平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

マグダラのマリアの謎(4)

2006年05月30日 | Weblog
岡田氏の著書によると、外典の『マリヤによる福音書』では、マグダラのマリアは、「幻視を見る力に恵まれた預言者のような存在として、また、男の弟子たちを励ましさえする使徒の中の使徒として登場」するそうです。また、『フィリポによる福音書』では、マグダラのマリアはイエスの「伴侶」と呼ばれているそうです。

これらの外典はいずれもグノーシスの影響が強く、キリスト教の正典には採用されませんでしたが、マグダラのマリアに関しては福音書とは別の伝承が存在したことを示唆しています。

※グノーシスについては、「ユダはなぜイエスを裏切ったのか」2006年4月12日をご覧下さい。

五井先生は『聖書講義』の中で、マグダラのマリアについてこう書いています。

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(イエスの死後)マグダラのマリアは、そこは女性の執着の想いで、いつ迄も、墓の外に立って泣いていたのです。そこで、二人の天使と、霊身のイエスを見るわけです。
 天使やイエスの霊身を、マリアが見たということ、話したということは、マリアの体が霊波動を感じやすい体であり、霊媒体質であったから、そのエクトプラズムを利して、天使やイエスの霊身が現われた、ということでありましょう。その後の弟子たちに現われたのも、はっきりした肉体身のようにして現われてはおりますが、これもやはり、肉体人間側の霊要素をもととして現われられたのだと思います。
 ヨガの行者などでも、その身は他の地に坐しながら、弟子のところに肉体身そのままの姿で現われることができる人がおります。といっても、見る側は常に霊要素を使うことのできるような人に限られておりまして、一般の誰にでも現われたり見えたりした話はあまり聞いておりません。もし、イエスの頃に、相手側の霊要素を問題にせず、霊体になったり、肉体になったり自分自身の力だけでできるようであったら、その頃より数等倍、心霊科学の研究の進んでいる今日、何を苦労して、霊媒を使っての物質化現象などする必要があるのだろうか、ということになります。
 しかしながら実際は、今でも、霊媒を使って、しかも、おおむね、暗い燈の中での物質化現象です。また、イエス自身が、ローマ皇帝にでも誰にでも現われて、その心胆を寒からしめ、教を広めさせることもできた筈ですから、そういう面から考えても、やはり霊要素の使える弟子たちや、縁の深い人々に現われることができたのでありましょう。
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マグダラのマリアはイエスの弟子たちの中でもとくに霊媒的な体質の女性であり、そのため、いち早くイエスの霊身に接することができたのでしょう。そういうマリアは、霊なるイエスのメッセージを伝えることができ、初期教団の中では、「幻視を見る力に恵まれた預言者のような存在として、また、男の弟子たちを励ましさえする使徒の中の使徒」として扱われた時期もあったのかもしれません。

しかし、ペテロやそのほかの弟子たちも急速に霊能力に目ざめてからは、マリアの霊視能力も特殊なものではなくなり、むしろイエスの選んだ12弟子のほうが、教団の主流になったのでしょう。

五井先生が「そこは女性の執着の想いで」と書いているのはたいへん興味深く、五井先生は、マリアに霊能があることは認めても、イエスの肉体への執着心を克服できなかったことを示唆しているようです。

そういう執着心のために、マリアはひょっとすると、自分の霊視がイエス様の唯一絶対の真実であると主張して、ペテロやほかの高弟たちに嫌われたのかもしれません。それが「ルカ」におけるマリアへの低い評価につながった可能性があります。もちろん、これは私の推測にすぎませんが。

現在でも、霊能のある人は、自分の霊視や霊聴にとらわれて、より高い真実を見ることができなくなる傾向があります。その霊視はたしかにある段階のメッセージではあるのですが、霊能者は自分の霊性の高さに見合った世界しか見ることができません。神霊の世界は奥深く、その上にはてしなく続いているのに、霊能者は自分の見た世界がすべてだと錯覚しがちです。そこで五井先生はつとめて、霊媒的体質のあるご自分の弟子たちの霊能を消し、普通の人間にするようにしました。霊能の開発と霊性(本心)の開発は違うからです。現在でもテレビで、霊能者や超能力者と自称する人々が、面白おかしく霊視能力なるものを披露していますが、本心の開発(人格の向上)とは無関係のショーにすぎません。

さて、キリスト教のその後の伝説によると、イエスの死後、マグダラのマリアはマルタやラザロとともに小舟に乗り、フランスのマルセーユ付近に漂着したそうです。マグダラのマリアはその地で異教徒にキリスト教を普及するとともに、サント・ボームの洞窟で瞑想と苦行を行なったとされています。この洞窟は現在でも巡礼者が訪れる聖地となっているそうです。

そこに、マグダラのマリアがイエスの「伴侶」であったという伝承が加われば、二人の間の子供がフランスで生まれたという説まではほんの一歩です。こうして『ダ・ヴィンチ・コード』のミソが出来上がるわけです。

ところが、皆神氏の著書によると、フランスの現地にはマグダラのマリアへの信仰はあっても、マリアにイエスの子供がいたと信じている人は誰もいないそうです。つまり、そういう伝承は現地には存在していないのです。イエスとマリアの子供がフランスで生まれたというのは、ダン・ブラウンをはじめ、トンデモ本作者たちの想像=創造でしかなかったわけです。

マグダラのマリアとベタニアのマリアが同一人物かどうかは、福音書の記述からは判定できません。ましてや、マリアがイエスの伴侶であったとか、マリアがかつては娼婦であったとかいう話は、かなり怪しいものです。しかし、後世の人間は、歴史の空白に自分の主観的な想像を加えて、面白いストーリーを作り上げていきます。たとえば、源義経が蝦夷地に逃れ、さらにはモンゴルに渡ってチンギスハーンになった、などという物語です。これは現代でもよく起こることです。

しかし、そういう空想を事実だと宣伝されては、イエスもマリアも天上界で苦笑していることでしょう。


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2 コメント

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確か・・ (hide)
2006-06-01 21:12:25
 はじめまして、hideと申します。<m(__)m>





 確かぼくの記憶では、出口王仁三郎聖師のお話の中に「チンギスハーンは義経なんだよ」との記述があった気がします(確か「三鏡」だったかな?)。







 『ダ・ヴィンチ・コード』とかいろんなお話があるようですが、その行いが、大愛といわざるおえないその生き方そのものが、聖者様の無言のメッセージではないかと思ったりします。そして細かい疑問、意見の相違はいろいろな理由で出てくるようですが、これはその聖者様のなさってきた事、その人生に比してとても小さい事ではないかとも思ったりするのですがどうでしょうか?まして出口王仁三郎聖師の場合、ご本人のお作りになった芸術作品がありますので、直接感じることも可能ですし・・・。





 いつも読ませていただいてます、ありがとうございます。間違いかどうかとか、そんなことより、日頃のご苦労をまず感謝したいと思います。

 ・・構成がちょっとヘンだったかな?まあええか。(あいかわらず適当なオイラであった・・。ナハハハ!この投稿はどのようになさろうともOKです。<m(__)m>)
追記 (hide)
2006-06-04 01:55:16
 (追記)

 改めてぼくの文章を読んでみますと、なんだかダビンチコードの説を半肯定しているようにも取れるかと思い、追記します。



 ぼくは「マリアにイエスの子供がいた」なる説は信じてはいませんし、またその事を探偵の如くつきとめようとも思っていませんです。ではでは。