∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-2 >八事興正寺 遍照院

2005-06-05 11:43:03 | B-2 >水野平蔵系
八事興正寺 遍照院(やごとこうしょうじ へんじょういん)
 愛知県名古屋市昭和区八事本町78    Visit :2005-05-30 08:40

『名古屋の史跡と文化財』によると――
 尾張高野と称せられ、東西二山から成り、東山を遍照院、西山を普門院と称し、真言宗に属する。元禄年中(1688-1704)尾張二代薄主、徳川光友により建立が許された。その後五世諦忍により、西山にさらに阿弥陀堂が建立され、浄土を興隆した。 東山西山ともに阿弥陀堂に阿弥陀如来座像を安置、本尊としているが、総本尊は東山最高地呑海峯(どんかいほう)にある、大日堂安置の銅製大日如来座像である。藩主光友が、母の供養のために鋳造を企画し、鍋屋町の水野平蔵政武が完成し、光友自ら一字三拝(一字書くごとに三度礼拝すること)の石経(岩の壁面・磨崖・石板などに経文を刻みつけたもの)二個を書き、一個は像胎内に、一個は寺に納め像台座石の下に埋められたという。元禄十年(1697)のことである。像高3.6mの巨大な座像は大きな宝冠をかむり納衣を付け法界定印を結び、下ぶくれの面容は多生散漫な気配を示しているが、耳朶が長いため全体が整えられている。胸あきは広く、肩張りはいかつく、いかにも壮大な感がある。仮堂のような構造の中で単に像だけの存在は、名古屋三大仏最大のものとしては、何とも粗末な感じで残念に思われる。それにしてもこれだけの鋳銅仏像を作り得たこと自体当時の藩主の威光と水野家の鋳造技術の手腕に感心させられる。像背面やや下方に鋳造の由来が記されている。
「娑婆世界一四天下南瞻部州大日本国尾陽愛知郡八事山遍照院興正律寺、本尊大日如来、大願主従二位権大納言源友光朝臣、維時元禄十丁丑歳孟夏大吉祥日、当寺中興本願天瑞円照謹銘」
旧暦、八月十五日には千灯供養があり、毎月五日及び十三日には七月参りでにぎわう。
とある。

 この像は、第三代目水野平蔵政義(御金仏師)(銘はない)作で、この政義から平蔵を名乗り、平蔵家の業績として最も注目されているものである。
当堂は、東山の最東部に位置し、堂前はこの東にある中京大学生の通路に利用されているが、はたして何人が名古屋三大仏最大のものと認識しているのだろうか。またこの寺では、前記のごとく総本尊のある堂は粗末であり、堂内は薄暗く賽銭箱上の格子から僅かに拝めるだけであり、写真もうまく写らなかった。それに比べて、2005月5月に、当寺五重塔の直ぐ東に新しく園照堂が建立され、仏像は煌びやかで、訪問時は僧侶が丹念に拭き掃除を行っていた。塔側は人工滝まで設えられており、あまりの格差に驚いた。


水野平蔵家系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7551e73084352a9a4d23ed9ccc7f9104
 

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