です。

 ましてや、そのような偉大な教祖が現に生きていたならば、彼らの言葉は弟子たちに絶対的な権威を持つことでしょう。麻原彰晃はもちろんそれほどの偉大な宗教家ではありませんでしたが、彼の弟子たちは彼を偉大なグルと受け取り、彼に絶対服従してしまったのです。

 偉大な宗教者に接しても、自分の自由を全面的に譲り渡すことは誤りです。もし絶対服従を要求をする宗教者がいたとすれば、それだけでその人物は本ものではない、ということがわかります。なぜなら、真理は人を自由ならしめるものであって、人を服従せしめるものではないからです。

(4)出家主義
 オウムは「最終解脱」を実現するために、出家主義を取りました。信者は、この世の仕事も財産もすべてなげうって(その財産はもちろん教団に寄付させるのです)、教団内での修行に明け暮れなければなりませんでした。仏教にしても、出発点はたしかに出家主義であり、今日でもその要素は残っています。しかし、専門的な僧侶しか悟れない、というのでは、一般大衆は永遠に救われません。その弊害を打破するために、法然・親鸞が在家主義の教え(易行道)を打ち出し、それによって救われの道が大きく拡大されました。今日の社会では、出家主義はごく一部の人にしか可能でありません。僧侶や牧師のような聖職者といっても、現実的には衣食住にお金がかかるわけで、信者の寄付や拠金によって生きているわけです。教団全体が出家主義になると、常に新しい出家信者からお金を巻き上げることが必要になります。これがオウムの堕落を引き起こした一つの原因です。

 今日の宗教は、現実生活と宗教生活を両立させる教えなければなりません。現実生活をないがしろにさせる宗教は、どこか無理があります。

オウム真理教でなくても、このような問題をかかえた宗教団体は現在でも存在するのではないでしょうか。