∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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A-1 >諸鍬神社

2006-04-20 07:49:56 | A-1 >桓武平氏高望王流
『水野氏系図並古状』昭和二十七年十二月東春日井群小牧町(愛知県小牧市)津田応助氏所蔵書写に―― 「尾州府志云―(中略)―経家ハ致経二男ニシテ尾州師(リ偏)桑ニ住ス故ニ師桑平次と称スル」とあり、この経家の子が水野氏始祖滝口影貞である。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(6)

2005-07-08 16:07:14 | A-1 >桓武平氏高望王流
8)将門、弓袋(ゆぶくろ)山の反撃  然れども、将門は尚し伯父を宿世の讎(かたき)として、彼此相揖す(い=睨み合う)。  時に介良兼因縁(親戚)有るに依りて、常陸国に至り着く。将門僅かに此の由を聞きて、亦征伐せむと欲ふ。構へたる所の兵士千八百余人、草木共に靡く。十九日(九月)を以て、常陸国真壁郡に発向す。乃ち彼の介の服織(はとり=茨城県真壁郡真壁町羽鳥[2005-10-01合併予定 桜川市に]=良兼の本拠地があった)の宿より始めて、与力の伴類の舎宅、員の如くに掃ひ焼く。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(5)

2005-07-03 08:53:04 | A-1 >桓武平氏高望王流
(7)平良兼の襲撃  未だ旅の脚を休めず、未だ旬月(短期間)を歴ざるに、件の介良兼、本意(もとから心に抱いていた)の恨みを忘れずして、尚し会稽の(敗戦の恥をすすごうとする)の心を遂げむと欲ふ。年頃(近年)構へ(準備)たる所の兵革(武器)、其の勢ひ常より殊なれり。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(4)

2005-07-03 08:50:53 | A-1 >桓武平氏高望王流
6)将門上洛、恩赦により帰国  然る間(そのうちに)、前大掾源護の告状(告訴状=源護は子の扶・隆・繁と国香が将門により殺されたこと(既載)を朝廷に訴えていた)に依りて、件の護併犯人の平将門及び真樹(*1)等を召し進むべし由の官符、去んぬる承平五年(935)十二月廿九日の符、同六年九月七日に到来す(*2)。左近衛の番長(*3)正六位上英保純行(あなほのともゆき)、同姓の氏立(うじたち)(*4)、宇自加支興(うじかのともおき *5)等を差し(差し向けて)、常陸、下毛、下総の国に下さる(通達された)。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(2)

2005-07-01 15:22:12 | A-1 >桓武平氏高望王流
『将門記 (5)将門、伯父良兼を見のがす』に、 ◆「承平六年(936)六月廿六日を以て、常陸国を指して、雲の如く湧き、上下の国(上総国と下総国)を出ず。」とある。  また、将門との合戦に向けて、平 良兼が上総国から出陣する際には、 ◆「所々の関に就かず(避けて)して、上総国武射郡の少道(千葉県山武郡の間道)より、下総国香取郡の神前(千葉県香取郡神崎町 *1)に到り着く。」とある。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(1)

2005-07-01 13:48:20 | A-1 >桓武平氏高望王流
(5)将門、伯父良兼を見のがす  而る間に介良兼は兵を調え陣を張る。承平六年(936)六月廿六日を以て、常陸国を指して、雲の如く湧き、上下の国(上総国と下総国)を出ず。禁遏(きんあつ)を加ふ(良兼らが武装して上総・下総国を通過することを国司が阻止した)と雖も、因縁を問ふ(縁者を訪ねる)と称して、遁れ跳ぶが如し(跳ぶように駆け抜けた)、てへり。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼(序章)

2005-07-01 08:50:05 | A-1 >桓武平氏高望王流
西暦八百年代、桓武天皇の第7皇子葛原(かつらはら)親王は、「朝敵を平らげる」に因み「平(たいら)」の姓を賜り臣下に降った。また第二子高見王の次男高望王(たかもちのおほきみ)も平姓を賜り(桓武平氏租、板東平氏)、上総介(かずさのすけ)として自ら関東に下向した。そして任期満了後も経済的に豊かな生活ができる関東に留まり、高望王一族は当地において繁栄するものの、『将門記』に書かれているように、高望王の子で下総介である平良兼(たいらのよしかね)等とその甥である平将門(たいらのまさかど)との同族間での勢力争いは絶えなかった . . . 本文を読む