平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

北朝鮮をめぐる正義と平和(2)

2006年07月19日 | Weblog
五井先生は昭和43年の講演会でこう述べています。

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 軍備をしなければならないと思う人もいるでしょう、軍備をしないほうがいいと思う人もいるでしょう。軍備がどうこうというようになると、両派に分かれて争わなければならない。そういうのは専門家にまかせておいて、われわれの運動は、世界人類が平和でありますように、という祈り言の中に国民の心を一つにするわけです。そうしますと、いつの間にかすべての人の心の中に光明心が入っていって、人をやっつけようという争いの心が、憎悪がなくなってくる。アメリカに中共と戦おうというものがあっても、光明波動でやめになってしまう。
 アメリカが正義だと思っていることは、中共でもまた正義だと思っている。ベトナムでもフランスでも、みんな自分のところが正義だと思っている。正義と正義がぶつかって人殺しをするんですから、正義から出たってそれは悪になる。ましてその正義は自分勝手な正義なのですから。だからそういう正義を一切捨てて、正義より先に平和を築かなければならない。正義に先んじて平和の祈りをしなければならない、と私は思うんです。
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  五井昌久『内なる自分を開く』(白光出版)

現在は正義よりも平和という価値観が優先されるべき時代だ、と五井先生はおっしゃるわけです。

日本と北朝鮮を比較すれば、日本のほうに多くの正義があると日本人は考えています。しかし、北朝鮮のほうでは、やはり自国に正義があると考えているのです。朝鮮半島はかつて日本に植民地支配された、だから日本は膨大な賠償金を払うべきだ、と信じ込んでいるのです。戦前、多くの朝鮮人が日本に強制連行された、だから10人や100人の日本人を拉致したって問題ではない、と開き直っているのです。自国はアメリカや日本に圧迫されている、だから自国を守るためには核やミサイルを持つことは当然だ、と思い込んでいるのです。

正義というのは常に相対的です。どちらかが絶対の正義などということはありません。それこそ「盗人にも三分の理」です。

日本に9分の理があり、北朝鮮に1分の理しかなかったとしても、日本が正義をかざして戦争を起こすならば、先にも述べたように、大きく傷つくのは日本です。正義から発したはずの戦争が、破壊、殺人という悪を生み出すことになります。

そのような事態が、いまイスラエルで起こっています。イスラエルもレバノン(ヒズボラ、その背後にはシリアやイランがいると考えられています)も自分の正義を確信しています。その正義と正義がぶつかって、今や戦争状態です。その中で民間人を含む多くの人びとが殺傷されています。正義と正義の衝突から悪が生まれているのです。

それでは、近隣諸国がどんな無理難題をふっかけてきても、日本は「平和が第一」と、ひたすら争わず、事なかれ主義で逃げ回っていればいいのでしょうか? そんなことをしていれば、日本は近隣諸国から侮られ、竹島や尖閣諸島や北方領土はもとより、やがて沖縄までも他国に奪われることになるかもしれません(沖縄は自国の一部だと主張している近隣国が現にあるのです)。そして何よりも、そういう事なかれ主義は日本人をふぬけにし、精神的に堕落させることでしょう。戦後の平和憲法下の日本の精神史にはそういう一面がなかったとは言えません。