平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

内閣総理大臣

2007年09月13日 | Weblog
今年の8月に、来年G8サミットが開かれる、ウィンザーホテル洞爺に行って、サミットの成功を霊的次元に刻印する行事を行ないました。そのとき、各国首脳の顔ぶれをイメージしたのですが、どういうわけかそこには安倍さんの姿がありませんでした。

安倍さんは結局、日本の総理となるべき器ではなかった、ということなのでしょう。

清水勇著『ある日の五井先生』に次のような一節があります。

*********************
 あるとき五井先生が、「総理大臣は神様が決めるんだよ」とおっしゃったことがありました。この世の決まりからいえば、国会議員の中から国会の議決により指名され(首班指名)、天皇によって任命されます。衆議院において最大勢力を占める政党の党首がその責に任ずる例がほとんどで、多くの場合、自民党の総裁が総理大臣になっています。

 この世の仕組みで選ばれた総理大臣が初めて国会の壇上に立った時、その背後に神様がつくのだということです。ある期間、総理大臣に日本の運命を託すわけですから、神様が背後から総理大臣を護り導いて下さるのです。

 それゆえに、背後の導きを感受して国民の負託にこたえ、国の繁栄と世界の平和を祈り、私心をなくし、不惜身命の覚悟で職務を遂行する総理大臣こそが、二十一世紀に最も望まれる器と言えます。何よりも日本の神様がそれを望んでおられます。

 かつて五井先生が中曽根康弘さん(第七十代~七十三代)に会った時、「あんたは次の次の総理大臣になるんだよ、と教えてあげたら中曽根さんが嬉しそうな顔してたよ」とおっしゃったことがありました。

・・・

 ある時、「総理大臣なんかになるもんじゃないよ」と五井先生がおっしゃいました。五井先生のお言葉を裏付けるように、かつて総理大臣を務めたことのある村山富市さん(第八十一代)は、「独りでいられるのはトイレだけだった」と激務のすさまじさを語っていました。批判に耐えて総理大臣という職務に精励している姿に同情されながらも、五井先生は『老子講義』の中で次のように、上に立つ者のあるべき姿を示しておられます。

「政治家ほどむずかしい仕事はないと、しみじみ思い、政治家諸公の働きに感謝しながらも、どうもその行き方が危っかしくてみていられないような、心落ち着かぬものを感じます。老子など、中国の昔に生活していて、常に中国の政治家たちの行いをみつめながら、やはり危っかしくてみていられず、老子道徳経を残してゆかれたのであろうと思われます。

 要は政治家でも宗教家でも、教育者でも人の上に立ってゆく天命を持った人は、普通人の何増倍も、自己をみつめることをしなければならぬので、少しでも天意にそむく想いをもたぬよう、行わぬようにしなければなりません。そういう態度が祈りなのであり、その方法として、祈り言葉が生まれたのであります」(第四十二講・老子道徳経第七十四章)
*********************

五井先生は、「総理大臣というのは本当は大犠牲者なんだよ」とおっしゃったこともありました。国民の幸福のために一身を投げ出す覚悟のある人のみが、首相を務める資格があるのです。

権力欲や自我欲望で首相になることほど、恐ろしいことはありません。それは自他ともに誤らせ、国民を不幸に導きかねません。自我を無にして、国家と世界人類の平和のために働く真に偉大な政治家の登場が待たれます。



最新の画像もっと見る