富田メモのもっとよい写真が見つかりました。
http://pg1.up.seesaa.net/image/vip295965.jpg
これを見ると、
「当該メモの右側に見える紙は、当該メモと最初からつながっていた用紙なのか、それともあとから右側に糊を付けてくっつけたかのどちらかです。全体的な印象からすると、最初からつながっているように感じられます。」
という昨日の記述の「全体的な印象からすると、最初からつながっているように感じられます」は間違いであったことがわかりましたので、削除します。
当該メモの右側に見える紙は、当該メモの上に、右側を糊代にして貼りつけられたものであることがよくわかります。
さて、何も書かれていない右側のページですが、その裏に書かれている文字が透けて見えます。その記述が以下のように解読されました。
********************
63.4.28
☆Pressの会見
① 昨年は
(1) 高松薨去間もないときで
心も重かった
(2) メモで返答したのでつく
していたと思う
(3) 4.29に吐瀉したが その前で
やはり体調が充分でなかった
それで長官に今年はの記者
印象があったのであろう
=(2)については記者も申して
おりました
② 戦争の感想を問われ
嫌な気持を表現したが
それは後で云いたい
そして戦後国民が努力して
平和の確立につとめてくれた
ことを云いたかった
"嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長
の靖国発言中国への言及にひっかけて
云った積りである
********************
そして、当該メモの上には次のような記述があります。
********************
4.28 ④
前にあったね どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったか
藤尾(文相)の発言。
=奧野は藤尾と違うと思うが
バランス感覚のことと思う
単純な復古ではないとも。
********************
この下に当該メモが来ます。さらに、問題のメモの横と下には次のような記述も見えます。
********************
余り閣僚も知らす
そうですがか多い
関連質問 関係者もおり批判になるの意
********************
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html
2枚のメモ用紙に書かれた記述は日付も同じ4月28日ですし、①、②、④という番号も振られていますので、一連の記述と見なすことができるでしょう(③がないのは謎です。富田氏の勘違いか、それとももう1枚のメモ用紙があるのか)。一連の記述であるが故に、手帳の同じ頁に一緒に貼りつけたのでしょう。
いずれにしても、日経新聞がこの部分を隠蔽した(報道しなかった)ことは、きわめて遺憾です。そのために、インターネットでこのメモに対する「捏造疑惑」が広がることになったからです。
解読された記述から、捏造説を主張するブログ「依存症の独り言」ではこう推論されています。
********************
1.メモはプレスの会見を筆記したものである。
2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。
3.質問に対する答えは率直な感想を述べているように読み取れる。発言内容を事前にチェックされる立場の人間ではない事が判る。
4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく、仕える立場の人物の発言と読み取れる。
5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。
6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。
7.あまり閣僚を知らない人物である。
8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。
9.靖国神社の松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者である事が判る。
以上の事から考えて、このメモの発言者として最も適当な人物は徳川侍従長である事は明白です。
理由は以下の通りです。
a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。(会見の有無は確認できず)
b.徳川侍従長の以前からの発言と相似している。
c.前出の1~9の指摘事項に全てあてはまる。
では昭和天皇陛下の発言とした場合、以下の矛盾点が生じます。
イ.この日に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の天皇誕生日での会見は記録に残っている。
ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。又、質問する機会もない。
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http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html
この「徳川侍従長説」を検証してみましょう。
《4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく、仕える立場の人物の発言と読み取れる。》
→
高松宮様が薨去されたのは、昭和62年(1987年)2月3日です。昭和天皇はこの弟宮をことのほか愛し、入院中は3度もお見舞いに訪れています。
保坂正康『昭和天皇』(中央公論新社)によると、
「死の一時間ほど前、天皇は三度目のお見舞いに駆けつけた。高松宮の意識はすでになく、呼吸はしばし途絶えた。
天皇はそういう弟宮に顔を近づけて、「高松さん、高松さん・・・・」と何度か呼びかけ、そしてなにごとかを囁きつづけていた」(463頁)
昭和天皇が病院から戻って1時間後に、高松宮は逝去されました。
この年の天皇陛下の記者会見は、4月21日に行なわれました。その時、記者たちに高松宮の逝去について質問されて、昭和天皇はこのように答えています。
「高松宮の薨去については皆が、私に悔やんでくれたことを感謝します。・・・・」(保坂正康、465頁)
昭和天皇は「高松宮の薨去」という表現をはっきりと使っていたのです。
次の問題に移ります。
《5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。》
→
では、自分のことなら、どのような表現にすればいいのでしょうか? 科学者でもあらせられた昭和天皇は、自分のことでもこのように客観的に表現なさるのが自然と考えられます。
そこでメモの①をもう一度見ると、
********************
63.4.28
☆Pressの会見
① 昨年は
(1) 高松薨去間もないときで
心も重かった
(2) メモで返答したのでつく
していたと思う
(3) 4.29に吐瀉したが その前で
やはり体調が充分でなかった
********************
となっています。「① 昨年は」と書いているので、これは昭和63年の段階で、前年の昭和62年のことを回想していることがわかります。
昭和天皇は毎年4月29日の天皇誕生日にあわせて、記者会見を行なっていました(記者会見はいずれも天皇誕生日の前に行なわれ、4月29日の新聞に掲載されました)。ですから、「☆Pressの会見」とは、昭和63年4月28日に行なわれた記者会見のメモという意味ではなく、この日に「昨年のPressの会見」を想起している、という意味に解釈するのが自然です。つまり、「☆Pressの会見」を、「依存症の独り言」のように
《1.メモはプレスの会見を筆記したものである。》
と解釈することには無理があります。「☆Pressの会見」という表題はむしろ、「プレスの会見について」と理解すべきなのです。
事実、①の(1)(2)(3)すべてが「昨年」、すなわち昭和62年の出来事に関わっています。
(3)にあるように、昭和天皇は昭和62年4月29日の誕生日に「吐瀉」しています。
保坂正康氏の前掲著書より――
「(4月29日の)正午からは、「宴会の儀」が宮殿の豊明殿で行われた。この宴会の折に、「天皇陛下が戻されたのだ。この時は、そばに着席されていた美智子さまたちがすぐに気づかれ、侍従にお伝えになり、急いで陛下を宮殿内の控え室にお運びした」(稲生雅亮『昭和天皇の魅力』)というのである。」(468頁)
「(1) 高松薨去間もないときで心も重かった」というのは、明らかに62年4月21日の記者会見の時の昭和天皇の心境を指しています。昭和天皇が吐瀉したのは4月29日でしたが、その前の4月21日の記者会見の時も「(3)その(吐瀉の)前でやはり体調が充分でなかった」と振り返っておられるのです。
このようなことを徳川侍従長が言ったとはとうてい考えられません。徳川侍従長が、天皇になりかわり、「高松薨去間もないときで心も重かった」とか「4.29に吐瀉したがその前でやはり体調が充分でなかった」と天皇の心境や体調を、あたかも自分のことのように説明するとしたら、それは僭越千万ということになります。
「(2) メモで返答したのでつくしていたと思う」というのは、天皇陛下が、記者からの質問を前もって受けていて、それに対するメモを作成して、答えるべきことをきちんと答えることができた、という意味か、それともあとでメモを渡した、という意味に解釈できます。
「=(2)については記者も申しておりました」というのは、記者も会見の内容が「つくされていた」ことを、会見のあとに記者が富田氏に伝え、それを富田氏が昭和天皇に報告しているのでしょう。
ブログ「依存症の独り言」が徳川氏の発言とする根拠(「薨去」「吐瀉」)は、昭和天皇ご自身の発言と見なしたほうが自然なのです。
「それで長官に今年はの記者 印象があったのであろう」というのは、文章があまりに不完全で、意味がよくわかりません。しいて推理をたくましくするならば、「今年は別の印象があったということを記者たちが富田長官に述べたのであろう」というような昭和天皇の発言かと思います。
http://pg1.up.seesaa.net/image/vip295965.jpg
これを見ると、
「当該メモの右側に見える紙は、当該メモと最初からつながっていた用紙なのか、それともあとから右側に糊を付けてくっつけたかのどちらかです。全体的な印象からすると、最初からつながっているように感じられます。」
という昨日の記述の「全体的な印象からすると、最初からつながっているように感じられます」は間違いであったことがわかりましたので、削除します。
当該メモの右側に見える紙は、当該メモの上に、右側を糊代にして貼りつけられたものであることがよくわかります。
さて、何も書かれていない右側のページですが、その裏に書かれている文字が透けて見えます。その記述が以下のように解読されました。
********************
63.4.28
☆Pressの会見
① 昨年は
(1) 高松薨去間もないときで
心も重かった
(2) メモで返答したのでつく
していたと思う
(3) 4.29に吐瀉したが その前で
やはり体調が充分でなかった
それで長官に今年はの記者
印象があったのであろう
=(2)については記者も申して
おりました
② 戦争の感想を問われ
嫌な気持を表現したが
それは後で云いたい
そして戦後国民が努力して
平和の確立につとめてくれた
ことを云いたかった
"嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長
の靖国発言中国への言及にひっかけて
云った積りである
********************
そして、当該メモの上には次のような記述があります。
********************
4.28 ④
前にあったね どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったか
藤尾(文相)の発言。
=奧野は藤尾と違うと思うが
バランス感覚のことと思う
単純な復古ではないとも。
********************
この下に当該メモが来ます。さらに、問題のメモの横と下には次のような記述も見えます。
********************
余り閣僚も知らす
そうですがか多い
関連質問 関係者もおり批判になるの意
********************
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html
2枚のメモ用紙に書かれた記述は日付も同じ4月28日ですし、①、②、④という番号も振られていますので、一連の記述と見なすことができるでしょう(③がないのは謎です。富田氏の勘違いか、それとももう1枚のメモ用紙があるのか)。一連の記述であるが故に、手帳の同じ頁に一緒に貼りつけたのでしょう。
いずれにしても、日経新聞がこの部分を隠蔽した(報道しなかった)ことは、きわめて遺憾です。そのために、インターネットでこのメモに対する「捏造疑惑」が広がることになったからです。
解読された記述から、捏造説を主張するブログ「依存症の独り言」ではこう推論されています。
********************
1.メモはプレスの会見を筆記したものである。
2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。
3.質問に対する答えは率直な感想を述べているように読み取れる。発言内容を事前にチェックされる立場の人間ではない事が判る。
4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく、仕える立場の人物の発言と読み取れる。
5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。
6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。
7.あまり閣僚を知らない人物である。
8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。
9.靖国神社の松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者である事が判る。
以上の事から考えて、このメモの発言者として最も適当な人物は徳川侍従長である事は明白です。
理由は以下の通りです。
a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。(会見の有無は確認できず)
b.徳川侍従長の以前からの発言と相似している。
c.前出の1~9の指摘事項に全てあてはまる。
では昭和天皇陛下の発言とした場合、以下の矛盾点が生じます。
イ.この日に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の天皇誕生日での会見は記録に残っている。
ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。又、質問する機会もない。
********************
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html
この「徳川侍従長説」を検証してみましょう。
《4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく、仕える立場の人物の発言と読み取れる。》
→
高松宮様が薨去されたのは、昭和62年(1987年)2月3日です。昭和天皇はこの弟宮をことのほか愛し、入院中は3度もお見舞いに訪れています。
保坂正康『昭和天皇』(中央公論新社)によると、
「死の一時間ほど前、天皇は三度目のお見舞いに駆けつけた。高松宮の意識はすでになく、呼吸はしばし途絶えた。
天皇はそういう弟宮に顔を近づけて、「高松さん、高松さん・・・・」と何度か呼びかけ、そしてなにごとかを囁きつづけていた」(463頁)
昭和天皇が病院から戻って1時間後に、高松宮は逝去されました。
この年の天皇陛下の記者会見は、4月21日に行なわれました。その時、記者たちに高松宮の逝去について質問されて、昭和天皇はこのように答えています。
「高松宮の薨去については皆が、私に悔やんでくれたことを感謝します。・・・・」(保坂正康、465頁)
昭和天皇は「高松宮の薨去」という表現をはっきりと使っていたのです。
次の問題に移ります。
《5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。》
→
では、自分のことなら、どのような表現にすればいいのでしょうか? 科学者でもあらせられた昭和天皇は、自分のことでもこのように客観的に表現なさるのが自然と考えられます。
そこでメモの①をもう一度見ると、
********************
63.4.28
☆Pressの会見
① 昨年は
(1) 高松薨去間もないときで
心も重かった
(2) メモで返答したのでつく
していたと思う
(3) 4.29に吐瀉したが その前で
やはり体調が充分でなかった
********************
となっています。「① 昨年は」と書いているので、これは昭和63年の段階で、前年の昭和62年のことを回想していることがわかります。
昭和天皇は毎年4月29日の天皇誕生日にあわせて、記者会見を行なっていました(記者会見はいずれも天皇誕生日の前に行なわれ、4月29日の新聞に掲載されました)。ですから、「☆Pressの会見」とは、昭和63年4月28日に行なわれた記者会見のメモという意味ではなく、この日に「昨年のPressの会見」を想起している、という意味に解釈するのが自然です。つまり、「☆Pressの会見」を、「依存症の独り言」のように
《1.メモはプレスの会見を筆記したものである。》
と解釈することには無理があります。「☆Pressの会見」という表題はむしろ、「プレスの会見について」と理解すべきなのです。
事実、①の(1)(2)(3)すべてが「昨年」、すなわち昭和62年の出来事に関わっています。
(3)にあるように、昭和天皇は昭和62年4月29日の誕生日に「吐瀉」しています。
保坂正康氏の前掲著書より――
「(4月29日の)正午からは、「宴会の儀」が宮殿の豊明殿で行われた。この宴会の折に、「天皇陛下が戻されたのだ。この時は、そばに着席されていた美智子さまたちがすぐに気づかれ、侍従にお伝えになり、急いで陛下を宮殿内の控え室にお運びした」(稲生雅亮『昭和天皇の魅力』)というのである。」(468頁)
「(1) 高松薨去間もないときで心も重かった」というのは、明らかに62年4月21日の記者会見の時の昭和天皇の心境を指しています。昭和天皇が吐瀉したのは4月29日でしたが、その前の4月21日の記者会見の時も「(3)その(吐瀉の)前でやはり体調が充分でなかった」と振り返っておられるのです。
このようなことを徳川侍従長が言ったとはとうてい考えられません。徳川侍従長が、天皇になりかわり、「高松薨去間もないときで心も重かった」とか「4.29に吐瀉したがその前でやはり体調が充分でなかった」と天皇の心境や体調を、あたかも自分のことのように説明するとしたら、それは僭越千万ということになります。
「(2) メモで返答したのでつくしていたと思う」というのは、天皇陛下が、記者からの質問を前もって受けていて、それに対するメモを作成して、答えるべきことをきちんと答えることができた、という意味か、それともあとでメモを渡した、という意味に解釈できます。
「=(2)については記者も申しておりました」というのは、記者も会見の内容が「つくされていた」ことを、会見のあとに記者が富田氏に伝え、それを富田氏が昭和天皇に報告しているのでしょう。
ブログ「依存症の独り言」が徳川氏の発言とする根拠(「薨去」「吐瀉」)は、昭和天皇ご自身の発言と見なしたほうが自然なのです。
「それで長官に今年はの記者 印象があったのであろう」というのは、文章があまりに不完全で、意味がよくわかりません。しいて推理をたくましくするならば、「今年は別の印象があったということを記者たちが富田長官に述べたのであろう」というような昭和天皇の発言かと思います。