平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

単位偽装隠蔽事件

2006年10月29日 | Weblog
違法な手抜きと知りながら、みんなでやればこわくない、という手口は、なにやら耐震偽装隠蔽事件と似たような構造ですね。

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 全国各地の高校の必修逃れ問題に絡み、補習が必要な生徒の負担を軽減するため、教育委員会や学校が、学習指導要領の枠内で授業時間を減らす方法の検討を始めた。

 本来は例外的に認められる単位数の削減措置などを利用するもので、今後、政府が策定中の「救済策」に反映される可能性もありそうだ。

 学習指導要領は、50分授業を週1回、年間35回履修すると「1単位」を与えると定めており、必修科目の場合は、最低「2単位」を取得しなければならない。

 一方、指導要領には、「特に必要のある場合には、その単位数の一部を減じることが出来る」という記載もある。例えば「数学」で難度の高い内容までは教える必要のない高校が使うような例外措置だ。茨城県教委では、これを利用し、未履修だった4単位について、3単位の補習で済ませることを検討している。
(読売新聞) - 10月29日3時12分更新
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061029-00000001-yom-soci

これは、全国のマンションの耐震強度を調査したら、基準に達しないマンションが続出したので、例外的に基準を下げて合格にする(救済する)、という話と同じです。基準に達していないマンションだって今すぐ壊れて人が住めなくなるわけではないし、必修単位を履修していない生徒だって大学で学ぶ能力がないわけではない、というわけです。しかしそんなことがまかり通るようでは、そもそも法律とか基準とかいうものは必要なくなります。こんなことをやっていたら、この国はめちゃめちゃになりますね(かなりなりかかっていますが)。

多くの高校で卒業に必要な科目を履修させていなかったのには理由があります。それは地方の公立進学校が完全に受験予備校化していることです。そのため、

(1)受験に出ない科目を勉強させるのは、時間と労力のムダ
(2)あまった時間を受験科目の勉強に費やせば、大学合格率をアップさせられる

という発想が出てきます。

その背景には、多くの大学で受験科目数が大幅に削減されてきたことがあります。私立大学文系では英・国・社の3科目が当たり前で、社会も1科目だけというところがあるようです。私立大学に学生を奪われることを危惧した国立大学も一時期どんどん受験科目数を削減しました。ちょっと考えればわかることですが、受験科目が減れば、受験の負担が減るわけでも、受験競争がやわらぐわけでもありません。これは「受験勉強がたいへん」というマスコミや世論に迎合した結果です。

ところが、入学してくる学生のあまりの学力の低さと知識のなさに、国立大学のほうも危機感を深め、最近では大学入試センター試験で理科2科目、社会2科目、英・数・国をあわせて計7科目を課す大学が増えていると聞きます。しかし、いったん甘やかされた生徒たちは、昔のように勉強しようとしません。センター試験で受験しない科目はできるだけ手抜きしたいと考えるのは自然の流れです。

昔の話になりますが、40年ほど前、私が国立大学を受験したときは、高校では理科は物理、化学、生物、地学の4科目を学び、社会では日本史、世界史、地理、公民(とは言わなかった思いますが、そういう内容)の4科目を学び、受験科目は理科2科目、社会2科目でした。そのころはマークシート方式のセンター試験もなく、本番の入試(記述方式)で7科目受験だったのです。それでも高校の授業にも受験にもとくに不満はありませんでした。みんなが同じ条件だったからです。

ところが、受験科目数を削減したために、少ない科目でかえって点の競争が激しくなり、そのため、どこかで手抜きをして、余った時間で受験科目の点を上げよう、という発想になったのではないかと思います。この手抜きが全国ほとんどすべてで行なわれているということは、偶然ではなく、まさに現在の受験制度に抜け駆け的に(とはいっても全国で同じことを考えるので、やらなかった高校が例外的に損をするだけなのですが)、最適化した授業形態を各高校が採用した、ということです(違法を承知で)。必修科目を学んでいなくても、一流大学への合格者を増やせば、よい高校ということになります(今はやりの数値目標!)。それは、現在の建築確認制度では構造計算の偽装がなかなかチェックできないので、見えないところはできるだけ手抜きをして、目に見えるところだけ豪華にした安いマンションを売ったほうが儲かる、というのと同じ発想です。

その際、多くの高校でパスされるのが、暗記すべき事項が多い世界史だそうです。これはとんでもないことです。この国際化の時代に世界史の基本的な事実も知らないで、日本と日本人が世界の中でどうやって生きていこうというのでしょうか。

私も大学で教えていますが、最近の学生の世界史に関する知識のなさにはあきれることがあります。受験で取らなかっただけではなく、高校で勉強さえしていなかったわけです。謎が解けました。

大学受験のデータをすべて把握している文科省は、日本の若者が世界史を勉強していないということを知っていた(知らなかった、とは言わせません)にもかかわらず、それを長年にわたって放置していたのです。世界に出て恥をかくような日本人をつくりだしてきたのです。日本の文教政策を担当する官庁として許されないことです。

微積分や物理や化学ができなくたって、世界史や日本史の知識がなくたって、世間で生きていく上で問題ない、という議論もありますが、少なくとも、将来、日本社会の指導的立場に立つ人々がそれでは困ります。最低限の知的常識は身につけておかなければなりません。高校はそれを教授する場であるはずです。

こういう違法な手抜き授業を直すためには、40年前のやり方に戻すのがいちばんだと思いますが、国立大学と私立大学の入試制度の違いでそれができないというのであれば、現在のセンター試験を高校卒業資格試験にして、高校で必修とされている基本科目はすべてセンター試験で基礎学力を測定すればよいのです。その試験レベルは、普通に授業を受けていれば誰でも合格できる基礎的なものにし、合格できるまで何回でも受験できるようにすればよいでしょう。

そうすると、高校を卒業できなくなる生徒が大量に出てくる心配があるというのであれば(大学全入時代ですから、相当学力の低い子でも受けいれないと、つぶれる大学が続出するでしょう)、高校卒業資格にAとBというようなレベルの差をつけてもよいでしょう。それぞれの大学で、レベルAないしはレベルBを入学要件とすればよいのです。今だって、数学Aと数学Bのレベルの差があります。

現在のように国立大学ではセンター試験を一律に受けさせ、その成績を入試成績にカウントするというやり方は、百害あって一利ありません。国立大学を目指す生徒は、みな同じ受験テクニックを身につけるために必死になります。これでは画一化した日本人しか生まれません。

センター試験(高校卒業資格試験)は高校の授業の基礎的到達度をチェックするだけに利用し、大学入試はそれぞれの大学で特色あるものにすればよいのです。そうすれば、センター試験の点を1点でも上げるために、少ない科目だけを勉強してあとは徹底的に手を抜く、という現在の歪んだ高校教育はなくなるでしょう。

安倍政権の最大の目標は教育改革だそうです。教育基本法の改正などということよりも、まずセンター試験を中心とした今の受験制度を根本的に見直すことこそ先決問題ではないでしょうか。

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1 コメント

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指導要領もおかしい (kato)
2006-10-31 18:47:10
教育界の嘘つき体質も良くないが、文化省もいけない。総授業時間数が減っても必修時間を減らしてないのじゃないか? しかし日本史も世界史も必修にしないといけない。ただし、もっと分割して近・現代史は必修として、古・中世は概論だけか選択にすればいいんじゃないかと思う。そしてセンター試験をやるなら必修科目は当然試験科目とするのです。
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