∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-7 >河和城址/水野屋敷(追補版)

2006-05-28 06:44:54 | C-7 >河和水野
十四世紀の中頃、三河守護の一色氏が知多半島へ進出し、この地の実権を握る。しかし一色氏の支配も「応仁(応仁・文明)の乱(応仁元年(1467))」の頃になると、一族が戦う羽目となり自滅した。そして一色氏に代わって知多半島を支配したのが、一色氏の被官(律令制下、上級官庁に直属する下級官吏)であった佐治氏と、田原(田原市)城主の戸田宗光であった。佐治氏は大野(常滑市)・内海(知多郡南知多町)を拠点に知多半島の西海岸の支配権を握り、戸田氏は知多半島最南端の幡頭崎(知多郡南知多町師崎)に陣代を置き、半島東海岸の河和(知多郡美浜町)・富貴(知多郡武豊町)に砦を築き領有した。 . . . 本文を読む